カリスマのどこに着目するか

カリスマ、なる言葉がある。天賦の才能を持ち、あるいは不断の努力を重ね、時には双方の相乗効果もあって、世間の常識では考えられないような出来事
を成し遂げたり、作品を作り上げたり、世の中を変える実践を行っている人びと。それを指して、人はカリスマ、という。確かに福祉や医療の世界でも、旧態依
然とした世界に対して違う価値観、違う視点でアプローチし続け、ある時それが花開いて、多くの人が従うリーダー的存在になる人がいる。例えば「小規模多機
能型」という概念を産み出した富山の惣万さん、「当事者研究」を世に広めた浦河の向谷地さん、「ノーマライゼーション」を世界中に広めたスウェーデンのベ
ンクト・ニィリエさん。志ある人びとが、実践を積み重ねる中で、常識に対抗し、オルタナティブな何かを差し出してきた。そういう系譜がある。

ただ、一方で僕が気になっているのは、あまりに属人的要素に絡めすぎることへの危険性についてだ。「あの人の実践はすごい」は、容易に「あの人だか
ら出来た」に転化する。たしかに「あの人だから」という部分は勿論ある。それを否定するのではない。だが、その属人的要素に着目しすぎることは、下手をす
ると、「○○さんがいなくなればおしまい」「自分には出来ない」という他人事的視点に転化しないか、が気になっているのである。カリスマと称される人がこ
れまで築き上げてきた成果の称揚はよいのだが、そのオリジナリティの強調は、他者がそこから何を学べるのか、という教育や伝達的な側面が抜け落ちる可能性
がある。そこが気になっている。

これはTBSの「情熱大陸」やAERAの「現代の肖像」などの人物ルポにも共通する要素だ。「一角の人物」が、どういう足跡を辿って抜きんでるよう
になったのか、は、確かに読者・視聴者の興味をそそる。また、そのサクセス・ストーリーをメリハリよくまとめることが、ルポや番組を作り上げる上での「見
せ所」になる。でも、その「見せ所」が面白ければ面白いほど、普通の人との隔たりは大きく、「そんなの無理だよな」という諦めへの転化につながることが少
なくない。事実、無意識のうちに読者・視聴者である僕自身もそうしている側面もある。

この違和感は、ずっと前から抱えていたのだが、ではどうすればいいのか、というオルタナティブがなかなか思いつかなかった。だが、今読んでいる本か
ら、そのヒントがもらえそうだ。

以前、アダム・カヘンの『手ごわい問題は、対話で解決する』(ヒューマンバリュー)を
ログで紹介
したことがある。その本に紹介されていたピーター・センゲなどによる『出現する未来』(講談社)を読んだ。著名な経営学者達による本だ
が、タイトルの書き方が少しオカルト的なので、遠ざけていた。だが、その本を読んで更に興味がわき、その本の著者の一人、オットー・シャーマー氏によ
る”Theory
U”を今ちびちび読んでいる。(英語なので、サクサクとは当然読めない) そして、このU理論を眺めている中で、先ほどの問いに対する何となくの答えが出
てきたのだ。

シャーマー氏は、世の中のものの見方として、「出来上がったもの(thing)」「創造する過程(process)」「創る前の無地のキャンパス
(blanik
canvas)」の3つのどれをみるかによる、と指摘している。そして、経営学における大概の分析は、出来上がった生成物(過去)の分析であったり、出来
上がりつつある過程(現在)の分析である、とする。だが、本当にリーダーシップやマネジメントの真髄に触れようとしたら、もう一歩深めて、現段階でこれか
ら生起しようとしている複雑性の源に目を向ける必要がある、とする。この視点にたって、7つのステップとしてU理論を深めている。(この理論の簡略的紹介
は次のHPに)

実はこの本を読んでいて、「無地のキャンパス」に目を向ける、という視点が、先ほどの議論とつながるような気がしている。これまでのカリスマの紹介
ルポや番組は、あくまでも出来上がった「成果」やそれに至る「過程」に注目し、その人がどのような「無地のキャンパス」で「出現する未来」をどう感じ、読
もうとしているのか、に踏み込みきっていないのではないか、と。最初の問いに引きつければ、現場を変えたカリスマ的な人を、単に属人的要素のみで分析する
のではなく、その人が触れた「無地のキャンパス」に浮かんだ「出現する未来」とは何だったのか、それをどう形にしようとしたのか、という視点で分析するこ
とで、後に続く私たちがその叡智を継承する事が出来るのではないか、と。

制度やシステムは、いつも現実の後追いである。そして、そのキャッチ・アップの過程では、特定の人格によるリーダーシップやカリスマ的行動がいつも
見え隠れしている。だが、それを「○○さんだから出来た」という卑小な属人性に落とし込むことは、物事の本質を捉えていないのではないか。そうではなく
て、その「○○さん」がどのような「出現する未来」を「無地のキャンパス」に感じ取ったのか、そしてそれをどう現実のものに形作っていったか。この過程と
成果こそ、次代の私たちが学び、引き継ぎ、自分のものにすることが出来る要素である。そして、こういう要素も含めて「カリスマ」から学ぶことによって、そ
の「カリスマ」の偉大さや功績を本当の意味で評価した事になるような気がするのだ。

と書いて、何だかまだ上記の文章が生煮えであるのはよくわかっている。ただ、今日はあくまでも備忘録的なメモなので、生煮えをご容赦頂きたい。

追伸:お気づきかどうかわかりませんが、このブログページ、管理人のmamnag氏のおかげで、少し幅が拡がり読みやすくして頂きました。あと、右
上のスルメのロゴを押すと、僕のプロフィールページに飛びます。ついでにツイッターと同期まで! よかったら覗いてみてくださいませ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。