可動領域を拡げるために

 

最近どうもゴリゴリとした文章はブログに、身辺雑記的なものはツイッターに、と使い分けている(ちなみにアドレスはtakebataです)。ツイッターも初めて1ヶ月半くらいだが、徐々に使い方も覚えて、いろんなマスコミ外情報なんかを横目で見ながら、たまに乙な言葉に連歌のように下の句的コメントをつけて返したり、して遊んでいる。話半分で読んでいても、マスコミが報じない事が多すぎる、と実感しつつある今日この頃。

でも、今日は天気も良いし、久しぶりの土日連続のお休みなので、たまにはブログも身辺雑記。140字では、書ききれないしね。

今日は午前中、色々な予約やら注文やらを片づけ、昼食後、ようやく靴をおろす。9年前に師匠と調査の帰りに出かけたミラノで買った黒の革靴は、格好は良いのだが、小指は痛いし、トウの部分の装飾が一部めくれていた。なので、10日ほど前に出かけた御殿場アウトレットで、以前から目をつけていたグレンスコッチの革靴を安くゲットする。ただ、磨いて防水スプレーをかける時間がなくて、なかなかおろせなかった。ちなみに御殿場ではポロのスプリングコートもゲットしたのだが、こちらは先週以来の寒波でこんなに大活躍するとは思わなかった。翌日の神戸出張だけでなく、今週は寒かったので、三重の出張でも「持っててよかった」と実感。

そしてその後は、ぐちゃぐちゃの部屋の中の整理。負のエネルギーが溜まりまくっているようだったので、とりあえず机の上と本棚だけは何とかしたい、と着手。松岡正剛氏は半年に一度、徹底的に本棚の並びを変える、と言っていたのを思い出し、僕も試しにやってみる。ジャンル別、というより、意味連関での並べ替えをしていたら、奥からわんさと「積ん読本」が顔を出す。買った割に、全然読んでくれていないよ、という多くの書籍の訴えに「イテテ」と思いながら、並べ直す。確かに読んでおりません。すいません。興味関心が移ろいゆき、挙げ句毎晩飲んでいるのでなかなかなんて言い訳をしながら、でもちょっとまずいなぁ、とも。

こないだからツイッター仲間となったある先生は、「積ん読本」を「リファレンスの為です」と言い切っておられたが、歴史系の先生だから、それもあり。僕の場合、特に家の書棚からは小説とか新書とか、書評や雑学的興味関心で買ったハードカバーの類がわんさか出てくるのだ。「パスカル的省察」「取り替え子」「ブルー・セーター」「高慢と偏見」「心はなぜ不自由か」「交易する人間」色んなジャンルの良書が、未読のまま、ざくざく出てくる。その一方で、アマゾンで今月もジャンジャカ注文し、旅先の大型書店で強迫観念的に買い込む自分が一方でいる。読まなければただのゴミ、だ。本とのつきあいは、ほんと、考えなければならない。

ただ、この春はだいぶ志向性・嗜好性が変わりつつあり、一方で、様々なジャンルにジャンプして読書体験を拡げたい、とウズウズしている自分もいる。なので、やっぱり注文してしまう。せめて出来ることは、サクサク読んで、買うスピードを緩めることくらい。いやはや、気をつけなければ。

で、ここしばらく、芸事の導師になってくださった道楽者の件の先生から、CDをごっそり借りる。前回はサンソン・フランソワのショパンやドビュッシー、ラベルのピアノ曲集と落語。今回の第二弾は、宗教音楽特集と昭和の名人落語選の続き。移動中の車内でフランソワ先生を聞き出したら、やみつきになってしまった。なんというエレガント。今までグールドやペレイラ、アルゲリッチなど硬質ではっきりとした弾き手が好きだったので、ルービンシュタインでも柔らかい演奏に感じていた。だが、サンソン・フランソワのエレガントさは、その比ではない。思わずボックスをまたアマゾンで注文してしまい、ついでにアルゲリッチの管弦楽のボックスも注文してしまう。アマゾンの戦略にはまりすぎ、である。あ、カザルスのボックスも手にしてしまいました

かように自己投資していることについて、若干の言い訳をすると、今、自分自身の様々な部分での可動領域を拡げている、のだと実感する。今までは本業以外のことには割と禁欲的であろう、としていた。故に、気になるジャンルの本も、買ってはみるのだが、耽溺してはいけない、と自制していたのである。まだ1Q84を「積ん読」しているのも、そのせい。だが、本業関連の仕事が加速度的に増える中で、「積ん読」していたり、「そのうち」と言っているうちに、いつのまにか月日が過ぎ去り、結果的にご縁がないまま終わる可能性がある、というシンプルかつ重大な事実に気付き始めた。ならば、忙しくても、いや忙しいからこそ、読みたい本を読み、聞きたい音楽を聞いていないとバランスがとれない、と感じ始めている。このことは、昨年11月、入試のお仕事で泊まった静岡の本屋で買った次の本から教えてもらった。

「『業務内』のことがらが、上記のように、あまりにも機微に触れる(=ヤバすぎる)ことがらの連続で、それを書くことができなかったので、まるでそれを埋め合わせるかのように、敢えて『業務外』のことだけに絞って書き綴っていたのだ。今、読み返してみて思うのは、不思議なことに、『業務外』の記述に『業務内』のことがらがしっかりと反映されているのである。あるいは、もっと直裁的に、共振(シンクロナイズ)していることがある。」(金平茂紀『報道局業務外日誌』青林工藝舎、p3

彼は昔のニュース23のディレクターで、今はニューヨーク支局のTBS記者。昔からお顔と名前を一方的にテレビで見て知っていた記者さんだったが、彼の報道局長時代の「業務外」日誌は、以前ブログにも書いたが、かなりインスパイアされた。そう、忙しい事を言い訳にせず、むしろ業務内の内容がディープになる時期ほど、業務外の豊かさも追求しないと、バランスが崩れて、身が持たない、と。で、「業務外」の彼の志向性からもかなり学んだのだが、今これを書くために彼のブログにたどり着いて、ちゃんと「業務内」でも一級のジャーナリストをしておられる事を再確認。僕もお気に入りブログにいれようっと。
http://www.the-journal.jp/contents/ny_kanehira/

さて、回り道うねうねとしてきたが、先ほどの「可動領域を拡げる」話。本業が忙しいからこそ、本業以外の「業務外」での自分の可能性を試したり高めたりしないと、ただの「仕事中毒」になってしまう。そう、バランスを取るためにも、「業務外の豊かさ」は必須なのだ。ま、こうやって自己暗示をかけないと方向転換がなかなか出来ない自分の不器用さが、一番の問題なのかも知れないが。しかし、机も綺麗になったことだし、5時半からは「業務外」の最大の楽しみであり、ここ一年で身体の可動領域を少しは拡げてくれた、合気道も始まるし。今日は素敵な「業務外」の一日であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。