借り物競走

 

久しぶりにチエちゃんから電話がかかって来た。関西人ならば、あの古典的名作、「じゃりン子チエ」を思い出すかもしれなが、電話口のチエちゃんは、下駄よりも和服の似合うおしとやかな女性。しかし、一皮むけば、「じゃりん子チエ」顔負けの骨太な気質が見え隠れする、そんな友人である。用件をすませてお互いの近況報告をしあっている時に、ふと彼女がこんなことをもらした。

「最近のタケバタさんのブログには、自分の言葉が増えたね」

曰く、以前のブログは他人の本を引用して、それに対して出来ていないことを反省ばかりしている記述だったけれど、最近の文章は、少しそこから脱皮して、自分の経験を、自分の言葉で語っている、のだそうな。そう言われてみて、確かにそうかもしれない、と納得する。

人によってブログの使い方は色々あるだろうけど、僕自身の始めた動機は、考えの整理、というよりも、文章修行の意味合いの方が強かった。また、様々な課題に対して言いたいことはあるけれど、実際にその考えを文字にしてみると稚拙に見えるので、努めて不確かな意見もどきは書かないように、すこし禁欲的になっていた。今、たまたまこのブログサイトにはプロフィールがないけれど、大学のHPからリンクを張って、タケバタヒロシが何者であるか、は一目瞭然になっている。ゆえに、書く際に一定の社会的責任、ではないけれど、匿名のダダ漏れブログ、ではなく、竹端寛としてのハンドリングが効く範囲、と、抑制的になっている部分も、もしかしたらあったのかもしれない。そういえば、大学教員に成り立てだったこともあり、肩肘を張っていたのかもしれない。

では、今はどうなのか。多少は変容を遂げたのか。もちろん、そう簡単には答えられないけれど、変なたとえで言うと、少しずつ、引用という他者との対話をし続ける中で、己の考えの筋道、というか、輪郭なようなものが、ようやく立ち現れてきたのかもしれない。5年前にこのブログを始めた時は、茫洋とした石だか岩の固まりを前にして、トンカチとノミだけで、コツコツと削り始めた段階だった。その時、何を削ろうとしているのか、削れば何が出てくるか、なんてさっぱりわからず、とにかく定期的にキーボードを叩き続けた。そして、ただ無鉄砲に叩いていても発展性がないので、どこに向かうかはわからないが、他人のテキストを羅針盤にして、そのテキストにしがみつきながら、考えあぐね続けた。それは、実は、次のような営みだったのかもしれない。

目的の詳細は、そのつど、対象を形作るという行為の中で徐々にその姿を現し、特定されてくる。さらに、こうした作業の場合、設計図などのさまざまな道具も用いられるであろう。このようにして、目的は、対象を形作る中で、また、さまざまな道具を用いる活動の中で徐々に形を現してくる。そして、ある瞬間につぎのやるべきことの詳細は、作られつつある対象の中に表現されているのである。」(上野直樹『仕事の中の学習』東京大学出版会、p21)

最初から目的が決まっていた訳ではない。その時々のブログエントリーという「対象を形作るという行為の中で徐々にその姿を現し、特定されてくる」ものなのだろう。僕の場合、「設計図」というのは、その時々に気になって、今回の如く引用させて頂いている、というか、胸を貸して頂いている様々なテキストだ。他人の思考との他流試合を繰り返す中で、何かが「徐々に形を現してくる」。そして、以前には無かったことだが、何だか最近、文章を書いている中で、「つぎのやるべきことの詳細は、作られつつある対象の中に表現されている」と感じることが増えてきた。簡単に言えば、「これってあれとつながっているんじゃないかな」といった、書いている僕自身ではなく、書かれているテキストが、次の展開を暗示したり、明確に求めている場面が、増えてきた。そして、それを著者である僕自身が感応できる度合いが、少しずつ増えてきたのかもしれない。他者のテキストへの感応度が上がることを通じて、自分自身のテキストをクールに見つめることと、それへの感応度を上げることが、可能になってきた、とも言えるだろうか。

勿論、現時点でも、感度が上がったからといって、今日のブログがどう落ち着くか、という「目的」、というか、「到達点」までは、まだわかっていない。書いてみて、ドライブがかかれば一気呵成に仕上がるし、接ぎ穂を見失うと、書いては消し、消しては書きを、続けることになる。

しかし、耳を澄ませて、目を見張って、そのテキストが語りかけてくる(であろう)何かを受け取ろうと虚心になる内に、ふと、書きあぐねていたパラグラフに光が差し、風が通る瞬間が訪れる。そのタイミングを見逃さず、その一瞬を捕まえて、その流れに乗れた瞬間、ボディーボードがうまく波を捕まえた時と同じように、波と同化して、何とも言えない一体感で、するすると進んでいく。そして、流れが止まった時点でじたばたせずに落ち着いて文章に留めを打つと、自然と、筆を置くことができる。

で、つけ加えるならば、この「留めを打つ」というのは、伊丹敬之先生の文章論に出てくる名言であり、僕の中に自然発生的に浮かんだ言葉ではない。引用という形で、先達の胸を借り続け、5年前よりは少しは使えるボキャブラリーも増えたことも実感する。胸を借りる、と言えば、サクライ君は僕のブログを指して「内田樹に文体が似ている」と言われたが、確かに愛読者として、彼の文体や考え方に、勝手に私淑し、胸を借り続けている。その結果、いつの間にかその文体が憑依出来ているのなら、これほど嬉しいことはない(無論、全然その距離が縮まっていないことは痛感しているが)。

その内田師は自身のブログの中で、彼自身の考えはオリジナルなものではなく、様々な先達の贈り物を、バトンリレーとして伝えている、といった主旨の文章を何度も書いている。そして僕は、その考えに、深く同意する。僕の場合は、バトンリレーというより「借り物競争」の方が正しいかもしれないが、そうやって他人のテキストを「借り」ながら、少しずつ歩み続ける中で(走っている、というより、のっそり歩いている方が正しいだろう)、少しは、以前と違う高みであれ深みであれ、違う位相にたどり着けたら。そう願いながら、今日も虚心にキーボードを叩き続けるのであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。