ピコピコマンの年の瀬

 

昨晩、久しぶりに本格的な四川料理を食べる。一年遅れの母親の還暦祝いである。

一昨日から京都に来ている。いつもは朝早く出ていたので、関ヶ原の渋滞にばっちり引っかかり、結構大変な目にあっていた。そのことを職場の図書館で嘆いていたら、大阪出身の司書嬢が「夜帰ったら、ぜんぜん混んでいないですよ」とのこと。半信半疑ながら、確かにそうかも、とも思い、夜7時過ぎに出たら、日付変更線を超える前に、実家に辿り着いたのである。渋滞知らずで帰れるのは、大変ラクチンでよろしい。

で、昨日はネットで見つけた河原町の中華料理店を予約したので、随分久しぶりに、我が家の前から市バスに乗って四条河原町に。30分ほどのショートトリップである。運転しなくてもいいので、気づいたらピコピコマンになっている。これは、パートナー曰く、僕が挙動不審の人物が如く、キョロキョロキョロキョロしていて、あちこち目を動かすので、そう名付けられた。視線を動かすたびに、ピコ、ピコ、と囃し立てられるのであるが、本当にピコピコピコピコ動かしている。それほど、市バス13番には、思い出が深い。そう、幼稚園の頃から一人で乗っていたのだから。

僕が通った八条幼稚園は、お寺の住職が経営しておられ、うちの祖母のお葬式でもお世話になった、我が家にご縁のある下町の幼稚園である。当時主流だった英才教育とやらも行わず、スモッグを着せて伸び伸びと遊ばせる教育方針がよかった、とは、母親の弁。ただ、この幼稚園は、今では送迎バスを持っているが、当時は歩いて迎えに行く範囲でしか、園児を連れていなかった。僕は3歳までは一条だけ北の西大路七条近辺に住んでいたのだが、3歳で今のマンションに移り住む。すると、幼稚園に通う段階では、歩いて行けない。だから、バス停まで親-先生に送り迎えに来てもらうが、その間は定期券を持って市バスに乗る、そんな生活を続けていた。同じマンションから、タムラくんなど何人かの同級生が、同じ市バス13番に乗っていた。思えば、それが自立の始まり、だったのかもしれない。

そうそう、このころ一つ下の親戚、スグル君は、長岡京市に住んでいた。JRで西大路駅から二駅ほど乗った、神足駅まで、市バス13番とJRを乗り継いで一人で、あるいは弟と二人で行くようになったのも、小学生の低学年から。これも、幼稚園時代から市バスに一人で乗っていた、おませなヒロシ君の自慢でもあった。市バス13番は、そういう意味では、ずっと乗り続けていた路線でもあった。

それゆえに、車窓一つ一つの風景を覚えているので、10年ぶりくらいの終点四条烏丸までの乗車は、興奮しない訳がない。本を持って行ったのだが、全然読む暇もないほど、先ほどのピコピコマン。右や左をキョロキョロしながら、あの建物はまだある、あそこは新しく変わったという感慨に30分、浸り続けた。市バス13番の走る西大路通り、四条通は、古くから市電通りとして栄えていた為、昔から栄えていた通りでもある。よって、ここ30年近く定点観察しても、基本的な町並みの違いはない。お寺さんや病院、ワコールや日本写真印刷など大企業のビルは、基本的に30年間、変わらない位置にある。しかし、一方でこの30年間で、大きく変わった風景が、いくつかあることに気づいた。

まずは、コンビニの増減、である。10年前には急激に増えていたのであるが、最近は整理統合もすすみ、コンビニ跡、もちらほら見えた。次に、ガソリンスタンドの数の減少。これも全国的現象だが、薄利多売現象とセルフの増加などによって、二つの通りから、いくつものガソリンスタンドが減っていた。そして、町屋の減少と高層マンションの増加。ここまでは、これまでに実家に帰っていたおりにも、大体気づいていたことだった。

だが、今回一番衝撃的だったのが、銀行数の減少、である。西大路七条角の銀行跡は、もぬけの殻になっていた。西大路四条(西院)の北西角の銀行跡は商業ビルに変わり、南東角の銀行は1階がコンビニに変わっていた。四条烏丸の銀行跡も商業ビルになり、四条河原町の、占い師「河原町の母」が閉店後に島を構えた銀行もつぶれて商業ビルになっていた。銀行という「あるのが当たり前」だったものがなくなっている、ということに、少なからずビックリする、そんな定点観測であった。

さて、そんなノスタルジックな興奮にふけった30分の後は、パートナーのお買い物に付き合って百貨店巡り+僕に付き合ってジュンク堂の書棚巡り。2時半過ぎに四条烏丸について、河原町のレストランの予約は7時から、と4時間半もあったのに、あっという間に時間は過ぎる。いつもこういう街中に暮らしていると、そういう興奮は薄れるのだろうが、普段は野菜と空気の美味しい山梨に暮らしているからこそ、たまの大都会は実に濃密で、ショッピングもワクワクなのである。なるほど、ずっと都会に住んでいると確かに便利だけれど、こういう楽しみ方は都会から一歩離れるからこその味わいだな、と、都会から離れて5年目にして、しみじみ実感する。これも、定点観測の場に舞い戻ってきたからこそ、感じることなのかもしれない。

年の瀬を京都で過ごすのは、実家にいた時以来だから、10年ぶりだろうか。久しぶりの定点観測で、すっかり京都から、あの頃から、離れてしまっている自分、も発見した。思えば、青春時代、京都という街自体に閉塞感を感じていた。大阪と比較した際の、閉鎖性に嫌になっていた。だが、それは京都という街自体の問題というよりも、自己を客観化して眺めることが出来ない、有り余るエネルギーをうまく活用出来ない、自分自身に対する閉塞感であった、と今になって気づいた。京都は、昔毒づいていた程には、悪くない街のようだ。街歩きも楽しく、中華も美味しかった。そんなことを(再)発見した年の瀬であった。

みなさん、よいお年を。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。