「楽しみ」のコペルニクス的転換

今日は終電二本前の「あずさ」。まだ会議は続いているが、少し早引きさせて頂く。ここしばらく毎週東京での会議が重なり、かつその後、多少飲んで帰
るといつも終電になる。水曜は朝一から仕事が入っているので、さすがにきつい。あと、しばらく禁酒もしていなかったし…。ということで、今日は少し早めの
帰宅である。

というか、新宿までの中央線快速に乗っていて思うのだけれど、東京は夜9時でも10時でも11時でも電車が大混雑。皆さんこれをデフォルトと思って
おられるし、確かに大阪時代は自分もそうだと思っていたけれど、山梨で職住近接になると、これは当たり前ではない。もっと言えば、スウェーデンに住んでい
た折、夕方の4時とか5時で仕事を切り上げるのが当たり前だった人の世界に触れた後、日本に戻ってきてこの大都会時間のデフォルトの変さを強く感じるよう
になった。

そう言えばとある週刊誌で、日本は労働時間は世界でトップ級(週50時間以上の労働者割合が世界一)だけれど、労働中のストレスは他の先進諸国の比
べたら低め(メキシコやスペインなどについで世界第六位)、というデータが紹介されていた(週刊ポストの先週号)。ちなみにスウェーデンは全く真逆。週
50時間以上の労働者割合はオランダに次いで2番目に低く、日本の30分の1。ストレスの高さは日本が72%に対して、スウェーデンは89.5パーセント
と世界第一位。

いろいろな解釈が出来るが、労働時間内の集中度と効率、能動を上げたら、そりゃあストレスは高まる。でもその分早く終わって早く帰れるなら、これに
こした事はない。一方その週刊誌は「日本は労働時間が長くてもストレスが少ないなら『日本の会社は意外と働きやすい?』」というトンデモ解説が書いてあっ
たが、それをデファクトスタンダードとすると、そりゃあ中央線は何時でも混む事態になる。普段11時には就寝している生活に慣れた僕自身は、そういう暮ら
しを「当たり前」とはしたくない。

で、そういうことを強く考えたのは、たまたま二週間前、丸の内の丸善で装丁がきれいなのでふと手にした次の一冊に、強く揺さぶられたからもある。

「『遊ぶために働く』とは、先の楽しみのために苦労と我慢を重ね、その埋め合わせとして遊びで発散するニュアンスがあります。一方、『働くために遊
ぶ』とは、まず楽しみながら自分を豊かにし、その豊かな自分を使って仕事というさらなるチャレンジをするというニュアンスがあります。」(『松浦弥太郎の
仕事術』松浦弥太郎著、朝日出版社)

正直この本を手に取るまで松浦氏のことは全く知らなかった。だが、単なるハウツー本ではない、また安易な人生哲学でもない、一人の仕事人が自分のラ
イフスタイルをどんな風に作り上げていったか、を、丁寧な口調で語る一冊。読み始めたら赤線だらけ、であっただけでなく、せっかくだからこの内容をメモし
たい、と今朝はたまたま5時前に目覚めたので、2時間かけて気に入ったところをノートにメモしていたら、3ページにもなってしまった。それくらい、気に
入ったフレーズがてんこ盛りの一冊。その中で、一番今の自分の琴線に触れたのが、ご紹介した部分。

僕自身が最近感じる違和感、というのは、『遊ぶために働く』というスタンスへのそれ、なのかもしれない。確かに苦労と我慢を重ね、一定のお金がある
と、それなりに「楽しみ」の選択肢が増える。日本の大都会は、諸外国の大都会い比べると、その選択肢の質の量も豊かだ。でも、そんな選択肢に囲まれても、
『働くために遊ぶ』姿勢をもっている人は、一体どれほどいるだろうか。あれも、これも、とせざるを得ないことが多すぎて、結局のところ、「まず楽しみなが
ら自分を豊かに」する機会から遠ざかってしまう人が少なくないような気がする。

「まず楽し」む。これは忙しさがデフォルトだと、なかなか難しい。だって「まず忙しい」人は、「忙しい=苦労と我慢を重ねること」という枠組みに依
拠している人が少なくないからだ。この枠組みは、「その埋め合わせとして遊びで発散する」というアメと、それが終わればまた「苦労と我慢を重ねる」という
ムチの、双方の交互作用を立場の前提に置いているような気がする。つまり、この枠組みを前提とすると、結局「遊び」はいつまで立っても「埋め合わせとし
て」の、つまりはメインから外れたチョボチョボの楽しさ、という形でしか生まれないからだ。

一方、目から鱗、だった『働くために遊ぶ』という姿勢。そっか、「まず楽しみながら自分を豊かにし」てもいいんだ、という気付き。自分自身、暗黙の
前提として「遊び・楽しみ=残余的価値」という枠組みをもっていたが、山梨に移住後、少しずつそれが消えかけている。心がけているのは、たまの飲み会や出
張を除くと、妻と「まず楽しみながら」夕食を囲んでいる、ということ。日々飲みながら、バクバク食べながら、「まず楽しみながら自分を豊かに」、そして
「自分たち」を「豊かに」しようとする時間がある。それが基本にあるから、「その豊かな自分を使って仕事というさらなるチャレンジをする」ことが可能なの
だ。そして、「仕事というさらなるチャレンジ」に旺盛に取り組むためには、もっと「自分を豊かにし」てもいいんだ、という悟り(=開き直り!?)も生まれ
てきた。

刹那的ではないが、最近頭の中でずっと「たった一度の人生」というフレーズが流れている。「たった一度の人生」だからこそ、もっと豊かに楽しみた
い。実にそう思う。そして、「楽しみながら自分を豊かに」することが、結果として、「仕事」にも好循環を与えるなら、これほど良いことはない。そういえ
ば、ツイッター仲間の「芸事の導師」先生も、真空管アンプを作る至福の時間があるからこそ、実に奥深い学識とハードでリアルな学内業務を両立しておられ
る。やはりこれも「豊かな自分」という実態があるからこそ、その結果としての「労働」なのだろう。労働の残余としての遊び・楽しみではなく、遊びや楽しみ
があるからこそ初めて可能な成果としての労働。そう考えたら、なんと遊ぶことにワクワクしてくるではないか。

いやはや、帰ったら早速次の遊びの計画を立てなければ。

「自分事」となる一冊

 

良いルポルタージュは、今まで全く無関心だったり未知だったり、それゆえに偏見をもっていたりする分野であっても、いや、未知の分野だからこそ、その問題をどう捉えたらよいか、のきっかけを与えてくれる。まさに道しるべ。単にある出来事を感情的・扇情的にルポするだけでなく、その問題の背景について丁寧に掘り下げ、法や制度、社会構造の本質にまでアクセスする深堀をしている。ルポを通じて自分自身の内面とも通じる何かに共鳴し、ゆえに読者は心を打たれる。「こんな世界もあったなんて知らなかった」と他人事的感動で終わらず、「この世界も含む私」の自分事として問題を捉えられるようになる。

こないだ読み終えた『逝かない身体-ALS的日常を生きる』(川口有美子著、医学書院)は、まさに上記のような意味での「良いルポルタージュ」だった。

この本を読みながら、僕自身がこれまでALS関係の書籍を何冊か買っていながら「積ん読」して一切手を付けていなかった理由が理解出来た。それは、昔の古傷を思い出していたからだ。

ALSの重度の方のように人工呼吸器を付け、24時間介護が必要な状態で生活をしておられる方と、直接のやり取りをさせて頂いた経験は、実は過去にもある。事故で頸椎損傷の重傷になり、人工呼吸器を付け、24時間介護が必要なAさんとそのご家族に、その昔知り合った。「口文字盤」といって、瞬きでのコミュニケーション方法がある、ということも、その方から学んだ。例えば「て」という言葉を伝えたいなら、50音を書いた紙をもち、「あかさたな」と介助者が言う。「た」の部分で瞬きがあれば、次は「たちつて」と介助者が発言し、「て」の部分での瞬きで確認する。同じALSの当事者の橋本さんによれば、「400字を入力するのに1週間かかる」そうだ(『ケアされること』岩波書店)

ただ、コミュニケーションに障害があることと、本人がコミュニケーションの意志がないこと、は大きく違う。むしろ、コミュニケーションをしたいのにそれが難しいという障害、と書いた方が分かりやすい。自分の意志が伝えられないという事は、本当にストレスが大きい。僕の知り合ったAさんも、事故後のコミニュケーションの困難性のストレスから、円形脱毛症を沢山作っておられた。余談になるが、例えば強度行動障害といって自傷行為を繰り返す重い知的障害の方も、実は自分の想いが伝えられない事のストレスを自傷という形で表現しておられるのではないか、と最近は感じている。また意志がない、などとラベリングされがちな重症心身障害の方も、舌や表情などでものすごく豊かな意志表現をされておられる様子も、西宮の青葉園にフィールドワークをしながら学んだ。繰り返しになるが、コミュニケーション障害とは、コミュニケーションの意志がないのではなく、むしろしたいのに出来ない、出来にくい、という障害なのだ。

Aさんやご家族と出会って、その方の抱えるコミュニケーションを支える「コミュニケーションボランティア」を集められないか、と相談された。地元のボランティアセンター等とも連携しながら、福祉系大学の学生ボランティアを探したり、などもしてみた。ただ、色々あって長続きせず、だんだん僕も疎遠になってしまう。その後、ある夜、喉がたんで詰まったことを知らすブザーに介護疲れの母親が気づくのが遅く、その方は亡くなってしまわれた。亡くなられた事へのショックだけでなく、自分があまり役に立てなかった事への自責感も強く感じ、以来、その問題自体から遠ざかっていたのかもしれない。

ただ、今回その古傷を越えて読んでみよう、と思ったのは、非常にミーハーな理由。同書が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した、と知り、少し警戒レベルを下げたのかも知れない。そんな良い本だったら読んでみよう、というエクスキューズを自分なりにつけて、読んでみた。本当に、読んで良かった。あちこちに線を引きまくり、ドックイヤーを付けまくっていた。例えばこんな箇所にも。

「私たちに欠如しているのは患者を死なせるための法でも医療でもなく、あるがままの生を肯定する思想と、患者にとって不本意なレスパイト入院などせずに済むような、良質で豊富な在宅介護サービスではないだろうか」(p181)

そう、今の日本では「良質で豊富な在宅介護サービス」がないことによって、「不本意なレスパイト入院」(=つまりは家族の休息と安堵の為の入院)が創り出されたり、今も議論がまた出ている尊厳死法案などの「患者を死なせるための法・医療」が生まれたりしている。繰り返し言うが、「良質で豊富な介護サービス」があれば、「あるがままの生」を享受出来るはずの人が、そのサービスが不足するために、入院させられたり、尊厳死に追いやられる現状がある。これはAさんの生活を垣間見ても深く同意する事であり、精神病院や入所施設に追いやられた方々にも共通する課題であると感じる。そして、その先には、ナチスのT4計画(ガス室での障害者殲滅計画)に代表される優性思想の系譜をやはり感じる。

どうも脱線気味なのでこの本の紹介に戻るのだが、この本の良さは、ご自身のお母さんがALSになった後、どのように介護してきたのか、を綴った闘病記である。だが、単なる闘病記ではない。私たちが普通アクセスしにくいALS当事者がどんな事を思い、感じているのか、を深く理解出来る。また、それを扇情的に煽るのではなく、むしろ「あるがままの生」とは何か、を母を通じて著者が学ぶ軌跡を伝えてくれている。

「重度障害者としての生き方を母は学びはじめていた。私たちになされるままになることに徹底的に抵抗をしめすことで、ケアの主体の在り処を教えてくれていたのである。」(p60)

介護者の一方的な感情ではなく、母と著者の格闘的コミュニケーションの中から著者が何に気づき、常識とは違うオルタナティブな視点を獲得していったか、その中で「ALS的日常」とは何か、を筆者がどう感得していったか、を、むしろ淡々と書きつづっている。まさに、僕自身にとってもこの問題をどう捉えたらよいか、のきっかけを与えてくれる、よい導きとなる一冊だったのだ。そして、この本がフックとなって、自分が蓋をしていたAさんのことを思い出し、それもフックになって、その後出会った重症心身障害や強度行動障害の方、あるいは入所施設や精神病院で長期間社会的入院・入所を余儀なくさせられておられる方の現実と、「ALS的日常」の現実が、深い部分で通底している事にも気づかされたのである。そう「良質で豊富な在宅介護サービス」が「ない」がゆえに、入院・入所や尊厳死などに追いやられている点で共通しているのではないか、と。

今日は大学の講義後、厚生労働省に向かう。障害者自立支援法に変わる新たな法律の議論をする、「障がい者制度改革推進会議」の「総合福祉法部会」委員の一人となったので、その会議に出かけるのだ。前回は当事者が、今回は私も含めた研究者が、一人5分間の持ち時間で発言を許されている。

原稿は前回の会議で送っていて、厚労省のHPにアップもされている。ただ、自分の言葉でもう一度言い直そう、と思っている。その際、大切な視点は「ケアの主体の在り処」だ。「良質で豊富な在宅介護サービス」がないがゆえに、社会的に排除されている彼・彼女の「主体の在り処」を取り戻すための、地域移行であり地域生活支援である。その事を第1において、今日の発表をしたい。

そういう意味で、この本は私にとってまさに「自分事」となる一冊であった。

楽し恐ろし「社会見学」

 

昨日の夜は、楽しい社会見学半分、恐ろしい経験半分、であった。次の番組に出ることになってしまったから、がその理由。いちおう今晩放映予定、であります。山梨ローカルですが

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NHK総合テレビ「金曜山梨」
シリーズ地域再生 働きたいをどう支えるか ~障害者雇用の今~
総合 5/14(金) 後8:00~8:33

山梨県の抱える課題と解決の糸口を探る、「シリーズ・地域再生」。今回のテーマは、経済不況の中、厳しさを増す障害者の就労について。政権交代により大きな転換期を迎えた障害者施策。3年後の新制度発足に向けて、今年1月から議論も始まっている。番組では、現行制度「就労支援」の課題を探り、障害者自身が多様な働き方を模索する事例などを紹介しながら、新制度に向けて提言する。
http://www.nhk.or.jp/kofu/kinyama/index.html
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普通こういう番組って、研究室に取材にこられて、ペラペラ長くしゃべって、30秒か1分くらいに縮めて「識者コメント」として撮られるもんだ、と思っていた。だが、聞いてみるとクローズアップ現代とか福祉ネットワークのように、スタジオでアナウンサーの方と話をする、ということらしい。一応障害者福祉の業界に身を置いているけど、厳密な意味での障害者雇用のスペシャリストではない。それなら、県庁の障害者雇用のプロフェッショナルのfukunekoさんとか、就労・生活支援センターのMさんとか、もっと適任者は一杯居ますよ、と抵抗したのだが、なんとその県庁某氏から「是非に」というご指名だそうな。専門的な話をする教育テレビの福祉ネットワークと違い、総合テレビなので、広く県民に障害者の現状を知ってもらう入り口として「はたらく」を取り上げたい、とディレクターのKさんに言われると、何となくそうかな、と思ってしまう。しかも、そのKさんは大学時代が京都だったようで、恵文社書店一乗寺店、というコアな本屋トークで盛り上がってしまい、引くに引けなくなってしまった。あと、社会見学もしたかったし、という下心もあって、引き受けてしまったのだ。

実は小学生の頃の「将来の憧れの職業」はテレビキャスターだった。当時、ニュースステーションが始まったばかりの頃。久米宏が、朝日新聞の小林さんと議論しながら世相を斬っていくのが、子供心に凄く格好良かった。あと、NHKスペシャルやTBSの報道特集なんかも大のお気に入りで、捕鯨問題はどうだ、政界再編はこうだ、なんて親相手にテレビの受け売りをしゃべっている、ませたガキだった。あと、これもどうでもいい話なのだが、小学校の頃は放送部に所属して、給食の時間の校内放送のディレクターもどきをして楽しんでいた。ついでに言うと、京都市小学校放送アナウンスコンクール、的なもので優勝してしまった事もある。運動音痴な僕にとって、多分人生において何かで優勝した唯一の経験。でもそれも、しゃべりがうまかった、のではなく、確か星野道夫氏の写真集の解説というシナリオで、みんなは台本を読むだけだったのだが、僕はアドリブで久米宏のマネをして、その本を開きながらオシャベリしたら、それが受けただけ、ということ。ま、昔からそういう感じの子どもだったようです。

ということもあり、アナウンサーとか放送局自体には、非常に興味津々だったのだ。だから、NHKの甲府放送局に出かけるのも「社会見学」そのもの。惜しむらくは、これが「ラジオ」だったら、ということ。自分の顔を晒されるテレビではなく、声だけが届くラジオだったらもっと伸び伸びしゃべれたのに、と。もう4年ほど前だったと思うが、自立支援法が施行される直前に、うちの大学がスポンサーになっているYBSラジオの「YGUラジオセミナー」という30分番組で話した時には、るんるんとしゃべっていた。テレビのような取材映像もなく、アナウンサーとのやりとりを通じて自立支援法の論点などを話したのだが、ラジオの一発取り、という雰囲気自体もアットホームで、アナウンサーとYさんに「あのね」と語りかけるようにしゃべっているうちに終わってしまった。収録はこちらは確か1時間ちょっと。ところがどっこい、昨日の収録は結局4時間弱もかかってしまったのだ。

テレビの文法は、ラジオの文法とは違う、独特の文法である。しかも、生放送の文法と、録画の文法も違う。もともとディレクター氏からは「生で出られますか?」と言われたが、そんな恐ろしいことは出来ない。しかも今日は三重のお仕事だし。ということで、昨日の収録になったのだが、録画だとリハーサルがある。そして、このリハーサルは、テレビの文法に馴れるためのSST(social skill training)としては良いのだが、僕のようにすぐにいろんな事を忘れてしまう大馬鹿者にとっては、良し悪し相半ば。断片毎にリハーサル本番を繰り返す中で、すっかり全体像を忘れてしまう。実は3時間程度で終わるはずの収録が1時間伸びたのも、そんな素人の僕が最後の収録部分である内容を忘れてしまい、その部分の取り直しと別件が重なってしまったのだ。いやはや、すいませんでした。

でも、収録の合間に、ご一緒したアナウンサーのAさんに色々「取材」出来たのも、実に面白かった。番組の作り手としてどのようにテレビの文法を熟知し、効果的に伝えるために刈り込んでいくか。打ち合わせの段階から台本はどんどん変わっていき、台本通りにしゃべるのが苦手で毎回違うことをしゃべるやっかいな僕に合わせて、話す内容も変えながら、本質は突いてくださる。こちらはカメラが気になって上がってしまっているので、論理構成もグダグダになっているが、そのあたりもちゃんと押さえてペースメーカーになってくださる。つまり、アナウンサーはカメラの前の編集者なのだ、ということがよくわかった。ディレクターという番組構成の編集者と、スタジオトークの編集者であるアナウンサー。その異なる立場の編集者の文字通りコラボレーションの中から、視点が加えられ、削られ、加工されていくなかで、一本のストーリーが出来上がっていく。自分の語りの下手さはさておいて、そういう編集場面に生で立ち会えたこと自体が実に面白かった。

で、肝心の出来は、ですって? 就労移行支援で大学の近所の温泉で働いておられる方や、バーチャル工房の皆さんの取材映像は、実に良かったです。これは見る価値はあります。で、僕自身はすっかり何をしゃべったか覚えていないので、今から三重に敵前逃亡です

「ひきこもり」と常識の捉え直し

 

今年から短大保育科の講義「地域福祉」も受け持っている。久し振りに資格取得を目指した学生さん達相手の講義だ。ただ、僕の受け持つ講義は試験に出る科目、ではないので、気楽に教えられる。何しろ、看護師も社会福祉士も精神保健福祉士も、国家資格取得のための教育は、「合格率」なるもので査定され、もちろん学生さん達もそれを求めるため、教育が大変だ、と複数の同業者から聞く。司法試験にしても然り。ゆえに、国家資格の試験とは直結しない科目の方が、ある程度のこちらの裁量が利いて、面白いのだ。「先生、試験に出るんですか、それ?」という問いもないし(笑)

というか、僕の講義は4大の方も基本スタンスは同じ。標準化された(=○×で回答可能な)問題は扱わない。むしろ、「暗黙の前提を疑う」「常識の捉え直し」の講義。ネタは福祉政策だったり障害者福祉だったり地域福祉だったり、と違うけれど、通底するスタンスは上記の、言ってしまえば割と社会学的なスタンスで取り組んでいる。いかに私たちが常識と思い込んでいることが、違う視点から見ると非常識だったり抑圧的だったり不合理だったりするか、を、様々な現象を素材に扱いながら見ていく、という講義だ。ちょうどこれから4限でやる3・4年生のゼミでは苅谷剛彦氏の名著『知的複眼思考法』(講談社プラスアルファ文庫)を基にレジュメ発表してもらうが、この本で書かれているような、オルタナティブな視点、を、講義でも求めているのである。

そして、今日扱ったテーマが「ひきこもり」。ちょうど北海道浦河にある精神障害者の回復拠点「べてるの家」の当事者の皆さんが出てくるビデオ「精神分裂病を生きる」シリーズを持っているので、そのなかの「ひきこもりのすすめ」を見ながら、「ひきこもり」当事者はどう「ひきこもり」を考えているのか、についてオルタナティブな視点を得た上で、学生さん達に議論を展開してもらった。このビデオは何度観ても色々考えさせられるのだが、今年割と視点が広がりつつある中で見ると、新たな発見が多かった。

一つは、「ひきこもり」を目的化して捉えることの危険性についてだ。多くの学生達にbefore/afterで意見を書いてもらっていたのだが、この問題について考える前は、「ひきこもり」=特殊な人、怠けている人、心の弱い人、自分とは遠い存在の人といった視点で学生達は捉えていたようだ。ここには、自分とは異なる立場であり、他人事である、という暗黙の前提がある。だが、「ひきこもり」の経験者・当事者達が語る「いじめだとか、そういう単純な理由ではない」「寒いから嫌だ、とか、化粧をするのが面倒だ、とかそういう理由が重なると外に出られない」「アル中さんと同じで、ひきこもることによって逃避しているんだけれど、逃げ切れない」と言った発言を聞く中で、学生達の「ひきこもりという結果」に到る方法論的な自らとの共通性を感じるようだ。講義後、「先生、引きこもりって、ネガティブではない一つの手段なのですね」と言ってくれた学生がいたが、まさに、「ひきこもり」を、一旦安定的な場所に後退する「手段」と捉えると、別の視点が見えてくる。ちょうどそれは「ひきこもり」の定義とも繋がる。

『「ひきこもり」のなかには、生物学的な要因が強く関与していて、適応に困難を感じ「ひきこもり」をはじめたという見方をすると理解しやすい状態もありますし、逆に環境の側に強いストレスがあって、「ひきこもり」という状態におちいっている、と考えた方が理解しやすい状態もあります。つまり、「ひきこもり」とは、病名ではなく、ましてや単一の疾患ではありません。また、「いじめのせい」「家族関係のせい」「病気のせい」と一つの原因で「ひきこもり」が生じるわけでもありません。生物学的要因、心理的要因、社会的要因などが、さまざまに絡み合って、「ひきこもり」という現象を生むのです。
ひきこもることによって、強いストレスをさけ、仮の安定を得ている、しかし同時に、そこからの離脱も難しくなっている、「ひきこもり」は、そのような特徴のある、多様性をもったメンタルヘルス(精神的健康)に関する問題ということが出来ましょう。』(出典:「10代・20代を中心とした「ひきこもり」をめぐる地域精神保健活動のガイドライン」国立精神・神経センター精神保健研究所社会復帰部)
www.ncnp.go.jp/nimh/fukki/pdf/guide.pdf

ひきこもると、「仮の安定」は得られる。だが、それはあくまで「仮の安定」にしか過ぎない。ビデオに出てくる「ひきこもり」経験者も、べてるの家で仲間に出会うことによって、「聞かれる話す話したい自分がいたと発見した」というプロセスを物語る。岡知史先生が整理したセルフヘルプグループの特徴である「同じ経験を持つ仲間同士の気持ち・情報・考え方のわかちあい」という基盤によって、「話すのも怖い」「拒絶感を考えたら話せなくなる」という状態から、「実は本当はかまってほしい、聞いて欲しい」という抑圧していた何かが表面化する。そうすると、「仮の安定」から離脱出来て、少しずつではあるが、本当の安定に向けた快復へと動き出す。そういうダイナミズムを、改めて感じることが出来た。

それから、今日ビデオを観ていて改めて気になったのが、「仲間がいると表に対する怖さが薄らぐ」という表現だ。「表」=常識や社会の主流の流れが支配する世界、と考えてみると、Social Orderというか同調圧力に強く晒されている今の日本社会の事を強く意識する。学生さん達もこの点に敏感だったようで、講義後のレポートで、「携帯やメールを返さなければという同調圧力を感じる」などと言ったコメントを寄せてくれた人もいたが、「化粧をする」「風呂を入る」のも、内発的なものだけでなく、「そうしなくちゃ、みんなの前に出れない」という意味での同調圧力的な要素もある、と再発見する。

この同調圧力に関して、ビデオに出てきた経験者達は「風呂に入ることによって一日一日に区切りをつけなくちゃならないことがしんどかった」と語っているのも、また象徴的だ。「風呂」も「自分が気持ちよくなりたい」という内在的論理だけでなく、「風呂に入って今日に区切りをつけ、明日から頑張らねば」という外在的論理で捉えると、風呂に入ることも内面に対する攻撃性を持つ要素になる。化粧にしてもしかり。「化粧しなければならない」というshould/mustで義務感的に捉えると、ついて行けなくなる。それが、「化粧」「風呂」からの撤退(=ひきこもり)という方法論で乗り越えるとすると、それもありかな、とわかるのである。個人の身だしなみにも象徴される同調圧力の強化の波に、「ひきこもり」という対抗戦略(=手段)を用いて抵抗している、と捉えれば、「ひきこもり」のコンテキストも大きく書き換えられるようだ。

常識に流れるドミナントストーリー。そのストーリーをいかに捉え直し、再解釈が可能か。ナラティブセラピーはその最たるものだが、語り直すことによって、これまでの常識をどうひっくり返し、再解釈し、再構成するか。これまでの常識が揺らいでいる今だからこそ、福祉的課題を通じて常識を再解釈・再構築する事の重要性、そしてマイノリティ経験の当事者の語りの持つ力、などを改めて考えた講義だった。何だか教員が一番勉強になったようであります。

「離脱」「発言」と「全制的施設」

週末、次の学会発表に使えそうなので、遅まきながらハーシュマンを読んだ。実にシンプルな論理だが、ステップを踏んでいく内に色々な場面で使えるロ
ジックとわかり、非常に面白い。少し、考えを整理するために、ややお勉強メモ風に書き進めていく。

「企業、その他の組織は、それらが機能する制度的枠組みがいかにうまくつくられていようと、衰退や衰弱、すなわち合理性・効率性・余剰生産エネル
ギーが徐々に喪失していく状況にいつも、そして不意にさられると考える」(ハーシュマン『離脱・発言・忠誠』ミネルヴァ書房、p14)

ハーシュマンは同書の標語を「たえず生まれてくるスラック生産者がいる」としている。スラック(slack)とは「緩んだ」「たるんだ」「いい加減
な」という意味なので、どんなに合理的な組織で制度やシステムがしっかりしていても、そういう「スラック」は生まれてくる、ということだ。確かにどこの組
織だって、何らかの組織的疲労を抱えていない組織はない。

その上で、スラックに対応するオプションとして「離脱(exit)オプション」と「発言(voice)オプション」の二つがある、とする。このうち
前者は、「ある企業の製品の購入をやめたり、メンバーがある組織から離れていく場合」を、後者は「広く訴えかけることによって、自らの不満を直接表明する
場合」を、各々指している(p4)。そしてスラックなシステムに対してこれまで経済学的には「離脱」が、政治学的には「発言」が、それぞれ対処方法として
好まれたとした上で、「離脱と発言、つまりは、市場力と非市場力、経済的メカニズムと政治的メカニズムとは、文字通り対等な力と重要性を持つ二つの主役と
して導入」(p18)することにしたのが同書の肝である。

ここから「離脱」と「発言」、そして「離脱」せずに「発言」をする背景にある「忠誠」の論理を、様々な例を用いて説明していくのだが、螺旋階段を少
しずつ拡大しながら昇っていくようで、実に面白い。以下、断片的に興味深い部分を拾っていくとしよう。

「品質の変化に対し需要があまりにも非弾力的である場合、収益低下はごくわずかなものとなる。したがって、何か間違ったことが起こっているという
メッセージを企業が受け取ることがないのは明らかであろう。」(p26)
「離脱するか否かの決定は、発言の行使が効果的なものとなるかどうかの見込み次第である場合が多くなるだろう。もし発言が効果的だと顧客が十分に納得すれ
ば、彼らがそのとき、離脱を延期するのも理にかなっている。」(p40)
「離脱オプションと比較して、発言は費用がかかるうえに、顧客・メンバーが購入先の企業、所属先の組織の内部で行使できる影響力・交渉力に左右され
る。」(p43)
「離脱には、でるか否かのはっきりとした意志決定以外に何も必要でないが、発言は、その本質上、常に新たな方向に進化していく一つの技芸(アート)であ
る。」(p47)

上記を自分の関わる仕事に当てはめたら、どのような事が言えるだろうか。

例えば障害者福祉サービスで言えば、特に重度障害のある方の地域生活支援を支えるサービスは、その量が不十分である場合が多い。すると、他に選択肢
がない故に、「離脱」も出来ないだけでなく、「発言」をすることへのリスクや恐れから、そもそも何も言わずに「お世話になってるから…」と「何も言えな
い」場合も少なくない。すると、「品質の低下」に対して「需要が非弾力的」、つまり「離脱」も「発言」もしない場合、「何か間違ったことが起こっていると
いうメッセージを企業が受け取ることがない」、ゆえに、「品質の低下」を改善しようとしない、組織のスラック化が進んでいくことになる。

あるいはもう少しサービス供給の多い介護保険サービスなら、「離脱」「発言」のオプションの双方が選択されているかもしれない。現に病院選択と同
様、「でるか否かのはっきりとした意志決定以外に何も必要でない」「離脱」というオプションは、デイサービスなどでは多く使われている、という。一方、
「発言は費用がかかるうえに、顧客・メンバーが購入先の企業、所属先の組織の内部で行使できる影響力・交渉力に左右される」。つまり、「離脱」に比べて
「時間」も「交渉力という手間」(=技芸)も必要とされる。すると、「発言の行使が効果的なものとなるかどうかの見込み」がなければ、黙って「離脱」する
だろう。

ただ、この議論を「全制的施設」に当てはめると、少し事態が複雑になる。

1950年代のアメリカの精神病院でのフィールドワークを行ったゴッフマンは、精神病院における患者と職員の関係、および精神病院の構造そのもの
が、刑務所や強制収容所、僧院などといった他の施設と類似していると気づいた。そして、「アサイラム」の中で、それらの施設を総称して全制的施設
(total institution)と名付け、その特徴として、次の4つがある、と整理した。

・生活の全局面が同一場所で同一権威に従って送られる。
・構成員の日常活動の各局面が同じ扱いを受け、同じ事を一緒にするように要求されている多くの他人の面前で進行する。
・毎日の活動の全局面が整然と計画され、一つの活動はあらかじめ決められた時間に次の活動に移る
・様々の強制される活動は、当該施設の公式目的を果たすように意図的に設計された単一の首尾一貫したプランにまとめ上げられている。(E・ゴッフマン
(1961=1984)『アサイラム−施設被収容者の日常世界』誠信書房、p4)

その上で、全制的施設においてはしばしば「無力化」が起こるという。

「個人の自己が無力化される過程は一般に、どの全制的施設においてもかなり標準化している。この種の過程を分析することによって、われわれは、通常
の営造物がその構成員に常人としての自己を維持させることを心掛けるとすれば、保証されなくてはならない仕組みはどんなものか、を知ることができるだろ
う。」(同上、p16)

ここからは、全制的施設においては基本的に「個人の自己が無力化される過程」がしばしば見られること。それは、上記の4つを果たす「どの全制的施設
においてもかなり標準化している」事態であること。さらには、それは「当該施設の公式目的を果たすように意図的に設計された単一の首尾一貫したプラン」の
中から結果的に産み出される「スラック」の個人への投影であること、などを読み取る事が出来る。

こういう全制的施設においては基本的に「離脱」も「発言」もままならない。このような組織をハーシュマンはギャングや全体主義的政党として例示して
いる。それらの組織では、「組織が離脱に対し高い代償を支払わせることが出来る」(ハーシュマン、同上、p103)。確かに「ここしかない」と言われ続け
ていれば、「離脱」はしにくい。そういうところでは、「発言」もしにくくなる、という。

「離脱費用が高いことによって、発言の効果的手段となる離脱の脅しが取り除かれてもいるので、こうした組織(ギャングや全体主義政党)では、発言も
離脱も両方とも抑えつけることが可能となる場合が多くなる。この過程で、こうした組織は、だいたいに置いて、二つの回復メカニズムを自ら剥ぎ取ってしま
う。」(同上、p104)

「離脱の脅しが取り除かれる」組織においては、「発言」も「抑えつけることが可能」であり、「二つの回復メカニズムを自ら剥ぎ取ってしまう」。この
事態は、少なからぬ全制的施設でも当てはまると思う。これを全制的施設の利用者から見ると、「そこ以外の場所では暮らせない」という「離脱オプション」が
そもそももぎ取られ、それであるが故に「お世話になっているから」と何も「言えず」、文句があってもじっと我慢して「忠誠」のスタイルになる。すると、全
制的施設の運営者側から「扱いやすい利用者」として遇される、現実的なメリットがあるがゆえに、ますます「発言」という手段を選ばず沈黙していく。そうい
う「発言」からの「離脱」が、全制的施設では見られるような気がするのだ。

では、このような事態には何も解決策がないのだろうか。それを、ハーシュマンはラルフ・ネーダーに代表される、「消費者オンブズマン」に求める。そ
のような「消費者の発言の制度化」をする手段として、次の三つがある、と指摘している。

「一つはネーダーのように独立した、進取の気性に富んだ人によって、また一つは公的な規制機関の再活性化を通じて、そしてもう一つは、一般市民に販
売を行っている、より重要な企業の側で予防的活動が強化されることを通じて、制度化されることになるだろう。」(p46)

介護保険施設のようにある程度の選択肢がある場合は、三つ目の「企業の側」」での「予防的活動」(市場調査や目安箱、利用者満足度を測る等)を取ろ
うとする動きがあるだろう。だが、選択肢が少ない「全制的施設」の場合、「進取の気性に富んだ人」による「発言」オプションの選択や、「公的な規制機関の
再活性化」がないと、うまく機能しない。しかも、全制的施設の住人は「発言」「離脱」のオプションが「剥ぎ取」られている場合も少なくない。であるからこ
そ、外部者による全制的施設の訪問活動やオンブズマン活動といった「発言」「離脱」の支援活動が大切になってくるのであり、その制度化も大切なのである。

とまあ、こんな感じである論文ではハーシュマンの議論を使おうと考えている。これくらいでお気づきの方には「またあんた、このテーマね」と言われそ
うだけれど…。

大著に刺激された連休最終日

 

連休最終日の今日も「スーパーあずさ」の中。今日は甲府から新宿の上り列車は満席だったので、指定席を取っておいた価値があったが、帰りのこの列車は指定席も自由席もガラガラ。ならば、自由席にしておくべきだった。とはいえ、連休中の混雑具合をよくわかっていなかったので、連休中の列車は全て指定席を取る。27日から確か明日まで「あずさ回数券」は使えないのだが、その間、27日は国の会議で、29日は打ち合わせ、1日と今日5日は勉強会で、都合4回も東京に向かう日々だったので、回数券が使えないのは痛い。だって、指定席をとったら、2往復で16000円超え。ちなみに回数券は6枚綴りで16800円。細かい話で恐縮だが、でも1往復分が安くなるのは、僕にとっては大きな違い。連休中は出費多端でございました。

だが、文字通り自腹を切っても今日の勉強会は価値があった。今日の勉強会のネタは、全部で485ページある大著であり、全米障害者運動の軌跡という副題が付けられた『哀れみはいらない』(シャピロ著、現代書館)。著者のシャピロ氏はジャーナリストだけあって、広範な取材に基づきながら、インパクトのある見出しと引きつける内容で、読者をグイグイと引き込んでいく。以前のブログで我が師匠大熊一夫氏の名言「文章は省略と誇張だ」を紹介したが、まさにそのジャーナリスト魂が籠もっている大作である。この本は原作が93年、翻訳が出たのが99年と10年前の本だ。僕自身、7,8年前に読んでいて、その時も感動しながら読んだが、今回再読して、以前は全く読めていなかった事に改めて気づかされた。以前に何が読めていて、どこを読み落としていたのか、という事に触れながら、この本やそれをダシに展開された今日の勉強会の議論を振り返ってみたい。

例えば第一章からして、なかなか刺激的なタイトルである。「ちっぽけなティム、超がんばりやのかたわ、そして哀れみが終わるとき」。いきなり放送コードに引っかかる文言が飛び込んでいく。ポリオ撲滅運動に使われた「ポスターチャイルド」の障害者自身のエピソードから始まるこの章では、慈善や哀れみの対象としての障害者から、障害者像がどのように変容していったか、をインタビューやエピソード紹介を通じて掘り下げていく。その例として出された「テレソン」は、日本の某局が行っている「24時間テレビ」のモデルになったチャリティー番組である。洋の東西を問わず、スタート当初は「かわいそうな障害者」という取り上げ方をされていたが、そこから「障害を持ってもそれを克服しようとする障害者」、そして今では「障害がある人でも社会参加を」という風に取り上げ方が変わってきている。その背景に、障害者自身の固定観念との闘いや権利獲得運動が密接に結びついている、と整理してくれる。

ここからは、ネガとポジの両方の議論で盛り上がっていた。「障害者をこういう風に扱って欲しくない」という抗議運動と、でもそうすることで差別が隠蔽されてしまう、という論点である。障害のある人とのおつきあいがほとんどない人にとって、障害者のイメージは良くも悪くもテレビなどのメディアを通じての出会いになる。そこで例えば精神障害者を「わけのわからぬ殺人者」のようなステレオタイプで描くドラマがあるとすると(実際にいくつもあったのだが)、そういうイメージが強固なものになる。だが、国民的アイドル時代の酒井法子が手話を使っていたドラマによって、聴覚障害者の理解がかなり進んだ側面もある。どちらにせよ、テレビというメディアはイメージの増幅器の為、うまく使えば普及啓発に、逆方向では差別偏見に、大いに「役立つ」装置である。一方、この章のタイトルにもある「かたわ」をはじめ、障害者関連の幾つかの用語は「放送禁止用語」として登録され、実際にテレビに出てこない。このあたりは森達也の『放送禁止歌』に詳しく書かれているが、こういう「言葉狩り」をする事によって、差別が解消されるどころか、むしろ言葉を使わないことによって何となく議論を誤魔化し、差別の実態と正面から向き合わない事態が生じていることも、また、事実である。一方で、マスコミの取り上げ方次第で、「哀れみの対象」にも、「社会参加している普通の人」にも、パラリンピックの日本代表のように「一流選手」にも取り上げ可能だし、「放送禁止コード」でそもそも「無かったこと」にされる事も可能であるのだ。

実はこの研究会には障害者支援の中間組織NPOの関係者もいたので、そもそもNPOのアドボカシー側面や、そこにおける広報戦略に、議論が飛躍していく。障害者のことをもっと知って欲しい、という普及啓発をするにあたって、これまでNPOの宣伝戦略は下手くそではなかったか、と。例えばアートやメディア、広告代理店などのPR戦略のプロときっちりと障害者NPOが連携出来ていたか、と。今、NPOのパブリシティ戦略を支援するNPOも出始めているが、そういう広報や宣伝などのイメージ戦略にどれほど障害者NPOが自覚的であるか、も問われているよね、と議論が展開する。当日体調不良で不参加だった、アートにも造詣の深いHさんが、そういえばそういう視点の重要性を訴えておられたことを思い出す。このあたりは、僕自身の勉強課題でもある。

で、全章をこの感じで紹介するのは時間がかかるので、特に議論がふくらんだ章をあと1つ2つ、ご紹介する事にしよう。

4章「障害者の公民権確立に尽くした『隠れ軍隊』」では、差別禁止法である「障害を持つアメリカ人法(Americans with Disabilities Act: ADA)が90年に成立するまでに、いかに多くの障害当事者だけでなく、民主・共和双方の議員や、彼ら彼女らに説得するロビースト、弁護士などの多様なステークホルダーが動いてきたか、という事についての物語が展開される。実はこのADAの興味深い点は、共和党政権のパパブッシュ時代に、与野党の賛成多数で成立した、という点である。その際、次のような戦略がとられていたのは興味深い。話はADA以前の共和党レーガン政権時代、ADAの前身とも言われた、公共施設への障害者アクセスの義務づけをしたリハビリテーション法504条の履行を巡る闘いを巡るエピソードである。

「ブッシュ副大統領との交渉の場で保守派のレトリックを使った。障害者は自立を求めている。福祉による依存から脱却して仕事を得たがっている。行政からのパターナリスティックな援助はいらない。こう言った。(略)ブッシュの目からうろこが落ちたのは、今の障害者は従来の利益集団のように官僚を説き伏せて言いなりにさせることを求めていない、自分たちの力を付けたい(セルフ・エンパワーメント)のだと言われた時だった。」(同上、p180-181)

実はこのことは、ADAが施行後のほぼ20年間の動きをフォローした本にも、次のように書かれていた。

「アメリカの障害者権利獲得運動のレトリックの多くが、自分を恃むこと(self-reliance)や自立(independence)などの極めて保守的な用語に焦点化されているし、ADAは年々強まりつつある福祉(削減)改革を求める政治状況の中で採択された。障害者の権利獲得運動は革新的な目標を持っていたが、そこで使われたレトリックは伝統的な正当性をもって保守派に訴えかけるものが使われた。」(Bagenstos “Law and the contradictions of the disability rights movements” Yale University Press)

アメリカの障害者権利獲得運動が、ADAという形で差別禁止法を、世界に先駆けて90年に生み出す土壌に、アメリカらしい開拓者精神に適合的な「自分を恃むこと(self-reliance)や自立(independence)」というレトリックが用いられた事。それが「福祉による依存から脱却して仕事を得たがっている。行政からのパターナリスティックな援助はいらない。」という独立独歩の思想に結びつく形で展開されたこと。こういう保守派も納得するフレーズが使われた点が大きかった、というのも、読んでいて興味深い点だった。ただ、Bagenstosの本では、その後のADAの展開がうまくいかない理由として、最高裁判所がこの法律の効力を弱めた事に加えて、ADAだけでは何ともならない問題、を指摘している。このに関しては、例えばパーソナル・アシスタントや移動支援というような、職場にたどり着く前の身辺介助や移動手段の確保は福祉領域の問題であり、その部分が差別禁止法で解消されず、むしろ90年代の財政赤字と福祉削減の潮流の中でより厳しい状態に追い込まれ、障害者雇用率が格段に進まなかった事を指摘している。

おそらく、我が国に議論を引きつけるなら、障害者に対する差別を禁止する法律だけではなく、スウェーデンのように障害者への福祉サービスを権利として保障するサービス法が求められている、と整理出来るだろう。今、内閣府が設置した障がい者制度改革推進会議において、親会では差別禁止法とサービス法の双方が議論され、先月から後者の内容を集中的に議論する総合福祉法部会も設置された。僕自身、その部会の委員にも就任したので、上記の議論はとても他山の石には思えない。もちろん「自立」は大切だが、経済的自立やADLの自立以外にも、自立生活運動が提起した「自己決定・自己管理の自立」がある。この「自己決定の自立」は「行政からのパターナリスティックな援助はいらない」という議論に適合的だが、でも、それだけを言うと、自己決定や自己管理が苦手な当事者はどなるのか、という議論につながる。このことについて、以前ある教科書の中で、こんな風に整理した事がある。

「これまで自立生活運動の流れを汲んだ新しい自立観について見てきた。だが、「自己決定」にハンディのある障害者もいる。重度の知的障害や精神障害のいずれか、あるいは両方ともがある人など、「自分で決める」ということについても、不可能ではないが、多くの支援が必要だ。例えば24時間介護が必要で、かつ言語的コミュニケーションが難しい重症心身障害児(者)と呼ばれる方々の地域自立生活支援においては、その方の快不快を支援者が読みとった上で、その方の最適な生活を組み立てることが必要とされている。このような重度な障害を持っていても、その地域でその人らしい個性を持ち、尊厳を持って暮らせるように支援していく、という「個性や尊厳の自立」の支援も大切な課題である、といえる。」(竹端寛「障害者福祉の理念」『シリーズ基礎からの社会福祉 障害者福祉論』ミネルヴァ書房)

「自己決定の自立」だけが重視されると、その「自己決定」やコミュニケーションによる選択の指示が苦手だったり出来なかったり聞き取りづらい人の意見はないがしろにされるおそれはある。アメリカの障害者福祉のダークサイドは、そういう人がナーシングホームに閉じこめられていて、そこから出てこれない、という「幸・不幸の分水嶺」(第10章)がある。それは保守的な「自立」思想ともある意味結びついているADAでは解消出来ない部分でもある。そこで、「自立」の4つめの柱として、「個性や尊厳の自立」という柱を立ててみたのである。ついでにいうと、この「個性や尊厳の自立」については、北野誠一先生の議論に引き寄せながら、以下のようにも整理してみた。

「「自立生活支援モデル」について北野は「身体障害者が『やりにくい時』だけでなく、知的障害者や精神障害者が『分かりづらい』時に、支援者による障害者の個性と関心に基づいた情報提供や情報解説によって、本人の自己意志や自己選択が表明できるまで支援を活用すること」と述べている。これは、「自己決定」にハンディのある障害者への支援、という点で、「個性や尊厳の自立」と同じである、と言えよう。」(竹端、同上)

おそらく「個性や尊厳の自立」を射程に入れた際、ADAのような差別禁止の法制度でカバー出来る部分と、それとは別の福祉分野でのサービス法による支援の双方がくっつかないと、うまくいかない。「福祉からの依存の脱却」の論理だけでは生活出来ない重度障害者の事を見据えたシステム検討が強く求められている。この本を読みながら、改めてそのことを感じた。

こう書いていたら、既にいつもの文章量の倍になってしまったので、今日はこの辺で。とにかく、様々な論点を触発させられる大著だった。

内省的・生成的対話に向けて

 

最近、「対話」的環境について考えていたら、良い本に出会った。

「私たちは、すべてのステークホルダーの人間性と自分自身の人間性に目を向け、耳を傾け、心を開き、受け入れない限り、人間の複雑な問題に対する創造的な解決策を生み出すことは出来ません。創造性を発揮するには、私たちの自己のすべてを必要とします。」(アダム・カヘン『手ごわい問題は、対話で解決する』ヒューマンバリュー、p136

本のキャッチコピーに書いてあるとおり、著者カヘン氏は「アパルトヘイトを解決に導いたファシリテーター」である。そのカヘン氏が、数多くのファシリテーションの成功と失敗を眺めながら、最終的にうまくいくかどうか、は、互いが囚われから「オープンネス」になって、相手の話を「聴くこと」。自分の本当の想いや願い、本音を率直に「話すこと」。それに基づいて、参加者が内省}(reflection)の中から自分自身の囚われに気づき、新たな考えや相手の意見も共感を持って受け容れること。その共通の土台の構築が、真の問題の解決であること、を伝えてくれている。

また、オットー・シャーマー氏による聴き方の4分類も興味深い。一つ目の「ダウンローディング」とは、「自分のストーリーを支持するようなストーリーだけを聞き流す」こと。二つ目の「ディベーティング」は、討論会や法廷のように「外側から」互いの話を聴く。この二つは、「既存の考えや現実をただ単に提示し、再生しているだけで、何も新しいものを生み出」さない、とした上で、次の2つの聴き方が大切という。それは、三つ目の「内省的な対話」であり、「自分自身の声を内省的に聴き、他の人の話を共感的に聴く」こと。四つ目は、「生成的な対話」であり、「自分や他の人の内側から聴くばかりでなく、『システム全体』から聴く」ということである。(同上、p138-139)

我が身に振り返って考えてみると、自分自身が余裕もなく器の小さい、偏見や先入観に固執している時には、確かに自分に都合の良い情報のみを収集する、という意味で、「ダウンローディング」そのものだった。これがアブナイのは、どの情報を入れても、「ほら、やっぱりその通り」という妄想の肥大化に直結する聴き方である、という点である。自らの枠組みの「怪しさ」「不安定さ」「偏狭さ」に疑いの余地を持たないが故に、全く非妥協的であり、文字通り「議論の余地がない」。そういう矮小さに満ち溢れていたら、やがて一人、二人と自分の周りから人が消えていくだけである。

次の「ディベーティング」に必死になる事も、片腹痛い話だが、よくわかる。特に、「僕の方を見てよ」という自己顕示欲が強くなった時、とにかく自分に振り向かせる為に、対話の場面で、「外側から」互いの話を聴き、自らのストーリーにくっつける為に、時には大げさに批判したり、無理矢理自分に引きつけた議論をする。ディベートと同じように結論は「私は正しい」と最初から決まっているのだから、その「正しさ」に合致させるように、説き伏せ、ねじ込み、否定する。こういう聴き方は、正直言って自分自身の内面の「フラジャイル」な感受性の豊かさのかなりの部分に蓋をしたり抑圧して、一面的な自己の強化にしか適していない。だが、その戦略が成功したら、ある程度の喝采を世間から浴び、それと同時に嫌悪感も植え付ける。個人的な好き嫌いはないが、勝間和代氏の言動に「ついていけない」と感じるのは、おそらく彼女が「ディベーティング」のプロとして世に出ているからなような気がする。

で、3つ目の「内省的対話」。これは、僕自身はこのブログを開設して5年が過ぎたが、ある時期から意識し続けてきたことでもある。これは、僕がこの5年間で大きく影響を受けた内田樹氏の次の見方にもダイレクトに繋がっている。

「私たちは知性を計量するとき、その人の『真剣さ』や『情報量』や『現場経験』などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。」(「ためらいの倫理学」内田樹著、角川文庫)

「内省的」というのは、自分自身の限界にどれくらい自覚的であるか、という事に近いと思う。このブログでは繰り返し書いてきたのだが、「○○は悪い」「△△はダメだ」と批判する時、その批判をしている主体である己の「正しさ」の無謬性に無自覚である事が少なくない。You are wrong!の背後にあるI am right!の絶対性への問い。それが「自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか」につながる。そして、そういう疑いの眼差しを、他者への批判の時と同じくらいの熱心さで、自分自身にも向けることが出来る時、真に「知性的」である、という内田師の発言は、心から納得する。僕自身、このブログを書くという、ある種の自己治癒的な行為を通じて、自身の無謬性への自覚に至る流れに自覚的であったし、そのことに気づく中で、自分とは異なる立場の「他者」がなぜ、そのような発言をするか、その発言事態には否定的であっても、発言主体に対しては理解して、「そう言わざるを得ないのだなぁ」と共感的に聴けるようになってきた。

そして4つ目の「生成的な対話」。これは、自分自身がここ数年のチャレンジの中で、問われ続けている課題でもある。「自分や他の人の内側から聴くばかりでなく、『システム全体』から聴く」。このことは、本当に耳を澄ませないと、なかなか出来にくい。特定の個人であれば、仲良くなれば、先の「内省的な対話」は出来る。あるいは、ある著者との「対話」であっても、その著作をずっと読み続ける中で、「仮想的」であっても、自分自身が気づかされるという意味での「内省的対話」は出来ると思う。僕はそのことを村上春樹や池田晶子、内田樹といった「書き手」から沢山学んだ。だが、何らかの「渦」や「物語」を創り出そうとすると、個人の「内省的対話」では済まされない。まさしく「『システム全体』から聴く」ことが求められる。

山梨で障害者福祉に関する県の特別アドバイザーをして3年が立つ。その中で、ある時期から一貫して取りくみ続けたのが、「『システム全体』から聴く」ことであった。当事者、家族、支援者、市町村、県、民生委員様々なアクターの声を聴き続ける中で、個々のお立場やバイアスの限界が見え、それと同時に何となくの全体像というマッピングが、自分の中で、ボンヤリとではあるが、見えてきた。その時、時として個々のステークホルダーに反発されることがあっても、「『システム全体』から聴く」中で、必要と思われる事を選択し、取り組んできた局面もあった。なぜそう思うの、と聴かれて、理路整然とした一応の答えは準備していても、率直なところ「何となくそんな感じがするから」としか思えないで、判断した局面もあった。だが、それでもこけずに何とか展開してきたのは、多少なりとも僕自身が「『システム全体』から聴く」という姿勢を取ってきたから、のような気がする。これは、三重県の特別アドバイザーの仕事の展開でも、同様の事を感じる。

こう振り返ってみると、冒頭のカヘン氏の整理は、文字通り他人事ではなく、自分事として納得する整理だ。

「私たちは、すべてのステークホルダーの人間性と自分自身の人間性に目を向け、耳を傾け、心を開き、受け入れない限り、人間の複雑な問題に対する創造的な解決策を生み出すことは出来ません。」

そう、「耳を傾け、心を開き、受け入れ」るためには、相手と己の「人間性」に目を向ける必要がある。そして、その為にもまずは己の「人間性」のバイアスを、否定も肯定もせずに、あるがままとして認識する必要がある。そして、そのバイアスを強く意識した上で、相手のバイアスにも目を向け、それも否定せずに「あるがまま」として認識する。そうすると、思惑や立場の粉飾を取り払った、議論の流れや渦のようなものが微かにではあるが、感じられてくる。大切なのは、その渦や流れを見つけたら、躊躇せずに飛び込んで、波に乗る、ということなのだ。そういう意味でも、「創造性を発揮するには、私たちの自己のすべてを必要」というのにも、深く同意する。文字通り全身全霊をかけて自分自身を投げ込まないと、何らかの「創造性」には至らないのである。その際、自分の中での躊躇や蓋をした何か、が一番の足かせになることも少なくない。

「これらの事例に共通していたことは、自分の仕事のより大きな目的は何であったかを参加者が思い出し、さらに、なぜそれが個人、また全体にとって重要なのかを感じたり、思い出したりすることが出来たことです。そして、それは、彼らが共有するコミットメントの源となりました。困難な問題を解決するためには、共有化された新しい考え方以上のもの、共有化されたコミットメントが必要なのです。また、全体性に対する感性やそれが私たちに何を求めているのかを感じる力を磨く必要もあります。」(同上、p156-157)

問題が困難である場合、目の前の困難性にのみ目が行き、その中で己の立場の正当性と相手の不当性についての互いの議論の応酬でおわる場合が少なくない。だが、現実は、誰かが一つの絶対的正解をもっている訳ではないからこそ、解決が困難なのだ。であれば、参加者に共通する「より大きな目的は何であったか」という一歩引いた俯瞰的な視点に立ち、その俯瞰的視点から、己のすべき「コミットメント」とは何か、を気づく事が、事態打開の「渦」のコアになる。その「共有化されたコミットメント」という名の「渦」さえ出来てしまえば、あとはその「渦」の流れに耳を澄ませ、感じる力を磨く中で、その「渦」が自生し、育まれていく。時にはバックラッシュ的揺り戻しがあっても、「全体性」という名の「渦」を信じて、その流れに棹せずに載っていけば、きっと「より大きな目的」にたどり着ける。その方法論は当初予期した内容とは違っても、「渦」の共有があれば、そこから何かが創発される。そう感じている。

この渦作りは、市町村や都道府県レベルであっても、安易ではない。ましてや、国レベルに置いて、をや。介護保険制度や障害者自立支援法など、高齢者・障害者システムは、今多いに揺れている。ただ、多くの論者が疲弊的現実を前にして、「より大きな目的」を忘れてはいないか、が気になる。その上で、自身のパースペクティブを絶対化する「ダウンローディング」や、乱暴な正当化の為の「ディベーティング」に終始してはいないか、が気になる。方法論的差異を闘うより、大切なのは「より大きな目的」を実現する為の手段を構築するために、「共有化されたコミットメント」をどう生み出すか、という「内省的な対話」である。そして、それに基づいて、どういう苦しい局面でも、新たな方法論を産み出す為に連携する「生成的対話」である。この何かが生まれる「渦」にちゃんと「波乗り」出来るか、が、「手ごわい問題」を「解決」できるかどうか、に、大きく結びついている。そんなことを学んだ一冊であった。

述語的な編集能力

 

昨晩、ツイッター上で、『支援者は「黒子の専門家」たるべし』、と呟いたら多くの反応があった。今朝起きて、その反応を色々眺めながら考えていたのだが、その背景に、少し前にも書いた主語と述語の関係があるような気がする。で、僕は自分でもこのブログで何を書いたかわからなくなると、「サイト内の検索」をかけてみるのだが、今回「述語的」でひいてみると、1年前のエントリーが出てきた。何だっけ、とすっかり自分が書いた事も忘れてみてみると、こんな事が書いてあった。

木村氏は、私というものを、主語的なものと述語的なことの二つから構成される、としている。アイデンティティとか私の唯一無二性という時、それは主語としての、取り替えの効かない「もの」としての私であり、彼はそのことを「リアリティ」と呼んでいる。そして、それ以外に、リアリティを持った私が、いろいろな現場で、様々な人や出来事との「あいだ」で繰り広げられる多元的な現実は、述語的な「こと」であるという。私は同じでも、することは、その時々で違ってくる。職業人をする、家庭人をする、職業と言っても僕で言えば、研究する、教育する、実践するといった様々な「する」から成り立っている。この時々によって違う「する」の現実を、先のリアリティに対比させて「アクチュアリティ」と呼んでいる。
(「私の両義性」http://www.surume.org/column/blog/archives/2009/03/post_343.html

この木村氏というのは、「あいだ」論で有名な木村敏氏。氏の語り起こし本である『臨床哲学の知』(洋泉社)に触れて、上のように整理していた、ようだ。何せ1年前のエントリーなので、すっかり忘れていた。で、今回少し気になって当該部分を読み直してみる。するとこの述語的な自己としてのアクチュアリティについて、なかなか興味深い論が出ていた。

「主語の『私』はそこにつけられる述語がどのようなものであれ、いつも固定的な同一性に閉じこめられた『もの』だといっていいでしょう。(略)このリアリティは固定的なものですから、生命的ななまなましさには欠けています。」(木村敏、前掲、p25)
「述語という物は、判断がそこにおいて営まれる、主体的な自己という場がなければ成り立たない。その意味では、あまねく客観的に成り立っている訳ではないのです。合奏でも演劇でもそうですが、この述語的な感覚で捉えられた、いまここでその『こと』が生じている主体的な場所としての『自己』、これをわたしは『述語的な自己』という言葉で表現している」(木村敏、同上、p27)

木村氏によれば、「主語的な自己」は「固定的な同一性に閉じこめられた『もの』」、一方で「述語的な自己」は、「その『こと』が生じている主体的な場所としての『自己』」である、という。そしてその「主体的な場所」においては、客観的ではなく、「判断がそこにおいて営まれる」という。少し前にも書いたが、「主語的」な心性というのは、「我が我が」という「固定的な同一性」を全面展開することである。その際、周りの人々は、いくらその「我」が有名であっても、「同一性」の押しの強さに嫌になることもある。それは、「固定的な同一性に閉じこめられた『もの』」に対する嫌悪感であり、他との対話を拒否した「もの」の「生命的ななまなましさには欠け」ている事に関する違和感でもあるような気がする。

一方、「述語的な自己」とは、「『こと』が生じている主体的な場所としての『自己』」である、という。「我が我が」と固定化された何かを押しつけることはないが、そこで行われている様々な「こと」を客観的に傍観するのではなく、主体的に判断しながら、その「こと」に積極的に参与していく。しかし、あくまでも「主語的な同一性」に固着化するのではなく、合奏や演劇のように、他との「あいだ」、全体との「あいだ」の文脈を読み込みながら、「生命的ななまなましさ」を一緒に創り出していく。そういう述語的心性は、こないだ引用した松岡正剛氏の考え方と、極めて近い。

「私たちは主語を強調したことで、思索の主体を獲得したように見えて、かえってそこでは編集能力を失い、むしろ述語的になっているときにすぐれて編集的なはたらきをしているはずなのである。」(松岡正剛『知の編集工学』朝日文庫 p279)

つまり、主語的な「我が我が」という事に固執すると、「かえってそこでは編集能力を失」うという。むしろ、述語的な心性でいると、アクチュアリティのある、「生命的ななまなましさ」をもった「編集的なはたらき」が可能である、という。

長く二つの論を引用したが、僕は「黒子という専門家」で言いたかったのは、支援者やソーシャルワーカーは、編集者に似ている、ということだ。あくまでも目的は対象者の魅力の最大化。その為に、黒子としてコンテキストの調整や見立てを行う。「我が我が」という「リアリティ」を編集者が強調していては、編集対象の著者や登場人物の「アクチュアリティ」は散逸する。あくまでも、目的は対象者の「アクチュアリティ」やその魅力を最大限に活かす「こと」であり、その目的遂行のための手段として、主体的に判断しながら様々な「こと」を遂行していく。この「述語的な自己」を持つ人こそ、名編集者と言われるのだ。そして、これはそのまま支援者論にもつながる。

よい支援者は、決して己の「我が我が」を強調しない。あくまでの対象者のライフ・ヒストリーをまずはじっくり読み込む。対象者の「主語」が「いま・ここ」に至までの「こと」の歴史を読み込んだ上で、困難課題となっている「こと」をどうしたら解きほぐし、「いま・ここ」ではないオルタナティブな状態を構築出来るか、を主体的に判断して、支援プログラムに落とし込んでいく。その支援の「アクチュアリティ」は、対象者の「いま・ここ」に合わせたオートクチュール的な一回性であり、あくまでも対象者の「主語」を引き立たせる為の支援者の「述語」的な編集能力に基づく「一回性」の創出である。そういう優れた「述語的(=黒子的)編集者」能力を、私がこれまで出会ってきた尊敬すべき支援者の方々は持っている、そんな風に感じるのだ。

そう考えたら、述語的な編集能力を持っている支援者には、対象者とその環境を読み解く文脈把握力というリテラシーの高さが要求される。これは、共感力と同じで、テキストには落とし込めないし学校でも教えられない「職人技」的なものではないか。支援者の質の向上の文脈で標準化・規格化の議論がされる際、僕がその議論に馴染みにくいのは、標準化された「科学的な知」からは、この「述語的編集能力」がこぼれ落ちてしまうから、である。論理的な思考能力、エビデンス・ベースドな知識の取得という標準化・規格化は前提条件で、その上で「我こそは専門家」という「リアリティ」に固執せず、対象者の魅力の最大化を目指す「アクチュアリティ」を支援者がどう持てるのか。このあたりが課題のような気がする。