不完全燃焼と不全感

 

合気道のお稽古に行く直前、唇を切ってしまう。ジャンパーのジッパーを勢いよく上げた時に、ついでに唇も挟んでしまった。大変マヌケなこと、この上ない。行こうか、とも思ったのだが、柔道場で投げられて、また血が出たら、僕はよくても相手をしてくださる方の胴着についてしまっては、申し訳ない。せっかく出陣モードだったのに、取りやめる。情けないやら、そそっかしいやら。で、仕方ないので、パソコンを立ち上げて、ブログを書き始める。

ここしばらく、引用したい本を色々読んでも、なかなかブログに書き込む間もなかった。なので、今日は脈絡があるかどうかはアヤシイが、最近気になったフレーズをいくつか書き込むこととする。

「上野千鶴子や中島義道の体験には、形としての『家族と子育て』はあったのだが、『世代を紡ぐ』体験、そこから生じる『ともに-あること』の体験、つまり『三世代存在』の体験、さらに言えば『あなた』の体験がされてこなかったと私は感じる。『家族』や『子育て』というテーマを考えるということは、多様な家族形態や多様な子育ての形態を機能的に考えるだけのことではない、と私はかねてから思ってきた。このテーマを考えることは、人間という存在が基本的に『世代を紡ぐ存在』であり、『三世代存在』であること考えることにならなければならなかったからだ。しかし、現代日本は『家族と子育て』というテーマを無にし、こんどは『老後』の問題を、『最後はひとり』の問題にすり替え、『三世代存在』ではなく『おひとりさま』や『シングルライフ』の人間観でふたたび見直しをさせようとしている。そういう思想が上野千鶴子の『おひとりさまの老後』からまたはじまっているように私は感じる。」(村瀬学『「あなた」の哲学」講談社現代新書、p51)

上野千鶴子と中島義道、ともに、言論人として色々書いているし、エッジが効いていて文章は面白い。だが、何だかよく分からない違和感を感じていたのだが、この村瀬氏の分析を読んで、なるほど、と頷く。二人の文章を読んでいて、強い「私」を感じ、それが文章や文体にラディカルな刺激を載せている。二人とも超が付くほどの論理性を持っている。だが、何かが欠落している。その何か、が「『ともに-あること』の体験、つまり『三世代存在』の体験、さらに言えば『あなた』の体験」と言われて、そうだよな、と腑に落ちた。

そういう「ともに-あること」を前提にしない文章は、相手をやりこめるための強いメッセージとしては有効な、機能的言語かもしれないが、曖昧さ、というか、異なる存在をも入れる器のような拡がりが感じられない。特に家族やケアを議論する時には、その硬直性が目に付く。そのことを、「あなた」の欠如、として村瀬氏が上げているのが、この本の面白いところであった。ただ、前半が読ませる故に、後半の論理展開に少し甘さがあり、前半ほどのシャープさが見られなかったのが、残念であったが。

で、こう書いていると、今日引用したいもう一冊のテキストとくっつきそうになってきた。

「真に分析的な知性とは、自分が『何を見ているか』ではなく、『何から目を背けているか』、『何を知っているか』ではなく、『何を知りたがらないのか』に焦点化して、己自身の知の構造を遡及(そきゅう)的に解明しようとするような知性のこと」(内田樹『女は何を欲望するか』角川書店、p102

この本は単行本版で以前読んでいたのだが、かなり書き直されたという新書版も買っていて、ちょうど内田樹の新刊を読んだついでに読み直したくなくて読んだ一冊。この中で、『何から目を背けているか』『何を知りたがらないのか』という部分を、先の上野氏や中島氏は焦点化していない。いや、それを完膚無きまでに徹底的に否定する形で、いわば負の形での焦点化はしているのかもしれない。そして、そのオリジナリティや論理の鮮やかさ、で、多くの読者を引きつけているのかも知れない。しかしそれが「負の焦点化」である限り、「真に分析的な知性」とは言えないのではないか。内田氏の議論を援用すれば、そう思えてしまう。

負の形で焦点化していることに無自覚であったり、その部分について「遡及的に解明しようとする」努力をしない限り、どこかで他責的になり、機能的言語の遂行という枠組みの範囲内に収まってしまう。そうすると、『ともに-あること』の体験、という形でしか表せない感覚的な何かにまで、たどり着けない。そして、その何かにたどり着けない限り、『何を見ているか』『何を知っているか』についていくら論理的・網羅的にまくし立てても、どこかで不全感や不安定性が、読者によっては沸き起こるのかもしれない。僕が感じた上野氏の本に時たま感じる不全感も、そのあたりにあるのかもしれない。

勿論、僕は上野氏や中島氏ほど、文章にキレも論理性もない。だが、『何から目を背けているか』『何を知りたがらないのか』については、自覚的ではありたい、と願っている。そして、その意識に基づいて、「己自身の知の構造」というほどたいそうなものではなくとも、自分自身の偏りやバイアスを自覚しながら、『ともに-あること』にどこかでアクセスしている文章を書きたい、と願っている。

唇の出血は止まったが、ちょっと腫れてきた。こういうそそっかしさも含めて「目を背け」ずに、ぼちぼち、自分と付き合っていきたい、そう思う、不完全燃焼の夕べであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。