両端を眺めながら

この週末、二つの「端」を眺めている竹端がいた。

一つの端は、最先端の方。土曜にうちの大学で行われた「生涯学習フォーラム」で、基調講演の渡邉先生の話が面白い、と同僚から伺い、潜り込んでみた。確かにお話はメチャクチャ刺激的だった。「できごとの実相を伝える多元的デジタルアーカイブズ」というタイトルは、僕には最初ちんぷんかんぷんだったけれど、長崎や広島の原爆体験の記憶を、グーグルアースとくっつけながらウェブ上で融合させる事で、過去と現在をつなげ、記憶の断片を再組織化させるアーカイブスの紹介は、実に魅力的だった。また、東日本大震災後は、ヒロシマ・ナガサキのアーカイブスの経験を被災地に活かした東日本大震災アーカイブも進行している、という。
そのお話に魅入られながら、渡邉先生の一連のプロジェクトの発端になったという、ツバル・ビジュアライゼーション・プロジェクトのことが、ずーっと気になっていた。このプロジェクトは、地球温暖化で島がなくなってしまうかもしれない、という事で一躍有名になったツバルについて、現地に暮らす人びとの顔写真と、現地の風景写真に基づいて、「ツバルの別の様相(=できごとの実相)」を伝えようとするアーカイブである。ここで僕が圧倒されたのは、ある島に住む住民全員の顔写真を撮って、その人がどこに暮らしているか、をグーグルアース上で表示させている映像を眺めた時だった。その島の人びとと信頼関係を作った日本人の写真家が撮った、住民一人一人の顔写真をクリックすると、住民さんの一言が添えられており、しかもその人へのメッセージを送ることが出来る。このプロジェクトHPを通じて、全世界からツバルの住民宛に、メールも届く、という。そのつながりも、グーグルアースを通じて可視化していた。そのつながりの可視化と促進、という観点に、すごく魅入られながら、先生のお話を伺っていた。
先生の基調講演の直後、僕も別の場所で講演をする事になっていたので、直接先生に聞きそびれた事があった。それを、少しブログにしたためておきたい。それは、地方におけるつながりの再組織化に関して、というもう一つの端について、である。
僕はここ最近のブログでも書き続けているように、地域コミュニティにおける人びとのつながりの捉え直し、に興味を持っているし、関わり続けている。限界集落や高齢化率の高い地域における見守りネットワーク、あるいは地域包括ケアと呼ばれる支援体制をどう構築していけばいいか。その中で、住民主体の地域共同体再生に、福祉行政や事業所などがどう共同参画できるか。こうした問いが、福祉現場のフィールドワークを通じて、地方における普遍的課題として前景化している。こないだブログに引用した内山節氏のフレーズを用いれば、「ともに生きる世界があると感じられること」という共同体精神を、これからの地域社会でどう育んでいくか。この問いと直面している、と言っても過言ではない。
その際、ツバルのプロジェクトは、実はリンクしてくるのではないか、と直感しはじめている。ツバルのような、日本に住む私たちから見て周縁と思われる土地においても、その土地で暮らす人びとの営みや共同体がある。それを、前述のツバルプロジェクトは活き活きとデジタルアーカイブとして示してくれている。そこから、ウェブを通じた新たなつながりも創発されている。そこで、僕の中で生まれた問いは、「このウェブを通じた新たなつながりの創発」を、地域福祉の課題に応用できる可能性はあるか、という問いである。
ここ数年、地域包括ケアや地域自立支援協議会といった、市町村や地区コミュニティ単位での、「その地域における解決困難な福祉課題」をどうしたら解決していけるか、を主題として集まるネットワーク形成にコミットしている。その中で、僕のネットワークに関する認識の甘さを痛感しつつある。以前の僕は、ある地域のリーダーを育てる事によって、その地域を変革できないか、と考えていた。これはプロジェクトを引っ張るイニシエーターという「特定の人格のエンパワメント」を通じて地域の再構築を計ろうとする考え方である(このことについても、以前のブログに整理した)。だが、この「特定の人格のエンパワメント」=イニシエーター主導型モデル、であれば、その他の人びと=フォロワーの力を引き出したり、そこから何かを生み出す、という側面が弱い。確かに地域活動は、民生委員とか自治会長とか、あるいはその地域の将来を憂う若者とか、「特定の人格」から渦がスタートする事が多い。でも、その渦を探し、そこにのみエネルギーを注ぐアプローチは、ある種の中央集権的発想のダウンサイジングにしか思えないような気も、一方ではしているのだ。
そこで、ツバルのプロジェクトのような、住民全員に光を当てるプロジェクトが、どう応用可能性があるのだろうか、ということが気になる。このツバルプロジェクトでは、住民の誰がリーダーだ、とか、議員さんだ、行政職員だ、という序列がない。住民がみんな、水平な関係で置かれている。そこに、ツバル以外からも、様々なコメントがダイレクトに個々人に寄せられる。この水平的なウェブ空間に流れてくる情報、という観点を、地域福祉の困難性の解決、という問題とどこかで結びつける事は出来ないか、というのが問いなのだ。地域福祉の課題というのは、その土地のローカルな文脈や社会資源の問題と結びついた、局所的課題である。一方で、ウェブを用いた「できごとの実相を伝える多元的デジタルアーカイブス」とは、その局所的課題の閉塞感を乗り越える、外からの、別の場所からの風を運び込む力を持っている。この「別の風」と「ローカルな文脈(の閉塞感)」が出会うことによって、新たな何かの創発や、問題の解決のための第一歩が動き始めないか。そう夢想しているのだ。
ただ、当然、この両端を結びつけるには、大きな課題が幾つかある。個人情報保護の問題だったり、あるいはデジタルデバイドの課題だったり。昨日の講演会でも、ツイッターという言葉を知っていたり活用していたりするのは、参加者の1割にも満たない、という現実がある。地域福祉の課題にそれらのITを用いる際のデバイドは相当高い。また、地域課題は動的で可塑的で、人間関係の濃密な機微にも関わる何かであるが、可視的なアーカイブに一旦置いてしまうと、その動的性質が崩れ、関係の(時にはドロドロした)ダイナミズムもそぎ落とされ、静的なものとして着地してしまわないか、という危惧もある。もちろん、アップデートすれば、その一部は解決出来るのだろうけど、そのアップデートには、情報格差の壁が高くのしかかっているのだ。
と、現段階では結びつけるのが難しそうな、多元的デジタルアーカイブスと地域共同体の再活性化、という二つの「端」。でも、尊敬するフィールドワーカーの関満博先生は『現場主義の知的生産法』(ちくま新書)の中で、時代の最先端と最後尾の双方を追いかけ続ける中で、問題の構造が立ち現れてくる、と述べていた。ウェブを通じた最先端の方法論と、過疎化や高齢化で弱体化しつつあるコミュニティをどう最活性化するか、というある種の最後尾の話。両方は、どこかでつながるのではないか、という予感を、とりあえず両端を眺めながら、したためておきたい。

濃厚な、実に濃厚な

 

今日は最終の「ワイドビューふじかわ」号の人。今年初めての三重での仕事の帰りである。午前中は県職員の方々への研修、午後はこれまで二年間やってきた、僕がコーディネートのお手伝いをした、三重県の市町の障害福祉担当職員エンパワメント研修の評価と振り返りの会議。その後、次の事業展開の打ち合わせをすませ、名古屋行きの近鉄特急で1時間爆睡し、静岡に向かう新幹線の中で原稿に赤を入れ、そして今こうしてPCを立ち上げている。今日もまあ濃度が濃いが、火曜日からずっと濃厚な日々だった。

一昨日のことなのに遠い昔のような感じもするが、火曜日はもともと、朝1限、大学で担当科目(地域福祉論)のテストだった。僕のテストは、穴埋め式ではなく、じっくり考えてもらう形式。そのため、持ち込みは配布プリントもテキストもノートもどうぞ、としている。毎週の講義ではDVDや新聞資料を見せたあと、その日のテーマに関する幾つかの疑問に自分の考えを書いてもらうことにしている。その記述をもとに、学生達に自分の考えを発表してもらい、そこから更に問い、考えてもらいながら、講義主題に結びつけていく、というスタイルを取っている。ソクラテスの産婆術の妙味を、主に池田晶子の著作(『帰ってきたソクラテス』等)から学んで、それを講義に活かしている、といえようか。その講義で学生達が書き続け、考え続けてきた内容をつなぎ合わせたら、全体像として何が言えるのか、というのが、テスト課題の大枠。あくまでも知識の有無ではなく、自分の頭をフル回転させて考えて、それを筋道だって伝える事を求める内容にしてみた。テスト後に聞いてみたら、お世辞半分でも、難しいけど、一生懸命考えられるないようだった、とのこと。テストを通じたエンパワメント、とか、内容整理、も少しは板についてきたようだ。

さて、そのテストが終わるや否や、荷物をひっさげて「あずさ」号の人。午後はお台場で知的障害者福祉協会の地域支援セミナーのシンポジウムに呼ばれて、会場まで駆けつける。その場で「アラ還」(アラウンド還暦!)の二人のパワフルな支援者・弁護士のレイディズが話をした後だったので、私ともう一人の30代男子、ナカノさんは「若いねぇ」と言われながらの登壇だった。このナカノさん、今の職場は北海道だが、イントネーションが関西弁。関西ご出身ですか、という話から、なんと阪大の4年先輩であることを知る。あちらは法学部出身で官僚に、こちらは人間科学部出身で研究者になり、同じ障害者福祉の分野で接点を持てるのだから、不思議なご縁。そのご縁やナカノさんの魅力だけでなく、北海道で展開されている実践内容が今の自分の実践・研究課題に直結しているので、興味津々で話を伺う。これは近々北海道で話を聞かせてください、と再会を約束して、会場を後にする。

その後、りんかい線モノレールを乗り継いで、羽田空港の地下で靴磨きをしてもらってから、伊丹行きに乗りこむ。最近ずぼらで革靴の手入れをほとんど怠っているので、一番磨きが必要な靴を履いていって、プロにきっちりケアして頂く。たった600円で見違えるように美しくなるのだから、本当に有り難い。で、伊丹ではMKタクシーの京都行き乗り合いタクシーの空きがあったので、捕まえて自宅経由で西大路駅に。そこでナカムラ君と合流して、8時半から2時間半、旧友と久しぶりに飲み交わす。彼はずっと写真を続けている一方、僕はすっかり遠ざかっている。そういえば我が家には、ニコンF3という銀盤写真機の名器が、ほこりをかぶって鎮座している。単なる鉄くずやオブジェではもったいない、とナカムラくんに使ってもらう事に。その話をしながら、僕も一眼のデジカメを中古で探そうか、という意欲が突如、沸いてきた。

さて、翌水曜日も濃度は朝から全開だった。京都駅地下の知る人ぞ知る京都の老舗珈琲店、イノダコーヒーで、ちえちゃんと待ち合わせ。彼女は翻訳家や語学の講師という側面と、以前から介護保険分野での市民活動への関わりという二つの側面を併せ持つ才女だ。そのちえちゃんと、朝から高齢・障害分野の地域作りやネットワーク化、voluntary actionの相異について議論の花を咲かせる。タコツボになりがちな僕に対して、もっと別の見方も出来るんじゃない、と温かく提起してくれるちえちゃん提供の現場実践に耳を傾けながら、自分の硬さや頑なさ、器の小ささ、というものに改めて思いが至る。そういうディープな議論に付き合ってくれる友人は、本当にありがたい限り。

そのちえちゃんとは阪大での仲間だったのだが、実はその後、阪大豊中キャンパスに移動して、オムニバス講義を受け持つ事になっていた。共通講義のボランティア論の一コマである。今年は阪神・淡路大震災からちょうど15年。僕自身は京都だったが11階で大きな揺れと部屋の散乱を経験し、被害は小さかったとはいえ、「自分事」として地震を経験した。ゆえに、その後ボーイスカウトの救援隊に地震3日後に参加し、その経験から気が付けば、ちょうどテスト前の1月最後には、阪大人間科学部1年生の有志で「阪大ボランティア隊」の呼びかけを、この豊中キャンパスの1年生の学部必修授業で行っていた。その時、150人を前に、緊張でガタガタ震えながら呼びかけの説明をしていた自分が、今、200人ほどの学生を前に、ペラペラと講義をしている。あの震災ボランティアの経験が、自分の研究者としての入り口に深くつながっていると思うと、今回の講義は実に感慨深いものだった。

その感慨をうまく言葉として現したかったので、講義の最後には、「15年前の自分」に向けてのメッセージ、というお節介を行う。まあ、ボランティア論そのものが、お節介の科学、でもあるので、5分くらいなら許容されるだろう、と。レジュメ作りの最後に思いついたものである。積ん読、乱読、斜め読みをしながら世界を広げよ。面白くない本に時間を使うより、合わないならさっと読むのをやめて、次の出会いに賭けよ。自分で「○○は俺には関係ない」と興味関心の範囲を限定するな。今、わからなくても、将来じんわりわかることもあるのだから、わかる・わからないの白黒がつかなくとも、「わからないまま抱える」ことに寛容に。学生時代こそ、試行錯誤の最大のチャンス。評論家として他人事ではなく、自分事として関わってみるべし。などなど、自分が学生時代に先達から受け継いだメッセージを、15年後の後輩達に伝え続ける。単なるお説教と取るか、少しは役立つ助言と受け取るか、は彼ら彼女ら次第。でも、そういうパスの連鎖の中で、次につなげることが出来る年代になったのだな、と改めて感じながら、先達への感謝と、後輩への期待を言語化していたような気がする。

もう、ここまで書いただけでも濃厚なのだが、その日は更に濃厚な夜が待っていた。場所は豊中から高槻に移動して、障害者福祉の研究者・実践家としての大先輩Tさんのご自宅で、パートナーの方の手料理と美味しいワインに舌鼓をうちながら、も、5時間あまりのしっかりとした議論。福祉政策や支援のあり方、など僕が聞きたかった事も沢山やりとりさせて頂く中で、思わず聞いてしまった。「僕の専門って、どうも社会福祉学でもないし、社会学も囓っただけだし、ソーシャルワークとも言えないようだし、なんと言ったらいいでしょうね」 それに対するTさんの返信は、完結にして明瞭だった。

「福祉を巡る政治・行政でしょうね」

確かに、である。福祉に関わっていることには間違いがない。だが、ミクロソーシャルワーク(対人直接援助)の枠内に収まらず、またその志向性もない。かといって、地域福祉研究者か、と問われても、そういうコミュニティのあり方や地域福祉計画そのものに興味がある訳でもない。障害のある人の支援の実態が何とかもう少し良くなって欲しい、という社会変革的なものを志向して、そのための手段として、官民が政策形成や実践場面でどのように連携出来るだろう、とか、支援組織のあるべき姿や変容のどう支援が出来るだろう、とか、そのための行政職員や支援者に向けた研修のあり方はどうしたらよいのだろう、といったことを、ここ数年考え続けている。これは、学とつけるなら、「自治体福祉行政学」とか、「障害福祉政策学」といった領域。確かに「福祉を巡る政治・行政」そのものなのである。すこーんと天井が抜ける、というか、深い部分で腑に落ちて、実に納得する。その後のアルコールも入った議論も実に気持ちよく過ぎていった。

そんなこんなのうちに、そろそろ終電の時間。新快速で京都まで行き、のぞみ号に乗り換えて、名古屋経由で日付変更線を過ぎた頃に津に辿り着く。興奮していたので鎮静作用を持たせようと、奥田英朗の『サウスバウンド』(角川文庫)の下巻を読み始める。上巻の東京編とはうってかわって、舞台は沖縄に。本屋大賞にも選ばれただけあり、ひとたびページをめくると、文字通り、やめられない・とまらない面白さ。2時間ちょっとの移動で貪るように最後まで読んでしまった。至福の議論と食事にワイン、さらには上質のエンターテイメントまでついて、豪華絢爛な夕べであった。

で、ようやく今日に至る。濃厚すぎて、火曜の朝のことが遠い昔に思える理由の一端がわかるでしょ。

今日も今日で、県職員の皆さんに研修をさせて頂く中で、自治体福祉政策における都道府県の課題を改めて考える機会をもらった。世の人の考え方の癖として、ある程度の情報整理や論理構築してから実践化に至る方向性と、実践現場に浸った断片的現実感からパズルのように仮説の構築に至る方向性、という、演繹と帰納の二つの方向性がある。僕は、間違いなく、現場の現実感からパズル的な構築をすることが得意な方。というか、それがなければ、リアリティを描けない、という意味で、アームチェア理論家には絶対になれない。ただ、本物のアームチェア社会学者の凄さを間近で知っているだけに、現場の絶対化のような陳腐なものでは歯が立たないことは、百も承知しているつもりである。現場での気づきや意識化、現場からの研修のオーダー、これらを、理論的なコンテキストを紐解きながら、現場の方々が腑に落ちる言葉や理屈で伝えていく。その中で「福祉を巡る政治・行政」を考えるダイナミズムや、それが社会を変えるお手伝いの役割の末端を担う、という機能にもつながる。

そんなことを何となく意識出来るようになったのは、やはり山梨県や三重県のアドバイザーの仕事をさせて頂くご縁が出来たここ2,3年のこと。しかし、この数年は、以前よりはかなり勉強をするようになった(というか、それまではかなりドグマちっくな、不勉強の塊だった)。今回は、研修の下敷きにならないか、と火曜日朝にふと思い立ち、鞄の中に詰めていったPaul Spicker“Social Policy”second editionがどんぴしゃりで役に立つ。社会政策における価値の位置づけ、とか、真偽問題と善悪問題の両義性、とか、昨日の講義や今日の研修でも早速パクれるものばかり。この本の第一版は日本語になっていて、それも僕には偉大なる参考書であり何度か読み返しているのだが、大幅に内容を変えたこの第二版は、2008年に出たのだが、残念ながらまだ翻訳になっていない。第一版と第二版で内容が大きく変わる、と言えば、リカバリー概念に関する名著『ストレングス・モデル』(Rapp & Goscha)は、第二版も日本語が出て、第一版で感じた翻訳のひどさはようやく解消された。(ただ、あの本も原著で読んだ感動が忘れられない)。あの本と違い、このスピッカーの『社会政策講義』は翻訳も優れている。訳者チームのお一人は、面識のある優秀な社会学者。なので、早くそのチームで第二版を訳してくれないかなぁ、と他力本願になってみる。

そんなことを書いているうちに、普段の分量の1.5倍くらいになってしまった。そういう濃厚なことは、忘れないうちに書いて血肉化しておかないと、という目論見は、今日はうまくいったようだ。さて、列車は甲府盆地の一番南、鰍沢口まで戻ってきた。繰り返すが、実に濃厚な二泊三日だった。

時代を超える重みある論考

 

情報過多で移ろいやすい社会にあって、文章の比重が、相対的に軽くなっている事は、多くの識者が指摘している。ブログやツイッター、ネットニュース、電車の電光掲示板の1行ニュース等に代表されるような速報性メディアは、右から左(表示的には左から右だが)に流れていき、少し前の情報は、星くずの彼方に消え去ってしまうのが恒常的になっている。だからこそ、30年近く前の書物に触れて、その本の「今日性」を感じるとき、改めて「比重の重い文章」の凄さに恐れ入る。例えば、1980年代に書かれた村上春樹の作品群しかり。しかし今日紹介するのは、小説ではない。

「小さな島の、小さな部落の、そのまたはずれの小さな家の中で家族と身を寄せ過ごしている一人の人の心の中にも、大きくひろがっているいわば一つの宇宙が存在するので、彼が自立の道を歩もうとしても、すぐぶつかる社会の巨大な流れと壁に私自身が遭遇するとき、私たちの非力感はさらに深まるのである。
しかし、更に考えてみるならば、私たちが陥るこの絶望感は、現在の病者が感ずる状況の苛酷さに根源をもつものであり、私たちの活動も、彼らがおかれている抜け道のない立場に一度身を置いてみることなしには、共感をもった真の救助活動はありえないのだと思うのである。」(島成郎『精神医療のひとつの試み』批評社、p115-116

安保闘争の元リーダーで精神科医の島成郎が、本土復帰直前からの沖縄で地道な地域精神医療の実践を続けてきた論考をまとめた、1982年の作品。アマゾンの古本屋で買ったのだが、ある有名な哲学研究者(思想家?)の所蔵品であったようで、サインがされている。長い間「積ん読」だったのだが、久しぶりの休日に選んだつもりが、すっかりあちこちにドッグイヤーとマーカーだらけで、本気の論考に、うなる。安保闘争などの運動史はよく知らないが、社会を変えたい、世の中をよくしたい(役立ちたい)、という思いや願いを、アジビラやゲバ棒を持って、ではなく、久米島などの離島への継続的で長期的な訪問活動の実践の中から紡ぎ出し、昇華させているからこそ出てくる、本質的な考察。心の病を持つ人を、「○○症患者」と局所的にみるのではなく、「一つの宇宙が存在する」と捉え、現実社会との軋轢や壁の中で「抜け道のない立場」に苦しんでいる、そのことに「共感を持った真の救助活動」の原点を置こうとしている。リカバリーや当事者主体なんて言葉が言われるずっと前から、そのことに気づき、向き合っていた実践がある。不勉強な僕はようやく出会った本から、多くのことを教えられた。そして、28年後の現在でも、構造自体は全く変わっていない、と思い知らされる。

「戦後日本の精神障害者の処遇の変遷は、ただ単に、国家・社会の施策に由来したというのではなく、精神科医の真面目な努力によるものであるといわざるを得ない。現行の精神医療の体系が法的、経済的に治安的、反医療的なものであるとしても-すくなくとも戦後においては、患者処遇の基本形態である精神病院内収容隔離は、精神科医の承認と積極的関与なしには、法的にもありえなかったのである。」(前掲書、p57)
「精神科専門医である私が、入院の決定を行うと、家族、住民らの『社会からの排除、隔離、収容』の要求は『医学的根拠』を与えられたことになり、患者の拘禁は医療行為となり法によって保障されたことになり、彼らの困惑は安堵になる」(前掲書、p230)

精神障害者を「隔離・収容」することに重きをおいた戦後の政策は、「精神科特例」「保安処分・予防拘禁」「障害者施策からの排除」などの問題とも重なり合い、「国家・社会の施策」としての問題が前提としてある。だが、そこには「精神科医の真面目な努力」が常に存在した。「家族、住民らの『社会からの排除、隔離、収容』の要求」に呼応する中で、『医学的根拠』としての「自傷・他害」カテゴリーの中への当てはめと、強制的な収容に結果的に荷担したことになる。だが、勿論これは医師一人の責任ではない。そういえば、以前、この「真面目な努力」部分に呼応するような文章を読んだのを思い出した。

「医者だからこれを治せばいい、医者だから治さなくてはいけないと、ある種暗黙の期待や了解の下に、医者はそこで頑張らされている。医師だけが役割を背負って、結果的に家族やスタッフの負担を減らすために薬をたくさん出して、とりあえず、目先の困難を沈静化するといことで、周りを何とかなだめなくてはならない、となっているのです。
その現状を、多剤大量という形で批判するのは簡単です。しかし、それは精神科医が自らそうしているわけではなくて、医師に多剤大量という形で責任を押しつけているのは地域支援の責任だ、ソーシャルワーカーの責任だ、と私は勝手に思っています。(略)地域支援が頑張らないから、結局これだけ病院を増やし、病院にこれだけのことを押しつけてきたのです。」(向谷地生良『統合失調症を持つ人への援助論』金剛出版、p203-204

「医者だから」という「暗黙の期待」。それは「治してほしい」というポジの形で現れることもあれば、「病院に長く置いて欲しい」というネガの形で現れることもある。どのような形にせよ、精神科における医師が背負わされている比重は、一般科の治療を行う医師が背負わされているものだけでなく、遙かに「対社会的」な重みが強い。すると、「真面目な」医師ほど、入院の、医療化の「努力」に邁進する。その結果としての、諸外国に比べた病床数の多さや平均在院日数の長さにつながる。これは、意図せざる結果、というより、精神科医が「真面目な努力」をした成果とも言える。そして、その成果とは、社会的入院という形で、現在は「失敗」というカテゴリーの中に入れられている。

この認識の元で、どうしたら状況をひっくり返すことが出来るのか? つまり、今流行の言葉で言うならば、どうすれば「退院促進」や「地域生活移行」を進めることが出来るのか? このあたりも、褐色に焼けた古本になっている同書の中に、次の二点としてまとめられている。

「精神病院の変革はこの閉鎖性の打破が前提であると考えるとき、私は病院内医療者がもっと気軽に地域に出て地域での患者の生活の実態を知るようにすると同時に、地域活動に携わるものがもっと積極的に病院に関わる必要を感じる。」
「私たちの『医療』『地域精神衛生活動』の協力者を作り出すという考え方を捨て、地域内での患者の苛酷で悲惨な生活を知り、この処遇を強いている地域の状況を少しでも変えていこうとする、そしてこのことによって患者の自立を助ける、患者自身の協力者を作るのだという観点に立たなければならない。(略)彼らは患者と最も密接に生活しているだけ、それだけ一生懸命に患者を『医療』にのせようとし、あるいは『排除』しようとするのである。私たちは彼らに『医療』の幻想を与えることによって彼らの期待に応えるのではなく、また彼らを『教育』することによって『医療者』の協力者に仕立て患者の管理を依頼するのでなく、患者の生活を最も身近に知っているものとして、彼が地域内で暮らせる条件を作り出す援助者、共同生活者として期待するのである。」
(島、前掲書、p168-169)

退院促進事業という国事業が、72000人の入院患者の平成23年度までの退院という数値目標を出している。何度か書いたが、この数値目標は、諸外国に比べて「低すぎる」一方で、我が国では達成がおそらく不可能であろう。その阻害要因として、1980年代当初と比べて大きく改善されてきたとはいえ、島医師の指摘する「病院と地域の交流」のなさ・消極性や、地域における「排除や管理の担い手」ではない「患者自身の協力者」の少なさ、などは、未だに本質的課題として残っているような気もする。

この文章が「過去物語」になっていない現実を、さて、どうするか。読み手の私たちに、バトンが託されている。

今日も移動中

 

今朝、移動の途中に、甲府盆地を上空から眺める機会があった。黄金色の朝日が輝き、釜無川や荒川がきらきら光っている。富士山もくっきり見え、その麓には精進湖か河口湖が見える。上空から眺めると、それらの湖が、甲府盆地と山を隔てて標高が一段高い場所にあることがわかる。なるほど、郡内と国中地域では確かに気候が違うよな、と上空からの俯瞰図でみると、改めて理解出来る。で、そんな鳥瞰図を楽しんでいる僕は、大阪から福島への旅の途中だった。

木曜日、3人の学生の卒論(A4で計100ページ以上!)を受け取り、卒論発表会用にごっそり印刷して、3,4年生と新3年生の計13人に渡す。みな一様に、驚きのため息をつく。そう、2月初旬の卒論発表会までに、全員がこれを読み通し、何か質問する事が求められているからだ。竹端ゼミでは恒例のイニシエーションになっている。学生は、教師からよりも同級生や先輩・後輩から学ぶことが実に多いのだ。

そして、無事に渡し終わり、主に公務員志望の学生さん向けの政策提言研究というオムニバス講義の解説も終えた後、すばやく研究室からキャリーケースをひっさげて、身延線経由で京都に向かう。金曜朝9時半から、奈良でのお仕事があるので、久々に実家に投宿。両親とべちゃくちゃオシャベリする中で、ひろしに言いたいことがある、と母親。何のことか、と思いきや、「あんたはブログの中で、父の好きなおでんをがんもどきと書いているけど、違う。お父さんが好きなのは巾着やで」とのこと。今年の年賀状でブログサイトを知った母親は、ご丁寧にも過去ログも読んだらしい。身内に読まれていると恥ずかしいよね、と思いつつ、やっぱりこうして今日もそのことを書いてしまう阿呆な私がもう半分にいる。

さて、備忘録的な日誌を続けると、金曜日はあちこちで、色々「聴き手」となった。午前中は支援現場のミッションって何だろう、と、ある支援組織の皆さんのリアリティに耳を傾ける。真面目に愚直に地域支援に取り組めば取り組むほど、矛盾や課題を引き受けながら、でもそれらの課題に逃げずに答えよう、という志をもった支援者の皆さんとのやりとりには、こちらも学ぶことが多く、襟を正す思いだ。

その後、甲子園口まで移動して、いつもの漢方医と美容室に立ち寄る。山梨に移り住んでからも、律儀にその二つだけはずっと通い続けている。それだけ、医師も美容師も、単なる馴染みの域を超えた魅力的な存在だからだ。そして、今回はその漢方医に、長年疑問に思っていて、最近特に気になる「あの話題」を真正面からぶつけてみた。「先生、なぜ僕はジャンクフードも喰わないし、野菜を沢山取っているし、玄米食中心なのに、痩せないんですか。また、汗かかきなのに冷え性なのはどうしてなのでしょうか? どうしたら、全体的な体質改善のバランス感覚の取り戻しが出来るでしょうか?」 この、うるさい患者の直球に、ニシモト先生も剛速球で投げ返してくる。

「あなたは、食毒やね」

しょ、食毒! 文字通り、食べ過ぎて、毒になる。玄米ご飯なのに、お代わりして2杯も食べているようでは、そもそもよく噛んでいない。三食もがっつり取りすぎている。そういう食生活では、カロリー過多になっていて、身体がカロリーを消化し切れていない。だから、脂肪や毒素として身体に溜まり、その溜まりカスのおかげで、血の巡りが悪くなり、冷え性にもつながる、と。それを治すためには、その先生自身も実践して効果のあった、炭水化物を極力減らすダイエットと食事の総摂取量の減量がぴったり、と。

数日前から『レコーディング・ダイエット』やらためしてガッテンダイエット本などを読んでいて、体重量の増減の「見える化」「意識化」や、それに基づく総摂取量の削減が、ダイエットのポイントであり、自分にも何となく実現可能な方向性であることは、うすうす感じていた。だが、文字通り「食毒」と規定されると、ショックだが、瀬戸際まで追い込まれて、案外良いショックかもしれない。実を言えば、食べている時は「もっと、もっと」という気持ちになるが、食後に胸焼けしていることが少なくない。ということは、食事量の過剰摂取そのもの、なのだ。

正直、他人に言われなくても、内心知っている。だが、それを顕然化させることは、自分に変容を突きつけたり、これまでの自分のやり方に関する自己否定になるから、勝手に自分自身で歯止めをかけていた。その歯止め(=保身!?)が、「食毒」という言葉を聞いて、文字通り吹っ飛んでしまう。Now or Never? やるか、やらんか? 単純な二者択一である。やらんとしゃあない所まで、うっちゃられた、とも言えるかもしれない。

そういう、とほほ、な気分の落ちこみを聴いてもらうべく!?、髪も短く切ってもらい、その後は西宮の現場に行って、ひたすら「食毒」ネタに盛り上がる。転んでもタダでは起きない。がめつい。だが、そう意識すると、その後の飲み屋に繰り出しても、「意識化」とカロリーセーブは頭にすっかりこびりついているようである。悪くない傾向だ。

で、西宮から帰って京都でPCをいじくっていたこともあって、睡眠不足を抱えながら、今朝は6時前にはMKタクシーの伊丹空港乗り合い便に乗って、冒頭の福島行き。今日は障害者団体の「タウンミーティング」が郡山であったのだが、一方で昨日くらいしか甲子園口の漢方医と散髪屋には行けそうな時間的余裕がない。そこで、山梨大阪福島山梨、という大移動になったのである。そして、今このPCを打っているのは、いつもの最終「かいじ」である。

郡山では、自立生活センターを支える地元の障害者の方々とワイワイ話し込んでいるうちに、シンポジウムも懇親会もあっという間に過ぎ去ってしまう。魅力的なリーダーのもとに、個性豊かな当事者も集う。そういう当事者から学んで、支援者や行政関係者のセンスも磨かれる。そういう相乗効果が発揮されている様子を見て、文字通りこちらも元気をもらったし、やはり当事者主体が地域を変えていくんだよなぁ、と改めて感じ入る。目まぐるしい移動でも、実に大収穫の2泊3日強行軍であった。

支援者が陥りやすい六つの罠

 

大学における教育、外部研修、あるいは福祉組織の変革のお手伝いや、県の障害者福祉のアドバイザーなど、自分自身が「支援者」になる事も、昨今少なくない。そして、もともと自分の研究する障害者福祉の領域は、まさに「支援」のあり方や政策に関する研究領域でもある。そういう、「支援」が「自分事」であるがゆえに、「支援者が陥りやすい六つの罠」には、ギクッとしながら、一つ一つの「罠」に深く頷きながら、読み進めていた。

支援者が陥りやすい六つの罠
時期尚早に知恵を与えること
防衛的な態度にさらに圧力をかけて対応すること
問題を受け入れ、(相手が)依存してくることに過剰反応する
支援と安心感を与える
支援者の役割を果たしたがらないこと
ステレオタイプ化、事前の期待、逆転移、投影
(エドガー・H・シャイン『人を助けるとはどういうことか』英治出版)

組織文化や組織開発の分野の大家による、「支援」の本質を突く一冊。特に、自分自身のリフレクションに、実に良い。この項目一つ一つに、身につまされたので、以下、備忘録的にそのエッセンスをパラフレーズしてみたいと思う。

時期尚早に知恵を与えること
シャインは、「この反応は、提示された問題が真の問題だという支援者の思いこみも暗示している」という。その前提として、支援者とクライアントの間に不均衡関係、つまりはクライアントが「一段低い地位(ワンダウン)」、支援者が「一段高い地位(ワンアップ)」という関係性が生じることが、事の発端にあるとも言う。その部分を、次のように鋭く次のように分析する。

「支援を提供するというよりは、何かを受け入れさせたり、状況を不当に利用したりすることになりかねない。真の意味で助けにならないとわかっても、個人的な利益として認められる権力を行使したい誘惑に駆られるかもしれない。そのように許可された権力を、『助けになれるかどうかわかりません』とか『実は、助けることができません』と謙虚な言い方をして、諦めることは心理的に難しい。支援できる機会が得られるのは、大きな誘惑なのだ。」(シャイン、前掲書、p67)

支援者は、支援を受ける側から「許可された権力」を得ると、それを「行使したい誘惑に駆られる」。そのため、出来ない、わからない、と言えなかったり、あるいは何とかその権力を早期に行使したくて、にあるように表出されたニーズにすぐに飛びついてしまう。しかし、そもそも口で簡単に言えるようなニーズであれば、何も支援者に頼まなくても、自分で解決出来ている場合が多い。あくまでも、最初の訴えは、複雑に絡んだ問題の本質に通じるきっかけや、あるいはそれを隠蔽する罠、にしか過ぎないケースは少なくない。なのに、入り口で飛びつくのは、権力への「大きな誘惑」に早々身を売り渡すことに過ぎないのかもしれないし、支援者が変に力んでいる時こそ、それは権力欲そのものなのかもしれない。附言すれば、昔恩師が、「わからないことはわからないというのが大切だ」と言っていた事も、改めて思い起こされる。知ったかぶりしないかどうかは、権力欲に毅然とした態度を示せるのか、の試金石でもあるのだ。

防衛的な態度にさらに圧力をかけて対応すること
この点についてシャインは、経営コンサルタントの助言が聞き入れられない例を用いて説明する。その場合、経営コンサルタントは、自分自身の助言が間違っている可能性について検討する事無く、クライアントの無知や無理解を非難する口調で、圧力的な説得にかかる。しかし、この場合、自分は間違っていない、という無意識の防衛に基づいて、相手側が間違いだ、という圧力をかけるため、相当なねじれが生じる。以前からこのブログで何度も書いていることだが、“You are wrong”と言い続けるだけでは、自分自身の絶対肯定に基づいているだけでは、人はその意見の無謬性に不信感を感じて、耳を傾けようとしないし、概ねそういう無謬性に基づく意見は、どこかで破綻する場合も少なくない。

問題を受け入れ、(相手が)依存してくることに過剰反応する
「支援者の役割をすぐさま引き受けて自信をみなぎらせている人には、助けが得られるかどうかわからないうちにクライアントに依存してしまう」(シャイン、前掲書、p79)

恥ずかしながら、こういう関係性には、身に覚えがある。特に、自分に自信が無かった頃ほど、空威張りして「僕なら解決出来る」と文字通り嘯いて、その空威張りに頼ってくれた相手への依存を強めていた時期が、正直に言えば、その昔、あった。今は皆無だと断言出来ないが、それで随分手痛い目にあって以来、こういう空威張りというか、「依存関係への依存」は、百害あって一利なし、とようやく気づいた。また、こういう記述も、いてて、である。

「グループや組織と働くときにコンサルタントや進行役は支配権を握るという罠に陥る。彼らは提案するだけでなく、次のステップを実際に指示してしまうのだ。しかも、どんなことが感情的、または文化的に可能なのかを充分知らないうちに命じてしまうのである。」(シャイン、前掲書、p80

これも、複数の現場でやらかした事のある失敗である。あくまでも提案や助言なのに、指示をする。指揮命令系統の外部者としての助言、という基盤を忘れて(血迷って)、その系統を無視して、勝手な指示をしてしまったこと、しそうになったことがある。そういう場合、その指示に対する責任を取れるわけでも、その職責にもいないのに、そうする事が、いかに組織体系にとって逸脱行為であり、感情的、文化的な混乱を引き起こすか、に無知だった時、トンでもない間違いを、やらかしてしまった。今ではだいぶ少なくなってきたとは思うが、これもくれぐれも自戒しなければならない。「取るべき責任と取らなくてもよい、とってはいけない責任」の区別、である。

支援と安心感を与える
この題目は、一見支援者として正しい実践にみえるが、時としてその実践に罠があることに、シャインは三つの理由を示している。

一 支援者が、専門医のような権力のある役割になってしまう。
二 クライアントの地位の低さを助長する。
三 支援者との関係のその段階でクライアントが全てを打ち明けるとは限らないため、実は不適切かもしれない。
(シャイン、前掲書、p81)

シャインがここで専門医を比較対象として出しているのが、面白い。先日、ある医師と話していた際、医師と支援者の違いとして、「最終的なカタを付ける責任があるかの違いだ」と言われたことを思い出す。医師には、絶対的な権力があるかわりに、その人の生き死にという最終責任も引き受ける。一方、支援者はそれほどの責任も引き受けていない、というのだ。これは、もう少し考えてみなければならない課題だが、確かに一理はある。

つまり、そこまで責任を背負うことは出来ないなら、クライアントの地位の低さを助長せず、クライアントに責任を、持続と実践が可能な形で背負ってもらうのも、支援者の仕事の一つなのである。そう考えると、安易な支援や安心感が、アダになるかもしれない。特に表出されたニーズと、実際の求めるニーズの乖離がある場合、支援者が早計で安易な支援をすることによって、余計に問題が混乱する事にもなりかねない。

支援者の役割を果たしたがらないこと
「クライアントが感じたり経験したりしていることをもっと奥深くまで探れば、支援者は自分の見解を変える羽目になる可能性を意識的にせよ無意識にせよ、わかっているからだということだ。そうなれば、権力のある地位や、ワン・アップの状態を諦めねばならなくなる。」(シャイン、前掲書、p83)

これも、身につまされるが、よくわかる。相手から「それは違う」とか、「そんなことはない」と言われた時、こちらの助言や見立てが間違っている可能性が高い。そんなとき、本当の支援者ならば、自分の役割を果たすために、自分の助言や見立て自体の誤りの可能性について考察を巡らせるはずだが、それは自分の「権力のある地位や、ワン・アップの状態を諦めねばならなくなる」。だからこそ、自分の面目保持を前面に出して、その論点をごまかしたり、深入りしないようにするのである。それは、誠に人間臭い振る舞いではあるが、支援者としては、失格なのである。

「クライアントの話に心から耳を傾けることによって、支援者は相手に地位と重要性を与える。そして、クライアントによる状況の分析が価値あるものだというメッセージを伝えるのだ。支援というものが、影響を与える一つの形だと考えるなら、自分が影響されてもかまわない場合しか、他人に影響を与えられないという原則はきわめて適切だろう。」(シャイン、前掲書、p83

そう、他人が変わってほしい、と思うなら、まずは自分が変わるべきだ、という、昔から言い古されている(がなかなか実践しにくい)至言に辿り着く。

ステレオタイプ化、事前の期待、逆転移、投影
「支援者は過去の経験に基づいたすべてのものに左右されやすい」(シャイン、前掲書、p83

相手が目の前に居ても、その話に「心から耳を傾ける」前に、以前の経験という名の引き出しを探って、それに当てはめたり、事前に期待したり、投影したりする。そういう「思考の節約」が、本来支援者に必要な相手との対話の道を閉ざし、独善的で閉鎖的な独善に陥るのである。どんなときでも謙虚でいる、ということは、ステレオタイプ化を避けるためには必要不可欠なのだが、年齢や地位が上昇するほど、それを面倒くさがる癖も出てくる。その安易な誘惑にだまされることは、権力という名の毒薬を囓り、内面から腐り始める事でもあるのだ。

と、書き続けて、どの罠にも、随分思い当たる節があることに、改めて塩を身体に塗り込むような、ヒリヒリさ加減を感じながら、振り返ってみた。

「本当にわかるということは、かわるということだ」

学生達によく知ったかぶりで言っている言葉の刃が、自分にぐさぐさ突き刺さっている。

倫理と道徳

 

今日は講義系科目の最終日。しかし、泥縄講義のため、授業直前まで準備に追われる。

土日はセンター試験関連業務で、連日12時間拘束。金曜日と月曜日は、県の障害福祉課、長寿社会課の会議や研修で一日埋まる。その間に、21日〆切の卒論生の原稿を何度も読み、コメントし、それ以外にも学内業務やら、講演レジュメの〆切やら、に追われて、久し振りに一杯一杯。そんな中、更に追いつめるように考え始めたのは、センター試験の真っ最中からだった。

センター試験一日目の夜、一日缶詰でグッタリ疲れて風呂読書していた時の文章が、妙に気になり始めたのだ。ずっと読み続けている池田晶子氏の「最後の3冊」のうちの一冊が、その導線となった。

「外なる規範としての道徳は、常に、『べき』とか『せよ』とか『ねばならぬ』等の規則や戒律の形をとる。したがって、それを行為する者には必ず強制や命令として感じられる。これに対して、内なる規範としての倫理は、たんに『そうしたい』という自ずからの欲求である。たとえば、『悪いことはしてはいけないからしない』、これは道徳であり、『悪いことはしたくないからしない』、これが倫理である。『善いことはしなければいけないからする』、これが道徳であり、『善いことをしたいからする』、これが倫理である。」(池田晶子『私とは何か』講談社、p135

今まで読んだ中で、一番簡潔で分かりやすい「倫理」と「道徳」の説明である。これを確かめるべく辞書を引いていたら、類語大辞典(講談社)では次のような使い分けをしていた。

道徳:社会において、物事の善悪を考え、正しく行動するための基準
倫理:社会において、物事の善悪を考え、正しく行動するための守るべき道

内発的にわき上がる「したい」「守るべき道」と、外なる規範としての「ねばならぬ」「基準」。前者をwould like to、後者をshould, mustの違い、と切り分けると、スッと腑に落ちてきた。そこから、センター試験二日目に、ふと頭によぎったのは、「これって、ボランティア、とかノーマライゼーションの説明にも使えるかも知れない」ということだ。

例えばボランティアで、なぜ「偽善」と言われるのか。もともとボランティアは「○○したい」という自発性ではじまる。つまり、「倫理」から出発する。倫理とは、善く生きることを指すのだから、その限りにおいては、ボランティアは「善」であり、「偽善」とはならない。だが、ボランティアがなぜ、「偽善」とつながっているのか。そこには、「倫理」と「道徳」のすり替えがあるのではないか。こう思って、昔読んでいた本をパラパラめくっていたら、ちょうどピッタリの項目にぶつかった。少し長くなるが、引用する。

「ボランティア活動というのは、『何かをしたい』という意志だけがありさえすれば、どんな内容のものでも『ボランティア』と呼ばれうるのだろうか。実はそうではない。生産や営利ではないといっても、例えば暴走族グループに参加するのを『ボランティア』と呼ぶ人はいない。それは極端な例だが、宗教団体への加入はもちろん、何かの政治的・思想的な主張をもつ団体に参加することも『ボランティア』とは呼ばれないだろうし、女性とか少数派の権利擁護の運動などに関与することも『ボランティア』ではない。また、植林などの緑化運動には『ボランティア』で参加しても、『原発』や『ゴミ焼却場』の建設反対運動への参加については『ボランティア』と呼ばないのが通例だ。さらに、『国際協力』といても、異国の革命運動に身を投じたり、内戦の一方の当事者に加担することは、歴史的には『義勇軍』とか『パルティザン』という意味でボランティアのはずだが、今日ではこれも『ボランティア』とは呼びにくくなっている。要するに、確定的な基準は示しにくいとしても、ボランティア活動の内容には選別が働いており、その選別に際しては『公共性』と称されるような支配的言説が求める基準が強く関与しているとみなければならないのである。」(中野敏男『大塚久雄と丸山真男-動員、主体、戦争責任』青土社、p279-280

確かに、暴走族だって、そこでしか生き甲斐を見いだせない若者にとっては、一種のセルフヘルプグループと言えなくもない。あるいは、「ゴミ焼却場建設反対」も、エコロジーのボランティア運動には、変わりない。しかし、中野氏が指摘するように、「確定的な基準は示しにくいとしても、ボランティア活動の内容には選別が働いて」いる、というのは、頷ける。彼の本の前半で、戦後社会で市民派と言われた論壇の大家、大塚久雄が、戦争中にいかに自発的に戦争協力を促すような文章を書いていたか、を鮮やかに分析している。その後に、現代のボランティア活動称揚に疑問符を唱え、その内容選別に「支配的言説が求める基準が強く関与している」という指摘は、戦時中の「動員」的思想と一続きのものとして、私たちの胸に突き刺さる。つまり、「自発性」に基づく活動であっても、その活動内容が、既に「支配的言説が求める基準」の内部である場合、そこには「道徳」的バイアスが既にかかっている、のではないか、と。

本来、個々人のわき上がる倫理的な「ほっとかれへん」という気持ちで始めたボランティアも、その内容選定で、道徳的(=外部規範的)な規制があり、その規制内部での(=支配的言説が求める基準に合致した範囲での)活動内容を、「自発的」に選び取るのである。それって、「倫理」の「道徳」化、というか、「倫理」と「道徳」のすり替えではないか、といえまいか。個々人の「善」がベースであるはずのボランティアが、いつの間にか支配者にとっての「善」の暗黙的了解(受け入れ)につながらないか、と、考える事も出来るのである。

と、これまでは3限の「ボランティア・NPO論」で今日話した内容の一部なのだが、この話は、今日の1限であった「地域福祉論」のテーマで扱った、「ノーマライゼーションの原理」の誤解や、その後の流布の仕方にも、共通するような気がする。

以前も書いたが、もともと北欧のノーマライゼーションの原理は、入所施設の非人間的処遇にショックを受けたデンマーク人の社会庁(=日本の厚生労働省)の役人、バンク=ミケルセンや、知的障害者組織のオンブズマンをしていたスウェーデン人、ニイリエが、「こんな現状は放っておけない」「許されない」と思ったところに、端を発している。(最近の河東田さんの研究では、1946年から既にそういう言い方もされていたそうだが、ここでは敢えて二人の思想の起源を考えたい。)

その際、「許されない」「何とかしたい」と思った時に、「知的にハンディのある人だって、他の人と同じように、一日のノーマルなリズムがないとオカシイじゃないか」と思って作ったのが、バンク=ミケルセンの3つの側面であったり、ニイリエの8つの原理である。つまり、この原理の根本には、「障害のある人の劣悪処遇を何とかしたい」という二人の「内なる規範としての倫理」が存在したのだ。

この北欧ノーマライゼーションの「二人の父」と全世界的には彼らよりも遙かに知られているアメリカ人研究者、ボルフェンスベルガーのノーマライゼーションの説明が、どう違うのか、を、整理する時にも、「倫理」と「道徳」が使えるような気がするのだ。とりあえず、ヴォルフェンスベルガーの代表的な記述を引用してみる。

「対人処遇の手段は、できるだけその独自の文化を代表するようなものであるべきであり、逸脱している人(その可能性のある人)は、年齢や性というような同一の特徴をもつ人たちの文化に合致した(つまり、通常となっている)行動や外観を示しうるようにされるべきだ、ということである。『通常となっている』という用語は、道徳的というより統計的な意味であり、標準的とか慣例的と同じと考えられよう。『可能な限り通常となっている』という語句が示唆しているのは、何が、どれだけ『可能な限り』ということになるかは、経験をしていくプロセスで決定されるということである。」(ヴォルフェンスヴェルガー「対人処遇における逸脱の概念」『ノーマリゼーション』学苑社、所収)

彼のノーマライゼーション理解の最大のポイントは、障害者を「逸脱している人」と見なした上で、「文化に合致した(つまり、通常となっている)行動や外観を示しうるようにされるべきだ」と整理している。その際、「道徳的というより統計的な意味」とはいうものの、「標準的とか慣例的」という表現で、障害のある人に「○○すべきだ」という「外なる規範としての」『べき』論につながっている。これが、いつしかヴォルフェンスベルガーの論理の「規則化・戒律化」につながり、施設のあるべき姿だけでなく、障害者もネクタイをして、といったルール化につながる。そして、障害者自身、つまり「それを行為する者には必ず強制や命令として感じられ」、80年代以後、障害学からの大きな批判を受けていくのである。

だが、これまで見てきたように、ノーマライゼーションの原理で批判されてきたのは、この「道徳」的押しつけ、の部分である。その一方、入所施設が未だに多い日本では、北欧の「二人の父」が当時から闘ってきた、「ほっとかれへん」というボランタリー・アクションの根元となった倫理は、決して過去物語ではないのではないか。「倫理」と「道徳」のすげ替えやその意識的・無意識的誤用は問題視されなければならないが、それを指してノーマライゼーションの「倫理」そのものを捨て去るのは、まだ時期尚早ではないか。そもそも、この「ほっとかれへん」の「倫理」は、地域移行や退院促進が政策的課題として上がりながら、上手く進んでいない今だからこそ、強く意識されるべきではないか。

そんなことを、授業中にとても伝えられなかったのだけれど、しゃべりながら、整理していた。そして、それと同時に、昨年度R大学で語り切れなかったこと、また、下のエッセイに書ききれなかった事も、ちょっとだけこのブログで整理出来たような気もする。以下、ご参考までに、長ーいエントリーになりますが、1年半前の原文を貼り付けておきます。

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ノーマライゼーションを「伝える」、ということ
竹端寛
福祉労働119号 p155-161

<学ぶ立場から伝える立場へ>

「なんだか生理的に受け付けない!」

ある大学院生が、そう漏らした。そのつぶやきを聞いて、以前の自分を思い出していた。

私は以前、当誌103号で「ノーマライゼーションの具現化としての施設解体-スウェーデン知的障害者福祉改革のプロセスと施設解体後の現状」と題して、2003年冬から2004年春にかけて行った現地調査の概略を発表させて頂いた。この調査では、2006年に亡くなられた「ノーマライゼーションの育ての父」、ベンクト・ニイリエ氏に直接お話しを伺うチャンスもあり、その時の薫陶を短い原稿の中に入れようと、試行錯誤した思い出がある。

あれから5年後の今年、海外に研究調査にいかれた先生の代役として「ノーマライゼーション」に関する講義と演習を、学部と大学院でそれぞれ1コマずつ引き受けた。5年前はスウェーデンのノーマライゼーション具現化のプロセスや実践への反映を調べ、受容するだけで必死だった私が、今度はご縁あってノーマライゼーションを学生に伝える、という機会に恵まれたのだ。そこで、大学院の演習では、以前からやってみたかった(けど一人では果たすエネルギーが沸かなかった)北欧・北米・日本でのノーマライゼーションに関する文献をかき集め、時系列的に読み進めてみることにした。

実はこれには伏線がある。以前とある教科書に「ノーマライゼーション」の項目を書かせて頂いた(注1)。その執筆過程で、ある程度ノーマライゼーションの言説を集め、読み進めていたのだが、その中で、この概念ほど論者や時代によって色んな意味合いが込められているものはない、と感じ始めていた。「脱施設」推進の文脈でも、入所施設の機能充実の文脈でも、同じようにこの言葉が使われている。「この同床異夢状態がどうして起こっているのだろう?」 このときに感じた疑問を解決したくて、ある種の「謎解き」をし始めたのが、先述の大学院の演習である。そして、冒頭のつぶやきは、北欧のノーマライゼーション概念はもともと施設福祉中心的なものであった、と批判していたある論文を読んでのディスカッションの際に出てきた一言である。

実はこのつぶやき、私自身も当該論文を初めて読んだ際に、同じ事を感じていた。大学院生の頃、「ノーマライゼーション=善」という単純な理解をしていた私自身にとって、その論理の運び方に陥穽を見いだせなかったものの、どことなく「なんか違うんじゃないかなぁ」と感じていた。だが、何がどう「違う」のか、はっきりわからなかった。だから、この学生同様、「生理的」レベルの嫌悪感で留まっていた。

だが、今年のゼミで、ある「補助線」を引きながら考えることで、この「生理的」レベルでの処理ではない、新たな視点が見えてきた。その「補助線」こそ、社会学の古典的名著でもあるE・ゴッフマンの「アサイラム」である。

<全制的施設、という補助線>
1950
年代のアメリカの精神病院でのフィールドワークを行ったゴッフマンは、精神病院における患者と職員の関係、および精神病院の構造そのものが、刑務所や強制収容所、僧院などといった他の施設と類似していると気づいた。そして、「アサイラム」の中で、それらの施設を総称して全制的施設(total institution)と名付け、その特徴として、次の4つがある、と整理した。

・生活の全局面が同一場所で同一権威に従って送られる。
・構成員の日常活動の各局面が同じ扱いを受け、同じ事を一緒にするように要求されている多くの他人の面前で進行する。
・毎日の活動の全局面が整然と計画され、一つの活動はあらかじめ決められた時間に次の活動に移る
・様々の強制される活動は、当該施設の公式目的を果たすように意図的に設計された単一の首尾一貫したプランにまとめ上げられている。(注2)

このような整理をした後、被収容者がどのように全制的施設に順応していく中で無力化(disabled)されていくか、を膨大な先行研究をちりばめながら論証していく。その切り口の鮮やかさと論証の確かさに、堅い翻訳語であるにもかかわらず、読み手の私たちも思わず引き込まれてしまう、そんな一冊である。

今回真面目にこの本を院ゼミで読むことにしたのは、ニイリエやバンクミケルセンといった「ノーマライゼーションの父」たちが生きた時代に、施設はどのようなものであったか、を学生さんたちと一緒に再確認しておきたかったからだ。読み始めて多くの発見があったが、ノーマライゼーション理念との関連で一番の発見は、次のフレーズであった。
「個人の自己が無力化される過程は一般に、どの全制的施設においてもかなり標準化している。この種の過程を分析することによって、われわれは、通常の営造物がその構成員に常人としての自己を維持させることを心掛けるとすれば、保証されなくてはならない仕組みはどんなものか、を知ることができるだろう。」(注3)

全制的施設において無力化される「過程」を丹念に分析することは、「常人としての自己を維持させる」、つまりは無力化されないために保証されるべき条件や仕組みとは何か、を考えるために必要だ。この整理に出会った際、改めてバンクミケルセンやニイリエが、なぜノーマライゼーションという考えを生み出したか、を理解するための補助線が得られたような気がした。それは、彼ら自身が「全制的施設」を生身で経験しているからである。

<二人の体験>
周知の通り、バンクミケルセンはナチスのレジスタンス運動の闘士であり、またニイリエはハンガリー動乱後の難民キャンプで、スウェーデン赤十字社の事務官をした経歴を持つ。この二人の経験が、ノーマライゼーションの理念とどのように結びついているか、は二人の自伝的記述に詳しい。

「もし私が誇りにすることは何かと聞かれれば、それはナチスへの抵抗運動で強制収容所に入れられたこと、そこで悲惨な人間抑圧の実態を体験したというのが答えです。(略)精神薄弱の部門に配属になってから、彼らが生活している施設に行く機会がありました。その生活は、ほんとうに悲惨で、ナチスの強制収容所とすこしも変わりないものです。私は、彼らの生活条件をなんとかして、少しでも向上させたい、改革しなければならないと感じました。」(バンクミケルセン:注4)

「私は、突然オーストリア・ウィーンの南にあるトライスキルヘンのキャンプのスウェーデン赤十字社チームの社会福祉担当官に任命されたのである。そこはハンガリー難民のために設置されたばかりの古い軍事施設で、粗末な物資で運営され、収容能力を超えた3500人もの人々が利用していた。(略)その後赤十字社は、脳性マヒに対するフォルクベルナドッテ募金運動の組織の仕事を私に託した。(略)このようにして私は、大きな集団で「大量管理型」の大施設の中で生きることに伴う屈辱、不安、将来に対する恐れという全く異質でノーマルでない負担を強いられる経験を身近に感じるとともに、社会の中で正当な発達の機会を設けていくための努力、闘い、そして深い人間の意欲に共感するようになった。」(ニイリエ:注5)

このような、「全制的施設」のリアリティを持っていた二人にとって、知的障害のある人が収容所的な施設に入れられていたのを目にした際、「あれとこれは同じだ」と類似点を見出したのは、よく理解できる。そして、ゴッフマンが、「個人の自己が無力化される過程」を分析的に記述したのに対して、それをなくすにはどうしたらよいか、を考えたのは、バンクミケルセンやニイリエだけではなかった。そこで「もう一つの補助線」として取り上げるのが、ラッセル・バートンの『施設神経症-病院が精神病をつくる』である。

<もう一つの補助線>
バートンは、ゴッフマンと同じ時代のイギリスの精神病院を分析していた。その中で、精神病という個人因子よりも、むしろ精神病院という環境因子が精神病を作り上げていく、という部分が多いことに気づいた。そして、彼はその問題点を、次の8つの項目としてまとめた。(注6)

1,外界との接触の喪失 2,何もしないでブラブラさせられることや責任感の喪失 3,暴力、おどし、からかい 4,専門職員のえらそうな態度 5,個人的な友人、持ち物、個人的な出来事の喪失 6,薬づけ 7,病棟の雰囲気 8,病院を出てからの見込みのなさ

このバートンの議論の興味深いところは、8つの項目の現状分析で終わらなかったところである。ゴッフマンのいう「常人としての自己を維持させる」ために保証されるべきポイントを、先の8つの項目を反転させる形で、次のように整理したのだ。

外部世界と患者との接触を再構成する。週7日、1日14時間にわたって、有益な仕事、レクリエーション、社会的催しというような日常的活動を導入する。暴力性、威嚇的態度、いじめを根絶する。親愛、受容、援助の態度を持つように職員の態度を変える。患者を元気づけ、友人や何か夢中になれるものをもてるようにし、また個人的な催しを楽しめるようにする。可能な範囲で薬を減らす。病棟に社交的、家族的、許容的雰囲気を取り入れる。病院外に住居、仕事、友人関係、その他より満足できる生活のあり方といった可能性があることを、患者に気付かせる。

このバートンの整理は、ニイリエやバンクミケルセンの整理と多くの共通点がある。

<3条件と8つの原理>
何が似ているのか、を整理するために、改めて北欧の二人の父の考えを振り返ってみたい。まず、バンクミケルセンが示したのは、次のような事であった。

「ノーマリゼーションを詳しくのべる場合、一般の生活条件ともっとも広い意味での処遇を区別しなければならない。生活条件は、住居の条件、仕事の条件、余暇の三側面から検討しなければならない。さらに子どもと大人を区別しなければならない。」(注4)

 次に、ベンクト・ニイリエが1969年に発表した8つの原理を見てみよう。(注5)

1.ノーマライゼーションの原理は、知的障害者に一日のノーマルなリズムを提供することを意味している。
2.
ノーマライゼーションの原理はまた、ノーマルな生活上の日課を提供することでもある。
3.
ノーマライゼーションの原理はまた、家族とともに過ごす休日や家族単位のお祝いや行事等を含む、一年のノーマルなリズムを提供することを意味する。
4.
ノーマライゼーションの原理はまた、ライフサイクルを通じて、ノーマルな発達的経験をする機会を持つことを意味している。
5.
ノーマライゼーションの原理はまた、知的障害者本人の選択や願い、要求が可能な限り十分に配慮され、尊重されなければならない、ということを意味する。
6.
ノーマライゼーションの原理はまた、男女が共に住む世界に暮らすことを意味する。
7.
知的障害者ができるだけノーマルに近い生活を得られるための必要条件とは、ノーマルな経済水準が与えられることである。
8.
ノーマライゼーションの原理で特に重要なのは、病院、学校、グループホーム、福祉ホーム、ケア付きホームといった場所の物理的設備基準が、一般の市民の同種の施設に適用されるのと同等であるべきだという点である。

こうして二人の考えを振り返ってみると、その類似点が明確になってくる。

「週7日、1日14時間にわたって、有益な仕事、レクリエーション、社会的催しというような日常的活動」というのは、ニイリエのいう一日のノーマルなリズムやノーマルな日課を意味している。「院外に住居、仕事、友人関係、その他より満足できる生活のあり方といった可能性があること」というのは、バンクミケルセンの言う、住居と仕事、余暇の三条件の整理と合致している。

ニイリエやバンクミケルセンは、ゴッフマンやバートンの指摘した全制的施設の構造的問題を把握した上で、当時の知的障害者入所施設が置かれた現状に対するアンチテーゼとしてノーマライゼーションの理念を形成していったことが、よくわかる。つまり、北欧のノーマライゼーション概念はもともと施設福祉中心的だった訳ではなく、当初から全制的施設に対する構造的批判を内包していた、ということができる。

<地と図-忘れてはならない視点>
だから、先に触れた論文は間違いだった、といった稚拙な整理をしたいのではない。この論文からも、私たち後人が引き継ぐことの出来る恩恵はたくさんある。特に、今回再整理する中で私たちがこの論文から学んだのは、「図に対する地」の理解、であった。

確かにニイリエの1969年の原理は、施設環境を全否定するものではなく、施設環境を改善するための整理となっている。バンクミケルセンの3つの条件にしても然り、である。この点に関しては、「北欧のノーマライゼーションの初期概念は施設中心的なものである」と整理することは、間違いであるとはいえない。

だが、それは明らかに二人の言説(=つまりは「図」)のみに焦点化したものである。これまでに整理してきたように、ゴッフマンやバートンの「補助線」を用いた際に見えてくるのは、北欧の二人は明確に、全制的施設の構造的問題を、批判の対象にしているのだ。そして、「常人としての自己を維持させる」、つまりは無力化されないための条件とは何かを明確な形にするために、ノーマライゼーションの理念を形成していくのである。そして、その条件を突き詰めていく中で、施設から地域へ、という北欧の実践が自ずから生み出されてくる。二人の理念創設時の「地」の理解からは、このような整理が導き出される。

私たちは、単なる言葉(=図)だけではなく、その言葉が出てきた歴史的・社会的文脈(=地)を見なければならない。当然の事ながら、「ノーマライゼーション=善」という浅薄な理解も、自分の思いこみの言葉への投影、という点では図のみの理解そのものである。施設か地域か、善か悪か、という言説(=図)のみではなく、その理念や考えがどのような文脈(=地)から生まれ、変容していくのか、をじっくり眺めない二項対立的言説は、本当の意味でのラディカル(=根元的)とは言えない。

ノーマライゼーションは流行思想でもなければ、もう日本では必要のない(終わった)理念、でもない。これはノーマライゼーション理念を伝える立場になって、一層ひしひしと感じはじめている。現状を本当に変えたい、と思うのであれば、図だけでなく地までも見つめ、学び、考え、常識的理解を揺さぶり続けなければならない。冒頭の学生へそう語りながら、実はそれは自分自身への叱咤激励でもあった。

たけばたひろし山梨学院大学法学部教員。

注1竹端寛 2007 「第2章 障害者福祉の理念」 北野・黒田・竹端編『障害者福祉論-シリーズ基礎からの社会福祉4』、ミネルヴァ書房、p46-51
注2…E・ゴッフマン(19611984)『アサイラム-施設被収容者の日常世界』誠信書房、
p4
注3同上、
p16
注4バンクミケルセン「ノーマリゼーションの原理」(中園康夫訳、四国学院大学論集42 p143-160

注5ベンクト・ニイリエ『ノーマライゼーションの原理』、現代書館、p6-7
注6ラッセル・バートン(19761985)『施設精神病-病院が精神病をつくる-』晃洋書房

存在と不在

 

昨日は8時の汽車で東京にでかけ、25時前に帰宅するまで、金沢文庫茗荷谷新宿と場所を三回変えて、対話し続けていた。

まずは山梨で一緒に仕事をさせて頂いているイマイさんのお見舞い。以前にお見舞いした時に比べてだいぶ顔の表情もよくなられ、久しぶりに話が弾む。山梨に戻ってからの「悪だくみ」の話に花が咲いているうちに、気が付けば奥様がお越しになっていた。夫婦水入らずの邪魔をしては、というだけでなく、午後からの予定に合わせて移動すべき時間でもあったので、「では続きは山梨で」を合い言葉に退散。

その後、京急東海道線地下鉄丸の内線を乗り継いで、1時半から茗荷谷のイタリア料理店で遅めのランチを食べながら、研究会メンバーと議論を続ける。メンバーのお一人が先月生まれたての赤ん坊を連れて登場したので、昨日はずっとその子を見ていた。お人形のようにかわいい。カンガルーのように子どもを前に背負われ、「揺らしていたら、眠り続けているから」とf分の1揺らぎのようなリズムで揺すり続けておられる。僕もマネしてゆらゆら揺れながら発表者の話を聞いていると、実に気持ちよい。そういえば、そのお子様も実に気持ちよさそうに寝ていた。赤ん坊は「寝るのが仕事」とは、よく言ったものである。

研究会が終わった後、生まれて初めて、夕刻6時の新宿アルタ前、という強烈な待ち合わせ場所に馳せ参じる。東寺の側にある高校の同級生達のうち「東京組」の集まりがあったのだ。広義の意味での「東京組」に入れてもらい、8年ぶり、10年ぶり、の仲間と居酒屋に繰り出す。田舎者でもわかる待ち合わせ場所、という幹事ミワ君の配慮は、僕のような存在のためにあるのだろう。おかげで場所は迷わなかったが、いざ現場に着いたら人が多すぎて、現場の中で迷子になってしまった。

さて、男子校ゆえに35歳のオッサンばかりの飲み会では、隣に座ったこのブログを読んでいるというヨシダくんから、「おまえはブログで良い子ぶりっこしすぎだ」と突っ込まれる。そりゃあ、「良い子」ではない邪悪な部分がタケバタにない、と言えば、嘘になるし、確かにこのブログにその部分は決して出さない。でも、それは「良い子ぶりっこ」ではなく、そんなおぞましいものを公衆の面前に出す事に価値を置いていないから、に過ぎない。日々の文章の中で、自慢や俗な側面は十分に出ているだろうが、そういえばこのブログの個人的な倫理的指針として、「一定程度の張りとツヤのある文章」を目指しているんだよなぁ、と、指摘されて改めて気づく。ブログという本来的な性質上、自己陶酔的な部分は決してゼロではないが、なるべくナルシスティックな、閉塞的なものではなく、どこかに通じるような、ある程度開かれた文章を書くよう、気にかけている事を改めて再認識した次第。でも、それが読者に伝わっているかはアヤシイのだが。

そして今日は本当は長野に日帰り出張、のはずだが、飲んでいる時にMさんから「明日は都合により順延です」というお知らせが入る。来週末が例のセンター試験で全く休みがないので、正直に言うと、今日のお休みは実にありがたい。土曜日は大学で同じ分野の研究を外国でされているYさんと議論をしていたので、休みではなかった。最近、休みのない日々が続くと、一気にヘトヘトになるので、調査は楽しみだったが、休息も大切。4日の仕事始め以後、割と精力的に動いていたので、身体もへばっていたようだ。

で、最近の読書、というと、精神的にもへたばっているからか、なぜか臨床系のものが続く。先週読み終えた読んだ河合隼雄の『心理療法序説』(岩波書店)は大学に持って行ってしまったので、今日ご紹介するのは、別の一冊。

「不在によって存在のあり方があぶりだされる、ということがある。本来そこにあるはずのものが、そこに見あたらないことほど、雄弁に存在のありようを示す方法はない。けれども、そこに何かがあるはずだということに気づかない人たちの中では、その存在はまったくの無に帰されてしまう。そこにはあらたな暴力が発生する。この暴力は日常生活の中にあふれすぎるほどあふれている。その暴力が蔓延することを、今か今かと待っている人たちもいる。存在を不在に追いやり、自分たちの罪をも存在から不在に追いやりたい人たち。アーレントの言う『忘却の穴』は確実にある。」(宮地尚子『トラウマの医療人類学』みすず書房、p122)

こういう文章に接すると、改めて臨床家の持つ視点の鋭さ、に心を揺らされる。「存在を不在に追いや」ろうとする人たちの「暴力」の被害にあって、トラウマやPTSDに陥った人々のケアに携わる精神科医のエッセイゆえに、「忘却の穴」への批判の手は揺るぎがない。僕自身が、ちゃんと想像力を行使出来ているか? 「不在」という形での「存在のありよう」に、ちゃんと気づけているか? 自らの問題をも、「不在」とごまかして、葬り去ろうとしていないか? 様々な投げかけを、この文章からもらう。

それと共に、臨床家と自らの違いについて、改めて考えさせられる。以前、べてるの家の向谷地さんと話した時、「医者や臨床心理士は、大学の教員になっても臨床を持ち続けているのに、どうしてソーシャルワーカーは、臨床を持たないのだろうか?」と言われた。向谷地さんご自身は、大学の教員もされながら、ワーカーもずっと続けておられるし、ここのところ沢山の著作も書いておられる。この宮地さんも、大学の教員と精神科医を両立しておられる。一方で、私自身は、臨床実践家の経験もないし、現時点でも臨床は持っていない。

このことについて、臨床を持つことによる視点の偏りからの自由、という結論を、大学院生の時には出していたように想う。だが、実際にはどうなのだろう。臨床家(当事者、家族、一般市民)とは違う、独特のレンズを持てているか。他の専門性(当事者、ワーカー、医師)とは違う、オリジナルでユニークな視点を持っているのか。不在は存在を雄弁に語る、というが、僕の場合は、持ったことのない不在、ではないか。果たして存在したことがあるのか。今後、何らかのものが存在するのか。その時、どのような存在が、臨床家でも当事者でもない、研究者タケバタとしての「存在」として落ち着くのか。それは、表層的で橋にも棒にも引っかからない「良い子ぶりっこ」とはどう違う内容になりうるのか? 

そういえば、大学の賀詞交歓の場で、お世話になっているM先生からも、僕自身の「寄る辺なさ」について指摘された。今年はそういう意味での、存在根拠、というか、「寄る辺」を作るため、自立のための藻掻き、が更に必要とされているような気もする。

「革命」ではなく、「改革」

 

年賀状に初めてブログの事を記したら、「見てますよ~」という返信を何人からか頂く。ありがたや。

このブログは足かけ5年ほど書いているのだが、年賀状で公表したのは今年が初めて。内容が稚拙ではあるが、ある程度書きためてきたので、お知らせしてみた。すると、旧友のチエちゃんから、「標記が間違ってるで」というご指摘を頂く。前回のブログの最後、「松の内」、と書くべきところを、あろうことか「幕の内」。弁当じゃないんだから、そそっかしい。チエちゃんといえば、以前ご紹介したが、タケバタの成長を温かく見守ってくださる麗しき近江美人。持つべきものは友人、である。

で、そんなチエちゃんはスウェーデン語も堪能だが、この正月に読んでいたのは、こちらもスウェーデンの政策に造詣の深い、北大の宮本太郎氏の新書。スウェーデンモデルに学びながら、日本のあるべき生活保障の将来像を分かりやすい文体で描き出して下さり、大変頭の整理にもつながる。ただ、今回しみじみと「そうだよなぁ」と思ってドッグイヤーしたのは、次の箇所である。

「保守主義の思想が強調してきたように、人間が社会を上から自在に造形できると考えるのは間違いである。後にも触れるが、北欧のように成功した福祉国家が試みたのは、そのようなことではない。人々の現実の利害関係や感情に沿って、漸進的な改良を積み重ねてきたからこそ、北欧は安定した社会を築くことができた。」(宮本太郎『生活保障-排除しない社会へ』岩波新書、p66)

「人間が社会を上から自在に造形できると考える」イズムのひとつとして、社会主義と呼ばれるものが力を持っていた時代がある。この社会主義全盛時代にあって、その計画主義を鋭く批判したのが、経済学者のハイエクである。彼の思想の全体像をちゃんと理解できている訳ではないが、ハイエク自身が、この計画主義(設計主義、ともいう)を批判する時の、どんな計画を批判したのか、については、氏の本にこんな風に書かれている。

「ここで批判している計画とは、競争に反した計画、すなわち、競争に取って替わろうとする計画だけだ、ということである。」(ハイエク『隷属への道』春秋社p49

スウェーデンに半年滞在した実感からしても、スウェーデンは「計画経済」的な国ではない。自由競争もちゃんとしているし、民間企業の争いも激しい。その意味で、スウェーデンの福祉国家が追求しているのは、「競争に反した計画」ではない。そうではなくて、「漸進的な改良を積み重ねてきたからこそ、北欧は安定した社会を築くことができた」のである。確かに社会工学的な実験国家の側面もあるけれど、全てを管理・計画しようとするのではなく、うまくいかないことについて、蓋もせず、「では、どうしたらよいか?」を真面目に考え続けている国、といえるのだと思う。このことを踏まえ、先述の宮本太郎氏はこんな風に総括している。

「着実な改革は、私たちが生きる社会の歴史と現状から出発するものであり、またすべからく漸進的なものである。そして、戦後の日本社会が何から何までダメな社会であったというのは間違いである。団塊世代の論者に多い気もするが、この国の過去と現在を徹底的に否定的に描き出し、憤りをエネルギーに転化しようとする議論もある。だが、少なくとも筆者が接している若者の多くは、日本がダメであると言えば『やっぱり』と肩を落としてしまう。また、徹底的な否定の上に現実的な改革の展望を切り開くことも難しいであろう。この国でこれまで人々の生活を支えてきた仕組みを発見し、問題点を是正しながら、発展させていくという発想が必要である。」(宮本太郎、前掲書、p222)

至極真っ当なことしか書かれていない。大いなる「当たり前」である。だが、その「当たり前」を敢えて主張しなければならないほど、この常識が非常識になっているのが今の日本の実情なのかもしれない。

以前から書き続けているが、「ダメだ、ダメだ」という絶対的な否定は、「ダメだと指摘しているこの私(の眼)は正しい」という絶対肯定に基づいている場合が少なくない。そういう絶対肯定が、実のところ、「私の言うことを聞けば全てがうまくいく」という設計主義的発想につながっていくのである。ハイエクも、ナチスやソビエトに代表されるような全体主義を批判する視点から、設計主義への批判を展開していった。「徹底的な否定の上に現実的な改革の展望を切り開くことも難しい」のは、そのような無謬性に支えられた絶対肯定の論理には、現実を漸進的に変えていく力も根拠も乏しいからである。昔、大学の教養の授業で、フランス革命の例を出しながら、「革命とは改革プラス暴力だ」と聞きかじった記憶がある。この例を用いるなら、暴力という手段を用いてでも何かを変えようとという絶対肯定がなければ、「革命」は成就しない。だが、私たちの社会で求められているのは、「革命」ではなく、「改革」なのである。

「この国の過去と現在を徹底的に否定的に描き出し、憤りをエネルギーに転化しようとする議論」に対して、随分以前から、ピリリと小粒の山椒のような皮肉を突きつけている歌詞を思い出した。

「誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書き立てて
評論家やカウンセラーは米を買う
迷える子羊は彼らほど賢い者はいないと思う
あとをついてさえ行けば なんとかなると思う
見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う」
(中島みゆき「時刻表」アルバム『寒水魚』より)

「評論家」は「誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書き立てて」「米を買う」のである。だが、彼らは「見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う」ずる賢い一面を持っている。だから、他の人と違って「言いあて」「書き立て」ることで、「米を買う」ことが出来るのである(米を買う、という表現も、時代がかった言い方ですネ)。だが一方で、「徹底的な否定」形として現実が「見えること」だけでは、何も変化は生じない。「言いあて」「書き立て」るだけではなく、「着実な改革」には「それができること」こそが、必要なのだ。

「人々の現実の利害関係や感情に沿って、漸進的な改良を積み重ね」ることの重みが、「安定した社会を築く」ための改革が声高に叫ばれている現在だからこそ、ひしひしと感じられている。山梨や三重で、制度の一部に関わらせてもらうからこそ、この「漸進的な改良」の重要性は、本当に骨身にしみて感じるのだ。出来うることは、求められているのは、「革命」ではなく、「改革」なのだ、と。

同い年、として

 

正月は、久闊を叙する時期ともなる。

高校時代の友人Mくんから電話。久しぶりにクラスのメンバーで飲み会をしよう、とのお誘い。よくつるんだ仲間のうち、気づけば半数近くが東京方面で働いている。出来れば1月中に新宿あたりで再会できるよう、約束する。16歳の頃から何やかやとワイワイ語らった仲間達とのつきあいも、気づけばもう20年。お好み焼き屋をしているTくんの家で、麻雀をしながら徹夜をしたり、語り明かした日々を、懐かしく思い出す。今ではすっかり肩書きや立場がくっついた付き合いが少なくないのだけれど、未然形のタケバタヒロシとして未だに付き合ってくれる仲間との再会は、今では貴重な時間となっている。

続いては、このブログの管理人、Nくんからのリプライ。どうも年始からブログの調子がよくなかったので、お尋ねメールをしておいたら、早速対応してくれた。彼はうさぎ年の同い年だが、僕が早生まれだったばっかりに、高校時代1年の先輩後輩の仲間。高校時代、お互い所属した写真部で、A新聞のカメラマンになったIくんと共に、ずっと語り続けた仲間だ。高校は男子校で、受験校でもあったのだが、若いエネルギーの注ぎどころを勉強におけなかった僕らは、必然的にアジール的な写真部室に吸い込まれる。当時、白黒写真を現像出来る暗室が部室だったので、鍵もかかるし、現像液を保存する名目で冷蔵庫もあった。ゆえに、その部室では、ジュースを保存したり、学校に持ち込むには不適切な書物!なども持ち込める、隠れ家的な場所だった。そこで、平日の夕方3時間ほどしゃべり込み、土日や休みの日であっても、なんだかんだ理由をつけて、集っていた。しかも、家に帰って電話で更に話すのだから、まさに異性との付き合いに近い濃厚さ。そうそう、中島みゆきにはまったのも、Nくんから提供された特製カセットテープからだった。(もう、このカセットテープというのも死語であるが

高校時代に中島みゆきだけでなく、谷村新司やら和田アキ子やら超超渋い曲を聴いていた彼も、今ではすっかりオシャレなウェブデザイナー。しかし、話を聞いてみると、ウェブの世界も不況の波が襲っているようで、景気のよろしくない話を伺う。あちらの世界は、10年前には空前のバブル景気があったそうだが、そのバブルも随分前にはじけた。それに不況も重なり、単価設定もどんどん下がっていき、外注していた企業も自社で出来る範囲内に縮小するようになった、とのこと。フリーランスにとって厳しい世の中。一人一人の「腕」がますます問われる時期になりつつあることは、大学教員であっても同じ。ゆえに、お互いもう一皮むけねば、という話にも、熱がこもる。

そうそう、「腕」といえば、年末に京都のジュンク堂で買った『中島岳志的アジア対談』(中島岳志著、毎日新聞社)を旅先で読み続ける。いつも著者の年齢に真っ先に目がいく悪い癖があるが、最近著作も多い気鋭の学者の生まれ年が、僕と同じ1975年。インドでもフィールドワーカーをしていた文化人類学者だが、保守の論壇人として日本の近現代史にも鋭く切り込んでいて、新聞の連載をまとめた柔らかい対談本ではあるが、刺激的な内容が続く。そうする意識がなくても、気づいたら、自分自身の研究スタンスと比較し、反省することしきり。学術賞の受賞作も含めた多くの単著を既に出している同時代人がいると、自ずと、「では、あなたは?」という問いが浮かぶ。怠けている、とは思わないけれど、今年はもう少し研究にも精を出して、アウトプットにも勤しまなければ。そんな同世代からのエールも勝手にもらった松の内であった。

表層に振り回されない、ということ

 

正月の朝。実家でぼんやり白みそのお雑煮が出来るのを待ちながら、テレビをぼんやり眺める。我が家は未だにブラウン管だが、実家はマンション全てが地デジに切り替え、大型の液晶テレビで、何だかよく見ている。以前も書いたが、小学生の頃は「テレビの虫」だったので、こりゃ我が家もテレビを切り替えると、テレビ依存症、になりそうだ。やばい、やばい。

さて、そんな久しぶりの「テレビの虫」をしていて、「犯罪学者 ニルス・クリスティ ~囚人にやさしい国からの報告~」というドキュメンタリーからは、様々なことを考えさせられる。

ニルスさんはノルウェーの犯罪学者。修士論文の際、ナチスドイツの収容所で働いたノルウェー人看守達へのインタビューをするなかで、ノルウェー人がユーゴスラビア人の虐殺に関わったと知り、ショックを受ける。さらに、その虐殺に荷担した看守としなかった看守の違いをインタビューの中から導き出し、その違いが、虐殺に関わらなかった側の看守にある、とする。その理由は、『個人的に囚人と会話を交わしたり、ベオグラードの家族の写真を見せられたりすると、殺せなくなった、というのです。』ということだ。ここからニルス氏は、犯罪者はモンスターではなく、ただの人間に過ぎない、だが、ただの人間も、直接の関わりを持たない相手に対しては容易に残虐になり得る、ということに気づく。犯罪者の人間的処遇や、犯罪者というカテゴリーに対する厳罰化という報復感情に関する氏の指摘も、この修士論文が原点にある、という。

このテレビを見た後、ブログに何かを書こうか、とメモを取りながら、一つ気になったのが、副題にある「囚人に優しい国」というフレーズだった。これは、犯罪への厳罰化の流れの対義語として用いたのであろうが、気になったのは、受刑者に人間的な住環境を提供したり、公共施設の清掃などの奉仕活動をさせることは、確かに「厳罰」とは違うが、それを指して「優しい」というのも、何か違うような気がする、ということだ。ペナルティーをきつく課す事が厳罰化、だとするときに、ニルス氏の議論やノルウェーの実践に見られる人間的な処遇を提供することは、「恩赦」的な「優しさ」ではなくて、「合理的」である、と感じたのである。これは、「問題行動」という補助線を引くと、考えやすい。

人が犯罪に手を染める、ということは、逸脱や問題行動の極大化、といえよう。この際、悪いことをしたから懲らしめる、という発想は、厳罰化にもつながる考え方であるが、それをニルス氏は復讐感情である、とする。元々犯罪に手を染める人は家庭環境や生育上の問題が少なくなく、ある意味、犯罪に手を染める段階で、相当に追い込まれている人々が少なくない。そういう追い込まれた人々に、更に刑務所において非人間的処遇をしたり、厳しい制裁的措置を下すことは、出所までに更に追い込まれ、再犯につながる、というのだ。このことを指して、問題行動への表面的対応、とも言えるのかもしれない。

それに対して、「優しい」といわれる処遇は、問題行動の背景にある本人の「生きづらさ」や「社会への不信」に対応する。教育も十分に受けていない受刑者に教育の機会を提供するだけでなく、次に再発しないための最善の策を提供しようと心がける。その中で、社会とつながり直すような支援機会となるような奉仕活動といったプログラムを課す。確かに強制的な刑である一方、本人が納得して一定の行動変容につながるような何か、を提供することに重きを置いているようだ。それは、「優しい」対応、というよりも、再犯を阻止するための最善の策、という意味で、合理的対応である、とは言えないだろうか。そして、これは、認知症ケアの領域ともある意味、強い相関を感じた。

認知症のお年寄りも、時として「問題行動」に及ぶ。徘徊や便こね、といった、行動化に際して、以前のしゃんとしていた時の本人を知る身内ほど、以前とのギャップに驚き悲しみ、その「問題」の側面を強く意識する。しかし、『縛らない看護』(吉岡充・田中とも江著、医学書院)や『わたしは誰になっていくの』(クリスティーン・ボーデン著、クリエイツかもがわ)などの本で明らかになったように、問題行動の背景には、本人なりのそうせざるをえない理由があるのだ。それなのに、「そうせざるを得ない理由」に着目し、それを緩和・軽減させるケアをするのではなく、単に行動化(表面化)した「問題」を罰する・なじるだけでは、何も問題が解決しないどころか、本人が余計に不安に思い、「問題」が余計に複雑になる、と、言われている。「問題」に対して、厳罰で臨むのではなく、その本人なりの理由に向き合い、それを緩和する方が、「問題」が結果的に減る、という合理的なケアが、認知症の世界でも当たり前のように提唱されるようになったのだ。

この「問題行動」に対する捉え方の転換は、薬物依存や強度行動障害や幻覚・妄想状態の人にだって、当てはまる。以前、薬物依存の経験者、倉田めばさんの講演を聴いていて、「薬物依存は自己表現だ」と言われた事を思い出す。生きづらさや苦しさを表現する術がなくて、薬物やアルコールなどに手を出す、というのだ。確かに、強度行動障害や自傷・他害といわれる行為に及ぶ人の中にも、自分の苦しみや困難性を表現する為に、そうせざるを得ない状態になる人もいる。それを指して、自傷・他害状態だから拘禁すればよい、としても、問題の表面は収まっても、以前も書いたが、問題の骨格には何も手つかずなので、何も変わらない。下手したら、問題は酷くなるばかりだ。であればこそ、問題の核心部に触れる部分の変容を、どう支援出来るか、が問われるのである。

あることが「問題」である、とする。その際、問題の表面に水をかけて、なかったことにする、見て見ぬふりをするのか。あるいは、その「問題」と直面して、その背景や原因までじっくり解きほぐしていこうとするか。「厳罰」「優しさ」といった、表面的な言葉に左右されず、その言葉の奥に隠された構造や論点を、今年もじっくり眺めていきたい。

今年もよろしくお願いいたします。