<普遍語>と<国語>

 

久しぶりに何もない日曜日。

夕方に合気道のお稽古に出かける。それだけが今日の予定。来週が昇級試験なのだが、先週の日曜と火曜の二回、台湾出張のため、練習から遠ざかっていた。ちゃんと両手取りの二教の裏、が出来るかどうか心配である。だが、それ以外に何も予定のない日曜日、は、実に久しぶり。

朝起きて、パートナーがこないだ貰ってきた柿を、バナナとリンゴと一緒にジュースにして頂き(めちゃ美味い)、昨日のキムチ鍋の残りでラーメンを頂き、のんびりと読書。眠くなったらうたた寝して、また起きてTimeのヒラリー・クリントン特集を読んでいるうちに、もうお昼。冷蔵庫の残り物整理大会に、ひじきスープで色が添えられれる。生姜と黒酢と出汁のブレンドスープに、生ひじきと青葱、玉葱を入れただけのシンプルなスープだが、非常にこれもまた美味。そして、食後に読み進めて、「坂の上の雲」の二巻目は終了。三巻目に入る前に、そう言えば、と、途中で放り出した村上春樹のWing-Up-Bird…(『ねじ巻き鳥』の英語版)を手に取る。心に余裕がないと、英語の小説に手は出ないもんねぇ。

で、今日はPCに触れない一日にしようとも思っていたのだが、こういう余裕のある時にこそ、どうしても備忘録的に書いておきたいことを思い出し、デスクトップに電源を入れる。台湾から帰ってきて、ボンヤリと感じていることでもある。

「今日では、ますます多くの研究者がアメリカ語で出版しなければならないと感じている。このことは、そのこと自体としては、つまり意識の面にまで影響を及ぼさないのであれば、まあ容認されてもよいことだろうし、考えようによっては自然なことですらあるのかもしれない。しかし、結果的に、異なる国々のいよいよ多くの研究者がアメリカ語で書かなければ国際的に認めてもらえないと感じ、同時にアメリカ人研究者は、フィールドワークの便のために外国語の取得を必要としている者を除いて、従来にも増して外国語を学ぶことが億劫になってきている。」(ベネディクト・アンダーソン『ヤシガラ椀の外へ』NTT出版、p280-281)

インドネシア語の諧謔にも通じ、現地語で文章を書くというアンダーソンの指摘が、少し前に読んだ日本人による「憂国の書」とも言える文章を思い起こさせる。

「英語の世紀に入った今、非・英語圏において、英語に吸い込まれていく人は増えていかざるをえない。英語に吸い込まれていくのは、<叡智を求める人>だけには限らない。国際的なNPOやNGOで働き、世の役に立ちたい人も英語に吸い込まれていく。英語などに興味がないのに仕事によって吸い込まれていかざるをえない人もいる。だが、非・英語圏の<国語>にとての悲劇は、そのようなところではとまらない。非・英語圏の<国語>にとっての、さらなる悲劇は、英語ができなくてはならないという強迫観念が社会のなかに無限大に拡大していくことになる。」(水村美苗『日本語が亡びるとき』筑摩書房、p285)

水村さんの本の副題は「英語の世紀の中で」とある。まさに、グローバル化とIT社会が進む中で、「英語の世紀」が進んでいる。研究者に関して言えば、まだ社会科学系では英語発表がmustになっていなが、自然科学系ではもう既にこの「英語の世紀」に突入しているのは、ご案内の通り。韓国は社会科学系でも「英語の世紀」に突入しているだけでなく、自国でポストを得ようと思う研究者は、アメリカかイギリスのPh.D.を持っていないと相手にされない、という厳しい「英語の世紀」だとか。確かに台湾の学会でも、実に流暢な『アメリカ語』を話す韓国人を何人も見かけた。

確かに僕自身も台湾で『アメリカ語』で発表してみて、日本語の世界で書き・考えていることの狭さや土着性に、改めて気づかされる部分もある。そういう意味では、英語で書き・話すことによって、他国との比較など、新たな視点で振り返る事ができる利点がある。そういう面で、「英語に吸い込まれていく」面が僕の中にあるかもしれない、と、一方で感じる。だが、アンダーソンはこんな風にも指摘している。

「ナショナリズムやグローバル化は私たちの視野を狭め、問題を単純化させる傾向を持つ。こうした傾向に抗う一方で、両者が持つ解放のための可能性を洗練させた形で融合させること、明確な政治的意識を持ち、賢明なやり方で融合させることが、今後はこれまで以上に必要とされる」(アンダーソン、同上、p281)

アメリカ語での発表や文章書きは、その経験があまりない人間にも、明らかに日本語での発表や文章書きとの違いを感じさせる。歴史的・社会的文脈を共有しない人々に、福祉社会のあり方という文脈依存型の話を短時間で分かりやすく理解してもらうためには、それを安易にしようと思えば思うほど、「問題を単純化させる」結果となりやすい。僕自身も、海外発表の際に、このピットフォールに陥っているのではないか、と、一方で感じる。だが、そうやって「単純化」することによって、普段の固着した視点からの「解放のための可能性」も持つ。当たり前といえば当たり前の話だが、異化作用は毒にも薬にもなるのである。

同様に、日本語じゃないと伝わらない、と思いこむこともまた、「私たちの視野を狭め、問題を単純化させる」という意味では、グローバル化と同じ愚を犯す、ともアンダーソンは指摘している。だからこそ、「両者が持つ解放のための可能性を洗練させた形で融合させること」が大切、という指摘は、なるほど、と頷く。英語と日本語という二つの包丁を、両方ともきちんと研いでおくからこそ、非・英語圏にあって、重要なのだと思う。水村さんもその事を悲痛な訴えとして書いている。

「<普遍語>のすさまじい力のまえには、その力を跳ね返すぐらいの理念をもたなくてはならないのである。そして、そのためには、学校教育という、すべての日本人が通過儀礼のように通らなければならない教育の場において、<国語>としての日本語を護るという、大いなる理念をもたねばならないのである。」(水村、前掲書、p285)

日本語という<国語>を「護る」ことを通じて、<普遍語>としての「アメリカ語」の「すさまじい力」と渡り歩き、「その力を跳ね返すぐらいの理念」を持つ。「坂の上の雲」を読んでいて感じるのは、明治期の日本人達が痛切なまでに持っていた矜持が、この「跳ね返すぐらいの理念」に通じるところがある、ということである。あれから100年を少し過ぎた。その中で、<普遍語>に単に吸い込まれるわけでもなく、<普遍語>と敵対する訳でもなく、「両者が持つ解放のための可能性を洗練させた形で融合させる」ことが出来るかどうか、が問われている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。