事実確認的発言と行為遂行的発言

 

オースティンの『言語と行為』を読む。内田樹氏のブログや著作で気になって随分昔から「積ん読」状態にあったのだが、過日の本棚の総入れ替えで、全面に押し出されてきた。言語運用の政治について興味を持ったのも、同書を紐解く理由になった。

(今日のブログは第一次消化のお勉強メモなので、読みづらいと思います。あらかじめ、読みにくくてすいません、と謝っておきます。)

従来の哲学は、ある発言が真か偽か、という「事実確認」の枠内で判断しようとしていたが、それは発言の対象となる命題が先にあって、それを発言内容が正しく伝えているか、を判断しようとする。だが、それとは全く逆の発言もある、というのが、この本のパラダイムシフトに関わるところだ。

「陳述を文(あるいは命題)として考えることを止め、むしろそれを、発言行為(文や命題はその発言行為から論理的に構成されたものである)として考えるようになれば、われわれはますます陳述の全体を一つの行為として研究することに近づくことになる。」(オースティン『言語と行為』大修館書店、p36)

ここから筆者は、「事実確認的発言」ではない「行為遂行的発言」を設定する。

「『行為遂行的』という名称は、『行為』(action)という名詞と共に普通に用いられる動詞『遂行する』(perform)から派生されたものである。したがてt、この名称を用いる意図は、発言を行うことがとりもなおさず、何らかの行為を遂行することであり、それは単に何ごとかを言うというだけのこととは考えられないということを明示することである。」(同上、p12)

そのうえで、発語には、次の三つのパターンがある、とする。
・意味を持つ「発語行為」
・何ごとかを言いつつある一定の力を示す「発語内行為」
・何ごとかを言うことによってある一定の効果を達成する「発語媒介行為」

しかもこの3つのパターンは、一つの文章の表明の中に含まれている。

「『私は明日来ることを約束します』という発言によって、私はまず第一に、このような文法的文章構成を行うという意味で『発語行為』を遂行し、第二に、この文を発話することによって『約束する』という『発語内行為』を遂行し、さらに、第三に、この文を実際に発言することによって、たとえば、ある状況では、聞き手を喜ばされたり、あるいは、場合によっては逆に、驚かせたりするという『発語媒介行為』を遂行することができるのである。」(坂本百大「訳者解説」同上、p328)

ある言葉を話すという「発語行為」に、その言葉が意味する内容を発語によって指し示す「発語内行為」、それからその発語から媒介されて発語対象者に何らかの事を抱かせる「発語媒介的行為」。この3つは共に、事実確認的発言ではなく、行為遂行的発言の三つの機能である。そして、行為遂行的発言をカテゴリー毎に次の5つのクラスとして分類している。

・判定宣告型価値あるいは事実に関する証拠や理由に基づき、明瞭にそれと識別される限りにおいて何らかの判定を伝えること(「分析する」「診断する」「推定する」「算定する」「認定する」)
・権限行使型一連の行為の経過に対する賛成、反対の決定、ないしその行為の経過に対する弁護を与えること(「許可する」「免職する」「警告する」「推薦する」「請願する」)
・行為拘束型それによって話し手がある一定の経過を伴う行為を行うように拘束されること(「約束する」「決断する」「同意する」「受け入れる」「提案する」)
・態度表明型他の人々の行動と運勢に対する反応という概念と、他の人物の過去の行動ないし現在行っている行動に対する態度およびその態度の表現(「陳謝する」「感謝する」「起こる」「無視する」「のるう」「祝福する」)
・言明解説型意見の開陳、議論の進行、語の用法、言及対象の明確化などに伴うさまざまな解説の行為において使用される(「肯定する」「指摘する」「指示する」「言及する」「記述する」「定義する」「解釈する」)

このうち、一番興味深いのは、最後の「言明解説型」である。その他の四類型は、価値判断や主観的な色合いが濃いため、比較的「行為遂行的発言」とわかりやすい。だが、最後の「言明解説型」は、一見すると言及対象の明確化や議論の遂行などを価値中立的に行っているようにも見える。だが、例えば「○○について言及する」という言葉にせよ、その言葉を話す「発語行為」だけでなく、その言葉が意味する○○について発語によって指し示す「発語内行為」、それからその○○への言及が媒介となって、聞き手に何らかの事を抱かせる「発語媒介的行為」が含まれている。つまり、従来は事実確認的発言と思われていたものの中に、かなりの程度、行為遂行的発言が混ざっている、ということである。

以上、回りくどい説明であったが、実は重要な意味が含まれている、と僕自身は感じている。

例えば最近ナラティブな研究が盛んであるが、聴き取った物語を編纂する書き手は、あたかも「事実確認的」な言語を用いている場合が少なくない。だが、実際のところ、物語を編集して記述する、というのは、一つの歴史観の表明であり、「行為遂行的発言」である。「本当は○○であった」と「言及する」こと(「発語行為」)は、そう発言する事によって「○○」の信憑性に真実性を持たせ(「発語内行為」)、それを読み手もそれが真実として信じる(「発語媒介的行為」)という三つがセットになるのである。○○に「明確な殺意があった/なかった」「大虐殺は○○の規模であった」などの、密室で起こった(証拠のない)事件や、あるいは確定的な資料が残っていない(あるいはそれが歴史的争点になっている)出来事を入れてみると、多くの論争が、事実確認的論争ではなく行為遂行的論争であることが見えてくる。しかも、論争の当事者が、自身の発言の行為遂行的側面を組織的にネグレクトして、事実確認的側面のみを盲信している場合、議論が全く噛み合わない。

フィクションの世界であれば、行為遂行的なストーリーという読者の含意が前提とされているから、問題は少ない。だが、ノンフィクションや論文の類の中でも、事実確認的なフォーマットで語りながら、行為遂行的発言で満ちている事も多い。さらにたちが悪いのは、これが事実だ、という論証スタイルで、行為遂行的発言を「事実認定」して、歴史を書き換えていこう、という例が、少なからず見られる、という事だ。

所詮、世の中は「共同幻想」であるのかもしれない。でも、その「幻想」の中にある、事実確認的発言と行為遂行的発言を、少なくとも僕自身は峻別して、聞いたり書いたりしたい。今日のこのブログもそのような「発言内行為」に基づいて、未来の自分の「行為拘束型」言明になればよいのだが

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。