砂時計の周りの風景

砂時計を見るのは随分久しぶりだ。誰もいないサウナで、朝から汗を流す。今日は10時間以上のフライトなので、朝から汗を流せるのはありがたい。今回、前日も東京出張なので、成田空港側のホテルに泊まっている。スーツケースも運ばれており、朝もよく眠れ、ラクチン。朝4時とか5時のバスに3時間半揺られて空港に着くと、それだけでグッタリしていたので、えらい違いだ。
で、えらい違い、と言えば、最近ようやく、海外に行くときは、調査や発表の直接資料だけでなく、滞在先に関係のある本も旺盛に読み始めたことだ。蒸し暑いサウナで砂時計を見ていると、それ以外のものが目に入らなくなる。学会発表でも調査でも、そのことだけに目を向けると、他のことが目に入らない。だから、砂時計の背景の、直接目的以外の、その国のリアリティについて、少しでも目を向け始めたのである。その中で、自分の直接の目的にも関わりのある記述にも、当然出会う。

今回ご紹介するのは、イギリスに出かける前に人に勧められて読み始め、昨晩成田空港のレストランで読み終えた一冊。

「人はしばしば間違った判断を下す。間違った人と恋に落ちる。どんな社会階層のどんな家庭にも、多かれ少なかれアリソンのよう例はある。ただ、裕福かそうかないかで、その先が違ってくる。ミドルクラスの人間なら、若気の至りで少々失敗しても貧困生活に陥ることはまずないが、労働者階級の場合はアリソンとその子どもたちがそうであるように社会の厄介者、つまり社会保障の対象者になってしまう。『市民』なら仲間の失敗も大目に見てくれるかもしれないが、『納税者』の目は厳しい。」(トインビー&ウォーカー『中流社会を捨てた国』東洋経済新報社、p101-102)
日本ではない、イギリスの事情についてである。だが、裕福かどうか、で「失敗」か「社会の厄介者」にカテゴライズされるかがわかれる、という事態は、日本でも拡大しつつあるような気がする。虐待の連鎖が、単なる個人的環境よりも、教育の欠如や低賃金労働の結果として現れている例など、わかりやすいし、残念ながらそういう事情は日本だって増えていると感じる。そして、「市民」としての連帯より、「納税者」としての批判の方が、マスメディアによって喧伝されている、という指摘も、まるで我が国について示しているかのようだ。
日本はもともとイギリスに比べて社会階層間の格差が遙かに少なかったし、階級意識のようなものも彼の国に比べて低かった国であった。そういう視点で見ると、ニューリッチとこれまでのアッパーミドルの間にあるズレや格差、というニュアンスはわかりにくい。だが、納税に対する信頼感のなさ、節税に必死になる高所得者の実態、子どもの貧困が親(特に一人親)の貧困と密接に結びついている、だが特に高所得者ほど社会保障の対象者は努力不足や怠惰が理由であると信じ込んでいる…。こういったストーリーは、我が国でもそこかしこで起こっている事である。社会階層の格差が元々大きかったかどうか、の歴史的歩みの違いがあるのに、中流とよばれる階層が減り、ごく一部の富めるものと、大多数の貧困者に二極化しているという流れは、とても対岸の火事に思えないし、グローバル化の結果として、どこの国にも起こりうることだと感じた。
今回、スウェーデンにも調査に出かけるが、スウェーデンはイギリスや日本より、まだ中流社会が残っているような気がする。それは、所得の再分配機能が強いからであり、消費税も所得税も日本より遙かに高い。納税者背番号制をとっており、税金の補足率も高いし、オンブズマン制度に代表されるように、政治の透明性も高い。それが政治への信頼にも繋がり、納税への信頼感にもつながる。
僕はマクロの福祉国家論の研究者ではない。あくまで障害者政策の実態を両国で調べようとしている。だが、イギリスやスウェーデンでどのような障害者政策がなされているか、という現在の一点のみを分析しても、歯車がかみ合う議論にはならない。どういう歴史や制度的蓄積があるのか、という拡散にも、グローバル化の結果としてどのような同じ方向性に向かいつつあるか、という収斂にも目配りが必要だ。
ただ、だからといって、この前読んだ政治学者の批判は、何だか腑に落ちない。確かにスウェーデンの「国民の家」構想は、誰が国民かを規定しているからこそ出来た部分もある。あるいは優生学的系譜も、彼の国にもあった。だが、日本よりもその反省に基づく政策転換は遙かに進んでいる。隔離収容政策から地域生活支援に大きく舵を切っているし、移民の子どもであっても障害者支援の恩恵は十分受けている。どこの国にも恥ずべき過去はある。問題は、その過去とどう向き合い、どう政策転換を図ろうとしているか、というプロセスだ。ユートピアがないのには同意するし、スウェーデンでもイギリスでも、どこか他国の制度をそのまま持ってきて我が国が薔薇色になるわけがないのも、よくわかる。だが、わざわざ他国を「○○がわるい」とあら探しするより、僕はその国がどう変わったか、どう過去からの問題に現在向き合い、未来をどう描こうとしているか、から学びたいと思う。ま、これは価値観の違いなだけかもしれないが。
そういえば、7年前に半年スウェーデンに住んでいた時に書いレポートは、あくまでもスウェーデンのその当時の現状報告であり、そうなるに至った社会的コンテキストにまで、ほとんど触れることは出来なかった。今回だって準備不足だし、そういう視点はまだ欠けている。だが、以前には見ようとさえしなかった視点に、今回少しずつ気付き始めている。砂時計の周りに、多くの世界が拡がっている。今回の出張はほんの一瞬の滞在だが、なるべく広い領域から吸収してこよう、と思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。