支援者が陥りやすい六つの罠

 

大学における教育、外部研修、あるいは福祉組織の変革のお手伝いや、県の障害者福祉のアドバイザーなど、自分自身が「支援者」になる事も、昨今少なくない。そして、もともと自分の研究する障害者福祉の領域は、まさに「支援」のあり方や政策に関する研究領域でもある。そういう、「支援」が「自分事」であるがゆえに、「支援者が陥りやすい六つの罠」には、ギクッとしながら、一つ一つの「罠」に深く頷きながら、読み進めていた。

支援者が陥りやすい六つの罠
時期尚早に知恵を与えること
防衛的な態度にさらに圧力をかけて対応すること
問題を受け入れ、(相手が)依存してくることに過剰反応する
支援と安心感を与える
支援者の役割を果たしたがらないこと
ステレオタイプ化、事前の期待、逆転移、投影
(エドガー・H・シャイン『人を助けるとはどういうことか』英治出版)

組織文化や組織開発の分野の大家による、「支援」の本質を突く一冊。特に、自分自身のリフレクションに、実に良い。この項目一つ一つに、身につまされたので、以下、備忘録的にそのエッセンスをパラフレーズしてみたいと思う。

時期尚早に知恵を与えること
シャインは、「この反応は、提示された問題が真の問題だという支援者の思いこみも暗示している」という。その前提として、支援者とクライアントの間に不均衡関係、つまりはクライアントが「一段低い地位(ワンダウン)」、支援者が「一段高い地位(ワンアップ)」という関係性が生じることが、事の発端にあるとも言う。その部分を、次のように鋭く次のように分析する。

「支援を提供するというよりは、何かを受け入れさせたり、状況を不当に利用したりすることになりかねない。真の意味で助けにならないとわかっても、個人的な利益として認められる権力を行使したい誘惑に駆られるかもしれない。そのように許可された権力を、『助けになれるかどうかわかりません』とか『実は、助けることができません』と謙虚な言い方をして、諦めることは心理的に難しい。支援できる機会が得られるのは、大きな誘惑なのだ。」(シャイン、前掲書、p67)

支援者は、支援を受ける側から「許可された権力」を得ると、それを「行使したい誘惑に駆られる」。そのため、出来ない、わからない、と言えなかったり、あるいは何とかその権力を早期に行使したくて、にあるように表出されたニーズにすぐに飛びついてしまう。しかし、そもそも口で簡単に言えるようなニーズであれば、何も支援者に頼まなくても、自分で解決出来ている場合が多い。あくまでも、最初の訴えは、複雑に絡んだ問題の本質に通じるきっかけや、あるいはそれを隠蔽する罠、にしか過ぎないケースは少なくない。なのに、入り口で飛びつくのは、権力への「大きな誘惑」に早々身を売り渡すことに過ぎないのかもしれないし、支援者が変に力んでいる時こそ、それは権力欲そのものなのかもしれない。附言すれば、昔恩師が、「わからないことはわからないというのが大切だ」と言っていた事も、改めて思い起こされる。知ったかぶりしないかどうかは、権力欲に毅然とした態度を示せるのか、の試金石でもあるのだ。

防衛的な態度にさらに圧力をかけて対応すること
この点についてシャインは、経営コンサルタントの助言が聞き入れられない例を用いて説明する。その場合、経営コンサルタントは、自分自身の助言が間違っている可能性について検討する事無く、クライアントの無知や無理解を非難する口調で、圧力的な説得にかかる。しかし、この場合、自分は間違っていない、という無意識の防衛に基づいて、相手側が間違いだ、という圧力をかけるため、相当なねじれが生じる。以前からこのブログで何度も書いていることだが、“You are wrong”と言い続けるだけでは、自分自身の絶対肯定に基づいているだけでは、人はその意見の無謬性に不信感を感じて、耳を傾けようとしないし、概ねそういう無謬性に基づく意見は、どこかで破綻する場合も少なくない。

問題を受け入れ、(相手が)依存してくることに過剰反応する
「支援者の役割をすぐさま引き受けて自信をみなぎらせている人には、助けが得られるかどうかわからないうちにクライアントに依存してしまう」(シャイン、前掲書、p79)

恥ずかしながら、こういう関係性には、身に覚えがある。特に、自分に自信が無かった頃ほど、空威張りして「僕なら解決出来る」と文字通り嘯いて、その空威張りに頼ってくれた相手への依存を強めていた時期が、正直に言えば、その昔、あった。今は皆無だと断言出来ないが、それで随分手痛い目にあって以来、こういう空威張りというか、「依存関係への依存」は、百害あって一利なし、とようやく気づいた。また、こういう記述も、いてて、である。

「グループや組織と働くときにコンサルタントや進行役は支配権を握るという罠に陥る。彼らは提案するだけでなく、次のステップを実際に指示してしまうのだ。しかも、どんなことが感情的、または文化的に可能なのかを充分知らないうちに命じてしまうのである。」(シャイン、前掲書、p80

これも、複数の現場でやらかした事のある失敗である。あくまでも提案や助言なのに、指示をする。指揮命令系統の外部者としての助言、という基盤を忘れて(血迷って)、その系統を無視して、勝手な指示をしてしまったこと、しそうになったことがある。そういう場合、その指示に対する責任を取れるわけでも、その職責にもいないのに、そうする事が、いかに組織体系にとって逸脱行為であり、感情的、文化的な混乱を引き起こすか、に無知だった時、トンでもない間違いを、やらかしてしまった。今ではだいぶ少なくなってきたとは思うが、これもくれぐれも自戒しなければならない。「取るべき責任と取らなくてもよい、とってはいけない責任」の区別、である。

支援と安心感を与える
この題目は、一見支援者として正しい実践にみえるが、時としてその実践に罠があることに、シャインは三つの理由を示している。

一 支援者が、専門医のような権力のある役割になってしまう。
二 クライアントの地位の低さを助長する。
三 支援者との関係のその段階でクライアントが全てを打ち明けるとは限らないため、実は不適切かもしれない。
(シャイン、前掲書、p81)

シャインがここで専門医を比較対象として出しているのが、面白い。先日、ある医師と話していた際、医師と支援者の違いとして、「最終的なカタを付ける責任があるかの違いだ」と言われたことを思い出す。医師には、絶対的な権力があるかわりに、その人の生き死にという最終責任も引き受ける。一方、支援者はそれほどの責任も引き受けていない、というのだ。これは、もう少し考えてみなければならない課題だが、確かに一理はある。

つまり、そこまで責任を背負うことは出来ないなら、クライアントの地位の低さを助長せず、クライアントに責任を、持続と実践が可能な形で背負ってもらうのも、支援者の仕事の一つなのである。そう考えると、安易な支援や安心感が、アダになるかもしれない。特に表出されたニーズと、実際の求めるニーズの乖離がある場合、支援者が早計で安易な支援をすることによって、余計に問題が混乱する事にもなりかねない。

支援者の役割を果たしたがらないこと
「クライアントが感じたり経験したりしていることをもっと奥深くまで探れば、支援者は自分の見解を変える羽目になる可能性を意識的にせよ無意識にせよ、わかっているからだということだ。そうなれば、権力のある地位や、ワン・アップの状態を諦めねばならなくなる。」(シャイン、前掲書、p83)

これも、身につまされるが、よくわかる。相手から「それは違う」とか、「そんなことはない」と言われた時、こちらの助言や見立てが間違っている可能性が高い。そんなとき、本当の支援者ならば、自分の役割を果たすために、自分の助言や見立て自体の誤りの可能性について考察を巡らせるはずだが、それは自分の「権力のある地位や、ワン・アップの状態を諦めねばならなくなる」。だからこそ、自分の面目保持を前面に出して、その論点をごまかしたり、深入りしないようにするのである。それは、誠に人間臭い振る舞いではあるが、支援者としては、失格なのである。

「クライアントの話に心から耳を傾けることによって、支援者は相手に地位と重要性を与える。そして、クライアントによる状況の分析が価値あるものだというメッセージを伝えるのだ。支援というものが、影響を与える一つの形だと考えるなら、自分が影響されてもかまわない場合しか、他人に影響を与えられないという原則はきわめて適切だろう。」(シャイン、前掲書、p83

そう、他人が変わってほしい、と思うなら、まずは自分が変わるべきだ、という、昔から言い古されている(がなかなか実践しにくい)至言に辿り着く。

ステレオタイプ化、事前の期待、逆転移、投影
「支援者は過去の経験に基づいたすべてのものに左右されやすい」(シャイン、前掲書、p83

相手が目の前に居ても、その話に「心から耳を傾ける」前に、以前の経験という名の引き出しを探って、それに当てはめたり、事前に期待したり、投影したりする。そういう「思考の節約」が、本来支援者に必要な相手との対話の道を閉ざし、独善的で閉鎖的な独善に陥るのである。どんなときでも謙虚でいる、ということは、ステレオタイプ化を避けるためには必要不可欠なのだが、年齢や地位が上昇するほど、それを面倒くさがる癖も出てくる。その安易な誘惑にだまされることは、権力という名の毒薬を囓り、内面から腐り始める事でもあるのだ。

と、書き続けて、どの罠にも、随分思い当たる節があることに、改めて塩を身体に塗り込むような、ヒリヒリさ加減を感じながら、振り返ってみた。

「本当にわかるということは、かわるということだ」

学生達によく知ったかぶりで言っている言葉の刃が、自分にぐさぐさ突き刺さっている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。