『業務外』の豊かさ

 

ゆがみやこり、ズレは、バランスを失うことから生じる。それは、身体的なものであれ、精神的なものであれ。いや、心身二元論、ではなく、一方のアンバランスは他方に直結している、と言った方が正しいのかもしれない。

ここしばらくの凝り、は、首を冷やして寝ていたからであって、タオルを首に巻いて寝るようになったら治った、という表面的なものを超えた、心身の凝り、だったような気がする。もちろん、その前提にハードな日程があった訳で、今日は二週間ぶりの休日。合気道のお稽古しか予定がない、幸福な一日。木曜のゼミを終えた後、茗荷谷奈良新座、とツアーを終えて帰ってきて、久しぶりに10時間眠ると、少しからだがほぐれる。だが、一昨日メールをくださった、今子育て中のKさんは、子どもさんが生まれる以前は、業務中、「1ヶ月先の自分の居場所がわからない生活だった」そうで、上には上がいるものである。とはいえ、単に物理的な忙しさを超えた何かが、凝りにつながっていたことは、間違いない。そのことを考えるきっかけを与えてくれたのが、次の一冊だった。

「『業務内』のことがらが、上記のように、あまりにも機微に触れる(=ヤバすぎる)ことがらの連続で、それを書くことができなかったので、まるでそれを埋め合わせるかのように、敢えて『業務外』のことだけに絞って書き綴っていたのだ。今、読み返してみて思うのは、不思議なことに、『業務外』の記述に『業務内』のことがらがしっかりと反映されているのである。あるいは、もっと直裁的に、共振(シンクロナイズ)していることがある。」(金平茂紀『報道局業務外日誌』青林工藝舎、p3

この本を手に入れたのは、大学の「季節的業務」の為に、三重の出張の後、二泊三日で静岡に泊まっていた時のこと。同僚と業務を終えた後、寿司屋で昼酒を一杯引っかけ、昼寝本を探しに駅ビルの本屋で見つけた。確か朝日の書評でちらりと書かれていたような気がするが、全く記憶から抜けていた一冊。金平さんって、確かTBSの特派員かなんかだよなぁ、と、割と甲高い声の映像がかすかによぎった程度だったのだが、中をぱらぱらめくって、そこで紹介されている小説、音楽、演劇の濃厚なこと、濃厚なこと。むむむ、と思って、ホテルで読み始めたら、これが実に面白い。彼が報道局長だった2005年から2008年にかけてのウェブ上の連載は、まとめてみたら二段組300ページの本なのに、最後まで読んでしまった。

合気道を始めてからか、自分の矮小さ、というか、器の小ささを痛切に感じるようになってきた。もっと、いろんな可能性があるのに、自分が追い求めてきた内容が、実にタコツボ的な世界である、という、閉塞感のような何か。合気道は、その殻を、文字通り身体を使って破っていく手段であるような気がする。そうやって、少しは「脱皮」してみると、今度は自分の興味関心自体の偏りや決めつけ、矮小さが見えてきた。それを破りたくて、自分が知らない世界・ジャンルを教えてくれるメンターを探しながら、幾つかの「書評本」も読みあさる。その中で、米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』(文春文庫)と共に、自分の可動域を拡げる素材を提供してくれたのが、金平さんのこの「業務外日誌」。同じ時期に手にした佐藤優と立花隆の「書評本」(『ぼくらの頭脳の鍛え方』)が、何だか真面目腐ったインテリジェンスの臭いがぷんぷんで途中で投げ出した分、この二冊のオモシロさが、むしろ際だつ。たぶん、佐藤・立花本は、米原さんの書評で知って読んだ高田理恵子氏の『文学部をめぐる病い』(ちくま文庫)につながるような、教養主義的、旧制高校的「臭さ」が臭っているのだろう。米原・金平本は、そんな気負いや衒い、スノビッシュさがないのが良い。

金平氏のこの書評本から今の僕が学んだ最大のこと。それは、「埋め合わせるかのように、敢えて『業務外』のことだけに絞って書き綴っ」た、という姿勢。僕自身、彼に比べたら超ミクロではあるが、昨今、大学や現場の「よしなし事」に関わる(=『業務内』の)中で、ストレスやらイライラがワインの澱よろしく溜まっていた。しかも、ワインつながりで言えば、ワインの師匠であったミムラ店長が突然「ご卒業」されてしまい、我が家からワインのストックもつきていた。今までは、ワインを美味しく飲んで翌朝にはため込まなかった何か、も、何だかここ最近、消えてくれなくなりつつあった矢先である。そう、消えない、といえば、確実に脂肪も消えてくれないのだが。

そんな変容期に金平氏の本に出会い、自分が『業務内』を『埋め合わせる』だけの『業務外』の豊かさを持っているかなぁ、と改めて点検してみたのである。答えは、否。ワーカホリック一歩手前、であった。危ない、アブナイ。

おそらく、合気道が楽しいのも、『業務内』のアンバランスへの『埋め合わせ』が出来る場だから。そのことに気づかされ、米原・金平本に載っていた小説やエッセイなど、注文しまくる。どれも、今まで手に取ったことのない、新ジャンルばかり。ここしばらくで言えば、品川のホテルで筑紫哲也の『旅の途中』(朝日新聞社)の深みをワイン代わりに転がし、奈良へ往復する新幹線では奥田英朗『イン・ザ・プール』(文春文庫)にケラケラ笑い、今朝は一昨日京都駅前の本屋で買い求めた、川上未映子の『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(講談社文庫)を読んで、ウネウネとした論理と感覚の収束と発散に新境地を発見する。どれも、自分の昨今の『業務内』には欠けていた、異なる世界の、異なる言語の、異なる領域。こういう未開の分野に出会えるよい『仲人本』に助けられて、何とかアンバランスの凝り、から少しは抜け出せそうだ。

そして、今朝の朝日新聞を拡げたら、普天間問題について語る米上院議員のダニエル・イノウエ氏の記事が目に飛び込んできて、金平氏ならずともシンクロニシティを感じる。先ほど読み終えた、『旅の途中』のエピローグは、この日系人議員のエピソードから始まるのである。僕の世代はキャスターとしての筑紫哲也しか知らない世代だが、彼のエッセイを読んでいて、そのジャンルを超えた造形の深さにも、そこから出てくる味わい深い文体にも、心を打たれる。と同時に、キャスターとしての氏の独特な視点、「多事争論」という名コーナーに代表された鋭い切り口は、単に政治や経済、といった新聞がお得意(=つまりは『業務内』)の分野だけではなく、彼自身が陶芸や音楽、写真や映画といった幅の広い『業務外』への関心を持ち、人に逢い、滋養を吸い続けたからこそ、出てくるのだなぁ、という、鉱脈の源泉を垣間見た気がする。そこが、米原氏や金平氏にもつながる何か、なんだろうと思う。

20代後半、大学院生の時には割と禁欲的で、一つの視点・観点を確立するまでは、少なくとも博論を終えるまでは、乱読という名の逃避を恐れて、自己規制を働かせた(なんせ、高校時代から試験前になると決まって読書が進んだ、手痛い記憶の持ち主なので)。その禁は就職が決まった5年前に解いたつもりだったが、それでも自分を振り返ると、どうも専門に近い、『業務内』の本ばかりが書棚に目立つ。それとは全く違う、全くの『業務外』に出会いや驚き、風通しの良さを感じる余裕がないまま、最近まで来てしまった。で、ストレスやイライラを、食事で解消しきれなくなった時に、何とか合気道に出会い、また、幾つかの「当たり本」に出会い、何とか押しつぶされずに生き延びられそう、である。(希望的観測、だけれども)

そうそう、積ん読本の一冊であった、よしもとばななの『なんくるない』(新潮文庫)を『業務内』でグッタリ疲れた先週読んで、随分滋養をもらう。影響を受けやすいから、また沖縄に行きたくなる。冬休みに出かける候補地にしよう。そうやって、『業務外』でわくわくすることが、『業務内』のわくわくにも反映するはず。って、すぐ、功利的にしか考えられないのが、けちくさい関西人なんだけれど、明日からまた『業務内』の「そら、せっしょうな」日々が再開する。せめて今日は、『業務外』でのびのびと。夕刻の合気道では、杖の練習に勤しまねば。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。