「内的説得力のある言葉の関係」へ

今年もあと10日。日々、怒濤のように過ぎ去っていくうちに、早くも年末。

最近、何かしらもう一枚の皮が剥がれかけようとしているようだ。それは、なんて言えばいいのかわからないが、便宜的に「世間を見る意識・世間から見られる事についての意識」の変化、とでも言ったらよいだろうか。
中山元氏のフーコー解説本を「フーコー入門」(ちくま新書)→「生権力と統治性」(河出書房)→「思考の考古学」(新曜社)と読み進める中で、フーコー的思考の面白さと共に、自分の物事を見るスタンスとの異同についても考え始めている。その時代に「見えていた常識」と、その常識の範囲外にあって「怪物的なもの」とされた非常識。その時代の理性の範囲内で回収出来なく、排除されていた視点。フーコーはそれを過去に振り返り、確認する中で、見えていなかった過去と対比する形での現在を形づけようとしている。このフーコーの仕事を丹念に翻訳し、わかりやすい日本語で紹介して下さる中山元氏の著作に導かれながら、考え込んでしまうのだ。「はて、この世界と僕はどのように結びついているのだろうか」と。
狭い範囲における専門、と言うならば、一応は障害者福祉政策や社会福祉学や福祉社会学、NPO論などの範囲をうろついている。だが、それらのテーマについても、決して学びが盤石ではないなかで、思想系の海に、35にもなって、今更飛び込んで行くことについて、ためらいや不安は勿論ある。だが、こないだの同窓会で出会った、学生時代からみすず書店と岩波文庫を持ち歩いていたFくんが、何気なく語った一言が僕の中では忘れられない。
「30代になって、読める内容もあるしなぁ」
そう、教養として20代に哲学・思想にチャンレジしようとして、いつも挫折していたのは、翻訳書が難しい、というだけでなく、自分にとってアクチュアルな関心として迫ってこなかったのだ。だから、池田晶子氏や内田樹氏のような、よい媒介役が書いてくれた内容は理解出来ても、その向こう側にいるヘーゲルやソクラテス、フーコーやレヴィ=ストロースにまでは、到底辿り着けなかった。自分の中でのアクチュアルな問題意識と、先達の哲人達の世界が、重なる事は殆どと言ってなかったのだ。だが、最近それが少しずつ変容し始めている。
そのことを説明するのにうってつけな整理の枠組みを、こないだ読んだ。
阪神・淡路大震災以後の被災者の語りや防災活動をアクションリサーチとして追い続けている矢守氏は、その著作の中で、バフチンの理論に依拠しながら、非常に興味深い整理をしている。
「たしかに、被災者たちが切々と語る体験談は、『権威的な言葉』から遠いように感じられるかも知れない。しかし、(略)『権威的な言葉』とは、権威的な内容をもった言葉ではないし、通俗的な意味で社会的権威をもつ人が発話した言葉でもない。それは『ジャンル』間に結ばれる権威的な対話的定位のもとで発される言葉のことである。したがって、語り部の言葉が、<被災者の方の貴重な体験談>として一方向的に、かつ一度きりに語られるとき、それは、侵しがたい『権威的な言葉』と化していた可能性が十分にある。だから、それは無条件の是認(『みなさんの気持ちがよくわかりました』という感想)か、無条件の拒否(『私たちが求めていたのはそういう種類の話(『震災の語り』)ではないのです』という反応)のいずれかを将来しているのだ。」(矢守克也『アクションリサーチ-実践する人間科学』新曜社、p127)
これは「被災者の体験談」を、「学校で体験談を語る障害者」と変えても、ほぼ同じ問題性がある。語る者自体に「社会的権威」があろうがなかろうが、障害者と健常者という「『ジャンル』間に結ばれる権威的な対話的定位のもとで発される言葉」であれば、その言葉が『権威的な言葉』になる、というのだ。そして、その一方向的・一度きりの「貴重な体験談」という名の「権威的な言葉」であれば、受け手は「無条件の是認/拒否」という二者択一のモードに追い込まれやすい、というのもよくわかる。これは一方向的な「銀行型教育」と、双方向の「課題提起型教育」の違いを明らかにしたフレイレの議論と通底する議論だからだ。(ちなみにフレイレの議論は以前ちょこっと書きました。
そして、フレイレが「課題提起型教育」と示している、双方向な対話というオルタナティブを、バフチンは、そしてそれに依拠する矢守氏は次のように整理している。
「課題解消へ向けた鍵-少なくとも鍵の一つ-は、『震災語りのジャンル』(語り手)と『防災語りのジャンル』(受け手)との権威的な対立構造が支配する『語り部のジャンル』を、『内的説得力のある言葉』が支配する『語り部のジャンル』へと変化すること、別の言い方をすれば、『語り部のジャンル』を、『認知的・表象的理解』に限定されることなく、『関係的・応答的理解』の全般を活用したジャンルへと再構成することにあると言える。」(同上、p129)
バフチンは「権威的な言葉の関係」に「内的説得力のある言葉の関係」を対置させた。前者が、二者間での言葉のジャンルが異なり、その二つのジャンルの間は独立・無交渉であるのに対して、後者の側は、二者間での言葉のジャンルに重なりが生じ、他の内的説得力のある言葉と緊張した相互関係を気づく中で、新しい意味を相互的に構築するという(同上、p122)。矢守氏はそれを、「被災経験を語りたい・伝えたい語り部」と、「防災の話を聴きたい聴き手」の間のズレとして捉えたが、これも障害者問題でそっくりそのまま当てはまる。「社会の中で障害を持って生きることの『生きづらさ』『生活のしづらさ』を知って欲しい障害者」と、「単に授業だから・単位の為に聞いている学生」の間では、「権威的な対立構造」が支配しやすい。その壁を乗り越える為には、お互いの世界観(言葉のジャンル)に食い込むような「関係的・応答的理解」が進むような、「内的説得力のある言葉の関係」を両者の間で結ばない限り、話が自分事として受け手の側に伝わらない。
これは僕自身も納得し、痛感する問題だ。僕はこの6年ほど、障害者や高齢者の福祉政策を、法学部で、10代後半から20代前半の若者に伝えている。福祉学科ではない彼ら彼女らにとって、アクチュアルな問題意識として福祉の課題が自らの「言葉のジャンル」に記銘されてはいない学生が殆どである。そんな中で、こちらが一方的に授業を構築しても、「権威的な言葉の関係」しか築くことは出来ず、結果として受け手は「無条件の是認/拒否」という二者択一のモードに追い込まれやすい。これを避けるには、彼ら彼女らの「言葉のジャンル」や「内的説得力のある言葉」と、自分の提供したい素材との重なるポイントを探し、引き出し、その中で、お互いが揺さぶられながら、緊張した相互関係を結び、変容しながら、一致出来るポイントを探すしかない。一方向の授業より遙かに難しいが、その枠組みの問題性を知っていながら実践しないのは知的誠実さに欠けるので、毎年必死になってそのポイントを探っている。今年の地域福祉論はそのポイントを「生きづらさ」にしたら、自殺、精神障害、ホームレス、子どもの貧困についてもアクチュアルな問題として学生に感じてもらえるようになってきた手応えがある。
実はこの「内的説得力のある言葉の関係」を構築できるのか、という論点は、体験や経験の受容・伝承や普及啓発の場面だけでなく、知の受容そのものにも当てはまると思い始めている。ここで、一番最初のフーコーの議論にようやく戻ってくるのです。(ずいぶん回り道しましたねぇ・・・)
大変お恥ずかしい告白となるのだが、僕の中で、哲学者・思想家とは不幸にして、「権威的な言葉の関係」しか築けない場合が多かった。池田晶子氏や内田樹氏などを、その初期の著作から熱心に読み進めて来たのは、両氏が先達の英知を「権威的な言葉の関係」ではなく、「内的説得力のある言葉の関係」として読み手の私に提示してくれていたからである。それゆえに、僕自身にとって必然性のある、アクチュアルな内容として、響いてきた。思えば今の僕自身の「ものの考え方」に少なからぬ影響を、両氏は与えて下さっている。実際に直接お会いした事はない(池田さんは夭折されてしまった)が、僕は本を通じて(内田先生の場合はブログも通じて)、両者と「内的説得力のある言葉の関係」を築いてきた(と勝手に思い込んでいる)。そして、10年、15年とそういう関係を築いた中で、少しずつ僕自身の中に、メディア(媒介役)としての池田・内田氏が伝えようとして下さったヘーゲルやフーコーなどの息吹が入り込んでいるのを感じるのだ。だから、ここ最近、そういう先達の著作と直接対峙しても、「読めそう」、つまりは「僕の言葉のジャンルと先達の言葉のジャンルに重なりを見いだせそう」(=内的説得力のある言葉の関係を築けそう)と思い始めているのである。
確かに精神障害者の問題を考える研究者が、なぜ35才になるまでフーコーを読まなかったのだ?と問われるかも知れない。それは実は博士課程の学生の時から言われていた。もちろん「監獄の誕生」や「狂気の歴史」は以前から買って持っている。だが、敢えて読もうとしなかった。それは、言い訳的になるかもしれないが、僕自身が「自分の言葉のジャンル」を確立する前に、大思想家の「言葉のジャンル」に触れてしまうと、「自分の言葉のジャンル」が無くなってしまうことを恐れていたからだと思う。社会学の大家の先生が「安易にフーコーやゴフマンを読むと、それに流されやすい」と言われていた事も思い出す。
だから、僕は20代後半の大学院生時代、研究室で文献を読むことよりも、なるべく多くの当事者の方のお話しを伺ったり、現場に通ったりする事にエネルギーを傾けていた。「作業をしない作業所」でのおしゃべり、精神病院への病院訪問のボランティア、当事者会のお手伝い・・・など、精神障害を持つ人の「生の声」に少しでも多く、耳を傾け続けようとしてきた。そして、その「声を聞く」ということは、やがて当事者だけでなく支援者にも拡げ、支援現場の職員の苦悩にも耳を傾け続けてきた。結果的にPSWのことで博論を書いたのも、その時点では当事者の内容そのもので論を書くほどの「自分の言葉のジャンル」を持ち合わせていなかったからかもしれない。それよりも、支援者の支援のあり方であれば、僕自身が「内的説得力のある言葉の関係」を築ける、と思えたのかも知れない。
そして精神病院や入所施設の構造的問題を「全制的施設」として整理した社会学者、アーヴィング・ゴフマンの名著『アサイラム』も、博論の時には結局読まないままであった。真面目に同書を読んだのは、3年前に立教大学での「ノーマライゼーション論」を非常勤講師で担当した時だった。これも遅すぎるのかも知れないが、僕の中では、その時の内的必然性があった。ある程度、地域移行やノーマライゼーションの問題を考え詰める中で、ようやくゴフマンと出会ったことで、安易に彼の言葉や理論に流されずに、しかしきっちりと彼の理論を受け止める主体に僕自身が成長していたのだと思う。
そういうプロセスを経て、今年の暮れになって、フーコーと出合う内的必然性を感じている。他の人には到底お勧め出来ないが、僕自身の軌跡にとっては、結果的に今で出会ってよかったのだと思っている。20代後半に、多くの精神障害の当事者の方と、大学院生という「大したこと無い肩書き・立場」で出会っていたからこそ、その言葉のジャンルと『内的説得力のある言葉の関係』が築けた後だからこそ、フーコーを読めそうな気がしている。もし順序が逆であれば、今はじっくり時間をとって何度も現場に通うなんて余裕はないし、変にマクロな言葉に毒されてしまうと、ミクロの当事者のお一人一人の語りなんて聞けない高慢ちきな「学者先生」になっていたかもしれない。すると、35才にもなって、という年齢的な卑下やためらう必要もない、とようやく思えるように(いま)なった。
いやはや、相変わらず亀のようなのろさです。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。