食毒から、魂の脱植民地化へ

トンネルを抜けると、本当に雪国だった。

京都からの帰り道。二軒茶屋で開かれた「国際ボランティア学会」に出席すべく、金曜から京都に来ていたのだが、学会のラウンドテーブルが終わるや否や、夕刻5時半からの合気道のお稽古目指して、タクシーに駆け込み、国際会館京都名古屋塩尻甲府、と疾風怒濤の帰り道。昨日は遅くまで飲んでいて、新幹線で昼ご飯を食べた後、乗り過ごさないためにメールを書いた後、名古屋からの「しなの」で爆睡。で、起きてみたら、外は真っ白なのである。あれまあ、びっくり。国内にいても、この気温差は疲れる。もちろん、先週香港に居たので、なおのこと。そりゃ、電車で爆睡したくもなります。

で、この旅で大きな収穫だったのは、「魂の脱植民地化」という言葉に出会えた事。阪大の深尾先生の研究発表の中で、環境問題も社会的な文脈のコンテキストの中で読み込まねばならない、という議論に興味を持ち、懇親会で質問していたら、出てきた。まだ、ちゃんとその言葉を理解している訳ではないので、あくまで印象的感想しか書けないのだが、私たちのパースペクティブや行動は、テレビや習慣、「○○すべき」という規範など、様々な外因性のものに「植民地化」され、情報化が進む中でその「植民地化」と個々の「植民地」の隔絶度合いが、個人の中である種の解離状態を引き起こすくらい、深刻なものになっている。しかも、その「植民地化」された状態について個々人が無自覚なので、何だかしんどさを抱えながらも、解離状態に気づかない。自身の「植民地化」された状態に気づけなければ(相対化出来なければ)、当然の事ながら、他の類型の「植民地化」された状態にある人の事も理解出来ないし、ましてや態度変容を迫る、なんて事は出来ない。少しアルコールが入った場面で先生の話を聞きながら、そんな風に解釈してみた(だから、この説明は完全に僕の読み込みである)。

そして、昨日から、この「魂の脱植民地化」というフレーズが、頭の中でワンワン鳴り響いている。そう、僕自身の「魂」の「植民地化」とは、以前書いていた、香港で相対化し始めた、「目の前の一点にしかすぎない」「明晰さ」への固執につながるのではないか、と。また、それを穿つ<明晰さ>とは、見田宗介氏によれば、「生き方を解き放つ」、固着された自分自身の視点から普遍的な世界へと開かれた「窓」であり、それが「魂の脱植民地化」ではないか、と。

別に他責的に「誰かに乗っ取られた」という意味で、「植民地化」と使っているのではない。そうではなくて、自分が納得して、その通りだよな、と思いこんでいて、かつ「自分らしさ」と思いこんでいる、自分の中での支配的な言説なり視点なりの少なからぬ部分が、ストックフレーズや手垢にまみれた思想の焼き直し・刷り込みに過ぎないのではないか、ということである。しかも、それを主体的に選び取った、と思いこんでいるけど、どこかで「選び取らざるを得ない」場面に構造的に追い込まれていませんか、とも、この「植民地化」から読み取れる。

深尾先生は、中国の黄土高原での砂漠化と、その対策としての植林を例に挙げ、人為的に砂漠化し、その反転として植林しているけど、そのどちらにも、「自然のご都合」というものを無視した「人為的な良きこと」が支配的に流れていて、それって結果的には「不自然」ではありませんか、と仰っている(ような気がした)。この場合、「魂の脱植民地化」とは、人間のあれやこれやの思惑・都合に「植民地化」されるのではなく、「自然のご都合」を考慮の対象にして、計画的植林ではなく、里山的な「自ずから」の世界を大事にする、というメタファーが当てはまる、と僕は受け取った。整然と規格化され、雑草抜きまで暑い中している植林地は、結果的に自然の快復力を奪っていませんか、と。

話がワープするが、前々回紹介した見田宗介の本の中で、ドン・ファンは次のように呟いているのを紹介している。

「いつも昼すぎ、夕方六時すぎ、朝八時すぎには食うことを気にしとる。腹がへってなくても、その時間になると食う心配をしとる。おまえの型にはまった精神を見せるには、サイレンのまねをするだけでよかった。おまえの精神は合図で働くように仕込まれとるからない。」(見田宗介『気流のなる音』ちくま学芸文庫、p116)

この「型にはまった精神」。レコーディングダイエットの著者、岡田氏は「太る努力」と言っていたもの。僕自身も、一ヶ月前に主治医の漢方医、N先生から「食毒」とラベリングされるまで、真面目に「努力」を続けてきた。「その時間になると食う心配」を律儀にし続けた。「その時間」の前から、食事の確保だけは「お腹がへったら大変だから」と胃の一番(@ATOK16)に考えていた。しかし、この「胃の一番」と思いこんでいた姿勢は、実は胃自身にとっては負担感の相当強い事態だったのだ。だから、過剰な食料接種を何とか処理しようと、せっせと皮下脂肪にため込んで、メタボまっしぐらとなり、かつ身体は重く、疲れる、という悪循環に陥っていた。この「食毒」の悪循環と、「砂漠化植林やせ細った大地の継続」というパターンに、ある種の類型・同型を見いだしつつあるのだ。

回りくどい言い方になったが、つまり僕自身、「食べなきゃ」という「型にはまった精神」を「所与の前提」として受け入れて、信じ込んでいて、この呪縛を解くことへの抵抗感は相当強かった。だが、ここ1ヶ月、炭水化物の量を減らす、という簡単な事で、体重が3キロ程度減り、それを維持し続ける中で、どうやら「食べなきゃ」が、「魂の植民地化」だったのではないか、とうすうす感じていた。そんな矢先、だったので、ご発表の中で触れられた「呪縛を解く」という深尾先生のフレーズに、我が事として反応し、その後の押しかけ議論の中で伺った「魂の脱植民地化」が、今の自分にぴったり来るフレーズとして立ち上がってきた、のだと思う。

そして、一歩引いてみると、この「型にはまった精神」という名の「魂の植民地化」は、僕の言動の、思考の、かなりの部分を占めているのではないか、と疑い始めている。「急激に気づきすぎると、病気になるよ」と深尾先生は仰っておられたが、確かに、この「植民地化」への疑いは、休み休みしないと、自己解体のすれすれの域かもしれない。でも、今は面白そう、なので、楽しめる範囲内で、休み休み、「型にはまった精神」という「植民地」を眺めてみたい。

追伸:何となく、ついったー始めてみました。呟き、は、なるべくはき出そう、と。よかったら、そちらもごひいきに。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。