可動範囲の広がりと「自由」

 

ゼミを終え、和幸のトンカツ弁当を買ってからワイドビューふじかわに乗りこもう、と甲府駅で途中下車。時間が少々あったので、ついでに立ち寄った駅ビルの書店で、気になる新書を手に取る。それが、大当たり。

「支配だと気づくことで、その傘の下にいる自分を初めて客観的に捉えることができる。それが見えれば、自分にとっての自由をもっと積極的に考えることができ、自分の可能性は大きく拡がるだろう。」(森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』集英社新書、p42-43)

彼の小説は7,8冊は読んだ記憶がある。論理のドライブがかかったミステリィ、という新ジャンルを切り開いた、元M大学工学部の助教授であった筆者の、ものごとの捉え方、について書かれたエッセイ。読みやすいが、侮るなかれ。論理と経験の凝縮された思考の上になりたった筆者の切り口には、文字通り「腑に落ちる」「目が見開かれる」。なんとなく自分もその断片を感じていた、けれども、全体のピースを組み合わせたパズルの仕上がりは未知の世界だった。その仕上がった「大きな地図」を見せて頂いたような気がする。

「自由を勝ち取ることは、今の自分の状況がどんな問題を抱えているのかを分析することからはじまる。自分の位置、そして方向を認識すれば、自ずと軌道修正の方法は見えてくるものだ。」(同上、p112)

そう、「大きな地図」の中で、自分がどのようなポジショニングでいるのか、という「位置」と「方向」の「認識」があれば、「自ずと軌道修正の方法は見えてくる」し、それが、「自由を勝ち取る」ということに近づく羅針盤につながるのだ。

「『決めつける』『思いこむ』というのは、情報の整理であり、思考や記憶の容量を節約する意味から言えば合理的な手段かもしれない。しかし逆にいえば、頭脳の処理能力が低いから、そういった単純化が必要となるのである。」(同上、p136)

はい、私もその通りです、と素直に頷く。

そう、人見知りする、この場はこういうものだ、この人はこういうタイプだ、と決めつけると、「思考の節約」が可能になる。現に、僕自身は、そういう意味での「合理的な手段」に多く訴えてきた。だが、これはいみじくも森さんが指摘するように「頭脳の処理能力が低い」がゆえの「単純化」なのだ。つまりは、自分の阿呆さ加減の露呈、そのものなのである。

20代で、早く大人になりたい、認められたい、とあくせくしていた時期は、時間に余裕があっても自分(の頭脳の処理能力)に余裕がなくて、「決めつけ」と「思いこみ」による「思考の節約」に勤しんでいた。30代もそろそろ折り返しを迎える今、暇だったあの頃から比べると「めちゃ」がつくほど忙しいが、幾分か「頭脳の処理能力」も上がったようで、「決めつけ」と「思いこみ」に「支配」されていた自分、に気づく場面が多い。ここ最近、とみに感じる。

合気道を始める時には、「今から始めて大丈夫なのか」と、単純にびびっていたが、あれから半年、すっかりはまり、週二回の稽古を楽しみにしている自分がいる。そうして、身体の使われていなかった部分や感覚を開く、ことによって、自らの可動範囲にフィジカルな広がりがもたらされただけでなく、心の可動範囲、というか、思いこみや囚われに毒された偏見的な認知マップの可動範囲も、少しずつ、拡がりつつあるような気がする。確かに森さんの言うように、「自分にとっての自由をもっと積極的に考えることができ」るようになりつつある自分を発見する。

おかげさまで何とか6級の昇級も果たした。5級の練習では、いよいよ木刀の素振りも始まる。自分の可動範囲や可能性をどう広げられるか。早く木刀が届くのが楽しみだ。

認知症と薬(の乱用)

 

もう寝る時間なので、備忘録的に。

仕事帰りの車の中で、BBCNewspodを聞いていたら、こんな記事に出会った。

Dementia drug use ‘killing many’

本当に「ぎょうさん殺している」。
記事によると、大臣の諮問機関が行った専門家による監査では、認知症患者のうちの18万人に薬が処方され、うち15万人(8割)は不必要な投薬、そして1800人が死に結びつく投薬だった、という。

ちなみに、新聞でもこんな記事が。
‘Chemical cosh’ drugs blamed for deaths of 1,800 care home residents

それから、政府(イギリス保健省)による公式見解。
Government takes action on antipsychotic drugs and dementia

我が師匠、大熊一夫氏は我が国でこの問題を随分以前より取り上げてこられた。曰く、「縛る、閉じこめる、薬漬けにする」と。この「薬漬け」について、師匠は「ルポ・老人病棟」などを通じて質的調査という形で取り上げてこられた。それから20年あまり。ようやく他国ではあるけれど、政府機関による調査として、抗精神病薬の乱用問題が量的にも明らかになってきた。さて、この問題が日本でもきちんと取り上げられるか、が今後の大きな論点になるだろう。

<普遍語>と<国語>

 

久しぶりに何もない日曜日。

夕方に合気道のお稽古に出かける。それだけが今日の予定。来週が昇級試験なのだが、先週の日曜と火曜の二回、台湾出張のため、練習から遠ざかっていた。ちゃんと両手取りの二教の裏、が出来るかどうか心配である。だが、それ以外に何も予定のない日曜日、は、実に久しぶり。

朝起きて、パートナーがこないだ貰ってきた柿を、バナナとリンゴと一緒にジュースにして頂き(めちゃ美味い)、昨日のキムチ鍋の残りでラーメンを頂き、のんびりと読書。眠くなったらうたた寝して、また起きてTimeのヒラリー・クリントン特集を読んでいるうちに、もうお昼。冷蔵庫の残り物整理大会に、ひじきスープで色が添えられれる。生姜と黒酢と出汁のブレンドスープに、生ひじきと青葱、玉葱を入れただけのシンプルなスープだが、非常にこれもまた美味。そして、食後に読み進めて、「坂の上の雲」の二巻目は終了。三巻目に入る前に、そう言えば、と、途中で放り出した村上春樹のWing-Up-Bird…(『ねじ巻き鳥』の英語版)を手に取る。心に余裕がないと、英語の小説に手は出ないもんねぇ。

で、今日はPCに触れない一日にしようとも思っていたのだが、こういう余裕のある時にこそ、どうしても備忘録的に書いておきたいことを思い出し、デスクトップに電源を入れる。台湾から帰ってきて、ボンヤリと感じていることでもある。

「今日では、ますます多くの研究者がアメリカ語で出版しなければならないと感じている。このことは、そのこと自体としては、つまり意識の面にまで影響を及ぼさないのであれば、まあ容認されてもよいことだろうし、考えようによっては自然なことですらあるのかもしれない。しかし、結果的に、異なる国々のいよいよ多くの研究者がアメリカ語で書かなければ国際的に認めてもらえないと感じ、同時にアメリカ人研究者は、フィールドワークの便のために外国語の取得を必要としている者を除いて、従来にも増して外国語を学ぶことが億劫になってきている。」(ベネディクト・アンダーソン『ヤシガラ椀の外へ』NTT出版、p280-281)

インドネシア語の諧謔にも通じ、現地語で文章を書くというアンダーソンの指摘が、少し前に読んだ日本人による「憂国の書」とも言える文章を思い起こさせる。

「英語の世紀に入った今、非・英語圏において、英語に吸い込まれていく人は増えていかざるをえない。英語に吸い込まれていくのは、<叡智を求める人>だけには限らない。国際的なNPOやNGOで働き、世の役に立ちたい人も英語に吸い込まれていく。英語などに興味がないのに仕事によって吸い込まれていかざるをえない人もいる。だが、非・英語圏の<国語>にとての悲劇は、そのようなところではとまらない。非・英語圏の<国語>にとっての、さらなる悲劇は、英語ができなくてはならないという強迫観念が社会のなかに無限大に拡大していくことになる。」(水村美苗『日本語が亡びるとき』筑摩書房、p285)

水村さんの本の副題は「英語の世紀の中で」とある。まさに、グローバル化とIT社会が進む中で、「英語の世紀」が進んでいる。研究者に関して言えば、まだ社会科学系では英語発表がmustになっていなが、自然科学系ではもう既にこの「英語の世紀」に突入しているのは、ご案内の通り。韓国は社会科学系でも「英語の世紀」に突入しているだけでなく、自国でポストを得ようと思う研究者は、アメリカかイギリスのPh.D.を持っていないと相手にされない、という厳しい「英語の世紀」だとか。確かに台湾の学会でも、実に流暢な『アメリカ語』を話す韓国人を何人も見かけた。

確かに僕自身も台湾で『アメリカ語』で発表してみて、日本語の世界で書き・考えていることの狭さや土着性に、改めて気づかされる部分もある。そういう意味では、英語で書き・話すことによって、他国との比較など、新たな視点で振り返る事ができる利点がある。そういう面で、「英語に吸い込まれていく」面が僕の中にあるかもしれない、と、一方で感じる。だが、アンダーソンはこんな風にも指摘している。

「ナショナリズムやグローバル化は私たちの視野を狭め、問題を単純化させる傾向を持つ。こうした傾向に抗う一方で、両者が持つ解放のための可能性を洗練させた形で融合させること、明確な政治的意識を持ち、賢明なやり方で融合させることが、今後はこれまで以上に必要とされる」(アンダーソン、同上、p281)

アメリカ語での発表や文章書きは、その経験があまりない人間にも、明らかに日本語での発表や文章書きとの違いを感じさせる。歴史的・社会的文脈を共有しない人々に、福祉社会のあり方という文脈依存型の話を短時間で分かりやすく理解してもらうためには、それを安易にしようと思えば思うほど、「問題を単純化させる」結果となりやすい。僕自身も、海外発表の際に、このピットフォールに陥っているのではないか、と、一方で感じる。だが、そうやって「単純化」することによって、普段の固着した視点からの「解放のための可能性」も持つ。当たり前といえば当たり前の話だが、異化作用は毒にも薬にもなるのである。

同様に、日本語じゃないと伝わらない、と思いこむこともまた、「私たちの視野を狭め、問題を単純化させる」という意味では、グローバル化と同じ愚を犯す、ともアンダーソンは指摘している。だからこそ、「両者が持つ解放のための可能性を洗練させた形で融合させること」が大切、という指摘は、なるほど、と頷く。英語と日本語という二つの包丁を、両方ともきちんと研いでおくからこそ、非・英語圏にあって、重要なのだと思う。水村さんもその事を悲痛な訴えとして書いている。

「<普遍語>のすさまじい力のまえには、その力を跳ね返すぐらいの理念をもたなくてはならないのである。そして、そのためには、学校教育という、すべての日本人が通過儀礼のように通らなければならない教育の場において、<国語>としての日本語を護るという、大いなる理念をもたねばならないのである。」(水村、前掲書、p285)

日本語という<国語>を「護る」ことを通じて、<普遍語>としての「アメリカ語」の「すさまじい力」と渡り歩き、「その力を跳ね返すぐらいの理念」を持つ。「坂の上の雲」を読んでいて感じるのは、明治期の日本人達が痛切なまでに持っていた矜持が、この「跳ね返すぐらいの理念」に通じるところがある、ということである。あれから100年を少し過ぎた。その中で、<普遍語>に単に吸い込まれるわけでもなく、<普遍語>と敵対する訳でもなく、「両者が持つ解放のための可能性を洗練させた形で融合させる」ことが出来るかどうか、が問われている。

三度目の正直?

 

ここしばらく、毎週出張が続いていた。今日は台北からの帰りの成田エクスプレス。まるまる1年ぶりの台北である。

台湾の魅力に気づいたのが、昨年のゴールデンウィークの休暇旅行。で、昨年11月は、初めての海外での国際学会発表の地を、台湾に選んだのは、勿論、研究上の成果の整理、というのが第一義的だが、それと同じくらい!?、台湾にまたお茶を買いに行きたい、という強い動機?が作用した為でもある。

そういう不純な動機で足を踏み入れた国際学会での発表。実は博論を書く前に、博論には海外発表が必須条件である事を知り、偶然神戸で開かれたリハビリテーションの学会で発表したが、あのときは「資格要件」欲しさであり、きちんとした内容ではなかった。その後、院生も終わった頃、メンバーの末席に入れて頂いた研究班の報告を、これも神戸で開かれた世界精神医学会で発表することになったのだが、当日セッション会場に来てみると、あれまあ、悲しいことに日本人だけ、である。座長がそれを確認した後、途中で他国の方が入ってきたら切り替えますが、日本語で発表してください、と宣言。二回目の海外発表は、形式上英語、実質は日本語だったのである。

そういうわけで、1年前の台湾の学会発表が、実質的な海外での学会発表デビュー、であるが、まあ、惨憺たるものだった。文章は、英語のスペシャリストMさんに見て頂いたので、それは問題ない。ただ、日本の現状をそのまま英語に直しても、よほど日本に興味のある研究者以外には、その内容が伝わらない。また、会話に関しても、いくらアメリカによく出張に出かける、といっても、自分の関心領域にぴったりの人とばかり議論しているので、その他の、また研究者同士の議論などについて行けない。さらには、恥ずかしい話だが、皆さんの議論の輪の中に、まず入っていけない。そういうダメダメ続きで、撃沈したのである。

それが悔しくて、以来毎日の通勤時、ipodに入れたNYタイムズの一面読みとBBCラジオのダイジェスト、後はVoice of Americaのゆっくり英語バージョン、を流し続けてみた。また、7月のイギリス、そして11月の台湾と、学会は異なるが、兎に角チャンスが巡ってきたら、海外発表をするんだ、と決めた。台湾に出かける前は、来年7月のトルコの学会発表のエントリーも、時間が切迫するなかで、泣きながら書いた(どれも、またまたMさんにおせわになりました。本当に大感謝です)。さて、1年ぶりの台湾。多少の成果はあったのだろうか。

結論を言えば、少しは進歩した。しかし、まだまだ改善の余地が大きい、といったところだろうか。

ヒアリングは、話し方に独特の癖のある人や、読み上げ原稿を恐ろしい早さで棒読みするオーストラリア人の英語はさっぱりだったが、それ以外は、ある程度わかるようになってきた。ipodも地道に1年聴き続けたら、多少の効果はあるものである。習慣事は非常に苦手な僕だが、流し続けるだけ、なら、何とか継続出来た。

発表は、多少は日本のコンテキストを知らない海外の研究者にも通じる何か、は入れられたような気がする。アジア・太平洋のNPO・サードセクター研究者が集まる学会だったので、障害者運動から始まった支援組織が、政府の補助・委託関係の中に入るうちに、サービス提供への拘束状態に陥っている(straitjacket vendorism)実情を説明した上で、それを乗り越えるために、どのようなアドボカシーが必要か、という変革の可能性を、ある支援組織の事例研究から紹介した。ちょうど香港の社会サービスNPOが新自由主義改革やNew Public Managementの流れの中で、どういう問題に陥っているのか、という発表がその前にあり、かなり重なる論点があり、議論が出来たのも嬉しかった。とはいえ、まだまだタコツボ的研究の領域から抜け出せていないようで、リスナーも少なく、質疑応答を通じた有意義な成果を得ることは出来なかった。

以前の阿呆な僕なら、そのことを指して、「みんなその領域に興味がない・無知だからだ」などと「他人のせい」に安易にしていた。あるいは、「日本語ならもう少し惹きつけられる話が出来るのに」と「語学のせい」にもしていた。だが、ここ3回の海外発表でわかったのは、語学でもリスナーが悪いのでもない。自分の理解不足が一番の原因だ、ということだ。国内学会であれば、福祉の学会であればなおのこと、日本のコンテキストを共有しているだけでなく、その分野の専門家の集まりであるので、多くの前提を省いた議論が出来る。国際学会でも、自然科学系やそれに近い学会であれば、専門家としての知識があれば国際的に共有出来ているものも多いため、それほどハードルは上がらない。だが、社会科学系の、特に福祉などの「その国の文化や歴史的展開に大きく依存している」分野であれば、他国の事情に精通していない普通の研究者は、その文脈依存的な論点の何がどう問題なのか、の重要性や深刻性がわからない。そして、それは、国際学会での発表における前提であり、それを指して「他国の人はわかってくれない」と言うのは、そこに参加する資格すらない妄言なのである。

では、どうすればよいのか。だからこそ、世界的な潮流(例えばNew Public Managementや準市場改革など)や、理論的枠組み、といった、通文化的な何かを縦糸にして、時刻の内容を横糸に編み込んでいかないと、伝わらないのである。そのことを説明するために、一つの補助線を引いてみる。

ちょうど帰りの飛行機で、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいたのだが、内田樹氏によれば、村上春樹と違って、司馬遼太郎の小説は国内で高い評価がされているが、海外ではほとんどが翻訳がされていないそうである。だからといって、前者と後者でレベルの差がある、とは思えない。では何が違うのか。それは、ある文化にどれほど文脈が依存しているのか、という事の差だと思える。確かに村上春樹の小説には、芦屋の浜辺や東京の紀伊国屋、札幌の雪景色、といった、日本的な情景が勿論色々出てくる。だが、彼の小説を英語で読んでいて感じるのは、そういう情景説明は、その文脈を知らなくても、読み流せる範囲内である。現に僕自身、パリの裏町やサンディエゴの灼熱の大地の記述を読んでも、イメージはわいても、それ以上のことはわからない。そして、村上春樹の小説における場面とは、あくまでもイメージを喚起するだけのものであり、それは登場人物達の内的世界に色を添えることが主題とされているからである。

一方、司馬遼太郎の小説は、村上春樹と比較した際、日本史や幕末という文脈に大きく寄り添うからこそ、価値がある小説である。本文中に何気なく出てくる原敬や高橋是清といった名前。直接触れることは無くても、そういう人々との直接・間接の関わりの記述の中から、明治という時代の激流を、読者は肌身に感じることが出来る。そして、これは小学校の日本史的知識くらいは共有されないと、リアリティーを感じられない種類のものだ。あるいは、祖父や曾祖父の代から口伝された事がある、という伝承の形でも良い。とにかく、日本という特定の文化で共有された「何か」を理解出来ているコミュニティーを読者対象にしているからこそ、グッと来るのである。文章修行時代に英語で小説を書いていた、という噂のある村上春樹とは、全く手法も考え方も違うのである。

だいぶ横道を逸れてしまった。僕が言いたかったのは、村上春樹的な組み立てが必要な場面で、司馬遼太郎的な組み立てをしていた僕自身が、大きく場を誤解していた、ということが言いたかったのだ。(勿論、それ以前に二人の巨匠になど、比べられるはずもないが)

きっと、司馬遼太郎だって、その気になれば、日本史を知らない読者層に対しての物語は書けたはずである。だが、彼はそれが出来ても、選ばなかった。僕の場合は、そういう書き方がある、という事実も知らず、またそれも出来ず、選べない状況にいた。ここ1年間で3回の海外発表をする中で気づいたのは、そういう場の違いの認識と、それに対する対応のあり方への気づきだった、と言えるだろう。ようやく、入口には立てた。だが、まだ中身がまだまだなのだ。

後、ついでにいうと、僕は学会の懇親会というのを、偏見の眼差しでみて、毛嫌いしていた。あそこはコネクションを作る場であり、そういう人にへつらうような場には行きたくない、と高威張りしていた。ただ、フレンドリーな方々の多い今回のアジア・太平洋会議に参加している中で、何だかそれって自分の器の小ささと了見の狭さの表れではないか、と思い始めていた。そして、そんな矢先に次のフレーズと出会ってしまう。

「私は人間を弱者と強者、成功者と失敗者とには分けない。学ぼうとする人としない人とにわける。」

これは、社会学者ベンジャミン・バーバーの言葉だそうだが、僕は昨晩、台北のホテルで風呂読書のお供にした、『リフレクティブ・マネージャー』(中原淳・金井著、光文社新書)を通じて知った。ちょうど学会発表を終えて、知り合いの研究者と打ち上げ(お酒の無い火鍋屋さん)もすまし、ホテルに戻って荷造りもほぼ終えた後、の一風呂である。この言葉は、緊張から解けた身体に、アルコールなんかよりも遙かに染み渡った。そう、せっかく学会発表の場で学ぼうとしているのに、懇親会という場で学ぼうとしていないのは、全くアホよね、と。

同書では直後に、人間の信念(マインドセット)について、いったん出来てしまうとなかなか変えるのは難しい、とも述べていた。僕自身も、こういう凝り固まった信念(偏見)のとらわれから、なかなか自由になれない。しかし、どんな場からも「学ぼうとする人」ではありたい、と強く希求する。それであればこそ、少しずつ予断や偏見、自信のなさからも自由にならなければ。先達の箴言をかみしめながら、そんなことを考えていた。

そういう意味でも、海外の学会発表を3回続けてみて、ようやくその大切さを今にしてわかった、のかもしれない。相変わらず、のろまな学びではあるけれど

そうそう、件のお茶について。今回もたんまりお茶を買い込みました。すっかりはまったプーアル茶は、1年分以上は買い込む始末。帰国してみたら、日本は急に冷え込みが深くなっていた。いよいよお茶がよく似合う季節の到来だ。

借り物競走

 

久しぶりにチエちゃんから電話がかかって来た。関西人ならば、あの古典的名作、「じゃりン子チエ」を思い出すかもしれなが、電話口のチエちゃんは、下駄よりも和服の似合うおしとやかな女性。しかし、一皮むけば、「じゃりん子チエ」顔負けの骨太な気質が見え隠れする、そんな友人である。用件をすませてお互いの近況報告をしあっている時に、ふと彼女がこんなことをもらした。

「最近のタケバタさんのブログには、自分の言葉が増えたね」

曰く、以前のブログは他人の本を引用して、それに対して出来ていないことを反省ばかりしている記述だったけれど、最近の文章は、少しそこから脱皮して、自分の経験を、自分の言葉で語っている、のだそうな。そう言われてみて、確かにそうかもしれない、と納得する。

人によってブログの使い方は色々あるだろうけど、僕自身の始めた動機は、考えの整理、というよりも、文章修行の意味合いの方が強かった。また、様々な課題に対して言いたいことはあるけれど、実際にその考えを文字にしてみると稚拙に見えるので、努めて不確かな意見もどきは書かないように、すこし禁欲的になっていた。今、たまたまこのブログサイトにはプロフィールがないけれど、大学のHPからリンクを張って、タケバタヒロシが何者であるか、は一目瞭然になっている。ゆえに、書く際に一定の社会的責任、ではないけれど、匿名のダダ漏れブログ、ではなく、竹端寛としてのハンドリングが効く範囲、と、抑制的になっている部分も、もしかしたらあったのかもしれない。そういえば、大学教員に成り立てだったこともあり、肩肘を張っていたのかもしれない。

では、今はどうなのか。多少は変容を遂げたのか。もちろん、そう簡単には答えられないけれど、変なたとえで言うと、少しずつ、引用という他者との対話をし続ける中で、己の考えの筋道、というか、輪郭なようなものが、ようやく立ち現れてきたのかもしれない。5年前にこのブログを始めた時は、茫洋とした石だか岩の固まりを前にして、トンカチとノミだけで、コツコツと削り始めた段階だった。その時、何を削ろうとしているのか、削れば何が出てくるか、なんてさっぱりわからず、とにかく定期的にキーボードを叩き続けた。そして、ただ無鉄砲に叩いていても発展性がないので、どこに向かうかはわからないが、他人のテキストを羅針盤にして、そのテキストにしがみつきながら、考えあぐね続けた。それは、実は、次のような営みだったのかもしれない。

目的の詳細は、そのつど、対象を形作るという行為の中で徐々にその姿を現し、特定されてくる。さらに、こうした作業の場合、設計図などのさまざまな道具も用いられるであろう。このようにして、目的は、対象を形作る中で、また、さまざまな道具を用いる活動の中で徐々に形を現してくる。そして、ある瞬間につぎのやるべきことの詳細は、作られつつある対象の中に表現されているのである。」(上野直樹『仕事の中の学習』東京大学出版会、p21)

最初から目的が決まっていた訳ではない。その時々のブログエントリーという「対象を形作るという行為の中で徐々にその姿を現し、特定されてくる」ものなのだろう。僕の場合、「設計図」というのは、その時々に気になって、今回の如く引用させて頂いている、というか、胸を貸して頂いている様々なテキストだ。他人の思考との他流試合を繰り返す中で、何かが「徐々に形を現してくる」。そして、以前には無かったことだが、何だか最近、文章を書いている中で、「つぎのやるべきことの詳細は、作られつつある対象の中に表現されている」と感じることが増えてきた。簡単に言えば、「これってあれとつながっているんじゃないかな」といった、書いている僕自身ではなく、書かれているテキストが、次の展開を暗示したり、明確に求めている場面が、増えてきた。そして、それを著者である僕自身が感応できる度合いが、少しずつ増えてきたのかもしれない。他者のテキストへの感応度が上がることを通じて、自分自身のテキストをクールに見つめることと、それへの感応度を上げることが、可能になってきた、とも言えるだろうか。

勿論、現時点でも、感度が上がったからといって、今日のブログがどう落ち着くか、という「目的」、というか、「到達点」までは、まだわかっていない。書いてみて、ドライブがかかれば一気呵成に仕上がるし、接ぎ穂を見失うと、書いては消し、消しては書きを、続けることになる。

しかし、耳を澄ませて、目を見張って、そのテキストが語りかけてくる(であろう)何かを受け取ろうと虚心になる内に、ふと、書きあぐねていたパラグラフに光が差し、風が通る瞬間が訪れる。そのタイミングを見逃さず、その一瞬を捕まえて、その流れに乗れた瞬間、ボディーボードがうまく波を捕まえた時と同じように、波と同化して、何とも言えない一体感で、するすると進んでいく。そして、流れが止まった時点でじたばたせずに落ち着いて文章に留めを打つと、自然と、筆を置くことができる。

で、つけ加えるならば、この「留めを打つ」というのは、伊丹敬之先生の文章論に出てくる名言であり、僕の中に自然発生的に浮かんだ言葉ではない。引用という形で、先達の胸を借り続け、5年前よりは少しは使えるボキャブラリーも増えたことも実感する。胸を借りる、と言えば、サクライ君は僕のブログを指して「内田樹に文体が似ている」と言われたが、確かに愛読者として、彼の文体や考え方に、勝手に私淑し、胸を借り続けている。その結果、いつの間にかその文体が憑依出来ているのなら、これほど嬉しいことはない(無論、全然その距離が縮まっていないことは痛感しているが)。

その内田師は自身のブログの中で、彼自身の考えはオリジナルなものではなく、様々な先達の贈り物を、バトンリレーとして伝えている、といった主旨の文章を何度も書いている。そして僕は、その考えに、深く同意する。僕の場合は、バトンリレーというより「借り物競争」の方が正しいかもしれないが、そうやって他人のテキストを「借り」ながら、少しずつ歩み続ける中で(走っている、というより、のっそり歩いている方が正しいだろう)、少しは、以前と違う高みであれ深みであれ、違う位相にたどり着けたら。そう願いながら、今日も虚心にキーボードを叩き続けるのであった。