一年前の自分に向けて

アタチュルク国際空港の飛行機待ちの間に、今回の旅を振り返る。旅の途中で大雨が降る日もあったが、来た日と帰る日は快晴。しかも、来たときよりも心は晴れやかになっている。その理由を、少し書いてみたい。

異国に来るといつも自分自身の内面について深く考える。日本語や日本文化、日本の慣習など、身体化された「当たり前」から、否応なく切り離される。思い通りにいかないこと、予想もつかないことが起こる。タクシーでふっかけられる、おつりがうまく帰って来ない、目の前の電車に乗れない、今わかったのだが飛行機が一時間遅れる事になった…。どうしようもない大小様々なトラブルが、当たり前の場所でないからこそ、次々に起こりやすい。そして、その処理の仕方も、日常のようなソフィスティケイトされたやり方で解決はできない。原始的に、ごつごつあちこちに当たりながら、何とかすり抜けていくしかない。非常に面倒だし、くたびれる。

でも、そういう異化作用があるからこそ、自分のコアな性格や生き方の癖みたいなものと否応なくも出会うことになる。実は、うんざりするのは、目の前のトラブルもだけれど、そのトラブルに際して普段よりもはっきりと、嫌な部分も含めて自分自身のリアルな実像と否応なく向き合うことに対してであろう。今回も、うんざりすることがなかったといえば嘘になる。だが、以前より少しはうまくつきあえるようになってきたことがわかる。それは、ある意味で自分が解き放たれていく過程でもあった。

例えば国際学会での出来事。いままで5回も発表しているのに、いま一つ学会の意義や意味を理解していなかった。毎度ひどい英語の発表に呆れるだけでなく、自分自身がそこに時間を投じる意味もよくわからず、前回書いたように壁の花になり、結局何のために来ているのかわからずガッカリして帰ることが多かった。だが、ようやく今回のトルコあたりから、自分が何を求めてその国際学会に来ているのか、を意識出来るようになってきた。また、その場で自分には何ができ、発表では何が求められ、自分のやりたいこととどうつなげたらよいか、もおぼろげながらわかってきた。つまり、学会という旅の歩み方をようやく理解出来るようになったのだ。相変わらず、駄馬はのろま、です。

でも、遅々とした歩みだけれど、気づいたことがある。それは、旅をし続ければ、旅を通じて考え続ければ、遅まきながら変化するポイントに巡り会える、ということだ。少し前のブログで「やりたいこと」「できること」「世間に求められていること」の3つの意識化が大切だと引用したが、異国や国際学会という誰にも「求められていること」がないところに身を放り投げるからこそ、自らの「やりたいこと」「できること」がクリアに見えてくるのである。

前回の春の香港では、プライベートな旅だったこともあり、人間たけばたひろし、の本質的なところと、図らずも向き合う旅になった。今回のトルコは、学会発表の為の旅ということもあり、研究者として自分は何を「やりたい」のか、現時点では何が「できること」であり、何ができないことなのか、が、よくわかった。そして、自分の内面をきちんと理解することができたことによって、余計な防御的反応から自由になり、いろいろな他の参加者に話しかけ、それぞれのストーリーに耳を傾けてみよう、という余裕ができてきた。つまり、己に余裕が少しだけ出てきたからこそ、国際学会において他者と対話出来る余裕が生まれてきた。つまりは、今まで学会がつまらなかったのは、自分自身がそれだけの器量しかなかった、楽しめる器になっていなかったから、であるのだ。

こういう自らの恥まで公共の場で書き連ねるのは愚かしいことかもしれない。でも、僕自身はこういう事を教えてくれる先輩もおらず、ずっと悩み続けてきた。だからこそ、自分が気づいたことは、少しでも書き残しておきたい、と思う。一年前、二年前の自分のような迷える子羊に伝えたいのだ。「ぶつかり続ければ、いつかは光が見えることもあるよ」って。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。