魂に出会うこと、『自分を巻き込む』こと

海外出張から帰った後の馬車馬のような日々も、ようやく昨日で一区切り、大学も始まったし、〆切仕事も一つを除いて片づいて来たので、ようやく日常モードに戻る。やれやれ。そこで、ブログも通常モードにもどります。

神戸大学の金井壽宏先生は、面識はないけれど、勝手に個人的に尊敬している研究者のお一人。リーダーシップ論や組織の変革マネジメントがご専門なので、一見すると僕の専門から離れているように捉えられるかもしれないが、福祉現場の職員研修・エンパワメントの仕事に携わっていると、福祉の本棚に役立つ本は少ない。以前とある組織のフィールドワークをする中で、その組織の職員研修や組織体系についての問を持って以来、この5,6年あまり、マネジメントや組織論の本も我流で読み漁っている。その中でも、金井先生と伊丹敬之先生の本からは学ばされる事が多く、お気に入りの本も少なくない。
今回とりあげるのは、金井先生が、複数のグローバル企業で人材育成を手がけてこられた増田弥生さんと書かれた共著。増田さんの視点は僕にもスッと入ってくるものであったが、一番フィットしたのが、次の部分。
「『今ここ』の瞬間のありのままの自分でいると、自分の魂レベルと感情レベルと思考レベルがいずれもずれないので、周囲から見ても軸のぶれていないリーダーとなり、職場の判断軸も明らかになってきます。リーダーがありのままでいないと、周囲の人も居心地が悪く感じて、自分のありのままを出しにくくなり、本来持っている力を発揮しづらくなると思います。」(増田弥生・金井壽宏著『リーダーは自然体』光文社新書 p218-219)
この中で増田さんがいう、「魂レベルと感情レベルと思考レベル」というフレーズにピンときた。そう、思考と感情については、誰でも思いめぐらすことがあっても、魂レベルまで、普段から意識しているだろうか。ちょうど、昨日の地域福祉論の講義で、認知症の当事者である、クリスティーン・ブライデンさんのDVDを学生と一緒に見ていたのだが、その中でも、彼女はこんなことを言っていた。
「私に出来ないことは多くなっても、一瞬一瞬を楽しみ、感情や魂を持つ一人の人間としてみてほしい」
そう、感情と魂とは別であり、感情が乱れても、その奥底にある自分の魂自体には一貫性がある。確か、夭逝した哲学者、池田晶子も「私とは何か」の根元を追いかけていったときに、最後にたどり着くのは「魂」だと言っていた。思考で考えるだけ考え詰めても「考えているところのこの私とは何か」については、思考ではたどり着けない。五感をとぎすませても、その感覚が沸き上がってくる泉の源泉には触れられない。その部分に魂がある。そう考えた時に、リーダーシップを「自然体」で発揮する為には、「感情」や「思考」だけでなく、自らの「魂」を意識して、情や思考だけでなく、魂も含めた「「『今ここ』の瞬間のありのままの自分でいる」ことによって、風通しのよいリーダーが生まれる、という文脈に、私は受けとった。また、彼女は次のようにもいう。
「自己受容は、人を巻き込んでいくプロセスにも欠かせません。なぜなら、自分自身を巻き込めない、つまりその気にさせられない人に、他者を巻き込んで、その気にさせることはできません。『自分を巻き込む』とは、表現を変えれば、自分が心の底から何かを信じて行動できる状態であり、そういうときに、他の人はその人を信じてついていこうという気になるのです。」(同上、p246)
何かを変えたい、と思う前に、まずは自己受容して、自分自身を巻き込んで、自分自身を変えるための行動が出来ているか。この問は、先ほどの魂レベルの話とも繋がってくる。本当に「自分を巻き込む」人は、「心の底から何かを信じて行動出来る状態」、つまり思考や感情のレベルだけではなく、いわば「肝が据わった」状態で、魂のレベル、その人の存在の根底の部分から動こうとしている。すると、なまっちょろい思考や口先レベルの行動とは全くことなり、渦が出来ているが故に、そこに他の人が引きつけられ、そこから巻き込みの渦が広まり始まるのだと思う。
これは、もちろん相手に直接接している場面を想定して書かれているが、僕自身は、文章においても同じ事が言えるのではないか、と思う。つまり、このブログも含めて、自分自身が書く文章が、自分の魂レベルとアクセスしているか、「自分を巻き込む」文章になっているか、ということである。
9月末〆切の原稿の幾つかで悩んでいる時、この問題に直面していた。規範論的な文章を概説的に求められると受けとったある原稿でのこと。だが、自分自身では「教科書」的な当たり障りのない文章を書きたくない。それでは「魂」まで「巻き込む」ことが出来ない。ゆえに、書く視座が定まらず、海外出張中に全く書き出せず、帰国後もなかなか書けなかった。辛くて、久し振りに土俵際まで追いつめられたような気分だった。
だが、こないだのゼミ合宿中、学生達の実存の悩み、というか、魂の部分が前面に出た議論を聞いているうちに、ふと気づいたのだ。彼ら彼女らの魂のレベルでの問に比べて、己の課題は本当に魂の問題にアクセス出来ているだろうか、と。魂にちゃんと触れるような書き物をしようとしているだろうか、と。依頼された相手や、査読者の顔色をうかがって、自分自身の魂のレベルでの「自分を巻き込む」文章から後退してはいないか、と。そう思うと、張りつめた雰囲気が消え、いつもの自分に戻っていった。その中で、ゼミ合宿の議論も渦ができはじめ、よい収束の方向へと向かっていった。その後、査読論文の校正は3日で、半分くらいで筆が止まりきあぐねていた12000字の特集論文も4,5日で書き上げてしまった。そう、思考や感情のレベルだけでなく、魂のレベルにアクセス出来てはじめて、自分で納得出来る文章が出てくるのである、と。
このブログも、思考と感情になるべく制限を付けずに書き続けている。それは、魂の部分にまで降りていき、ノックをしている文章なのかもしれない。そして、コンコンと魂の扉を叩き、扉の中から薄明かりが見えた時、書く前の自分とは違う位置にいる自分を発見したりする。そういう意味での思考の整理なのだが、それは感情を深め、魂に出会うことを通じて、『自分を巻き込む』作業をしているのかもしれない。
さて、今からは〆切を延ばしてもらった、別の原稿の修正と格闘。ちゃんと「自分を巻き込む」作業に正面から向きあってみよう。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。