今日の部会の意見書です

今日は内閣府障がい者制度改革推進会議、総合福祉法部会の第6回目が開かれている。毎回、膨大な意見書を書いて、議論をしてる。
今日の部会では、作業チームを作って10月以後個別論点について議論がされるということなので、いよいよ秋から冬にかけて、根を詰めた議論になるだろう。
取り急ぎ、今回の私の意見書です。
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(第6回総合福祉部会)「障害者総合福祉法」(仮称)の論点についての意見
提出委員    竹端  寛
(分野D 支援(サービス)体系)
<項目D-1 支援(サービス)体系のあり方について>
論点D-1-1) これまで支援の狭間にいた人たち(例えば発達障害、高次脳機能障害、難病、軽度知的障害など)に必要な福祉サービスとはどのようなものであるか?
○結論
まいにちのくらしの支え(生活の支援)と、「○○したい」をかなえるための支え(社会参加の支援)
○理由
 ○○障がいだから、この支えはいる・いらない、と決められない。上の二つの支えは、どんな障がいの人であっても共つうする、福祉にもとめられている支えである。
論点D-1-2) 現行の介護給付、訓練等給付と地域生活支援事業という区分についてどう考えるか?総合福祉法での支援体系のあり方についてどう考えるか?障害者の生活構造やニードに基づいた支援体系はどうあるべきと考えるか?
○結論
 本人の障害やくらしづらさゆえに求められる(障害者の生活構造やニードに基づいた)支えんの体けいは、次の5つからなりたつのではないか。
  1,ひとりひとりの状たいにあった介じょ(パーソナルアシスタント:個別ケア)
  2,「○○したい」をかなえるための支え(社会参加支援:日中活動の場、就労支援)
  3,住まいの提供
  4,でかけられない・みえない・きこえない、の支え(移動と情報の保障)
  5,なやみや不安、ふまんへの支え(ピアサポート、相談支援、権利擁護)
○理由
 いまの法は、おかねのしくみ(財源体系)と支えるしくみ(支援構造体系)がまざっている。さらには、介ごほけんのしくみとも「似すぎた」しくみである。いまの法がつかいづらいのは、このしくみ(体系)そのものの、ゆがみやひずみがあるからではないか。
  であれば、本人の障害やくらしづらさゆえに求められる支えんの体けいとして、まとめて考えたほうがよい。
  また、教いくや労どうに近い支えん(自立訓練や就労移行)は、労どうや教いくを支えるしくみ(政策)にいれたほうがいいのではないか。
論点D-1-3) 現行の訓練等給付についてどう考えるか?労働分野での見直しとの関係で、就労移行支援、就労継続支援等のあり方をどう考えるか?また、自立訓練(機能訓練・生活訓練)のあり方についてどう考えるか?
○結論
昼のあいだ社会にさんかする活どうの場は「日中活動の場」としてまとめた方がいい。
○理由
 障がいの重い・軽いや、活どうの内ようで細かくわけすぎないほうがいい。また、教いくや労どうに近い支えん(自立訓練や就労移行)は、労どうや教いくを支えるしくみ(政策)にいれたほうがいい。
論点D-1-4) 生活介護、療養介護も含めた日中活動系支援体系の在り方をどうするか?
○結論
 論点D-1-3の結論、理由とおなじ
○理由
論点D-1-5) 地域生活支援事業の意義と問題点についてどう考えるか?地域生活支援事業の仕組みになじむものと、なじまないものについてどう考えるか?
○結論
 今のじてんでは、どれもなじまない
○理由
障がい者のけんりをまもるしくみは、どの地いきに住んでいてもあたり前にまもられるべきもの(ナショナルミニマムやシビルミニマム)である。今の法では、そのあたり前にまもられるべきところも、市町村に決めさせ、国はお金も出しおしみしているのは問題だ。
一方で、国はけんりをまもった上で、市町村がそれ以外に地いきの特ちょうに合わせて出きること・すべきこともあるかもしれない。それを応えんする制度は、作ってもよい。ただ、高れい者や子どもの同じようなしくみ(制度)もふくめて、「地域生活支援事業」のようなものになじむものは何か、をあらためて考えなおしたほうがいい。
論点D-1-6) 現行のコミュニケーション支援事業についてどう考えるか?推進会議・第一次意見書では、「手話や要約筆記、指点字等を含めた多様な言語の選択、コミュニケーションの手段の保障の重要性・必要性」が指摘された。これらを踏まえて、、聴覚障害者や盲ろう者、視覚障害者、さらに、知的障害者、重度肢体不自由者を含めた今後のあり方をどう考えるか?
○結論
 パーソナルアシスタントサービスと情報保障のふたつ
○理由
 一人ひとりの思いや願いを伝えづらさを支えることはパーソナルアシスタントになじむ。でも、手わ通やくや点じなどは、それとは別に、求める人すべてに対おうできる仕くみをつくるひつようがあるのではないか。
論点D-1-7) 現行の補装具・日常生活用具についてどう考えるか?今後のあり方についてどう考えるか?
○結論
○理由
論点D-1-8) 現行の自立支援医療についてどう考えるか?基本合意において、「当面の重点な課題」とされている利用者負担の措置に加えて、どのような課題があると考えるか?
○結論
福祉と医りょうの重なる部分であり、使っている人の実たい調査にもとづいて、必要な支えや負たんのあり方を考えた方がいい。
○理由
<項目D-2 生活実態に即した介助支援(サービス)等>
論点D-2-1) 推進会議では、シームレスなサービスの確保の必要性が指摘された。また、障害者権利条約では「パーソナル・アシスタンス・サービス」を含む支援サービスも提起されている。これらをふまえ、地域支援サービスのあり方についてどう考えるか?
○結論
 ひとりひとりの状たいにあった支えや介じょである「パーソナルアシスタント」もふくめて、論点D-1-2でのべた5つの支えん体けいが必よう。
○理由
 ひとりひとりの状たいにあった介じょ、というのは、権り条やくをまもる上で欠かすことができない部ぶんであるから。
論点D-2-2) 現在のホームヘルプ、ガイドヘルプの仕組みについては、何らかの変更が必要か?また、ガイドヘルプに関しての個別給付化は必要か?
○結論
 ホームヘルプやガイドヘルプはげんそくパーソナルアシスタントとした上で、それを求める人のニードに応じた支えんがなされる仕くみ(個別給付化)は必よう。
○理由
 それがないと権り条やくがいう「ほかのひとと同じようなくらし(他の者との平等)」がまもれないから。
論点D-2-3) 障害特性ゆえに必要とされる見守りや安心確保の相談といった身体介護・家事援助ではない人的サポートの位置づけをどうするべきか?
○結論
 パーソナルアシスタントの支えの中にいれる。
○理由
 見守りや情ほうのていきょう、不あんな時の相だんなども、障害ゆえの生活のしづらさに対おうする大切な支えんであるから。
論点D-2-4) 医療的ケアが必要な障害者の地域でのサポート体制を確立するためにはどういう課題があるか? また、地域生活を継続しながら必要に応じて利用できるショートステイ等の機能を望む声があるが、確保していくためにどのような課題があるか?
○結論
 どんなに重い障がいがあっても暮らせる地いきとそうでない地いきの差がありすぎる。その差をなくすため、かなりたくさんの地いきでの支えん体せいを、この数年いないにつくるべきである。
○理由
 たいへん重い障がいをもつ人の家ぞくは、今、しせつをなくされたら不安だ、とうったえておられる。なぜか。それは、自分たちの子どもは、地いきでは安しんして生きられない、そんな地いきになっていない、という不しん感をもっておられるからだ。だから、たいへん重い障がいのある人も、地いきで安しんしてくらせるしくみを急いでつくるひつようがある。そのために、国は高れい者せいどを進める上でつくった「ゴールドプラン」のようなわかりやすい政さく目ひょうを作り、その中で医りょう的ケアも求める障がい者を地いきでどんな風に支えるか、をわかりやすく伝え、それをじつげんすべきである。
<項目D-3 社会参加支援(サービス)>
論点D-3-1) 障害者の社会参加の点から就労・就学に際しての介護、通勤・通学の介護が大きな課題との指摘があるが、総合福祉法のサービスでどこまでカバーすると考えるか、その際、労働行政や教育行政との役割分担や財源をどう考えるか?
○結論
 おや会ぎとの合同さぎょうチームの場で検とうする。
○理由
 教いくの保障、労どうの保障も、それぞれの分やでちゃんと守られなければならないから。
論点D-3-2) 居場所機能など広く仲間との交流や文化芸術活動などについてどう考え、確保していくための体系はどう考えるか?
○結論
 「○○したい」をかなえるための支え(日中活動)の一つとして考えるべき。
○理由
活動を細かくわける必ようはない。あえてわけるのであれば、「日中活動」の一つとして、昔の精しん障害者ちいき生活支えんセンターのような、ゆるやかな「いばしょ」「たまり場」の機のうをふっかつさせた方がよい。
<項目D-4 就労>
論点D-4-1) 「福祉から雇用へ」の移行はどこまで進んだのか?これまでの就労政策の問題点をどう考えるのか?
○結論
○理由
論点D-4-2) 福祉的就労のとらえ直しを含む、これからの就労の制度設計をどう考えるのか?
○結論
○理由
論点D-4-3) 既存の労働行政における取り組みとあわせて、福祉と労働にまたがるような法制度については、どこで議論していくべきか?
○結論
○理由
<項目D-5 地域での住まいの確保・居住サポートについて>
論点D-5-1) これまで地域移行の障壁になってきた住宅問題を解決するために、具体的にどのような方策が考えられるか?
○結論
 入しょ施せつとおなじような、一つの場しょにたくさんの人を「あつめる」考えかたをやめ、ひとりの住まいを中しんとした住たくの支えんをするべき。また、そういう「一人住まい」をグループ単いで支えるグループ支えんも考えるべき。
○理由
 障がいのないひとは、家ぞくではないおおぜいの他にんといっしょにくらさない。障がい者を「あつめる」考えかたは、すくないスタッフでおおくの障がいしゃを管りしようとする考えかた。グループホームであってもたとえば10人いじょうを「あつめる」考え方は、施せつと同じだ。この考えかたは、権り条やくとも正はんたいの考えだ。だから、他の人とおなじように障がいがあるひとも、自分でかぎがかけられる「こしつ」や「ひとり住まい」ないし「好きな人との住まい」が守られるべきだ。
論点D-5-2) 地域での住まいの確保の方策として公営住宅への優先枠を広げる方向で考えるべきか?
○結論
 そのとおり。
○理由
 入しょ施せつに今いる障がいのある人が地いきでくらすためには、かなり住まいの場がたりない。むかし、入しょ施せつをつくるためにたくさんお金(予算)を使ったのと同じように、今は地いきでの暮らしの場をたくさん用いすべきだ。そのために、公えい住たくも新たにたくさんつくり、その優せんわくも広げるべきだ。
論点D-5-3) また、公営住宅が質量共に不足する現実がある中で、障害がある人のアパートなどの一般住宅の確保の為にどのような対応が必要か?(家賃等の軽減策や借り上げ型賃貸住宅等)
○結論
 できる対さくは、なんでもためしてみた方がいい。
○理由
 公えい住たくを新たにつくるお金がもしも足りない場あいは、民かんのアパートやふつうの住たくをかくほすべきだ。ただ、障害のある人に配りょした住まいにするための手なおしや、おおやさんが安心して貸せるような支えんなども、あった方がいい。
論点D-5-4) 居住サポート事業の評価とさらに必要とされる機能・役割にどのようなことがあるか?
○結論
 この事業を活ようできている市町村はすくない。その理ゆう分せきをちゃんと行うべきだ。
○理由
論点D-5-5) グループホームとケアホームについて、現状の問題点は何か?また今後のあり方をどう考えるか?
○結論
 グループホームが「ミニしせつ」になりつつあることが、おおきな心ぱいである。一人ひとりのくらしをささえる個別ケアが、グループホームであってもなされるため、パーソナルアシスタントをつかえたり、いろいろなくふうがひつようだ。
○理由
私が7年前にスウェーデンをしらべたときも、「ミニしせつ」のことがもんだいとなっていた。それをふせぐため、スウェーデンでは、グループホームをつぎの三つにわけていた。1,4人くらいまでの、医療的ケアなど支えんがたくさん必要な人のためのグループホーム(グループホーム単独建設型) 2,アパートのある階の部屋が一人ひとりの住まいで、ごはんの時はスタッフのいる部屋にあつまるかたち(集合住宅の「ワンフロア独占」型) 3,101号室や305号室などにわかれて住み、ごはんの時はスタッフのいる部屋にあつまるかたち(集合住宅の「階段形式」型・「サテライト」型)。こういう住まい方もせいどとして保しょうした方が良い。
 参考:「スウェーデンではノーマライゼーションがどこまで浸透したか?」
 http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/other/takebata.html
<項目D-6 権利擁護支援等>
論点D-6-1) 「本人が必要とする支援を受けた自己選択、自己決定、地域生活」を実現していくためには、どのようなサービス体系が必要と考えるか?
○結論
 障害のある人の権りを守るためには大きく分けて次の3つがひつよう。
1,利用者の日々の権利をまもるしくみ
(ピアサポートやセルフアドボカシーの支えん、本人からの相だんに基づく支えん)
2,権利が守られていないうたがいがあるケースについての、調さや改ぜんにむけた活どう
3,じっさいに権利が守られず、ひがいを受けた人への救さいのしえん
○理由
 わたしは次の本のなかでそのことを詳しく説明しています。『障害者総合福祉サービス法の展望』(ミネルヴァ書房)の「第7章 不服申立てシステムと権利擁護システム」p308~313
論点D-6-2) 権利擁護を推進していくためにはどのような体制が必要か?相談支援やエンパワメントの事業化についてどう考えるか?
○結論
 人口10万人くらいに一つ、障がい者のピアサポートやエンパワメントの取り組みをする場(地域障害者エンパワメント事業)をおく。また、都道府県もしくは政令指定都市にひとつ、権利を守るセンター(広域型権利擁護機関)をおく。
○理由
 論点D-6-1でのべた3つのしくみのうち、ピアサポートやエンパワメントに関する1の部分は、10万人にひとつくらい必要です。それ以外の2と3の部分は、もう少しはんいを広げて、専もん的な調さもできる場としておくべきです。そのことについても詳しくは、論点D-6-1で参こうにあげた本にも書いています。
論点D-6-3) サービスの質の確保等のための苦情解決と第三者評価の仕組みについてどう考えるか?
○結論
 入しょ施せつや精しん病いんについては、精しん医りょうオンブズマンや施せつオンブズマンのような、市民による第三しゃによるチェックが新たにひつよう。今の苦情解決のしくみがよいかどうか、は検しょうする必要がある。
○理由
 質のかくほのためには、ちがう立ばの人による、ふくすうの目でのチェックがひつようだ。行政は、法にひっかかるかどうかのチェックをする(行政監査)。それ以上の質のチェックは、情ほうの公かいはもちろんのこと、それ以がいの訪もんによる調さや苦じょうを受け付けるしくみなどが、求められる。特にへいさ性のつよい精しんか病いんや入しょしせつには、大阪で行われていた精しん医りょうオンブズマンのようなしくみの制ど化がひつようだ。また、今、社会福祉きょうぎかいで行われている「運えいてきせい化委員会」が、じっさいにどれほど役にたっているのか、は検しょうする必ようがある。
<項目D-7 その他>
論点D-7-1) 「分野D 支援(サービス)体系」についてのその他の論点及び意見
○結論
○理由
(分野E 地域移行)
<項目E-1 地域移行の支援、並びにその法定化>
論点E-1-1) 条約では、「特定の生活様式を義務づけられないこと」とあるが、これを確保するためにはどのようなことが課題にあるか?また、地域移行の法定化についてどう考えるか?
○結論
なんらかの地域移行の法定化はぜったいに必要だ。
○理由
 今の法でも地域移行はうたっている。でも、じっさいにその数はあまり減っていないし、新しく病いんや入所しせつを求める「たいき者」も少なくない。条約のなかみをほんとうに守ろうとするなら、施せつや病いんではなく、ちいきでの暮らしをほしょうするための、ぐたいてきな支えの方さくを法りつでつくったり、新たな入しょはみとめないことなども法に書きこむべきかも検とうするべきである。
論点E-1-2) 入所施設や病院からの地域移行に関して具体的な期限や数値目標、プログラムなどを定めることは必要か?
○結論
 ひつようである。
○理由
 障がい者や家ぞく、国民にむけて、期げんや目ひょう、そのためのプログラムなどを約そくしないと、この問題は解けつしない。スウェーデンでも、地域移行をすすめた際、施せつをなくすための法りつを作ったり、その期げんを具たい的にさだめていた。いまこそ、日本でもそういう約そくをすることが求められている。
論点E-1-3) 地域移行を進めるために、ピアサポートや自立体験プログラムなどをどのように整備・展開していくべきか?
○結論
 論点D-6-2)でのべた「地域障害者エンパワメントじぎょう」のなかで、ピアサポートや自立体験プログラムなども、その地いきにくらす障がい者が中心となって行われるべきだ。
○理由
 施せつや病いんで長くくらすうちに、地いきでの生活をあきらめた人がたくさんいる。そういう人たちには、地域でくらすなかまによるピアサポートが、大きな効かがある。また、じっさいに体けんする場をていきょうするのも、たいせつだ。そういう場は、障がい者が主たい的にうんえいすることで、地域移行のおおきな推しんの役わりにもなる。
論点E-1-4) 長期入院・入所の結果、保証人を確保できず地域移行が出来ない人への対応として、どのような公的保証人制度が必要か?
○結論
 まずは保しょう人がいなくても住める公えい住たくの数をふやすことがたいせつ。その上で、足りないばあい、何らかの公てきな保しょうのしくみを考えるべき。
○理由
 論点D-5-2)でも述べたが、まずは今まで入しょ施せつや精しんか病いんに使ってきたお金を、障がい者の地いきでの暮らしに使うため、公えい住たくの増かが求められる。公てき保しょう人が必ような人は、その住たくにまっさきに入れるようにすべきだ。それでも入れない人のためには、論点D-5-3)で述べたようなしくみがひつようだ。そのなかで、おおやさんも安しんして貸しだせるしくみにしたらよい。
論点E-1-5) 地域移行をする人に必要な財源が給付されるような仕組みは必要か?また、どのようなものであるべきか?
○結論
○理由
論点E-1-6) 地域移行における、入所施設や病院の役割、機能をどう考えるか?
○結論
 基ほん的には、施せつや病いんの職いんもふくめて、ちいきに移る(地域移行す)べきである。ある一定の期かんがすぎたあとは、施設・びょういんは大きくへらし、たいへん限てい的なうしろ支え(バックアップ)役わり以外はなくすべきだ。
○理由
 権利じょうやくでは、「○○障がいだから施せつ・病いんでくらせない」ということは問だいであるとしている。ならば、どんなに重いしょうがいがあっても、ちいきでくらせる仕くみが必ようだ。また、施せつや病いんで働くしょくいんも、ちいきではたらくためのトレーニングをしたうえで、ちいきに移るべきだ。そのあたりは、入所しせつをなくしたスウェーデン、精しん病いんをなくしたイタリアの例などをみならうべきだ。なお、そのさい、家ぞくのふたんやふあんをふやさないように、重ど障がい者であっても、家ぞくをあてにしない支えん体せいを、作ることがぜったいに必要だ。
<項目E-2 社会的入院等の解消>
論点E-2-1) 多くの社会的入院を抱える精神科病床からや、入所施設からの大規模な地域移行を進める為に、何らかの特別なプロジェクトは必要か?
○結論
 ひつようである。
○理由
 これまでの入しょ施せつや精しんか病いんにふりむけてきたたくさんのお金を、ちいきにふりむけ、重てん的に使うための、10年たんいくらいの特べつなたいさくが必ようだ。
論点E-2-2) 現実に存続する「施設待機者」「再入院・入所」問題にどのように取り組むべきか?
○結論
 なぜそういう人がいるのか、そういう人は何をもとめているのか、どうすれば施せつでのくらしをしなくてもいいのか、をちゃんとしらべるべきだ。
○理由
 きほんてきに、この問だいは、ちいきでの支えんのしくみのうすさ、少なさが理ゆうとして考えられる。であれば、そういう人の声をきくことによって、どういうことをすれば、あらたに、あるいはふたたび施せつや病いんに入るひとをへらすことができるか、の対さくをかんがえることができる。それは、ぜひとも来ねんどからでも、まず行うべきだ。
論点E-2-3) また、「施設待機者」「再入院・入所」者への実態調査と、何があればそうならなないかのニーズ把握は、具体的にどのように行えばよいか?
○結論
 それぞれの施せつの「待き者リスト」を県レベルでもらい、そのリストについて調さする。あるいは市町村の自りつ支えん協ぎ会で、あてはまる人についての調さをする。
○理由
 施せつや病いん「しかない」とおもう人がいることは、そのちいきでの支えんの仕くみが不そくしていることでもある。であれば、県や市町村がちゃんとその事じつと向きあうような調さをする必ようがある。とうぜんそのための予さんは、国から県や市町村にむけてしはらうべきである。
論点E-2-4) 上記の調査を具体的な施策に活かすためには、どのようなシステムを構築すべきか?
○結論
 施せつや病いんにくらす人、それを求める人の調さは、わけずにひとかたまりのものとして考え、ちいきいこうの「10年たんいくらいの特べつなたいさく」のなかに入れるべきだ。
○理由
 論点E-2-1)の理由とおなじ。
論点E-2-5) スウェーデンでは1990年代初頭の改革で一定期間以上の社会的入院・入所の費用は市町村が持つような制度設計にした為、社会資源の開発が一挙に進んだ。我が国でもそのような強力なインセンティブを持った政策が必要か? 必要とすればどのようなものにすべきか?
○結論
 ひつようである。
○理由
 よく「お金がたりない」ということばを、何もかえない理ゆうにきく。でも、ほんとうにお金がたりないなら、障がい者のために効かてきに使うことを真っ先に考えるべきだ。社かい的な入いん・入しょは、ちいきでくらすより、効かてきではなく、かつまあまあ高いお金がかかる。ならば、それをやめるための政さく(政策誘導)はあってしかるべきだ。
<項目E-3 その他>
論点E-3-1) 「分野E 地域移行」についてのその他の論点及び意見
○結論
○理由
(分野F 地域生活の資源整備)
<項目F-1 地域生活資源整備のための措置>
論点F-1-1) 地域間格差を解消するために、社会資源の少ない地域に対してどのような重点的な施策を盛り込むべきか?
○結論
 地いき移こう、地いき生かつ資げん整びに関する特べつなたいさくをするべきだ。
○理由
論点E-2-1)でもふれたが、これまでの入しょ施せつや精しんか病いんにふりむけてきたたくさんのお金を、ちいきにふりむけ、重てん的に使うための、10年たんいくらいの特べつなたいさくを、そう合てきに行うべきである。
論点F-1-2) どの地域であっても安心して暮らせるためのサービス、支援を確保するための財源の仕組みをどう考えるか?
○結論
 国がいちりつの上げんを決めるのではなく、必ような人に必ような介じょのお金を支はらう保しょうをするべきだ。
○理由
 お金のない、障がい者のすくない自ち体ほど、国のきじゅんを、自分たちの町の上げんにすりかえてきたれきしがある。それをさせないための財げんのしくみがもとめられる。ただ、①必ような人に必ような介じょのお金を支はらう保しょうをする、だけでなく、論点F-1-1)でみたように、②かくさをなくすための特べつな対さくも、セットでおこなうべきだ。
論点F-1-3) 地域移行や地域間格差の解消を図るため、地域生活資源整備に向けた、かつての「ゴールドプラン」「障害者プラン:ノーマライゼーション7カ年戦略」のような国レベルのプランが必要か?あるいは何らかの時限立法を制定する必要があるか?
○結論
 ひつようだ。
○理由
 論点F-1-1)とおなじ。
論点F-1-4) 現行の都道府県障害福祉計画及び市町村障害福祉計画についてどう評価するか?また、今後のあり方についてどう考えるか?
○結論
 いまのままでは不じゅうぶん。おおきくかえるべき。
○理由
 今の計画は、「そのちいきにおける解けつがむずかしいケース」を解けつするためのものになっていない。F-2でとりあげる自立支援協議会とつなげて、もっと役だつ計かくにすべき。
<項目F-2 自立支援協議会>
論点F-2-1) 自立支援協議会の法定化についてどう考えるか?また、その地域における解決が困難な問題を具体的に解決する機関として、どのように位置づけるべきか?
○結論
 自立支えん協ぎ会がちゃんと動くような法てい化と、財げんの支えんをすべき。
○理由
 論点E-2-1)、論点F-1-1)で述べた、地いき移こうや地いき生かつ資げん整びは、自立支えん協ぎ会でちゃんと検とうされるべき。よって、この協ぎ会で決めたことが、福祉計かくに反えいされたり、あるいは実さいの資げんせいびに使われるようなしかけとすべきだ。上にかいた二つのプロジェクトのお金も、ここである程ど使えるようにするのはどうか。
論点F-2-2) 自立支援協議会の議論から社会資源の創出につなげるために、どのような財源的な裏打ちが必要か?
○結論
 論点F-2-1)と同じ
○理由
論点F-2-3) 障害者福祉の推進には、一般市民の理解と参加が重要であるが、それを促す仕組みを自立支援協議会の取り組み、あるいはその他の方法で、法律に組み込めるか?
○結論
 今の自りつ支えん協ぎ会でも、努力すればできるが、何からの予さん上の応えんは必要。
○理由
 今の自りつ支えん協ぎ会は、何のために必ようか、があまり理かいされていない。それは、自治体の担とう者の理かい不足や、この協ぎ会のつくりかたのまずさによる部分も少なくない。自治体に障がい者のじっさいのくらしがわかるソーシャルワーカーが配ちされたら、そういう部ぶんも大きく変わるはずだ。先の論点C-3-3)でも書いたが、そういう人ざいを育てることは、ぜったいに必ようだ。
<項目F-3 長時間介助等の保障>
論点F-3-1) どんなに重い障害があっても地域生活が可能になるために、市町村や圏域単位での「満たされていないニーズ」の把握や社会資源の創出方法はどうすればよいか?
○結論
 ちいき自りつ支えん協ぎ会で調さができるような予さんがつけられるべきだ。
○理由
 論点F-2-1)とおなじ。
論点F-3-2) 24時間介護サービス等も含めた長時間介護が必要な人に必要量が供給されるために、市町村や圏域単位での支援体制はどのように構築されるべきか?
○結論
論点F-4-1におなじ。
○理由
<項目F-4 義務的経費化と国庫負担基準>
論点F-4-1) 障害者自立支援法では「在宅サービスも含めて義務的経費化」するとされたが、国庫負担基準の範囲内にとどまっている。そのため、国庫負担基準が事実上のサービスの上限になっている自治体が多いと指摘する声がある。このことに関する評価と問題解決についてどう考えるか?
○結論
論点C-2-2)とおなじ。だが、もう一度かいておく。これを参こうにしようねという基準は、これを守らなければならないという上限に、これまでなんども変わってきた。そのたびに、障害のある人たちは、怒りの声をあげてきた。同じことをくりかえさないためにも、基準をこえる支えんを必要とする人にちゃんと必要な量と質のサービスがとどくための基金を考えるべきだ。
○理由
来年の予算はいくらくらいになるかわかっている必要がある。そして、障害のある人の福祉にかかる予算がいくらか、基準がないとわからない、という人がいる。たしかにそういう一面もあるが、それだけが正しいのではない。新法ができてからは、5年か10年の間はたしかに予算は毎年増えるだろう。でも、必要なニーズが満たされたら、予算の伸びはおさまる。高齢者と違い、障害者の数とわりあいは、ほぼ一定だ。90年代に高れい者福祉でゴールドプランを立てたように、どこかで予算を沢山用意して、不十分な地域の障害者福祉の状況をかえる必要がある。
<項目F-5 国と地方の役割>
論点F-5-1) 現在、障害者制度改革の中では、「施設・病院から地域生活への転換」「どの地域であっても安心して暮らせる」方向が目指されている。一方、地域主権改革では「現金給付は国、サービス給付は地方」との一括交付金化の考えが示されている。障害者福祉サービスに関して国と地方の役割をどう考えるか?
○結論
 「他の者との平どう」を守るサービスは、どの地いきであっても同じように保しょうされるべきもの(ナショナル・ミニマムやシビル・ミニマムにあたるもの)。なので、地方の自由にまかせるべきではなく、国として守るべき。地方にまかせるのは、それ以上の「よりよいサービス」をするためのやり方について、であるべき。
○理由
 障害のある人に権利として守られるべき部分までを地方の自由さいりょうにまかせてはいけない。地方が独じに判だんしてよいのは、上を守ったうえで、それいじょうの「より良いサービス」を作ろうとするこころみ、である。このふたつをちゃんと分けて考える必ようがある。
論点F-5-2) 障害者権利条約の第19条を受けて、推進会議では「地域生活の権利の明文化」を求める意見が多数であった。地域の実情や特色にあったサービス提供と、この「地域生活の権利」を担保していくためのナショナルミニマムのあり方についてどう考えるか?
○結論
 「たの者との平どうのくらし」の保しょうは、「地いきの実じょう」よりも、ゆうせんして考えるべきである。
○理由
「地いき生かつの権利」とは、「どこで、だれと、どのようなくらしをするか」を本にんが決められる権利である。これはどの地域であっても、ほしょうされなくてはいけない。「この地域ではこういう重い障がいの人はくらせません」という言いわけのために、「地いきの実じょうや特しょく」が使われてはならない。
<項目F-6 その他>
論点F-6-1) 「分野F 地域生活の資源整備」についてのその他の論点及び意見
○結論
○理由

「自分の監獄」への気づき

旅に出る前は、しばしばとっちらかっている。今回は明日からスタートするのだが、物理的に見ればスーツケースは既に成田空港のホテルに送ってしまったので、余裕はある。だが、心理的にあれやこれや気がかりなことが詰まっている。

 
イギリス出張の予習がままならない、依頼された学会誌の原稿の構想は練ったが一行もかけていない、帰国後の〆切のある仕事も出来ていない、別の査読誌から「修正の上で掲載可能」と言われたが、その手直しも結構大変そうだ、そもそもスウェーデンとイギリスの調査はうまくいくのだろうか・・・。
 
このように、あれやこれやで切羽詰まると、逃避したくなる。だが、今回の逃避先に選んだ一冊は、逆にこの状態に直面せよ、という。でも、読後感はすごく良い一冊。
 
「わたしたち自身も、たいていは他人に促される格好でたくさんのルールを自分で決めています。生きていくうちに、こうしたルールが染みついていきます。自分に何が出来そうかを考えるときにも、自然と自分に枠をはめています。頭のなかで決めたこの限界は、社会に課されるルールよりも、ずっと強制力が強いものです。(略)わたしたちは、自分で自分の監獄を作っているのです。」(ティナ・シーリング『20歳のときに知っておきたかったこと』阪急コミュニケーションズp46-47)
 
スタンフォード大学のアントレプレナーセンターのトップであるティナさんが、社会起業家へのインタビューや自身の体験談を元に、題名通り「20歳の頃の私」に知って欲しいことを口語体で語る、興味深い一冊。本屋でも軒並みベストセラーになっているので、タイトルを目にした事がある人も少なくないだろう。自己啓発本の類かな、と思っていた僕が手に取った理由は、『顔面漂流記』などの著作もあり、大学院生時代に一度お話を伺った事もあるフリーライターの石井政之氏が書評を書いておられる、とツイッターで知ったからである。
 
というわけで、本の内容紹介は石井氏に譲るとして、とにかくこの本は読んでよかった。35歳の今でも、出会ってよかった一冊だからだ。その中で特に今の自分にも当てはまるのが、上記の一節。確かに僕自身、「自分で自分の監獄を作っている」という部分は、しみじみ実感出来たからである。「自然と自分に枠をはめ」ることにより、自分の可動範囲に限界をつけていた。それは、筆者の言葉を使えば、次のような状態にいることであった。
 
「不確実性の高い選択をするよりも、『そこそこいい』役割に安住した方が、ずっと快適です。ほとんどの人は、ささやかでも確実なステップに満足しています。それほど遠くには行けませんが、波風を立てる事もありません。」(同上、p40)
 
自分自身では、決して「波風を立て」ていないとは思えない。むしろ、ささやかながら、自分の専門領域の中で、「波風を立て」つつも、あれこれと切り込んできた、つもりであった。だが、あくまでも自分の領域の中に、タコツボ的にはまっていた、とは言えないだろうか。その事を、こんな風にも整理している。
 
「STVP(スタンフォード・ベンチャーズ・プログラム)では、教育と研究、そして、世界中の学生や学部、起業家との交流に力を入れています。目指しているのは、『T字型の人材』の育成です。T字型の人材とは、少なくとも一つの専門分野で深い知識を持つと同時に、イノベーションと起業家精神に関する幅広い知識を持っていて、異分野の人たちと積極的に連携して、アイデアを実現出来る人たちです。」(同上、p19)
 
自分が35歳になる前から感じていた違和感は、I型への違和感、とでも言えようか。障害者政策という領域で気づけば掘り下げを進めてはいるが、それだけで本当に良いのだろうか、という不安や戸惑いだったのだ。異分野の、あるいは海外の学会で発表してみる、連関読書で関心領域を拡大する、などの試みは、まとめてみれば陳腐だが、I型の人間からT型に脱皮するための、自分なりのもがきだった、とも言える。専門領域における視座は少しずつ持ち始めたけれど、では「異分野の人たちと積極的に連携して、アイデアを実現出来る」か、といわれたら、視野狭窄で、横に手を広げる視点が足りなかったのだ。そういう意味で、他領域への羽ばたきという意味での「波風を立て」ることなく、自らの領域における「『そこそこいい』役割に安住し」ていたのかもしれない。
 
だが、一旦その限界に気づいて、視野を少しだけ広く持ってみると、世界は随分違って見えてくる。昨日も、そのことを実感した一日だった。
 
昨日は以前に仕事でお世話になったAさんに連れられて、夫婦揃って勝沼のワイナリーを巡る小旅行に導いて頂いた。山梨に来て6年目になるのに、地元のワイナリーをちゃんと巡った事もない。「山梨のワインは、白はまあまあ旨いけど、赤はダメだよ」なんて、何本かのワインを飲んだだけで、知ったかぶりになっていた。だが、以前のブログで書いたように、村上春樹の『遠い太鼓』を先月読み直していたのだが、その中で彼がイタリア・トスカナ地方のワイナリーを巡る文章を書いていた。それを読んで羨ましいなぁ、と思っていたのだが、その後、急に気づいたのである。「ちょっと待てよ、この山梨は日本のトスカナ地方ではないか」と。何という灯台もと暗し。その話を、ちょうど大学のゲスト講師で来て頂いたAさんにしてみると、何とAさんも仕事を通じて沢山の醸造家と出会い、山梨のワインに詳しい事が判明。そこで、ご厚意に甘えて、昨日のワイナリーツアーとなったのである。
 
いくつかのワイナリーで試飲して、本当にびっくりした。白ワインの味が、同じ甲州種でも実に豊かである事。また、別の種類も含めて、様々なワイン醸造にチャレンジしている県内の醸造家が沢山いる事。その中で、実に美味しい白ワインが沢山あること。また、探せば赤ワインだって美味しいものもあること。ほんとに、こういうことを何にも知らなかった。というか、知ろうとしなかった。全くもって、恥ずかしい限りだ。少し興味や関心を持って聞いてみれば、実に豊穣な世界が目の前に拡がっている、というのに。まさに、自分の世界に「安住」して、そこに引きこもって、眼前の違う世界にすら、出て行っていない自分がいたのだ。そして、「自分の監獄」に気づき、自分がその「監獄」から出ようとさえ決意すれば、新たな世界へと導いてくれる人は現れるのだ、と。
 
「頭のなかで決めたこの限界は、社会に課されるルールよりも、ずっと強制力が強いもの」であること、それを外した時に、実に豊かな世界が拡がっていること、それを昨日一日で実感した。であるがゆえに、結局ワインを12本も買って帰ったが、それ以上の精神的な収穫も沢山得た。
 
こう書いていると、実に美しい話に見える。でも、結局、このブログの記事って、自分自身にとってのナラティブセラピーと言うか、「物語の書き換え」の側面もある。裏事情を書けば、実のところ、今日は身も心もへたばっていて、出張前だというのに、全然仕事に実が入らなかった。「すべきこと」はたんとあるのに、ただただその山積みにされた課題(にみえるもの)を前に、茫然自失としていた。その際、「まずはブログにこのティナさんの本を書いておきたい」という「したい」が、「すべき」より勝っていたのだ。そして、逃避行のようにブログを書き始めて気づいたのだが、結局こういう自分の中での区切りをちゃんとつけないと、次には進めない、ということも、書いていて遡及的に分かってきたのである。つまり、僕自身が自己規定した「自分の監獄」についての描写をしないと、その「監獄」への囚われから自由になれないのだ、と。
 
だいたい今日書きたい事を書き連ねて、当然目の前の〆切の山は変わっていないし、明日からの出張には、これらの山を背負って出かけることには変わらない。だが、その〆切の山に対してのスタンス、だけでなく、「自分の監獄」へのスタンスが違えば、これからのプロセスは大きく変容してくる。また、自分自身が、「イノベーションと起業家精神に関する幅広い知識を持っていて、異分野の人たちと積極的に連携して、アイデアを実現出来る人たち」になれるかどうかはわからないが、少なくとも、オープンネスを持って、色んな人と連携出来る主体への変容の旅は、加速していきそうな気がする。そう、このブログは、自分自身のミッションステートメントになっている部分があるのだ。
 
確かにこういう書きぶりは、20歳の学生さんならわかるけど、15歳遅れの35歳のオッサンが書くには遅すぎるかもしれない。でも、良くも悪くも、今気づいたのだ。35歳にしての生まれ変わり。ならば、ここから始めるしかない。そう、繰り返して書くが、焦ってもジタバタしても始まらない。ここから、自分なりの視点を切り開いていくしかないのだ。そう書いていくうちに、気づけばモヤモヤがすっと収まっていた。

中身の問われる「ポジティブ」

前回のブログでギデンズ・渡辺氏の著作に基づいて「ポジティブな福祉」についてのコメントを書いておいた。何というシンクロニシティなのか、一昨日あたりにリリースされたばかりの今年の厚生労働白書をみてみると、「参加型社会保障(ポジティブ・ウェルフェア)の確立に向けて」とある。早速、中を覗いてみると、こんな風に整理されている。

・「機会の平等」の保障のみならず、国民が自らの可能性を引き出し、発揮することを支援すること
・ 働き方や、介護等の支援が必要になった場合の暮らし方について、本人の自己決定(自律)を支援すること 例えば住み慣れた地域や自宅に住み続けられるように支援することなど
・社会的包摂(Social Inclusion)の考え方に立って、労働市場、地域社会、家庭への参加を保障すること
目指すものである。
参加型社会保障(ポジティブ・ウェルフェア)は、経済成長の足を引っ張るものではなく、経済成長の盤を作る未来への投資である。
(出典は次のHP
「日本の新たな『第三の道』」(ダイヤモンド社)は研究室に置いてきてしまったので、前回引用したポジティブな福祉の部分には、二人の視点として次のような整理をしておいた。
①ネガティブ福祉からポジティブな福祉への移行
ベヴァレッジが5つの悪として焦点化した「無知、不潔、貧困、怠惰、病気」というネガティブな部分を撃退する福祉から、より積極的な福祉としての「教育と学習、繁栄、人生選択、社会や経済への活発な参加、健康な生活」の促進。
だいたい二つの考え方は同じ方向性に沿っている、と見て良いような気がする。ところで、目指すべき理念は良くても、問題はその具体的方法論である。高齢者の分野では「お泊まりデイ」の是非を巡って攻防が続いている。だが、とにかく中学校区単位での地域包括ケアに総称されるような、小規模多機能の拠点の強化をすすめることや、介護保険の入所施設や療養病床への依存度を下げよう、という意志が見て取れる。大規模な入所・入院施設での実態調査を行ったり、と、介護保険における在宅中心主義の舵は確実に切っている。つまり、「住み慣れた地域や自宅に住み続けられるように支援」は、高齢者分野では真剣に取り組む様相が見られる。
だが・・・それにくらべて、障害者分野の記述は、何ともさみしい。制度改革を巡る議論については、事実を淡々と書いているだけで、それよりも応益負担の廃止や補助犬、おぎゃあ献金などの事例説明の方に、エネルギーを割いているようだ。確かにまだ議論が半ばの事について成果は書けないのはわかる。でも、今の総合福祉法の部会だって、「参加型社会保障(ポジティブ・ウェルフェア)の確立」に向けた大きな一ステップなのになぁ、と一参加者としては思うのだが、どうだろう。
今回イギリス出張の予習をしていても、いくつかの文献で厚労省の現役官僚が、イギリス出向中の経験を元に書いた書籍が大変参考になる。たとえば、
「ブレア政権の医療福祉改革」(伊藤善典著、ミネルヴァ書房)
「公平・無料・国営を貫く英国の医療改革」(武内和久・竹之下泰志著、集英社新書)
特に後者の本では、イギリスの医療・保険システムであるナショナルヘルスサービス(NHS)の改革に焦点化して、患者の参加や効率性をどう高めたか、その改革の光と陰は何か、を非常にわかりやすく書いている好著。患者の参加(Patien Public Involvement)が医療福祉の垣根を越えて、地域参画ネットワークLINKs (Local Involvement Networks)という部局に拡大したことや、介護保険の保険者機能よりもう少し強力な、「地域医療のマネージャー」機能を持つPCT(Primaly Care Trust)と社会福祉サービス局が連携して、医療的ケアの必要な人の在宅生活を医療・福祉の垣根を越えて一体的に提供しようとしていることなど、興味深い話が載っている。また監査機関についても、住民・患者の視点から医療と福祉の統合を進める目的で、ケア品質委員会(Care Quality Commission)が統合され、高度医療から地域福祉の監査まで一体的に行う、という。
まあ、上記の改革がうまくいっているかどうか、は現地で複数の関係者に話を聴いてみないとわからない。でも、厚労省の側は、こういう流れも掴んだ上で、政策立案に取り組んでいる。当然、ドイツ、スウェーデン、アメリカ、フランスなど多くの国に沢山の優秀な官僚を出向させて、世界各国のデータを収集した上で、の政策判断である。政権交代後、「コンクリートから人へ」「最小不幸社会」といったミッションが示されたら、それに沿うような形での政策提言を出してくる。このあたりは、本当に優秀な集団なのだと思う。
であるがゆえに、障害領域での記述の少なさ・新たな素材の乏しさが、目立ってしまう。障害者分野での世界各国の動向、権利条約を巡る動きなど、厚労省の政策立案者たちは、知らないはずがない。制度改革の議論だって、売り出しようはあるはずだ。だが、今はまだ確定していな制度改革の議論は様子見なのか、あるいは高齢者政策に忙しくて後回しなのか、他の深謀遠慮があるのか、よくわからない。だが、とにかく障害領域の記載は少ないのだけが、今回目立った。
障害者福祉領域におけるポジティブな議論が、白書でなくてもいいから、もっと厚労省サイドからも聞こえてきてほしい。そんなことを感じながら、白書を眺めていた。

「ポジティブな福祉」への道程

韓国から帰国した翌日から、スウェーデン・イギリス調査の仕込みを始める。気がつけば、来週行くんだものねぇ。まだ、全く予習もしてないし。

旅行会社への手配メールや現地でお世話になる方への連絡などを済ませながら、ふと書架を眺めるとギデンズの本があった。タイトルは「日本の新たな『第三の道』」(ダイヤモンド社)とある。ギデンズと共同研究を進める渡辺聰子氏との共著。目次読書をしていると、「『欧州社会モデル』からの教訓」なんていう章もある。しかも、硬い学術書というより、一般人を対象とした読みやすい文体。というわけで、昨晩にざっくり斜め読みを終えた。
で一番気になった『欧州社会モデル』の新しい枠組みについて、二人はこんな風に整理している。(p160-162)
①ネガティブ福祉からポジティブな福祉への移行
→ベヴァレッジが5つの悪として焦点化した「無知、不潔、貧困、怠惰、病気」というネガティブな部分を撃退する福祉から、より積極的な福祉としての「教育と学習、繁栄、人生選択、社会や経済への活発な参加、健康な生活」の促進。
②利益と同時にインセンティブ、権利と同様に義務を前提に
→ヨーロッパでは受動的失業保険給付金を完全な権利と見なす事で、多くの国で機能不全に陥った。積極的労働市場政策を導入し、健康な失業者が国から援助を受けた場合、仕事を探す義務があること、ムリな場合はペネルティをかす原則にすること。
③フレキシブルな安定
→リスクの低減のみを自己目的化せず、リスクを創造的に利用し、個人が変化に適応出来、積極的に成功出来るように支援する事。積極的な労働市場政策における「フレクシキュリティ(フレキシブルな安定)」の論理を重視すること。
④受益者の貢献の原則
→貢献は、比較的小さいものであっても、サービス利用に対する責任ある態度を促すことができるので、受益者負担の原則、つまり直接利用者からの貢献原則は、公的サービスにおいてますます重要になる。
⑤脱官僚化
→脱中央集権化と地方への権限委譲を促進する。民営化はこれらの目標を追求するための潜在的な一手段に過ぎないので、脱官僚化と等価ではない。
この5つについて、思うところを書いてみる。
まず一番の論点となりそうな②と④について、「モラルハザードの監視」と題して、次のように二人は述べている。
「福祉制度改革が容易ではないのは、それが既得権益を生むからである。(略)なんらかの社会保障給付がいったん制度化されると、当初の目的に合致していようがいまいが、給付制度が一人歩きはじめる。つまりは期待は固定化され、利益集団は自己の権益を保守しようとする。そうなると制度改革は、大規模な抵抗に遭うことになる。福祉給付は、往々にして受け身の姿勢や依頼心を助長し、受給者の自立を妨げる。つまり給付が本来の目的に反する効果をもたらすのである。」(p15)
これはある一面をついた事実である。だが、これをそのものだけで取り上げる事には、危なさがある。自立を妨げるから給付をなくすべきだ、という単線的な思考ではなく、自立を妨げない、給付が本来の目的に反しないためには、どのような給付設計が必要か、を考える必要がある。その為のキーワードとして、②の権利と責任についてもう少し具体的に述べている箇所をみてみたい。
「イギリス労働党やドイツ社会民主党に代表される古い左派は、『結果の平等』に圧倒的な重点を置いていた。その結果、努力や責任が無視されていた。社会的公正とは、実際の成果とは無関係に、公的支出によって社会福祉と社会保障を限りなく拡大していく事だと考えられていたのである。」(p74)
ここで気になるのは、「社会的公正」の多様性である。以前の左派の言う「社会的公正」が「結果の平等」を重点化していた。だが、今の日本における、特に中央官庁が好む「社会的公正」として「納税者の理解」がある。あるいは一頃はやった構造改革路線では、「官から民へ」「小さな政府」がお題目的な「社会的公正」と言われていた。そう、繰り返して当たり前のことを書くのだが、「社会的公正」は、あくまでも見方によってたくさんあって、多様な中から一つを選び取っている、という自覚があるか、無自覚に刷り込まされ、その呪縛から逃れられないか、で大きく違うという現実だ。そして、その呪縛にはまっているものの一つとして、⑤の官僚制システムの問題についても指摘している。
「社会保障をはじめとする公的制度を再構築し、その信頼を回復することは、現代社会の最重要課題である。問題の原因が『国家の規模が縮小され過ぎた』ことにあるとの指摘は適切ではない。実際はその逆で、ほとんどの国家はその規模を維持しているか、あるいは拡大しつつある。国家は肥大化しているにもかかわらずパフォーマンスが低下しているために、正統性を失いつつあるのだ。つまり問題は、国家の規模そのものではなく、コスト・パフォーマンスの低下にある。」(p78)
「国家が肥大化しているにもかかわらずパフォーマンスが低下している」という事態は、一面的な社会的公正を自己正当化・自己目的化することと同義である。何のためにその仕事をやっているのか、という問いがなく、「とにかくやらなくちゃいけないからやる」という後ろ向きな仕事の姿勢が、官僚制システムの中に見え隠れする。コスト・パフォーマンスとは金銭的な効率一辺倒ではなく、「何のために、誰のためにその仕事をするのか?」という問いを持ち、それを最大化するための仕事の仕方である。これを二人の著者は、「大きな国家」ではなくて「より大きな影響力を持つ国家」という。正鵠を得た表現であると思う。だが、国家が「より大きな影響力を持つ」ためには、脱皮しなければならない論点がある。それが③の柔軟性だ。この「フレキシビリティ」について、次のように定義している。
「いずれの分野でも、さまざまな文脈の中で使われ得る基本的な学力と並んで、コスモポリタンな『ものの見方』とますます多様化し激しく変化する世界に適応できる能力、すなわち『フレキシビリティ』が求められる」(p26)
「ますます多様化し激しく変化する世界に適応できる能力」は、これまでは官より民に求められやすい素質だった。市場経済に組み込まれると、上記の能力がなければ生き残れない。だが、従来の規格化された集団管理型一括処遇、ベンサムの言うパノプティコン的な発想で設計された入所・入院システムであれば、そういう柔軟性とは違うロジックが働いていた。
「様々の強制される活動は、当該施設の公式目的を果たすように意図的に設計された単一の首尾一貫したプランにまとめ上げられている。」(E・ゴッフマン (1961=1984)『アサイラム-施設被収容者の日常世界』誠信書房、p4)
ゴフマンが述べるように、「単一の首尾一貫したプラン」に「施設被収容者」を「まとめ上げる」、つまりは服従させることが出来るなら、そこには柔軟性は必要ない。だが、支援を求める人の個々のニーズにきちんと向き合おうとするならば、対人直接サービスこそ、柔軟性が求められる分野なのである。それが、「市場経済とは違う」という理由で、放置されてきたがゆえの、官僚制化した、硬直した福祉行政、福祉システムになっているのである。そのことについて、筆者らは次のような処方箋を出している。
「『官僚制からの脱却』『他社の優れた方式や慣行のベンチマーク』『組織の下位レベルへの権限委譲』『従業員の目標達成へのモチベーション向上』など、構造的な諸改革によって効率化は達成可能なのである。」(p100)
この部分は、福祉行政、福祉現場ともに切実に求められ、かつ出来ていない分野だ。自組織の方式や慣行に固執する、下位レベルに権限が委譲されない、従業員が目標達成を動機図消されずただ働かされている・・・という特徴があれば、それは経営母体が官民関係なく、「官僚制」に縛られている組織なのである。この脱却こそが、まさに求められている。
そして、話が長くなったが、これまでの②~⑤の論点が踏まえられて、初めて①のポジティブ福祉への移行の話になるはずだ。
「『福祉』は、失業者や高齢者といった社会的弱者に生活費を直接給付するというものではなく、市民のライフスタイル変革を促す建設的、積極的な支援が中心となる。セーフティーネットは、個人や組織の自立を助けるもの、エンパワーするもの、ポジティブなものでなければならない。」(p13)
「生活費の直接給付」も、困った状態の人の支援の一形態である。それを悪と単純に見なすのではなく、「市民のライフスタイル変革を促す建設的、積極的な支援」とは何か、を最大限考えた上で、最も大きな影響力を果たす政府になることが、福祉国家に求められていると僕は解釈した。その為には、支援組織も行政も、自らの価値基準に固執するのではなく、「ますます多様化し激しく変化する世界に適応できる能力」である柔軟性をもって支援対象者に接する必要がある。また、それが出来る組織システムでなければならない。その上で、自らのパフォーマンスを如何に上げるか、という意味での「効率」と、その結果としてご本人のよりよい暮らしにどれくらい近づけるか、という「平等」の両者をきちんと追求しなければならない。
「『効率』と『平等』のバランスを保つことは、資本主義を安定的に維持していくためには不可欠の条件である。」(p86)
僕は雇用政策にまで言及する力量はないが、この雇用政策の部分で言われいるバランスは、対人直接サービスの部分でもそのまま当てはまると思う。経済効率だけでなく、「大きなポジティブな影響力」としての「効率」。その追求がもたらす「他の者との平等」の実質的実現。それを実現可能なものにする支援組織や柔軟性。これらの「ポジティブな福祉」が整備されてはじめて、「権利と義務」「受益者貢献」の話がようやく出来るはずだ。なのに、日本はそういう整備もない中で「受益者」論のみが先行した結果、障害者法政策の転換点を迎えた。
ギデンズ・渡辺論を解釈しながら、結局自分の言いたい事に繋げてしまったが、大変考えさせられる一冊だった。そして、自分に引きつけて考えるなら、この「大局観」と「柔軟性」を持って、「効率」と「平等」をバランス良く眺められるか、が今の課題でもある。

関連づけを意識する

今日は金浦空港から。行きは成田-仁川、帰りは金浦-羽田と飛行機を変えてみた。金浦空港は免税店はショボいが、市内からのアクセスは良い。奥さま向けの化粧品は金浦空港で買えたので、用は済んでしまった。あと1時間ほど待ち時間があるので、いつものように旅のまとめを書いておきたい。

ソウルは行きは2時間半、帰りは2時間で着くので、東京からなら沖縄に向かうのと同じ感覚。もちろん、言語や文化は違うが、今回はその違いよりも、似ている部分や日本との関連性について深く考えた旅であった。
以前に書いたが、最近、松岡正剛氏の得意な「連関読書」を、仕事だけでなく、また読書だけでもなく、いろんな部分で意識している。今回はソウルで開かれる、東アジアの社会政策に関心を持つ研究者の会議に出かけたのだが、両者に対しても、関連づけをしようと心がけた。前者のソウルに関しては、何冊かの韓国本を出かける前から読み囓った。「ソウルの風景」「現代韓国史」「『韓流』と『日流』」「世界の都市の物語 ソウル」。この順番で読み進めて、非常によかった。今、本は手元にないので、うる覚えの雑感を。
一冊目の「ソウルの風景」は四方田犬彦氏のエッセイ。朴政権下の戒厳令が敷かれていたソウルとミレニアムの年のソウルの、たった20数年間での大きな隔たりを、彼の心象風景と共に描いた佳作。この本が、まずはソウルや韓国社会への理解の下地を作ってくれた。次に「現代韓国史」では、主に20世紀の韓国の激動ぶりを、特に日本統治下の後に焦点化して描いている。朴政権が戒厳令を敷くことになった歪みの理由、ソ連とアメリカ、日本と中国、資本主義と共産主義、経済発展と国内平和…そういった様々な外交や時局的な「あいだ」に挟まれて、歪みを引き受け続けた結果の激動であり、その中でも奇跡の成長を遂げ続けてきた隣国のことを、本当にわかっていなかった、知ろうとしていなかった、と実感。
その二冊がベースとなったので、同世代のクォン・ソンヨク氏が書く「『韓流』と『日流』」には、様々な意味で心を動かされた。彼自身、韓国出身だが父の仕事の関係で日本に小学生時代から暮らしていた経験があり、またその後祖国に戻り、今は日本の大学で働いている。その両国の「あいだ」として、確かご自身は「境界人」と表現しておられたと思うが、その境界にいるからこそ肌で感じた無知や無理解を乗り越える武器として、文化間交流の視点に着目した、興味深い一冊。日本におけるヨン様以来の韓国ドラマ、映画のブームと、それにシンクロするように、韓国における日本のアイドル歌手や村上春樹などの小説家のブーム。そういった国境の垣根を越えた作品へのリスペクトが、相手の国や文化への自然な興味や関心につながっていく、という分析は、非常にスッと頭に入ってくる内容であった。
そういった形で大変遅まきながら韓国の事を吸収しつつあったから、学会会場で出会った韓国人のYさんとも、昨晩飲みながら色々話が出来た。彼は介護保険の研究で博士号をとったばかりであり、日本の介護保険との比較もしているので、議論が弾んだのだが、その中で、自分がその下地として学んでいた事も触れながら、「相手のことをもっと知り合わなければ」と乾杯を繰り返しながら語り合っていた。
そういう夜の飲み会での出会いだけでなく、こんかいの学会は、前回のトルコ同様、大変吸収出来るものが多い内容であった。以前のトルコでの話と重なるが、自分自身、本当に今まで自分中心主義、自国中心主義的で、他国との比較もスウェーデンやアメリカといった、いわゆる先進地との比較しか興味のない、視野狭窄な状態であった。だから、学会発表をしても、あまり興味がある発表が多くあると感じられず、タコツボ的に殻に閉じこもっていた。だが、一旦その自分の線引きの蓋を取り払ってみると、様々なものが鮮やかに見えてくる。韓国の、台湾の、香港の、社会政策に対する様々なアプローチやその課題を聞く中で、ユニバーサルな課題、アジア的な課題、あるいはその国や文化の歴史に根ざす課題・・・といったことが見えてくる。そういう内実が見えてくると、その他人の発表を通じて、自分の研究や興味関心との異同がクリアに見えてくる。そうすると、俄然多くの発表へ関心が芽生えてくる。
そんな連関的な関わりがようやく国際学会でも出来るようになったのだ。思えば2年前の、実質的な国際学会のデビュー時から、少しは成長できたのではないか、と思う。下手な英語の発表も「タケバタさんのジャパニーズ・イングリッシュは伝えようとする気持ちがわかるからいいよ」と、昨年のシェフィールドでもご一緒したK先生にも誉めて頂いた。国内で、海外で、あるいは仕事で、プライベートで、そんな区切りは関係なく、ご縁があって関わる対象との関連づけをもっと強くしながら、自分にとってのアクチュアルな世界をより豊穣なものにしたい。そんなことを考えているうちに、搭乗時間を迎えた。

亀のようだが進んでいます

海外学会の話、です。ちなみに、ツイッター的に言うと、ソウル、なう。
以前に何度か書いたが、海外の学会で日本の細かい制度の変遷や、その中での問題を述べても、外国の聴き手には理解してもらいにくい。それで、前回のイスタンブールの発表くらいから、聴き手を意識した発表を心がけてきた。また、学会の参加者の属性や興味も気にするようになった。今回は社会政策の研究者の集まりなので、なるべくマクロな理論や制度的な話をすることを意識した。
フルペーパーを貼り付けたら長くなるので、下にサマリーを貼り付けておくが、介護保険との比較からみた日本の障害者制度、という大風呂敷で話をした。これを国内の学会で発表したら「若造が何を大げさな」と叱られるが、海外の学会では、逆にこれくらいの大風呂敷の方が、制度と文化が異なる人びとにも伝わりやすいのである。
今回の学会(EASP)は東アジアの社会政策について関わりのある研究者の集まりなので、介護保険そのものへの理解と興味があるようだった。なので、私の前のセッションでは、介護政策についてのイギリスと日本、韓国と日本の比較研究も出されていた。後者の研究を博士論文にまとめた韓国人と話をしてみると、3年前に介護保険制度を導入した韓国だけでなく、台湾は来年に導入予定とのこと。介護の社会化を、アングロサクソンモデルとは違う社会的文脈でどう進めるか、という視点で、日本の先行事例が役に立つそうだ。
今回、僕は敢えて介護保険の課題となっている点を、障害者制度との比較の中から浮き彫りにする、という発表をした。これは他国の発表者にとっても新しい視点になったようだ。なんせ、介護保険そのものの論文は英語でも結構あるが、他制度との比較はあまり見られないからである。こういうアウトプットを英語でする事の大切さを改めて痛感する。だが、英語で査読論文を書く実力が、当然僕にはまだない。このあたりは今後の課題なのだけれど。
というわけで、英語のサマリーを張り付けておきます。もしも英語のフルペーパーを読んでみたい、なんていう奇特な方がおられたら、メールくださいませ。
Where should the Japanese disability policy go? : From the comparison to the long-term care social insurance system in Japan
By Hiroshi Takebata
This paper is presented to study the transformation of Japanese disability policy (JDP) in this decade and to discuss its future direction. During this decade, JDP has changed significantly. On the one hand, it has been influenced by the global trend of policy-making, such as New Capitalism and New Public Management, and the application of foreign models like community care, care management and quasi-market system. On the other hand, it also has been affected by the limited policy options that policy makers could afford to take under the hard structural reformation (kōzō kaikaku) policy adopted by Koizumi Administration. These circumstances made JDP once consistent with the direction of the long-term care insurance (LTCI) program for aged population that started in 2000. After the regime changed in August, 2009, however, JDP seems to turn in opposite direction. Why is this change taking place now? What kind of challenges JDP has faced in the decade?

In order to answer these questions, this paper analyzes JDP in comparison with LTCI in six points; coverage, fairness, benefits, service delivery, relationship with other sectors, and cost controlling. From this study, it was found that the weak side of LTCI was revealed when its system was partly adopted by JDP; for example, the failure of the assessment of mental status and the standard care time methodology.  The differences between persons with disabilities under 65 and the aged ones in various areas also articulated LTCI’s defects; i.e. difference of the needs and wants, the attitude toward institutionalization, and the notion gap between the rights of “the beneficiary” and those “on an equal basis with others”. This study will contribute to the discussion not only on JDP but also shortcomings of LTCI in Japan.

<制度化>への「地すべり的」移行

ここしばらく、連関読書に精を出している。以前から何となく趣味で読んでいた「気になる本」を、改めてその関連性を強く繋げながら、自分の「いま・ここ」に引きつけながら読み始めている。その断片を、少しこのブログで整理してみたい。
「われわれが自明のものとしている<世界>が、実はさまざまの可能的な<かたち>のうちのひとつにすぎないことを忘れてはならない」(鷲田清一『現象学の視座』講談社学術文庫、p165)
このフレーズに電気が走ったのが、今日のブログの入口だ。私自身、この数年間市町村や県、そして今年は国レベルで色々な改革のお手伝いに関わっている。その際、少なからぬ人々から「そんなのムリ」「どうせ・・・」「出来っこない」という発言を聴き続けてきた。それは、優秀だったりその現場の事を熟知している筈の人から聞くので、私は一瞬、ひるむ。でも、「いま・ここ」の「自明のものとしている<世界>が、実はさまざまの可能的な<かたち>のうちのひとつにすぎない」。であれば、「いま・ここ」の<世界>は、「さまざまの可能的な<かたち>」の一つに過ぎないのだから、未来においては、別の<かたち><世界>だって、十分にあり得るのである。その変容可能性について、鷲田氏は次のようにも整理する。
「別の秩序の創出=<制度化>は、規定の秩序とまったく無関係に行われるのではない。それは、先行する特定の意味空間のなかで実体的な相貌を得ている諸要素を『非中心化』することによって『脱実体化』させ、諸要素にそうした位置価を与えていた意味空間の構造的布置を揺さぶり、ずらせながら、別の意味次元において組織しなおすという、一種の『地すべり的』な移行なのである。」(同上、p168)
制度の「『地すべり的』移行」というのは、言い得て妙だし、納得出来る。最初の瞬間は「ズルッ」とした、漸進的(incremental)な出だし。でも、布置の揺さぶりがある点を超えると、もうその流れを押し戻せないような勢いを付けて根本的(radical)に「組織しなおす」勢いがつくという感覚を、見事に表現している。実際に、いくつかの現場でも、新たに何かに取り組む際、まず心がけたのは、その現場で何が「実体的な相貌を得ている」中心か、の見極めと情報収集であった。そして、うまくいっていない現場ほど、その「諸要素を『非中心化』することによって『脱実体化』させ」ることが求められている。もっと言えば、「非中心化」が求められる諸要素というのは、実は過去の栄光・最先端であるが、現段階では最後尾に位置づけられてしまい、変革を欲するが、自分からは変われずにその場に固執する存在・役割だったりする。その「諸要素」の特性を見極めた上で、「意味空間の構造的布置を揺さぶり、ずら」すことが、「地すべり」を誘発するし、じつはそれは諸要素にも結果的には望まれていた事だったりもする。
そして、「地すべり」を誘発するものについての鷲田氏の指摘も鋭い。
「『地すべり』的移行としての<制度化>は、特定社会に内蔵された<自己意識>の<閾値>から漏れ落ち、排除されたものによって誘発される。(略)排除されたもの、逸脱するものは、それを排除したもの、それを逸脱として規定したものの構造をときとして逆照射する。一定の<制度化>がやがてひずみを惹きおこして、みずからのうちに包摂しきれないような別のかたちの関係のあり方といったものをいやおうなく出現させるとき、そうした自己自身の変形(=他成)といった事態を招き寄せるのは、それ自身が内なる他者として排除したものとの関係である。」(同上、p170)
私が関わっている、内閣府の障がい者制度改革推進会議、総合福祉法部会。これは、今の制度である障害者自立支援法を廃止して、「障害者総合福祉法」(仮称)を産み出すために、どのような内容・方向性・骨格であるべきか、を議論している会議である。55人の委員から、実に多様な意見が出され、外野から見ておられる方からは「学級崩壊だ」「まとまるはずがない」などと揶揄されることもある。だが、私は山梨の経験からも、これまでの混沌とした状態は、決して「崩壊」だとは思っていない。むしろ、「特定社会に内蔵された<自己意識>の<閾値>から漏れ落ち、排除されたもの」の自己主張が様々な形でわき出してきて、表面化した段階である、と感じている。また、揶揄するお立場の方の中には、「それ自身が内なる他者として排除したものとの関係」を取る事に対する拒否的な見方を感じることもある。
だが、「地すべり」は既に起き始めている。「家族の丸抱えor施設・病院への丸投げ」といった二者択一的な制度設計は、地域生活支援の充実というパラダイムシフトの中で、「『非中心化』→『脱実体化』させ」られつつある。この検討会では、支給決定プロセスや地域移行などで、一見すると多くの対立点があるかのように言われている。だが、「自己自身の変形(=他成)といった事態を招き寄せるのは、それ自身が内なる他者として排除したものとの関係である」ならば、そういった論点は、その論点自身が「内なる他者として排除したものとの関係」がより先鋭化した為、「自己自身の変形(=他成)といった事態を招き寄せる」結果に至ったのである。単純に言えば、障害程度区分という介護保険に似せすぎたスケールで計ろうとしたことや、「○○障害だから施設でしか暮らせない」というリアリティを構築してきた事によって、排除されてきたものの、構造への「逆照射」であり、<閾値>の捉え直しが、切迫した状態にまで迫ってきた為、「地すべり」が起き始めているのである。
この「地すべり」的局面において、これまでの「先行する特定の意味空間のなかで実体的な相貌を得てい」た中心的「諸要素」の中からは、「そんなのムリだ」「夢物語だ」といった話が聞こえてくる。突破する為の理由を一つ考えるのではなく、出来ないための言い訳を100考えているような現状だ。しかし、残念ながらそのようなスタンスは、確定性への盲信と不確定性への恐れが関連している気がしてならない。それを、木村敏氏の指摘を補助線にして考えてみる。
「患者が妄想を抱き、幻聴を聞き、理解しがたい行動を示すのも、彼が主体として生きようとしているからなのであって、それを異常だとか病的だとか言うのは、その主体性を捨象したこちらの勝手な判断に過ぎない。患者を主体として見ることによって、個々の症状の意味は主体的に『生きること』の困難さにまで還元される。精神病の治療目標はもやは個々の症状の消去ではなくなって、患者が-ときには症状を持ちながら-主体的に生きてゆく努力の援助ということになる。」(木村敏『生命のかたち/かたちの生命』青土社、p21-22)
精神分裂病は「あいだ」の病だ、と喝破した木村敏氏の論には、頷く部分が多い。上記の指摘は、、医者が単に患者の病状だけを取り出して分析的・因果論的に考察しても、「表面的な症状の消長」は果たされるかも知れないが、「病状の根底にある分裂病の基礎構造への問い」が抜けている為に、「主体性を捨象したこちらの勝手な判断」に囚われているのではないか、という批判である。そうではなくて、「患者を主体として見ることによって、個々の症状の意味は主体的に『生きること』の困難さにまで還元される」、その状態と医師は向き合うべきではないか、と指摘してる。これは、先の鷲田氏の言う「排除されたもの、逸脱するものは、それを排除したもの、それを逸脱として規定したものの構造をときとして逆照射する」という事態そのものではないか。因果論的な論理、これまでの「中心的」だった論理から「排除」されたものによって、「地すべり的移行」が迫られているのではないか、と。
また、この点に関して、木村氏は次のようにも言う。
「『不確定なものが変更不能のものになる』というのは、未来が過去になるということだ。物理学の時間には未来も過去も、『以前』も『以後』もない。未来の不確定が過去の確定に変ずるところ、そこにかたちが発生する。そこには生命がはたらいている。生命あるものにとっては、存在はつねに生成としてしか与えられない。」(木村敏『生命のかたち/かたちの生命』青土社、p111)
制度を作り直す、というのは、未来に向けての「不確定なもの」である。一方、今の制度を守るというのは、「変更不能のもの」である「過去の確定」を保持するところである。制度は一見すると静的なものに見えるが、人間が創り出すものであり、その時々の状況や社会環境によって不断に変化していくものである。それは人間が創り出したものとして「生命あるもの」とも言えるかも知れない。私たちは制度はコントロール可能だと思いこんでいるが、介護保険がスタートして10年で理念が大きくぐらついたり、支援費制度は創設初年度から「アンコントローラブル」と言わしめたりするように、制度も生き物と捉えた方が良い。
すると、命ある制度に対して物理学的な、因果論的なロジックだけでコントロールしようとする事自体が、違った尺度で測っていることになりはしないか。視点を変えたら、常に「不確定なものが変更不能のものになる」というプロセスが、<制度化>というプロセスではないか。であれば、「地すべり的」移行の現実を前にして、「過去の確定」に固執するのではなく、そこから漏れだした、排除された何かを拾い集めることが先ではないか。そして、障害者福祉の制度改革で言うならば、先の木村敏氏の発言を用いるならば、「障害のあるAさんが-その障害持ちながら-主体的に生きてゆく努力の援助」を、どうシステム的に支えるか、が問われているのではないか。
今、少し気になるのは、介護保険や自立支援法といった「過去の確定」にこだわって「不確定」への「地すべり的」移行を拒絶する雰囲気が見え隠れすることだ。でも、鷲田氏の発言を繰り返して引用する。
「われわれが自明のものとしている<世界>が、実はさまざまの可能的な<かたち>のうちのひとつにすぎないことを忘れてはならない」
であれば、障害のある人が主体的に地域で暮らすために、どのような「地すべり的移行」を果たすべきか。何を非中心化、脱実体化させ、そのオルタナティブに、どのような新たな「意味空間の構造的布置」を置けばよいのか。そういう真摯な議論が、市町村や都道府県、国と議論する場の如何に関わらず、行われてほしい。そう願っているし、一アクターとして、それを実践し続けようと思っている。

まず自分の畑を耕せ

ずっと昔も書いた事があるかもしれないけれど、僕は休むのが上手ではない。

受験勉強時代、ダラダラずっと勉強し続ける環境にいたトラウマがまだ残っているのか、何だか休みの日にスコーンと何もかも忘れて遊ぶ、という余裕があまりない。ゆえに、結婚して奥さんと晩酌するようになって、ずいぶんスコーンと忘れられるようになったのは、誠にありがたい。ついでにいえば、彼女はそのオン・オフの切り替えが抜群であり、随分学ばされた。旅行にPCを持って行かない、という当たり前の事も、彼女の強い反対がなければ為されなかっただろう。それほど、僕は何だかshould/mustに引きづられているのである。
ただ、一方で、最近、少しずつではあるが、would like toを増やしつつある。明日はお休みの合気道もそうだ。ダイエットという事を目当てなら、「すべし」なのだが、低炭水化物ダイエットで、体重10キロ、腹囲10㎝も落としてみると、それもルンルンと「したい」に変わってくる。ちなみに、ダイエットだって、「すべし」でなく、今では体重の記録を付けるのが日課であり、また、少しなるシスティックになるかもしれないが、風呂上がりにへこんだお腹を見て、「頑張ったなぁ」と感慨を持てるくらいになったので、これも「したい」になってきた。
来週は韓国、9月上旬はスウェーデンとイギリスに調査だが、それに関連して、その地にご縁のある本もぽつぽつ読み始めている。これは、この春、香港に行った時くらいからであるが、せっかく旅行するのに、滞在する国や文化、人々の事を知らず、単にガイドブックの虜になっているのもつまらない囚われだな、と思い始めたからだ。香港で読んだ本は上記のHPに書いたが、こないだのトルコ行きには「トルコで私も考えた」「世界の都市の物語 イスタンブール」なんかを読んでいたので、以前より奥行き深く、その町を捉える事が出来た。
今日読んでいたのは、四方田犬彦『ソウルの風景』(岩波新書)。筆者が以前ソウルの大学で日本語教師をした時代は、朴政権の厳戒令が引かれた時代の70年代ソウル。その後ミレニアムの直前に再びソウルに滞在し、あまりの変容ぶりに驚きながらも、街を歩き、人と語らいながら韓国社会の変容について紐解いていく、読みやすいエッセイ。村上春樹が韓国社会の男性文化の変容の中で大きく受けられた事や、金大中氏のノーベル賞受賞を巡る韓国内部での複雑な対応、光州事件とは何か、従軍慰安婦とナヌムの家の実際・・・などなど、興味深いエピソードと筆者のしっかりとした視座を両方感じる一冊。その中で、彼が元慰安婦とともに食事をしたエピソードの後に出てくる一節が、心に残った。
「まず自分の畑を耕せとは、ヴォルテールの『カンディード』の主人公がさまざまな冒険の後に体得することになった教訓である。映画史研究家として自分が最初にできることは、日本と韓国の映画界が従軍慰安婦をどのようにスクリーンに描いてきたか、その足跡を実証的に辿ることだろう。帰国したわたしはさっそくこの論文の執筆にとりかかった」(p192)
そう、ある出会い、ある問題関心を持った時、それと「自分の畑を耕」すことをどうリンク出来るか、が問われている。だからこそ、自分の専門領域も深めながら、でも、それがどのような地図の中の位置づけにあるか、を理解しておく必要がある。また、新たな人や社会、課題との出会いに積極的になり、かつそれを「自分の畑」の肥やしにし、耕そうとする真摯さとどん欲さ。日本国内であれ、海外であれ、どの現場に行っても、真摯に現場に向き合いながら、一方で「自分の畑」に引きつけようとする気持ち。こういうのって、すごく大切だ。
あ、やっぱり仕事の事を考えていた(笑)。でも、そういう「書きたい」という欲望を駆動させるような、そんな体験や経験を、オン・オフ関係なくし続けたい。そう思った夕暮れであった。

即効性と種まきの弁証法的統一に向けて

今日は最終の「ワイドビューふじかわ」。先週の土曜日に乗って以来なので、まだ一週間も経っていない。だが、先週のことが遠い過去のように、ここしばらくも濃密な日々が過ぎ去っていく。今日は三重からの帰り道。

以前から何度か触れているが、三重県の障害者福祉に関する特別アドバイザーの仕事をこの3年間、させて頂いている。山梨でも4年間させて頂いていて、両県の現場に関わることで、僕自身が学んだことは数限りない。山梨では明日、障害者の地域課題について議論をする場(自立支援協議会)の県・地域合同協議会が開かれる。こういった内容は、国から「すべし」と言われてするものではなく、山梨の実践のリアリティの中から、「あってもいいよね」というコンテキストが創発し、産み出されてきたものだ。そういう協議会作りに、ご縁あってその最初から関わっているので、山梨らしい、その地域に合わせた枠組み作りとは何か、をゼロから考える貴重な経験をさせて頂くことが出来ている。

そして、貴重と言えば、三重での経験も、山梨とは別の意味で貴重だ。山梨では、地元ということもあり、しょっちゅう打ち合わせをしたり、あちこちの市町村や現場で対話をする事が出来る。事実、多くの現場での対話を繰り返してきた。その中で、様々な新しいコンテキストも紡ぎ出してきた。だが、三重の場合、静岡経由、新横浜経由、塩尻経由のどの経由で出かけても、5時間近くはかかる。一時期は「週間ミエ」なんて事もあったけれど、そんなにしょっちゅう出かける訳にもいかず。なので、自ずと山梨での立ち位置と変えざるを得ない。その中で、ちょうど声をかけてくださった主催者(三重県庁の担当室長)の意向もあり、三重でこの3年間取り組んできたのは、人材育成に特化した支援であった。その原点になるメールを今探してみると、次の4点の問題意識が綴られていた。少し専門的になるが、そのままご紹介する。

①現在の障害者をとりまく新しい動きが行政職員にも十分に伝わっているのか。
②障害当事者に対する地域のケア会議や自立支援協議会が十分に理解されているか
③アウトリーチ(出前の福祉)が出来ているか。
④地域で暮らすのが困難といわれる対象者が市町の地域で暮らすにはどうしたらいいか
⑤行政職員が施設の実態を知っているか?在宅の障害者の置かれている状況を把握しているか?

このメールをくださったWさんは、県庁の一般職として向き合ったケースワーク業務を通じて障害者福祉の仕事の面白さにはまり、以来ずっと福祉職を続け、今はその現場でのトップとして活躍して来られた、という興味深い経歴をお持ちの方である。現場に精通している政策マン故に、ミクロとマクロの解離、ソーシャルアクションの不足・不在、専門家主導と当事者主体の違い、「援護の実施者」としての行政責任の所在、など、鋭い問題意識を持つ、カリスマ職員である。ただ、他の多くのカリスマ職員と同様、「職人芸気質」「背中で仕事を見せる」というタイプの方であり、僕とは真逆で自分の成果を伝えようとしない謙虚さが身に浸みている方でもあった。よって、「次代に伝える」という部分で弱点を持っておられた。僕が職員研修や組織改革の仕事をしていることを聞きつけ、そういう「次代に繋ぐ」人材育成をお願いしたい、と依頼された仕事であった。

そういうオーダーであったが故に、今から遡及的に振り返ってみると、「次代に繋ぐ」という長期的展望と、すぐに役立つという即効性という、相矛盾するニーズに応える必要があった。この年は障害福祉計画という自治体に作成義務のある計画の見直しの年だったので、それに焦点を当てて一回目は私が講演をしたのだが、事の始まりはこのときの次のような感想からだった。

・「計画の見直しについて具体的な内容に踏み込んだものを期待したい」
・「どこかの市町の計画を例に挙げて話をして欲しい」
・「計画の概要だけではなく、具体的にどこかの例をあげて、その数値をどのように検討していくのか、実際に計画に取り組む立場で悩むことなど教えてほしい。初めて書く分野について、より良いものや地域の実情に応じたものを考えていくにはどうすれば良いか。」

これらの感想を端的に言えば「もう大学の先生の理論的話は結構。具体的に役立つ話を次はしてほしい」ということになる。つまり、長期的展望云々より、まずは即効性のある内容をして欲しい、という切実な担当者の訴えだったのだ。

この感想を読んだのは、2回目の研修をする事になっていた前日の打ち合わせ。正直、読みながら目の前が真っ暗になっていったのを覚えている。だって、自分がデザインした内容とは、全然違うオーダーが受講者から出されたのだ。当然、かなり困った。だって、僕自身は自治体担当者だった経験はない。福祉計画作成に実際に携わった事もない。その中で、現場の人に求められてもいない研修を一方的にしても、百害あって一利なし、そのものだ。しかし研修は既に明日に迫っている…

そんな打ち合わせの中でふと、現場で実際に当事者の声に基づき政策形成にまで携わっている(ミクロとマクロソーシャルワークを両立している)人に話をしてもらったらどうだろう、と浮かんだ。一人は先述のWさん。もう一人、自治体からそういう人に話をしてもらい、僕が「徹子の部屋」ならぬ「寛子の部屋」として代表して話を伺っていけば、「現場の悩み」に基づき、それを乗り越えるエッセンスを引き出せるのではないか。まあ、そんな発作的な思いつきから、ある自治体職員であるMさんをWさんがご紹介頂き、結果的にはそのMさんにも一昨年、去年の研修デザインにずっと関わって頂く事になった。しかし、そうやって受講者代表のような存在も巻き込みながら、受講者の感想に基づいて内容を大胆に変えていったからこそ、双方向の研修が実現し、その研修の場で議論された量的・質的分析(圏域単位の個別給付の給付率分析や困難事例分析)の中から、三重県の障害福祉計画の圏域分析の原案が出来上がる(詳しくは次のHPの第三章 4.圏域の現状と課題を参照)など、結果的にはインターアクティブな研修が出来上がっていった。

(この研修のプロセス分析は、次の文献として整理しています。竹端寛「福祉行政職員のエンパワメント研修-障害福祉計画作成に向けた交渉調整型研修の試みより-」山梨学院大学『法学論集』。ご興味のある方にはお送りできますので、メールにてご一報ください。)

こういう双方向の研修をするためには、当然濃密なコミュニケーションが必要とされる。結果として5回シリーズの研修だったのだが、そのための打ち合わせに3週連続で、しかも祝日に打ち合わせする、という非常識な事もしたけれど、研修チームの皆さんは「何とかええもん作りたい」と乗ってきてくださった。その中で、終わってみれば、次のような感想が出てきた。

・福祉一年生にとっては、かなり難題であった。課題(宿題)をじっくり考える時間的余裕が欲しい。
・結局、最後まで「困難事例を捉え直して…」ができませんでした。(現場を知らないからですね)でも計画の見直しにあたっての考え方などはよくわかりました。何とかこの5日間の研修をもとに実行にうつします。ありがとうございました。
・かなりハードな5回の研修でしたが、参加してよかったと思っています。福祉担当職員としては必要な知識(心構え)ばかりだと思います。

今から振り返ると、これらの感想にあるように、結果的には相当ハードで高いハードルになった研修をやりきってしまった。何せ、企画したわれわれ研修チームには、全くの前例も参考事例もない中で、文字通り全パッケージを作り上げたのだ。今から思えば、よくやるよ、という世界である。だが、そういう事をしながら、種を蒔き続けたのに、反応が出始めている。昨年頃から、三重のいくつかの現場で「行政の担当者が『当事者の声を聞く』という言い出した」「自立支援協議会の形だけでなく、中身についても考えようとしはじめている」という声が出始めた。芽があちこちで出始めているのである。

とはいえ、一年の研修だけでは勿論終わりではないので、昨年は「個別支援計画から自立支援協議会へ」、そして今年は「当事者の声を聞くとは何か」とテーマを変え、3年間の研修で重なり合う部分も持たせながら、研修を続けている。そして、一年目の研修チームでは、僕自身がかなりイニシアチブをとったが、二年目から三年目にかけては、どんどんチームの構成員メンバーでのイニシアチブの範囲を増やす方向にシフトしてきた。たとえ僕自身が「カリスマ講師」になっても(実際はそうではないが)、「タケバタがいなくなったらオシマイ」であれば意味がない。であれば、県のチームの中で持続できる研修作りが必要だ。この思想は、今年度から、県独自研修だけでなく、県が必須事業として行う研修にも拡大し、人材育成チームとして機能し始めている。つまり、人材育成の研修という点が、チーム作りという面に、そして継続的な研修体系作りといった立体に機能し始めているのだ。その中で、「特定の人格のエンパワーメント」(安冨歩)が行われ、そこから「カリスマ職員」の「職人芸」を引き継ぐリレーが行われつつあるのである。

こういうリレーに関わるのは、勿論時間がかかる。一方で、毎年毎年の即効性が求められる。だが、その両者が調和しながらも両立する時、拡大する螺旋階段的な、とでもいうような、渦やコンテキストの創発と拡大が進んでいく。それこそが、人材育成の仕事の醍醐味である。それを、フィールドプレーヤーとして学ばせて頂きつつある、というのが、偽らざる実感だ。まとめてみるならば、即効性と種まきの弁証法的統一への気付き、とでもいえようか。

さて、今年の研修では、どんなワクワクを形作ろうか。今日の仕込みにその片鱗が見えていたので、来月からのスタートが楽しみである。

ミッションを考える

今日の身延線は遅れている。市川大門の花火大会の影響だそうだ。そういえば何年か前、北海道からの帰りの高速バスが、石和の花火大会の終わった直後に突っ込んで、大変な思いをしたことがある。ま、夏は仕方ないよね、と思いながら、亀山郁夫訳の「カラマーゾフの兄弟」を読み始める。昨日今日と大量のアウトプットをしたので、全く別のコンテキストのインプットを心から求めていた事がわかる。おかげで、小説はするすると心に染み入り、僕自身もようやく疲労モードから回復しつつある。それにしても、この二日間は、よくしゃべった。

昨日はあるNPOの将来構想計画について議論する為に、大阪入りする。ドラッカーの『非営利組織の成果重視マネジメント』という自己評価のハンドブックを片手に、そのNPOの使命や顧客、顧客が価値あると感じるもの、などを問い直していく。NPOの専従スタッフと、その現場から多くの事を学び、ボランティアとして関わり続けている若手研究者達による議論。その中で、大きな議論の一つとなったのは、「成果とは何か」であった。これについて、先述のハンドブックでは次のように書かれている。

「何を測定し、モニターするか。どのような尺度が適当か。成功のために欠くことのできないものは何か。非営利組織が自らの成果を定義するために、このような問いかけが必要だ。そのためには、使命に戻らなければならない。自らの能力、働く環境、そして活動分野に関する既存研究や事例について熟考する必要がある。
 第一の顧客の声に注意深く耳を傾け、彼らが誰であり何を価値ある者と思っているかについてのあなたの知識を使って考えてみるといい。つまり、対象の定性的および定量的側面について考えるのである。このような方法で努力すれば、ボトムラインを決めることができ、その結果、組織の何を評価し、判断すべきかがわかってくる。」(ドラッカー&スターン編著『非営利組織の成果重視マネジメント』ダイヤモンド社,p42-43)

そのNPOでは、設立して年月が経ち、今、新たな方向性を巡っての転機の時期にいる。それはつまり、これまでの成果尺度の限界と、新たな成果やゴールについての模索である。更に言えば、顧客についての再定義と、顧客に向けて何を使命として仕事すべきか、の非営利組織のビジョンの見直しそのものでもある。僕自身、その団体から様々な恩恵を受け、現場のリアリティについての沢山の示唆を受け、自分自身の今を形作る上で少なからぬ影響を受けてきた。それゆえに、第三者の外部の研究者、という一歩引いた視点ではなく、大切に引き継ぎたい、守り続けたい叡智・宝をどう捉え直せば、次の20年、30年へと活かせるのか、を我が事として考えている。そして、それを考える場に立ち会えた事の喜びと、社会的責務や使命のようなものも、同時に感じていた。そう、そのNPOの使命について考え直す中で、改めて研究者としての自分自身の使命についても考え直していたのだ。

それは、実は今日の会合にもつながる。今日はこの春からの自分自身の変容に大きな影響を与えてくださったF先生とランチをご一緒させて頂いた。夏休みの高槻西武のレストランは恐ろしく騒々しい空間で閉口しながらも、先生にお話したいこと、伺いたいことが色々あった。自分自身、この半年弱の中で、殻を破り、とらわれからの脱皮を試みつつある。以前は馴染みのあるフィールドに関してはインターアクティブだったが、それ以外の場ではアクティブかリアクティブかの一方通行だった。わあわあと他人事として批判するか、あるいは防御反応的に殻に閉じこもるか、の、二極分解だった。普段の職場や親しくさせて頂いている人はあまり信じてもらえないかもしれないが、僕がインターアクティブであるのは、あくまでも自分が守られていると思う局所的範囲での振る舞いだった。そして、それが自分の可動領域や可能性を狭める、一番の理由だった。

だが、この春以後の変容の中で、ベイドソンやポランニー、モランなどの著作を媒介にしながら行いつつあるのは、自分自身が作っていた殻や壁を取り払う作業であった。社会的立場や役割の鋳型に絡め取られ、自分の論理性の薄さへの引け目から論理的であろうと過度に強ばっていた事も加わって、本来の自分の魅力である「直感に基づく編集能力」に蓋をしていた。それが、昨年から始めた合気道、この半年で実ったダイエットなどの、主に身体の変容によって蓋が開き始め、固着した考えの蓋を取ることができはじめた。もっと様々な分野で、心の強ばりを外し、インターアクティブになってもいいのではないか、と思い始めた。それが、自分自身の「直感に基づく編集能力」を活かすことであり、ひいては自分自身の使命を全うする上でもダイレクトにつながっている、とようやく自信を持って言えるようになってきた。そして、その歩みに背中を押してくださるのが、F先生とのやりとりであったのだ。

そう考えると、この二日間は、強く自分自身のミッションについて考え直す旅であった。電車は15分遅れになったが、花火も見れたし、考えもまとめられたので、結果的には程よい遅れであった。