表層に振り回されない、ということ

 

正月の朝。実家でぼんやり白みそのお雑煮が出来るのを待ちながら、テレビをぼんやり眺める。我が家は未だにブラウン管だが、実家はマンション全てが地デジに切り替え、大型の液晶テレビで、何だかよく見ている。以前も書いたが、小学生の頃は「テレビの虫」だったので、こりゃ我が家もテレビを切り替えると、テレビ依存症、になりそうだ。やばい、やばい。

さて、そんな久しぶりの「テレビの虫」をしていて、「犯罪学者 ニルス・クリスティ ~囚人にやさしい国からの報告~」というドキュメンタリーからは、様々なことを考えさせられる。

ニルスさんはノルウェーの犯罪学者。修士論文の際、ナチスドイツの収容所で働いたノルウェー人看守達へのインタビューをするなかで、ノルウェー人がユーゴスラビア人の虐殺に関わったと知り、ショックを受ける。さらに、その虐殺に荷担した看守としなかった看守の違いをインタビューの中から導き出し、その違いが、虐殺に関わらなかった側の看守にある、とする。その理由は、『個人的に囚人と会話を交わしたり、ベオグラードの家族の写真を見せられたりすると、殺せなくなった、というのです。』ということだ。ここからニルス氏は、犯罪者はモンスターではなく、ただの人間に過ぎない、だが、ただの人間も、直接の関わりを持たない相手に対しては容易に残虐になり得る、ということに気づく。犯罪者の人間的処遇や、犯罪者というカテゴリーに対する厳罰化という報復感情に関する氏の指摘も、この修士論文が原点にある、という。

このテレビを見た後、ブログに何かを書こうか、とメモを取りながら、一つ気になったのが、副題にある「囚人に優しい国」というフレーズだった。これは、犯罪への厳罰化の流れの対義語として用いたのであろうが、気になったのは、受刑者に人間的な住環境を提供したり、公共施設の清掃などの奉仕活動をさせることは、確かに「厳罰」とは違うが、それを指して「優しい」というのも、何か違うような気がする、ということだ。ペナルティーをきつく課す事が厳罰化、だとするときに、ニルス氏の議論やノルウェーの実践に見られる人間的な処遇を提供することは、「恩赦」的な「優しさ」ではなくて、「合理的」である、と感じたのである。これは、「問題行動」という補助線を引くと、考えやすい。

人が犯罪に手を染める、ということは、逸脱や問題行動の極大化、といえよう。この際、悪いことをしたから懲らしめる、という発想は、厳罰化にもつながる考え方であるが、それをニルス氏は復讐感情である、とする。元々犯罪に手を染める人は家庭環境や生育上の問題が少なくなく、ある意味、犯罪に手を染める段階で、相当に追い込まれている人々が少なくない。そういう追い込まれた人々に、更に刑務所において非人間的処遇をしたり、厳しい制裁的措置を下すことは、出所までに更に追い込まれ、再犯につながる、というのだ。このことを指して、問題行動への表面的対応、とも言えるのかもしれない。

それに対して、「優しい」といわれる処遇は、問題行動の背景にある本人の「生きづらさ」や「社会への不信」に対応する。教育も十分に受けていない受刑者に教育の機会を提供するだけでなく、次に再発しないための最善の策を提供しようと心がける。その中で、社会とつながり直すような支援機会となるような奉仕活動といったプログラムを課す。確かに強制的な刑である一方、本人が納得して一定の行動変容につながるような何か、を提供することに重きを置いているようだ。それは、「優しい」対応、というよりも、再犯を阻止するための最善の策、という意味で、合理的対応である、とは言えないだろうか。そして、これは、認知症ケアの領域ともある意味、強い相関を感じた。

認知症のお年寄りも、時として「問題行動」に及ぶ。徘徊や便こね、といった、行動化に際して、以前のしゃんとしていた時の本人を知る身内ほど、以前とのギャップに驚き悲しみ、その「問題」の側面を強く意識する。しかし、『縛らない看護』(吉岡充・田中とも江著、医学書院)や『わたしは誰になっていくの』(クリスティーン・ボーデン著、クリエイツかもがわ)などの本で明らかになったように、問題行動の背景には、本人なりのそうせざるをえない理由があるのだ。それなのに、「そうせざるを得ない理由」に着目し、それを緩和・軽減させるケアをするのではなく、単に行動化(表面化)した「問題」を罰する・なじるだけでは、何も問題が解決しないどころか、本人が余計に不安に思い、「問題」が余計に複雑になる、と、言われている。「問題」に対して、厳罰で臨むのではなく、その本人なりの理由に向き合い、それを緩和する方が、「問題」が結果的に減る、という合理的なケアが、認知症の世界でも当たり前のように提唱されるようになったのだ。

この「問題行動」に対する捉え方の転換は、薬物依存や強度行動障害や幻覚・妄想状態の人にだって、当てはまる。以前、薬物依存の経験者、倉田めばさんの講演を聴いていて、「薬物依存は自己表現だ」と言われた事を思い出す。生きづらさや苦しさを表現する術がなくて、薬物やアルコールなどに手を出す、というのだ。確かに、強度行動障害や自傷・他害といわれる行為に及ぶ人の中にも、自分の苦しみや困難性を表現する為に、そうせざるを得ない状態になる人もいる。それを指して、自傷・他害状態だから拘禁すればよい、としても、問題の表面は収まっても、以前も書いたが、問題の骨格には何も手つかずなので、何も変わらない。下手したら、問題は酷くなるばかりだ。であればこそ、問題の核心部に触れる部分の変容を、どう支援出来るか、が問われるのである。

あることが「問題」である、とする。その際、問題の表面に水をかけて、なかったことにする、見て見ぬふりをするのか。あるいは、その「問題」と直面して、その背景や原因までじっくり解きほぐしていこうとするか。「厳罰」「優しさ」といった、表面的な言葉に左右されず、その言葉の奥に隠された構造や論点を、今年もじっくり眺めていきたい。

今年もよろしくお願いいたします。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。