琉球弧と「あいだ」としての沖永良部島

気がつけば12月。師走だけでなく、11月も突っ走っていた、と回顧的に思い出す。このブログに書いていないのは、先週の旅日記。1週間前、鹿児島にいたのだ。

ちょうど親戚の法事の為に、沖永良部島に出かけることになっていた。直行便はないので前回は那覇から往復していたのだが、そういえば鹿児島には小学校時代からの友人が住んでいて、最近結婚したばかりだ。鹿児島には是非とも訪れみたい。でも、沖縄は好きなので、何とか1日でも寄りたいなぁ・・・。そんなよこしまな欲望に魅せられて、航空運賃は高く付いたが、鹿児島→沖永良部→那覇を巡る3泊4日の旅に出かけた。
沖永良部島は、実に興味深い位置づけをしている。その地政学的意味について、今まで考えようとしたこともなかった。だが、こないだ佐賀で「陶磁器から知る、アジアの中の日本」に目覚めたあたりから、文化の伝播における地政学的な遠近の問題に関心をもちはじめた。そこで、今回の旅のお供には、直前に東京駅丸善で買い求めた次の二冊を携えていったのだが、実にキーブックとしては役に立った。
『沖永良部100の素顔-もうひとつのガイドブック』(東京農大出版会)
『沖縄・奄美と日本』(谷川健一編、同成社)
実は旅の直前にもう一冊、フックになる本を読んでいたことが、次の二冊に向かわせるきっかけだったのかもしれない。
「この弧状なす列島の民族史をめぐって、いま、再審のときが訪れようとしている。(略)たとえばそれを、わたしはとりあえず、『ひとつの日本』から『いくつもの日本』への転換と呼んできた。この列島の、縄文以来の民族史的景観にたいして、『ひとつの日本』というフィルーターを自明にかぶせてゆく歴史認識の作法は、すでに破綻している。いたるところに、『ひとつの日本』の裂け目が覗けはじめている。いま、『いくつもの日本』への道行きが、避けがたい課題と化して浮上しつつある。」(赤坂憲雄著『東西/南北考-いくつもの日本へー』岩波新書)
民俗学には全く門外でも、「いくつもの日本」というフレーズには、なにやら魅力的な響きを感じた。僕自身、これまで「ひとつの日本」を暗黙の前提としていたことに、このフレーズに出会って気づいた。そして、中国-朝鮮-九州を巡る陶磁器の伝播の形を直接目にする機会を通じて、東アジアの連続性と、その連続性の中での、様々な土着との融合による変容過程についても、焼き物の色彩・文様の変遷を通じて目にしてきた。その「予習」があったので、鹿児島→沖永良部→那覇と巡る旅の中でも、連続性と変容という「いくつもの日本」が感じられるかもしれない、という予感があったのかもしれない。それは、琉球弧という文言で、実感を伴い始めた。
「琉球弧とは、日本列島西南端の九州島から南約1,260kmの洋上に199余の島々が花緑のように分布し、地理学上で「南西諸島」「琉球列島」などと総称される。現在の行政区分上では北半分の薩南諸島38島は鹿児島県に、南半分の琉球諸島161島は沖縄県に所属する。ちなみに南西諸島という呼称は明治時代中期以降の行政的名称で、それ以前は「南島」や「南海諸島」「西南諸島」と呼称されてきたが、ここでは広く地理学・地学的名称として、国際的に認知される「琉球弧」という名称を使用する。」(小田静夫 「琉球弧の考古学」 より)
不勉強な僕は今回の旅で初めて知ったフレーズなのだが、確かに言われてみれば、鹿児島と台湾の間には、沢山の島々が「花緑のように分布」している。鹿児島から沖永良部にむかう飛行機のなかでも、その島々の多さには目を奪われた。現在は沖永良部島とそのすぐ南の与論島までが鹿児島県、沖永良部から晴れていれば薄く島影が見える沖縄本島からは沖縄県、という位置づけになっている。だが、「100の素顔」でも指摘されているが、沖永良部島の言語・文化的ルーツは薩摩ではなく琉球である。そして、先の沖縄戦の時には米軍は上陸しなかったが、島の人によると海上からの砲撃を沢山受けたという。戦後、米軍統治下で島のレーダー基地建設も米軍によって進められ、実際に米軍も駐留したが、1953年の奄美群島の返還の際、日本に返還された。だが、その当時、北緯27度線以北(徳之島以北)の返還論というデマも飛び交い、薩摩・琉球の常に間の位置づけで揺らいできたのが沖永良部島だと言う。
この沖永良部島での丸一日の滞在は、実に印象深かった。
前日に訪れた鹿児島中央駅は、新幹線の開業と共に再開発されたらしい駅ビルが建っていて、BeamsだのZaraだの、山梨にはない、東京のブランドショップが建ち並ぶ。あまり東京に行かないうちの奥様は、香港以来となるZaraで早速お洋服をお買い求めになっている。店員さんの話し方が薩摩弁であることを除けば、ここが立川(札幌、大津・・・)であっても不思議ではない、郊外の大規模都市の駅ビルである。ある種、日本(ヤマト)的世界の縮図としての鹿児島中央駅の駅ビルである。
そして、翌日に訪れた那覇は、大都会なのだけれど、街並みや風情は台北や香港に似ている。沖永良部から那覇に向かうセスナ機では、沖縄本島西海岸をかなり低空で飛んでいたのだが、普天間や嘉手納などに広大な土地の米軍基地を抱えている。その敷地の広さ、芝生や職員住宅の広さと、その敷地の外の地元民の住宅の密集ぶりの対比の中に、今なお植民地状態に近い沖縄、という位置づけが、意識しなくても目に飛び込んでくる。ここは、間違いなく日本的世界の縮図とは違う。
であるがゆえに、鹿児島と那覇の「あいだ」に浮かぶ沖永良部島は、まさに「あいだ」であり、独自の様相を見せていた。奄美諸島にあって、薩摩藩によるサトウキビの強制植え付けの経験が少ないが故に、独自の商業農業として、ユリやフローラルなどの高収益作物の植え付けが明治期から盛んであった。今は、ジャガイモやマンゴーなども収穫している。そういう先取性と、南国ゆえのノンビリ・ゆったりした暮らし。しかし、過疎地域に共通する職不足故、高校卒業後は職を求めて島外に移り住む子ども達が多く、高齢化率が上昇している(今は3割)。ヤマトと琉球の、魅力も問題点も、それぞれ混ざり合う境界として、しかし独特の魅力を持つ独立した島として、沖永良部は存在していた。
で、一番印象深かったのが、親戚の叔父さんが持っている山にピクニックに出かけた時の事。山に自生するシークルブ(島みかん、沖縄ではシークワーサー)を収穫してご覧、といわれ、楽しいミカン狩りをしていたのだが、ミカン狩りを終え、休憩場所となっている小高い丘に登ってみると、緑の山の向こうには、真っ青な海と地平線。そして、その向こうにうっすら浮かぶ沖縄本島。日々の喧噪など全く忘れて、その緑と青、そしてシークルブのオレンジのコントラストを堪能していたのであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。