「生の技法」に見る「学的精神」

 

少し風邪気味、である。熱はないが、放っておくとゲホゲホするので、家の中でもマスクをしている。先週火曜日は唇を切って合気道をお休みしたが、今日も泣く泣く合気道はお休みにせざるを得ない。悲しい。

で、昨日はコンコン咳き込む中、東京で読書会。障害者福祉の政策や実践に関わる皆さんと、古典を読み続ける不定期の勉強会。前回はイギリス障害学の古典であるオリバーの『障害の政治』だったが、今回は日本の障害学の原点、だけでなく、自立生活運動の軌跡をまとめた古典的傑作でもある『生の技法』(安積・岡原・尾中・立岩著、藤原書店)を読む。

この本を人に勧められて最初に手にしたのは、大学院生に入った頃だろうか。その当時、精神病院でのフィールドワークを初めて1,2年、の頃だったと思う。なので、脱家族や脱施設に関する部分に興味を抱いて読んでいた。だが、10年ぶりに真面目に通読してみて、古典たる所以を再発見する。20年前の本とは思えない、現代性を持った切り口。社会学のフレームワークを持ちながらも、それは前には一切出さず、あくまでも自立生活運動の当事者達の書いたものや記録を丹念に掘り起こしながら、しかし社会学的な視点で自立生活運動が「なぜ、あるのか」をあぶり出していく。そして、恐ろしいことに、20年前に指摘されている論点は、ポスト自立支援法の論点、としても何の問題もない、という点だ。変わらない現実のほうが、問題なのかも知れないが。

昨日の勉強会では多くのことを議論し、学んだが、ブログに特に書いておきたいのは、この本の主たる書き手の一人である立岩真也氏による、問題設定に関する記述である。

「今まで彼らについて、『福祉』について語られる時に見過ごされていると思われることを専ら考察の主題とした。それは隠された新たな問題というよりは、彼らに対して在る『制度』-ここでは個々の生を規定するものというように広い意味でこの言葉を用いる-がそれ自体として持っているもの、それ自体を作っているものへの問いである。」(『生の技法』p3
「私たちがみてきた障害者の運動は、このような社会の諸領域の分割、編成を自明なものとしない。分割としてある社会、しかも一つの方向に導こうとする社会をそのまま受け入れない。」(同上、p210
「理念を現実の中にどのように実現していくのか。ここには多くの考えるべき課題がある。この社会の基本的な編成のされ方自体が思考の対象になる。」(同上、p269

これらの記述から強く感じるのは、障害者が社会的に排除されている現実を所与の前提とせず、その現実がどのように社会的に構成されているか、その構成のされ方自身に対する「問い」を日本の障害者による自立生活運動は持ち続けてきた、ということである。私たちは普段福祉について語るときには、「○○の制度は悪い」「諸外国をならって□□の考え方を導入すべきだ」という法や制度の良い・悪いが多い。だが、その法なり制度がそうなっている現実という「この社会の基本的な編成のされ方自体が思考の対象」として捉えて来ただろうか? ここで制度を先の引用のように「個々の生を規定するものというように広い意味でこの言葉を用いる」とすると、家族制度や入院・入所中心主義も含めた、現在の福祉をそうならしめている「枠組みそのものへの問い」を、自立生活運動は、少なくともその初期段階では持っていた、ということである。この「枠組みそのものへの問い」というのは、単に批判的、だけでなく、根元的という意味も込めたラディカルな問い、であり、具体の制度・政策の変容を求める漸進的な(incremental)問いとは対極にある問いである、ということである。

その自立生活運動の持つラディカルさを鮮やかに整理する同書は、単に運動の記録、ではなくて、研究書としてのラディカルさを持っている、と、再読して改めて感じた。立岩氏がここで問おうとし、氏の後年の多作を産み出す原点に、「それ自体として持っているもの、それ自体を作っているものへの問い」がある、ということも、納得出来た。そして、そのような「枠組みそのものへの問い」というものが、実に「学的精神」なるものに通底している、と感じた。

「およそ学(体系知 Wissenschaft)なるものは、論証を基本とする。その論証方式の完全不完全を問わず、学には必ず論証を伴う、いやむしろ論証こそ学の本質であり、学の内容そのものである。論証なき言説は、その外見が『理論的』であろうと、学的ではありえない。ひとつの命題(「甲は乙である」)は、すでに論証の形式である。ひとつの命題は、ひとつの結論であり、その背後には必ずそこへと至る推論過程すなわち論証をもっている。いっさいの命題は論証した結論である。論証が不在のときには、あるいは論証がすでになされながらも表に出ないときには、その不在の論証を再構成しなくてはならない。」(今村仁司『親鸞と学的精神』岩波書店、p29)

先週の朝日新聞の書評欄で、高村薫が取り上げていた一冊。「学的精神」というフレーズが気になり、早速取り寄せてみた。まだ、中身は読んでいないが、当該部分を読んで、深く納得した。たった数行で、研究とは何か、をここまで深く掘り下げている文章に初めてであった。

何だか理論的フレーズや先行研究のお化粧がまぶしくても、納得出来ない(つまんない)論文が片方にある。もう片方で、『生の技法』のように、当事者の語り・記録・発言を前景化させ、理論や先行研究はあくまで注などに後景化されていても、深く納得出来る作品もある。その査定基準は何か、をちゃんと自覚化していなかったのだが、結局の所、「そこへと至る推論過程すなわち論証」がきっちりしているかいなか、なのである。それがきっちりしていないものは、「その外見が『理論的』であろうと、学的ではありえない」。信頼出来る、そして説得力のある基準である。

「生の技法」を「論証」という側面で見てみると、まさにこの今村氏の定義が当てはまる。自立生活運動が、その起源において、なぜ「愛と正義を否定する」「安易な問題解決の道を選ばない」と、既存の「制度」との真っ向勝負をしたのか。その背後にある、福祉政策の持つ「二重の否定」(当時の医療・リハモデルに代表される障害の除去・軽減の志向性と、施設福祉という政策実施に伴う一般人の負担免責機構)を当事者の言葉からあぶり出し、現前のものとする。そのことを通じて、障害当事者が取り組み続けた「枠組みの捉え直し」を主題的に取り上げ、またその記述を通じて筆者らは、福祉を巡る研究言説の「枠組みの捉え直し」を行おうとする。その二重の「枠組みの捉え直し」が、分厚い推論過程を伴って巧みに行われているので、真に「学的」なのだ、と納得した。

そんなことを考えていたら、別の文脈で同じようなことを書いている人にも出会う。

「氏の仕事の重要性は、ラカン理論を日本の現象に当てはめて金太郎飴のような結果を出してくるのではなく、日本の現実からラカン理論を自分なりに組み直して生産的でオリジナルな理論を作っていることにあり、それを通して日本社会の現在に四つに取り組んでいることである。」(樫村愛子「解説:『心理学化論』は『心理学化社会』を超えるためのラカン派の武器である」斎藤環『心理学化する社会』河出文庫、p245

社会学者の樫村さんの著作は、こないだ京都駅で買った本の中にあるのだが、まだ読んでいない。だが、斎藤環の解説に寄せた彼女の分析に、ハッとさせられる。そう、「その外見が『理論的』」だけれど、面白くない論考は、文字通り「金太郎飴のような」性質なのだ。それは理論や実態(のどちらか、時には両方)に対する「枠組みへの問い」がない(薄い)からである。高名で流行の理論をそのまま現実を切る道具に使ってみても、その理論への疑い(なぜ、あるのか)を問わないまま盲信していると、それは不十分な論証であり、学的精神にもとるのである。そうではなくて、現実から理論を「自分なりに組み直して生産的でオリジナルな理論を作ってい」くこと。そこに、研究のエッセンスが詰まっているのである。そして、立岩氏が『生の技法』で示しているのも、「枠組みへの問い」に基づく、「自分なりの組み直し」なのである。そのオリジナリティが高いからこそ、「学的精神」にあふれる一冊として完成している、と言えるかも知れない。

自分が目指すべき(しかも遙かに遠い)目標が、ようやく見えてきたのかもしれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。