ツイッターと呪縛からの解放

 

ここ最近、新たな出会いや展開の波に乗っている。いろんなご縁に見開かれ、防衛的反応ではなく、自然と楽しむモードに切り替えてみたら、スルッとあれこれが受け止められる。しかも、様々な気づき、にリンクが張られている、ということにも気づき、何だか今自分がそれらを一体として受け止める事が出来る時期に来ているのだな、と実感する。

まず、その具体例として、twitter。以前お知らせしたが、先々週の学会先でアドレスを取得し、先週の勉強会打合せでその話をしてみたところ、同席していたジュンコさんがツイッターメンターとなって下さって、一気に世界が拡がる。興味ある人のフォロワーを芋づる式に探る中で、先週の段階で2人しかフォローしていなかったのだが、一気に30人ほどをフォローし、フォロワーも何だか付いてくださる。

この間読み囓った入門書によれば、ツイッターは主に仲間との交歓、情報の取得、新たな出会い・やり取りの創発、といった内容に強いそうだが、僕自身は現段階では主にを志向している。呟きを発信する、と気張らなくても、リリーフランキーのぼやきにニヤリとしたり、茂木健一郎のアフォリズム(なぜかいつも英語)にフムフムと頷いているうちに、このブログと同じで、引用やら解釈なら、をしたくなってくる。そんなときに呟きを整理してみると、ちょびっとカタルシス。例えば、こんな感じ。

takebata 抵抗勢力ではなく、「負の関心」と捉えたら、「正の関心」への転換戦略を考えられる。 RT @kenmogi Resistance to new things can be used to create the fuel to carry on with the reform.

こんな風に、他者からのメッセージを、自分なりのコンテキストに落とし込む作業の面白さを実感しているものだから、昨日読み終えた本に同じ事が書いてあって、びっくりする。

「我々人間はメッセージからコンテキストを創発する能力を持っている。お互いに与え合ったメッセージからお互いに新しいコンテキストを創発することができる。こうして接続されたコンテキストは元々お互いが持っていたコンテキストの足し算とは別のものである。この足し算以上のものが生まれるところに、コンテキストの接続の意義がある。」(安冨歩・本條晴一郎『ハラスメントは連鎖する』光文社新書、p270)

これは、前々回に書いた「魂の脱植民地化」に関しの議論の「基本文献」として勧められた、ハラスメントの構造について分析された本である。正直、この本を読むのには時間がかかった。文体は分かりやすい。内容も筋道がはっきりしている。読みたくないのではない。だが、自分の課題意識と深くつながる論考をしている為、時間を置きながら、休み休み読んでいなかいと、受け止めきれない、と感じていたのである。こういう読書は初めてだ。だからこそ、途中で一旦読むのを止めて、ツイッターにのめりこんでみた。で、昨日読むのを再開して、最後まで読み進めてみた時に、出会ったのが、上記の一言。ハラスメントの対極にあるコミュニケーションとして、「受容と提示からなるエンターテイメント」(p260)を指摘しているのだが、そのエンターテイメントとしてのコミュニケーションの構造を分析した上記の論考は、そのまま、ツイッター論にもつながる。先にも少し書いたが、「お互いに与え合ったメッセージからお互いに新しいコンテキストを創発する」事によって、「コンテキストの足し算とは別のもの」が生まれる、そんな「コンテキストの接続」の場として、ツイッターが機能している。ちょっとだけしか遊んでいないのだけれど、現時点では、そんなことを感じる。

もちろん、何となくしかわからないけれど、この種のソーシャルメディアには、当然負の側面も存在する事が容易に想像出来る。その一つとして、エンターテイメントからハラスメントへの転換、という事態も考えられる。その点について考える為にも、先の新書が頼りになる。

「ハラスメントとは、『人格に対する攻撃』『人格に対する攻撃に気がついてはいけないという命令』の二つの合わせ技であり、情動反応の否定とラベル付けの強制によって実行される。そしてハラスメントにかかった状態、つまり呪縛された状態とは、『謂われなき劣等感』を押しつけられた上で、『劣等感に気づかないように設定した自己像』を守ろうとする状態である。」(同上、p185)

同書は、「メッセージは身体の情動反応を通過して、コンテキストになる」という前提で議論を進めている。様々なメッセージは、自分の感情や生理的感覚を通過させる中で、自分なりのコンテキストとして解釈される、という立場だ。その立場から見ると、「情動反応の否定」、というのは、自分自身の中をくぐらせてメッセージを独自に解釈してはならない、というキツイ事態になり、つまりは「人格に対する攻撃」となる。その上で、他者の情動反応に基づくコンテキストの自己内部化の強制、という形で「ラベル付け」が行われると、その状態に呪縛され、そこから一歩も出れなくなってしまう。その呪縛から解き放たれる為には、まずは情動反応の「肯定」と、ラベル付け「からの自由」の二つがキーポイントとなる。その上で、情動反応に基づくメッセージのコンテキスト化と、その相手のコンテキストを認めつつ、創発的なコンテキストの交歓の中で、「足し算以上」の新たな何か、を生み出そうとする。

僕が誤読でなければ、それはツイッター上で行われている過程でもあり、だからこそ、僕のような多くの新規参入者が爆発的に増えているような気もする。そう、既存のメディアが(グーグルでさえも)ツイッターにかなりおびえている、というのも、それは、メッセージ交換における質的転換の可能性をツイッターが秘めているから、とも言えるのかもしれない。そして、それ自身、様々な閉塞感に苛まれていた、自分自身が求めていた事でもあった。

タケバタのブログは写真もなくていつも長文ですね、とあきれられる。その理由は、もちろん言いたい事が山ほどあるからだけれど、それに付け加えて、これまで外的規範に遠慮して禁欲的だった、情動反応をダイレクトに通過させた自分なりのコンテキスト化、の魅力にはまっているからである。色んなインプットをする中で感じること、考えること。それを、学問の枠組みの中で禁欲的に表現するだけでなく、その枠組みの外で自由にあれこれと脱線的にズンズンと書き進め、その中で思考をスパークさせ、拡げていきたい。そう思ってブログを書いていると、今日も気づけば1行40字がデフォルトのテキストデータで80行を越えている。どんどん、そのコンテキストの中身が膨らみつつあるのだ。

これまでは、主に他者のテキスト(書籍)とのメッセージの交歓、が、このブログを長く書き進める誘因となってきた。もちろん、それは読んでいる時の自分の状態とリンクする形での動的なものだったのだけれど、ツイッターはその相手のコンテキストも動的であるが故に、躍動感が更に増す。だからこそ、140字という制限は、ライブ感を保つための上限なのかもしれない。そして、ある程度の思考がまとまったらこのブログで、普段の創発的状態を導くためにはツイッターで、というのが、今のところ、自分に適しているのかもしれない。

実は本当はハラスメント論についてもあれこれ書きたかったのだが、長くなりすぎたので、それはまた、今度。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。