「魂がわたしにおいて考える」

僕はフランス語が読めない。だが、最近読み囓っているものが、どうもフランスにご縁があるものが多い。そういえばある人がツイッターで僕が愛読する内田樹氏の文章を「おフランスな」と言ってたっけ。そんなミーハーな理由で手に取った一冊で、しびれた。
「ランボーは誰もが素朴に信じてきたこの図式に根底から異議を申し立てる。私たちは当然のように、考えているのは自分自身であると思っているけれども、このことはそれほど自明の事実だろうか。『私』という主語と『考える』という述語の関係は、それほど堅固でゆるぎないものだろうか。もしかすると、デカルトにならって『私は考える』というのはまちがいではないのか。むしろ私たちは、『人がわたしにおいて考える』というべきなのではあるまいか。」(石井洋二郎『フランス的思考』中公新書 p104)
「人がわたしにおいて考える」というフレーズは、ランボーが詩人になる直前の10代に、恩師の先生に送った書簡の中に記されていた有名な言葉だという。僕は、ランボーの名前だけしか知らない無教養な人間なので、もちろんこのフレーズは知らない。だが、ランボーを『フランス的思考』に含めた著者の石井氏によれば、この本で取り上げるランボーやフーリエ、サド、ブルトン、バタイユ、バルトの6人には次のような特徴があるという。
「彼らはいずれも反合理主義・反普遍主義の地下水脈から養分を吸い上げながら、それぞれ独自のしかたで豊穣な思考の地平を切り拓いてきたという点で、同じ一本のヴェクトルに貫かれている。」(同上、p30)
デカルトは、西洋合理主義、心身二元論の祖と言われ、「我思う、ゆえに我あり」というフレーズは僕でも知っている。世の中の事象全てを疑っていっても、この疑いという思考を私がしている、と言う事自体を否定することが出来ない。ここから、精神と肉体を切り離して眺める思考が生まれ、やがては神の摂理に果敢に挑む物理法則の発見というタブーも、肉体に代表される物質の客観性という視点の中から生まれてきた。だが、その「私は考える」ということに対置して、ランボーは「人がわたしにおいて考える」というのである。しかも、石井氏はフランス語の原文を検討しながら、ランボーの言う「人」について、次のように推察する。
「日本語やフランス語といった個別の言語は、私たちが誕生したとき、すでに無条件の前提として与えられていたものであって、けっして固有の人格に属するものではない。つまり、それらはあくまでも私たちにとっては純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』である。そんな言葉を通して紡ぎ出された思考が、どうして『私』という個人のものでありえよう?」(同上、p105)
「人」とは「私」という個人ではない、「純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』」である。ではこの「外部」や「他者」とは一体何なのか。筆者はランボーの次の一節を引く。
「多くの個我主義者(エゴイスト)たちが、自分を作者だと表明しています。またみずからの知的な進歩を自分のものにしてしまう個我主義者たちも、他にたくさんいます。-しかし重要なのは、魂を怪物的なものにすることなのです。」(同上、p111)
個我主義者=エゴイストを「私」と捉えた時に、それに対置するものである「純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』」として「魂」を用いる。この時、私の予感は核心につながった。「ランボーってあの人と同じことを言っている」と。
「『意識』の語と、<私>の語が、どうもうまく重ならない。『私の意識』という言い方が腑に落ちない。『私は意識』というのも変である。<私>の語がどうしても宙に浮く、どこにどう押し込めてみても、『意識』の語からはみ出してしまうのだ。『私の意識』と『言っている』その当のものを、どうしても名指せない。これは、どういうことなのだろうか。誰でもない意識は、<私>の語を『言う』ことで、誰かではない<私>となった。しばらくは、そう考える事で納得しようとしていたのである。<私>というこの奇怪な一単語、こんなものが宇宙の辞書に存在することが変なのだ、と。しかし、あるとき、<魂>の語が来た。おそらく、『言葉の魂の力』によってここにきた。それは、ピタリと、ここにはまった。
あ、納得-。
深い、納得。『なぜ』納得なのか、この事態の意味を、私は見究めてみたいのだ。全てを認識する誰でもない意識が、にもかかわらず誰かでない<私>であるのは、それが、<魂>だからである。」(池田晶子『魂を考える』法蔵館,p35-36)
そう、「人がわたしにおいて考える」というのは、「魂がわたしにおいて考える」とすれば、ぴったりと収まる。「純粋な『外部』であり、絶対的な『他者』」である「魂」は、「わたし」において考えることで、他者と私の出会いが起こり、一人の中で思考として定着する。これは「みずからの知的な進歩を自分のものにしてしまう個我主義者」のエゴイスティックな所作とは逆ベクトルで、「わたし」が「絶対的な『他者』」という「世界」とつながる経験でもあるのだ。だからこそ、「堅固でゆるぎない」ものとされてきた「主語」と「述語」の言語的結び目の強固さを解き放たれ、世界と直接的な対話がはじまるのである。
僕が西洋哲学の古典に齧り付こうとしては挫折をし続けていたが、池田晶子氏の作品だけは自分の中で染み渡るので、ほぼ全て読み続けてきた。そして、彼女もそう言えば小林秀雄を通じてランボーのことを書いていたな、とも思い出す。冒頭で挙げた内田樹氏も、哲学の主題を非常に染み込む言葉で伝えるので読み続けてきたのと同様だ。すると、内田樹氏や池田晶子氏も、「反合理主義・反普遍主義の地下水脈から養分を吸い上げながら、それぞれ独自のしかたで豊穣な思考の地平を切り拓いてきた」という点で、フランス的思考、とラベルをつけていいのかどうかは置いておくとして、一本の線の中で繋がっているような気がする。内田氏のブログの言葉を借りれば両人とも、「コロキアルでカジュアルな文体の上に、学術的なアイディアや政治的な理念が乗っている」文章であるから、僕たちにもアクセス可能なのだ。そういえば、内田氏と対談した作家、高橋源一郎氏はこんな風にも言っている。
「内田さんは、その『ものすごく難しいもの』と『みんなが持っている経験』とがつながるような回路を見つけようとしているんじゃないかなと思うんです。」(原武史編『知の現場から』河出書房新社 p28)
そう、池田晶子や内田樹という作家は、哲学・思想を専門とする人には評判が悪い(ようにネットの悪口を見て感じる)。だが、二人の本は普段哲学・思想に手を伸ばさない人にも読まれている。そして、決して「1冊でわかる○○」のように、あんちょこ本のようにレベルは落としていない。でも、面白く、読みやすい。それは口語体という「コロキアルでカジュアルな文体」という「みんなが持っている経験」をベースにしながら、「学術的なアイディア」でかつ「ものすごく難しいもの」が繋がる回路を、文章の中で指し示しているからである。そして、そのことについて、当の内田樹氏が高橋氏との対談の中で、自身の「ニッチ産業」について、次のようなコメントを寄せている。
「そういうわずかな断片的記憶からいろんなものがずるずるずるずる出てくるわけ。コアになるような、きっかけになるような記憶の断片がそこらじゅうに転がっていて、生まれてからこれまでに溜まったそういう記憶の薄片をなめていると、蚕が糸をはくようにそこから想念がずるずると出てくる。
それまで、物を書く人というのは、特異な経験をしたりとか、際立った才能を持ったりとか、ある分野で特殊な才能を持っている人であって、そうではない凡庸な人間は、指をくわえて見ているだけなのかなと、ずっと思っていた。自分も指をくわえて見ている側だなと思っていたんだけれども、あるときにそうではないように思えるようになった。ひとつひとつは凡庸な経験で、何も特筆すべきことなんかないんだけれども、それらの中には何か僕にしか書けないもの、でもみんなと共有できるようなものが詰まっている。」(同上、p27)
決して内田氏が「凡庸な人間」だとは思わないが、でも彼がここで言っていることは、今の自分の問題意識に引きつけて、非常によく分かる。内田樹も池田晶子も、形を変えて、切り取り方を変えて、同じテーマで何度も何度も書いている。でも、その時その時の「凡庸な(=みんなが持っている)経験」の「断片的記憶」を土台として、「蚕が糸をはくようにそこから想念がずるずると出てくる」過程が、そこらの他者のブログやエッセイでは見られない味わいなのだと思う。もちろん単に感想文で終わる事は論外として、それをわかったようなわからんようなジャーゴンでくるんで終わり、とはしない。難しい議論でも、ゆっくり読んで考えれば必ずわかるような明晰さで、一見すると必ずしも明晰には思えない哲学的議論の階段を昇っていくのである。それは文字通り、「ずるずるずるずる出てくる」想念を、論理の糸でつなぎながら、階段として示していく中で、気がつけば「ものすごく難しい学術的アイディア」の核心に降り立っている、とでも言えると思う。まさに、内田・池田両氏のスタイルは、そういう凡庸な中から繰り出される非凡、という世界観の体現なのだと思う。だからこそ、ずっと僕は読み続けてきた。
さらに、最後に少しだけ附言すると、僕自身もそういうスタイルで何かを書きたい、という憧れを、もち始めている。僕は典型的に「凡庸な人間」であり、ずっと「指をくわえて見ている側」だったのだけれど、それでも記憶の断片から関連づけや連関を強める中で、養蚕的な営みとして何かを出していくことが出来るのではないか、と少しずつ感じ始めている。何が書けるのかはわからない。でも、『魂がわたしにおいて考える』なにかを、僕の持っている素材を使いながら、書き進めていくことが出来ないか。その中で、自分がこれまで出合う事が出来なかった「絶対的な他者」と出合える瞬間が来るのではないか。初夢なのか妄想なのか、はたまたビジョンなのか、よくわからないけれども、そう念じている。
追伸:「魂がわたしにおいて考える」というフレーズは、案外僕をどこかへ導いてくれそうな気がしてきた。僕がこれまで書いてきたこと、今書こうとしているテーマ、さらには将来繋げていきたい何か、も、「わたしにおいて考える」内容ではあるが、「絶対的な他者」としての「魂」とアクセスしていれば、タコツボ的学者論文ではなく、何らかの普遍的世界へと、内輪以外の読者へと、アクセス可能な文章になるのではないか、とも

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。