「三食教」からの自由

 

久しぶりに休日の日曜日。ソファーでうたた寝をする快楽。それは、何もしないことの快楽でもある。

何かをすることが、良いことだ、とか、生の充実だ、と思いこむようになって久しい。特に、僕の中では強迫観念的に「予定を埋めねば」と、20代の前半頃、思っていた。予定を入れて、どこかに行き、何かをすることが、自分が生きている存在証明そのものである、と思いこんでいた。

その理由は、事後的には色々思いつく。例えば、小学校5,6年生の頃、クラス全体で蔓延したイジメの渦中にあって、全くその2年間の記憶が無いほどの喪失感を持ったから。あるいは、中学時代の塾や進学校といわれた高校時代を通じて競争社会にどっぷり浸かったから。and so on. しかし、そのどれを経験しても、そうならなかった可能性もある、と考えてみると、結局何だかんだ言っても、自分で「何かをすること=良いこと」という幻想を無自覚に選び取り、没入していった事だけは、事実であると事後的に思う。そして、その没入から、ちびりとではあるが、脱出し始めている。

脱出の一番のきっかけが、「三食教」の自覚。

昨日、大学生の頃しょっちゅう話し込んだ友人のTさんが、松本から千葉への移動の途中、甲府に寄ってくださった。実に12年ぶりの再会。スターバックス小作、と場所を変えながらお互いの一回りの年月を総括する中で、ダイエットの話をしているときに、ふとTさんから出てきたフレーズ。なるほど、三食食べなくちゃいけない、っていうのも、一つの宗教というか「三食教」なんだね、と。それを聞いて僕も一言、「三食というより、僕の中では三食でした」と。三食をきちんと食べる事に真剣になる、ということは、ある意味、そのリズムへの囚われ。一昨日もその話を県庁の人としていて、「三食ちゃんと食べないと身体に良くない、っていうじゃないですか?」と聞かれたが、その時ふと感じて言葉にしたのは、「ダイエットに関しては、教義は色々。三食ちゃんと、も教義の一つ。自分に合えば選べばいいし、合わなければ選ばなければいいのでは?」と。そう、そうやってようやく他人から「三食教」への改心を言われても、その教義から自由になりつつある。おかげで体重は、この2ヶ月間で80.8キロから74.4キロと6キロ減りました。

で、この「三食教」からの離脱期に、人から薦められて手に取ったある本に、この話題と重なる事が書かれていた。

「以前、人間達は二、三回、食事をしていましたし、それも手作りのローティー・パンと少し野菜料理があればそれを。いまでは二時間毎に食べ物がいりますし、食べることで人々は暇がないほどです。」(ガーンディー『真の独立への道』岩波文庫、p40

インドがイギリス文明に支配されている現状に警句を発したガーンディーの明言。これを読んでいて、強い既視感を覚える。そう、以前香港で読んでいた、ドン・ファンの教えにそっくりだからだ。

「いつも昼すぎ、夕方六時すぎ、朝八時すぎには食うことを気にしとる。腹がへってなくても、その時間になると食う心配をしとる。おまえの型にはまった精神を見せるには、サイレンのまねをするだけでよかった。おまえの精神は合図で働くように仕込まれとるからない。」(見田宗介『気流のなる音』ちくま学芸文庫、p116)

ガーンディーは、宗主国イギリスからの独立を求めて血気盛んな青年とのやりとりの中で、イギリス人を排斥するのではなく、拒否すべきはイギリス文明である、と説く。ドン・ファンは、アメリカ文明の型から自由になれない文化人類学者カスタネダに対して、その型から自由にならない限り、ドン・ファンが見えているものは見えない、と説く。

どちらも、人間そのものの否定ではなく、人間を強固な鋳型にはめる西欧文明への批判を強める。あなたが「正解だ」と思っている事は、唯一絶対の真理ですか、と。そうではない可能性があるのに、その可能性に盲目になり、自身が信じている体系に無自覚に囚われていませんか、と。「三食教」もしかり。その体系に無自覚な囚われ状態なのか、そうではない可能性をきちんと考えるのか? そう、日本だって、その昔は一日二食や一食だったのだ。昨日Tさんをお連れした小作で食べた「ほうとう」だって、粗食時代のエネルギー源だからこそ、カボチャに里芋にニンジンに、と炭水化物が一杯入った「馬力を出す食事」なのである。それを、車しか使わない今、ぺろりと食べたら、そりゃ、太る。

で、シンクロするときはシンクロするもので、同じくソファー読書に選んだ別の本でも、気づいたら同じ内容が書かれている。

「だから僕たちは考えなければ駄目なんだよ。君たちが皆で現実だと考えているもの、世間だって法律だって食うことだっていいよ。なぜそれが現実と考えられるに至ったのか、よく考えてごらんよ。原因を知らずに結果だけ動かすことと、原因ごと動かすのと、どっちが力だと思うかね。」(池田晶子著『無敵のソクラテス』新潮社、p34)

夭逝した哲学の巫女による、ソクラテス問答集の現代版。筆者の死後、このたびその問答集を集めた「完全版」が出たので、以前のハードカバーは持っていても、ついつい手に取る。いつもの論理のドライブの鮮やかさにはまっていくうちに、気が付けば、「三食教」を相対化する文言に出会う。そう、「三食食べるのがよい」という事にしろ、「なぜそれが現実と考えられるに至ったのか」について考えずに、無批判に受け入れていたのだ。そのくせ、ダイエットしたいとか体重が減らないだとか、は、「原因を知らずに結果だけ動かすこと」そのものなのだ。そして、「三食教」から自由になることは、単に体重が減少することだけでなく、その「三食教」を称揚する資本主義社会の様々な仕掛けの内情まで垣間見える、という意味で、「原因ごと動かす」営みであるのかもしれない。

しかも、上記に挙げた3冊が共通するのが、どれも「対話編」である、ということ。ある教義なり思考なり文明なりにどっぷりと浸かって固着している状態にある時に、別の考えを単に書いて伝える、という一方通行では、固着化された何か、は開かない。固着化された相手の今から対話を始め、一枚一枚、思いこみの薄皮をはがしながら、「なぜそれが現実と考えられるに至ったのか」の大元へと辿り着く。説得ではなく納得を産み出すプロセスには、このような産婆術的対話が必須である。そして、その対話に納得していくうちに、気づいたら己の立ち位置が根本的に変容する。

ダイエットが出来ない自分の意志の弱さを単に個人的問題として責める事は適切ではない。そうではなくて、人々が3食きっちり食べてくれる事で消費が廻り、経済が廻る、というこの資本主義経済至上主義の文明の中にあって、その文明を無自覚に賛同し、文明の維持を(無意識に)称揚させられている、という現実への自覚があるか、が問われている。これはサプリメントによるダイエットでもしかり。

ガーンディーの本は、ダイエットの薦めでは決してない。だが、現代文明がもたらした「三食教」から自由になるためのヒントとしてなら、ダイエットに通底する事は書かれている。

「私はたくさん食べます、消化不良になります、医者のところへ行くと、錠剤をくれます。私は治ります。またたくさん食べて、また錠剤をもらいます。こうなったのは薬のせいです。もし錠剤を使わないとしたら、消化不良の罰を受け、二度と過食しないようにしたでしょう。医者が間に入ってきて、過食を助けてくれたのでした。それで身体は楽になりましたが、心は弱くなってしまいました。このようにして最後には、心をまったく抑えられないような状態になってしまいました。」(ガーンディー、同上、p78)

このガーンディーの発言を、単に個々人の医者の批判と捉えてはならない。資本主義経済の中で、製薬会社や病院の利益との相関関係として現れた、医師の立ち位置への批判、つまりは資本主義文明の片棒を担ぐ存在としての医者役割の批判、と捉えるべきだ。そうみてみると、私たちは胃薬や医者を、「三食教」を補強し、「三食教」へと依存させる、亢進役として用いてきた。薬も医者も、使い方を誤れば毒になる。その典型例として、「三食教」があるのかもしれない。

冒頭に戻ると、「何かしなければならない」というのも、「三食教」と同じ、一つの思いこみ。その思いこみから自由になると、意外と身体も心も楽になる。そんな楽さを、少しずつ、身につけ始めているのかもしれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。