文化相対性と「三角測量」

寝正月、というより、読書三昧の正月を過ごした。

本当は正月休みの間に、とあるところからお誘いを受けた英語論文の書き直しの構想を練ろうと思っていたのだけれど、あまりに年末は疲れ切っていたようで、30日になってふと「もう3日までは大学に行かない!三が日は徹底的に休む!」と決め込んでしまったのだ。それは、本当に正解だった。
今年の年越し本に選んだのは、川田順造氏の一冊。レヴィ・ストロースの訳者によるエッセイという気軽な気持ちで読み始めたら、なかなか味わい深い一冊だった。
「大日本帝国の滅亡後の新しい教科書が、まだ出来ていなかった秋の新学期には、国語や歴史の教科書の何頁何行目から何行目まで、墨を塗りなさいという、教壇の上からの先生の指示にしたがって、教科書に習字の筆で墨を塗る、いわゆる『墨塗り体験』もした。こんな素晴らしい道徳教育はなかったと思う。(略) 墨を塗りながら、子ども心におもしろく思ったのは、新聞雑誌の訂正広告と同じで、ああここが具合が悪くなったのだなと、かえってはっきり分かり、印象づけられることだ。同時に、墨を塗ればなかったことになるというのも、なんだか不思議だと思った。これはやはり、『文字に記されている』ということに、異様な価値を与える文化が生む思考であろう。(略)文字に書かれたことにこだわりすぎるのは、文字をそのまま反映して考え、動く主体性のないロボットのように、生徒をみなすことに通じかねない。」(川田順造『日本を問いなおす』青土社、p27)
「墨塗り体験」というのは、あるレジームで是とされたことが、別のレジームでは非とされること。旧体制から新体制へと移行する際に生じる価値転換に、字を消すいう原始的作業を通じて自分自身もその現場に立ち会う事によって、どの部分が「具合が悪くなったの」かがよくわかる、という経験を川田氏はしている。それだけでなく、「墨を塗ればなかったことになる」という、文字への絶対的な価値観と、逆に文字さえ消せば不問とされるのか、という問いかけを、川田少年へと植え付ける。
「後に大学で勉強するようになってからも、私には、そしておそらく私と同じ『墨塗り世代』に多かれ少なかれ共通して、書かれたもの、権威をもって教えられるものへの根強い不信感がある。その増幅された結果として、『古典』に対する信頼というものを、私は抱けない。」(同上、p28)
これは、僕たちが継承出来ている智慧だろうか?「書かれたもの、権威をもって教えられるもの」を何となく信じ込んでしまう、「古典」をありがたく信頼してしまう。これらの心性は、僕のような30代だけでなく、40代から団塊の世代にかけても存在するのではないだろうか。ある眼鏡(価値観)の偏りを直視し、常に相対的に考える、という視点をどれだけ持てているだろうか。一方川田氏は、この相対的な視点を、文化人類学を通じてより豊かなものにしている。
「アフリカの非文字の世界に魅せられて研究を続け、そこから逆に、人が会うと名刺を交換する日本の文字偏重社会にも存在する、無文字性と声の領域の豊かさに『耳を開かれ』た。」(同上、p28)
川田氏がここで書いているアフリカと日本、声中心と文字中心の対比の中で浮かび上がる文化の価値相対性の論点は、ちょうどクリスマスの頃に読んでいた、別の本と通底する論点であった。
「聴者の文化は『察すること』がキーワードになっている。だから、相手から何か聞かれたときは、その質問意図を理解した上で答えなければならない。(略)ろう者の会話では、イエス・ノー疑問文で何か聞かれたら、必ずイエスかノーで答え、相手の反応を見てから発話を続けるかどうかを決める。もし、イエスかノーで答えられる事柄でなかったら、イエスかノーで答えられることではないということを言うのだ。(略)イエス・ノー疑問文に対して、イエスかノーだけで答える発話行為は、聴者では、その質問に対して不快を持っているとか、答えたくない、ということにもなるらしい。まさに『察する文化』である。聴者のそうした会話のやりとりのしかた(選び方)があることは、頭では理解しつつも、どうしてそんな選び方をするのか感覚的に理解出来ない。(略)でも手話学習者には、ろう者的な会話の運び方を身につけてほしい。手話を身につけても、会話のやりとりが聴者的であったら、ろう者との間で快適なコミュニケーションがとれないだろうと思う。ある言語を身につけることは、その言語の話し手の文化をも身につけることだから。」(木村晴美『日本手話とろう文化』生活書院 p45-47)
日本語を話す文化と、日本手話でやりとりする文化。同じ日本で生活をしていても、手話言語と日本語は全く体系も考え方も違う。だからこそ、木村さんはこの本の副題を「ろう者はストレンジャー」とする。そう、日本語と日本手話は、同じ日本のコンテキストを共有していても、言語が違う事により、「その言語の話し手の文化」も異なるのだ。ただ、日本国内では、日本語話者の方が日本手話使用者より圧倒的に数が多いので、数の論理におされ、その事に気づいている人は少ない。アフリカの無文字文化(=文字を書かない・介さない文化)を、文字文化に比べて劣る、と勝手に線引きするのと同じような暴力性や独断性を、日本語を話さない文化であるろう文化に当てはめていないだろうか。
かくいう僕だって、先月、聴覚障害者のシンポジウムのコーディネーターを引き受け、にわか勉強を始める間では、ろう文化のことをちゃんと理解してはいなかった。そして、川田さんと同じ文化人類学者で、かつろう文化を研究している亀井さんは、手術によって部分的に聴力が獲得出来るかもしれないと言われている「人工内耳」の問題に引き寄せて、この部分を実にわかりやすく、しかし鋭く指摘している。
「自分たちが少数者となり、多数者の幸せを強要される側になったとき、初めてその気持ちは理解できるのかもしれません。人工内耳を警戒するろう者たちのことを『医療の恩恵を拒否する偏屈な人たち』のように見るのは、聴者の立場を一歩も出ていない自文化中心主義の姿勢です。ろう者が受けてきた受難の歴史や、それゆえに共有されている歴史観も含めて、文化全体の中で理解する文化相対主義の視点をもちたいものです。」(亀井伸孝『手話の世界を訪ねてみよう』岩波ジュニア新書 p142)
「耳が聞こえる方が良いに決まっている」という発想こそ、「聴者の立場を一歩も出ていない自文化中心主義の姿勢」である。これは、文字文化の方が、無文字文化より優れている、という発想と同様の自文化中心主義(エスノセントリズム)である。そして、自文化が必ずしも優れているとは限らない、ということは、川田氏が『墨塗り体験』で体感した叡智であり、これは今だって例えばPCの普及や電子辞書が、それまでの紙で書く、紙で調べる、を多いに覆す事態になっていることをみれば、よくわかる。私たちの文化の常識は、それほど脆く、アヤシイものなのに、必要以上にその常識を当たり前と受け止め、それ以外のものを受け入れる柔軟性に欠けているのである。亀井さんや木村さんの本を読みながら、僕自身が如何に日本手話やろう文化の独自性に無知であったか、だけでなく、これまで手話使用者に対して、マジョリティの日本語使用者の立場で、ある種のエスノセントリズム的な視点で接していたのではないか、と文字通り「目が見開かれた」。
さて、川田氏の本に戻ると、彼はフランスで博士号を取り、フランスの職人技術のフィールドワークもしている。また、アフリカのフィールドワークも重ねていて、さらには日本でも職人文化の聞き取りを行っている。この中から「文化の三角測量」という視点を提示する。このフレーズが気になって正月早々取り寄せた別の本ではこのように説明しておられる。
「文化の比較には大別して二つの行き方があると思います。一つは連続の中の比較で、隣接する地域の文化間における伝播、受容、受容拒否など、相互の影響関係を比較によって検討するものです。もう一つは断絶における比較で、私が提唱する『三角測量』の場合ですと、日本、フランス、西アフリカ(旧モシ王国)のように、十九世紀末まで互いに直接交渉がなく、地理的にも隔たった、自然条件もまったく異なる地域で、それぞれの道を歩んできた文化の比較です。第1の連続の中の比較の目的を『歴史的』と呼ぶとすれば、第二の断絶における比較では、まったく異なるようにみえる現象を比較しながら掘り下げることで、その現象の人間にとっての根源的な意味を、比較を通して『論理的』に問うことを目的としている、と言えるかもしれません。」(川田順造『文化の三角測量』人文書院、p129-130)
この「地測の方法から比較的に借用した」(p129)という三角測量は、二者関係からではなく、三者関係から物事の本質(=その現象の人間にとっての根源的な意味)を探ろうという方法論である。実は、ろう文化のことを考えながら、僕がもともとフィールドワークで関わってきた精神障害者の方々の文化の問題を考えていた。フーコーの解説本を読み漁っていたのも、狂気が「文化」から「治療対象」にどう変わっていったのかについて、フーコーがどのようなアプローチで迫っているのか、を知りたかったからである。
改めてこの問題を文化間比較の問題として捉えてみると、様々な疑問が浮かんでくる。例えば、ろう文化のような独自の言語を持つ手話使用者と、幻聴や幻覚、うつなどの独自の感覚を持つ精神障害者と、それらの経験のない日本人の連続性と差異はどこにあるのだろうか。あるいはた、障害者文化と言っても、自立生活運動の文化、知的障害者のピープルファーストの文化やろう文化と、精神障害の文化がどう違うのか、もこの「三角測量」的に見る事が出来ないか。更に言えば、先のブログで「今年の目標」的に書いたノーマライゼーションを巡る問題も、北欧・アメリカ・日本でこの理念をどのように受容したのか、という文化間での三角測量的に眺めることができるのではないか。
紋切り型に文化で図式化することの危うさは勿論一方で理解しながら、また「『文字に記されている』ということに、異様な価値を与える文化」に自分がいることにも意識的でありながら、文化相対的にこれまで追い続けて来た課題に迫る事はできないか。そんなことを、正月読書から夢想している。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。