今は幅より奥行き志向です

久し振りに月曜の朝にブログを書いている。

ここしばらく、〆切やら急ぎの仕事やら出張やらに忙殺されている日々。ま、ブログで書くのを忘れていたけれど、その間に6月の最初の週末から先週の
月曜日にかけて、沖縄に遊びに出かけた。やちむんも沢山買い込み、何だかアウトレットでしか服を買う暇がない日々なので!?、いつもの定番あしびなアウト
レットでも、半袖シャツ2枚にサマージャケット、ジーンズをゲット。ダイエット効果は有り難いが1月に80.8キロあった体重が今朝測ったら71.2キロ
なので、ズボンがユルユル。よって、すごくスリムなジーンズをゲットしたのである。不退転の決意だ。

不思議なもので、9キロのバーベルを身体から外しただけでなく、心も少し軽くなったような気がする。以前より疲れにくくなったし、あと以前より同じ
服を着ても、似合う度合いが増えてきたような。別に服装にそれほど気を遣っているわけではないが、それでもシンプルで清潔感がある方が、自分もシャンとす
るし、気持ちがよい。そして、何と言ってよいかわからないが、そういう気持ちの良さの中から、良い流れや渦のようなものが巡ってくるような気がする。だか
らこそ、バカ高い服は買わない・買えないけど、質の良い服を丁寧に着たい、と思う。

と、ここまで書いて分かれ道。さて、ここからどう書き進めるか、で手が止まる。実は、これはツイッターでも同様の現象なのだが、「内面の事を書く」
「対社会的なことを書く」の二つに分けるなら、多分読者に向けると後者がいいのだろうが、今の自分は前者ばかりがこんこんと沸いてくるのだ。ま、今までも
ブログは割と前者が多かったので今更、と言われそうだが、今日は少しその「分かれ道」についてメタ的な分析をしてみよう、と今、決める。

ツイッターでもブログでも、より多くの読者を引きつけるのは、「内面」であれ「対社会的」であれ、読者という他者にアクセスするポイントが多ければ
多いほど、興味深い。僕はこれまでブログを多く覗くタイプではなかったのだが、ツイッターでは一応130人くらいのフォローをしている。その中で、読み流
すツイートと読んで考えるフックをもらうツイートの違いは何か、が何となく見えてきた。事実や出来事の感想レベルであれば、「あっそ」で終わるのだが、例
えばある事に対して自分の内面をぐーっと掘りさげると、他者の魂とも触れる共通の井戸の底、臨床心理的に言えば集合的無意識ゾーンにアクセスする何か、に
あたる。また、普天間問題や首相交代の出来事に対して、メディアの喧伝とは角度を変えた、エッジの効いた分析をスパッとしてくれるなら、それはそれで読み
手の琴線に触れる。つまり、文章の深みや広さが他者と出逢える奥行きや幅を持っているなら、書き手と読み手が振幅する可能性が高まる。そして、ツイッター
ではRTで再生産されていく。

そうした時に、僕はどのような奥行きや幅のある文章を書けるのだろう、とふと考えると、フリーズしてしまう。僕にはそこまでかけないよな、と。これ
がブログであれ、ツイッターであれ、書くのをためらう最大の理由なのだろうと思う。

さて、もう少し自分に引きつけてこの問題を考えてみる。僕自身は割とここ最近のブログでは、深堀をするための模索をしつつあるようだ。いつも読んで
下さっているM先生はお察しが早く、「この春のブログは長すぎて途中で読むのが疲れちゃったけど、最近は落ち着かれましたね」とこないだ言われた。そう、
この春、香港に旅行に出かけたあたりから様々な気づきと出会いに遭遇し、そこから今に至るまで、気づきの渦にいる。たぶんその入口になるのが、3月に書い
た次のブログだ。

「職場で、フィールド先で、どういう他者と出会えるか。やっとこさ、根と翼の両方を「欲求」出来る主体になったのかもしれない。」
http://www.surume.org/column/blog/archives/2010/03/post_410.html

おかげさまで「予言の自己成就」よろしく、その後の数ヶ月で多くの出会うき人に出会い、劇的な変化の渦の中にいる。考えたり気づいたり、一皮むける
ような体験も一度や二度ではない。先週の金曜日もあるセミナーで、主催者のHさんから大きな気づきを頂いた。これは直接の出会いだけでなく、最近の読書体
験からも多く気づかされ、その片鱗はブログに書き付けている。そういうチャンスに多く遭遇出来ている時期なので、その時の喜びや発見、驚きを書くことが最
近のブログやツイートには多い。

ただ、一度に無理だ、というのは今気づいたのだが、そういう内面の掘り下げが面白くて仕方ない時期には、なかなか対社会的な問題にエッジを効かすと
ころまで到らない。世の中で生起する問題について、あれこれ思うところがあるが、いざ書いたり口にしたりすると、マスコミで流布するような定型的な分析の
範囲内に収まってしまう。それで満足していればいいのだが、何だか心の底で感じている事と、文字にした時の誤差が大きく、多分そういう語り口の文法と語彙
を、対社会的な何かについて、まだ持ちきれていないのだろう、と感じる。それはもどかしくもあるが、まずは内面を語る文法と語彙に専心すべき時期なのか
な、とも、今、書きながら感じている。

というわけで、まだしばらく、井戸の鉱脈に達するまで、書きながら、掘り続けてみようと思う。よって、対社会的な幅の広さは、ここしばらく、このブ
ログに表れないかもしれません。そんな見立てを自分の中で保持したくて、今日もやっぱり内面の吐露になってしまった。さて、直面する仕事に戻るとしよう。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。