述語的な編集能力

 

昨晩、ツイッター上で、『支援者は「黒子の専門家」たるべし』、と呟いたら多くの反応があった。今朝起きて、その反応を色々眺めながら考えていたのだが、その背景に、少し前にも書いた主語と述語の関係があるような気がする。で、僕は自分でもこのブログで何を書いたかわからなくなると、「サイト内の検索」をかけてみるのだが、今回「述語的」でひいてみると、1年前のエントリーが出てきた。何だっけ、とすっかり自分が書いた事も忘れてみてみると、こんな事が書いてあった。

木村氏は、私というものを、主語的なものと述語的なことの二つから構成される、としている。アイデンティティとか私の唯一無二性という時、それは主語としての、取り替えの効かない「もの」としての私であり、彼はそのことを「リアリティ」と呼んでいる。そして、それ以外に、リアリティを持った私が、いろいろな現場で、様々な人や出来事との「あいだ」で繰り広げられる多元的な現実は、述語的な「こと」であるという。私は同じでも、することは、その時々で違ってくる。職業人をする、家庭人をする、職業と言っても僕で言えば、研究する、教育する、実践するといった様々な「する」から成り立っている。この時々によって違う「する」の現実を、先のリアリティに対比させて「アクチュアリティ」と呼んでいる。
(「私の両義性」http://www.surume.org/column/blog/archives/2009/03/post_343.html

この木村氏というのは、「あいだ」論で有名な木村敏氏。氏の語り起こし本である『臨床哲学の知』(洋泉社)に触れて、上のように整理していた、ようだ。何せ1年前のエントリーなので、すっかり忘れていた。で、今回少し気になって当該部分を読み直してみる。するとこの述語的な自己としてのアクチュアリティについて、なかなか興味深い論が出ていた。

「主語の『私』はそこにつけられる述語がどのようなものであれ、いつも固定的な同一性に閉じこめられた『もの』だといっていいでしょう。(略)このリアリティは固定的なものですから、生命的ななまなましさには欠けています。」(木村敏、前掲、p25)
「述語という物は、判断がそこにおいて営まれる、主体的な自己という場がなければ成り立たない。その意味では、あまねく客観的に成り立っている訳ではないのです。合奏でも演劇でもそうですが、この述語的な感覚で捉えられた、いまここでその『こと』が生じている主体的な場所としての『自己』、これをわたしは『述語的な自己』という言葉で表現している」(木村敏、同上、p27)

木村氏によれば、「主語的な自己」は「固定的な同一性に閉じこめられた『もの』」、一方で「述語的な自己」は、「その『こと』が生じている主体的な場所としての『自己』」である、という。そしてその「主体的な場所」においては、客観的ではなく、「判断がそこにおいて営まれる」という。少し前にも書いたが、「主語的」な心性というのは、「我が我が」という「固定的な同一性」を全面展開することである。その際、周りの人々は、いくらその「我」が有名であっても、「同一性」の押しの強さに嫌になることもある。それは、「固定的な同一性に閉じこめられた『もの』」に対する嫌悪感であり、他との対話を拒否した「もの」の「生命的ななまなましさには欠け」ている事に関する違和感でもあるような気がする。

一方、「述語的な自己」とは、「『こと』が生じている主体的な場所としての『自己』」である、という。「我が我が」と固定化された何かを押しつけることはないが、そこで行われている様々な「こと」を客観的に傍観するのではなく、主体的に判断しながら、その「こと」に積極的に参与していく。しかし、あくまでも「主語的な同一性」に固着化するのではなく、合奏や演劇のように、他との「あいだ」、全体との「あいだ」の文脈を読み込みながら、「生命的ななまなましさ」を一緒に創り出していく。そういう述語的心性は、こないだ引用した松岡正剛氏の考え方と、極めて近い。

「私たちは主語を強調したことで、思索の主体を獲得したように見えて、かえってそこでは編集能力を失い、むしろ述語的になっているときにすぐれて編集的なはたらきをしているはずなのである。」(松岡正剛『知の編集工学』朝日文庫 p279)

つまり、主語的な「我が我が」という事に固執すると、「かえってそこでは編集能力を失」うという。むしろ、述語的な心性でいると、アクチュアリティのある、「生命的ななまなましさ」をもった「編集的なはたらき」が可能である、という。

長く二つの論を引用したが、僕は「黒子という専門家」で言いたかったのは、支援者やソーシャルワーカーは、編集者に似ている、ということだ。あくまでも目的は対象者の魅力の最大化。その為に、黒子としてコンテキストの調整や見立てを行う。「我が我が」という「リアリティ」を編集者が強調していては、編集対象の著者や登場人物の「アクチュアリティ」は散逸する。あくまでも、目的は対象者の「アクチュアリティ」やその魅力を最大限に活かす「こと」であり、その目的遂行のための手段として、主体的に判断しながら様々な「こと」を遂行していく。この「述語的な自己」を持つ人こそ、名編集者と言われるのだ。そして、これはそのまま支援者論にもつながる。

よい支援者は、決して己の「我が我が」を強調しない。あくまでの対象者のライフ・ヒストリーをまずはじっくり読み込む。対象者の「主語」が「いま・ここ」に至までの「こと」の歴史を読み込んだ上で、困難課題となっている「こと」をどうしたら解きほぐし、「いま・ここ」ではないオルタナティブな状態を構築出来るか、を主体的に判断して、支援プログラムに落とし込んでいく。その支援の「アクチュアリティ」は、対象者の「いま・ここ」に合わせたオートクチュール的な一回性であり、あくまでも対象者の「主語」を引き立たせる為の支援者の「述語」的な編集能力に基づく「一回性」の創出である。そういう優れた「述語的(=黒子的)編集者」能力を、私がこれまで出会ってきた尊敬すべき支援者の方々は持っている、そんな風に感じるのだ。

そう考えたら、述語的な編集能力を持っている支援者には、対象者とその環境を読み解く文脈把握力というリテラシーの高さが要求される。これは、共感力と同じで、テキストには落とし込めないし学校でも教えられない「職人技」的なものではないか。支援者の質の向上の文脈で標準化・規格化の議論がされる際、僕がその議論に馴染みにくいのは、標準化された「科学的な知」からは、この「述語的編集能力」がこぼれ落ちてしまうから、である。論理的な思考能力、エビデンス・ベースドな知識の取得という標準化・規格化は前提条件で、その上で「我こそは専門家」という「リアリティ」に固執せず、対象者の魅力の最大化を目指す「アクチュアリティ」を支援者がどう持てるのか。このあたりが課題のような気がする。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。