存在論的な裂け目

組織編成の組み替え。

例えば人事異動や配置換えに代表される、組織内部での流動性担保の方策がある。だが、これは多くの場合、玉突き的な、外在的なものであるがゆえに、ピッタリとはまった場合は非常に効果的だが、本人の希望の如何にも関わらず、新たな部署において適性を発揮するか、は、その場に行ってみないとわからない。そう考えると、環境との相互作用という意味では、外在的な変容である。地震の後だろうと関係なく、この4月はこのような外在的変容が日本中で予定されている。我がマンションでも、今日も引っ越しのトラックが止まっている。
そういう外在的変容と対置したとき、内在的変容とは、どのような意味合いを持つだろうか。
ポスト311の、何も手に付かない日々の中で、ふと手にした一冊に、その内在的変容のフックになる一節が書かれていた。
「われわれはみな個人的体験から、世界のなかでのみ、世界を通してのみ、われわれがわれわれ自身になりうるのだということを知っており、また、われわれがなくとも<世界自体>は存続するであろうが、<われわれの世界>はわれわれの死とともに消滅してしまうことを知っている。」(R.D.レイン『引き裂かれた自己』みすず書房、p18)
僕は、この一節に強い既視感を感じた。レインの著作は初めて読むが、この一節は、大学生の頃からずっと感じていたことでもある。きっと池田晶子の著作などを通じて、同様のフレーズに出会っていたのだろうと思う。
由来はこの際、どうでもいい。肝心なのは、今、このフレーズに強い共感を感じるのはなぜか、という点だ。今回のカタストロフィに際して、己の自己も「引き裂かれ」たような衝撃を受けた。ネットやツイッター、テレビなどでの情報の氾濫の渦に呑み込まれ、思考が停止し、「被災地に比べて自分は・・・」と比較不能な事で落ち込み、沈んでいた。ブログの文章を書きながら、頭の中でいくら冷静さを鼓舞しても、圧倒的現実を前に文字通り「身がすくみ」、頭よりも心がショートしていた。その2週間あまりの中から立ち直り始めた時、出発点として偶然(という名のご縁で)手に取ったレインのフレーズに、今、だからこそ、強い共感を覚える。20代から僕の中にあった言葉で置き換えてみたら、こういうことになる。
「僕をめぐる世界は、僕がいなくなれば、オシマイである。」
一見すると刹那的に見えるかもしれない。だが、それはレインの次の一節を補助線に引くと、違う様相を帯びてくる。
レインは、実存主義的精神医学の騎手であり、反精神医学のカテゴリーの中にも入れられている、精神科医である。生物学的な精神医学が隆盛になり始めた1960年代にあって、精神病者の実存に寄り添う形で、狂気を作り出すこの社会の問題性を鋭く指摘した。その意味で、同時代のフーコーと共に、精神医学の権力性・暴力性の問題を焙り出した先駆者でもある。そのレインの28歳の処女作の中に、ポスト311の僕自身の実存と触れあう箇所があるのだ。少し難しい言い方だが、そのまま引用してみよう。
「自己の存在がこの一次的経験的意味で安定している人間では、他者とのかかわりは潜在的には充足したものであるが、存在論的に不安定な人間は、自己を充足させるよりも保持することに精いっぱいなのである。日常的な生活環境さえが、彼の安定度の低い閾値をおびやかすのである。一次的存在論的安定が達成されておれば、日常生活環境が自己の存在に対する絶えざる脅威となるようなことはない。生きることについてのこのような基礎が達成されない場合には、ありふれた日常的環境でも持続的な致命的脅威となるのである。」(同上、p52)
ポスト311の局面で生じているのは、「一次的存在論的安定」への大きな裂け目、亀裂である。地震と津波と原発事故のトリプルショックで露わになったのは、2万人をはるかに越える人々の死であり、生き残った多くの人々の存在論的な安定を衝撃的に奪ったということであり、直接的な被災地だけでなく、放射能汚染の影響もあり、東京も始め、広範囲な地域において「存在論的に不安定」な状態が生まれてしまった。大量生産・大量消費型社会の宿痾のようなものや、蓋をして見なかった事にしていた日本社会の歪みやひずみが、一気に奔流のように表面化してきたとも言える。某知事のように「天罰」と他責的に言い放つ不遜さには全く同感出来ない一方、ポスト311に生じたこの「存在論的な不安定」について、他者の責任ではなく、私自身の本質(=一次的なもの)における「存在論的裂け目」と、個人としては感じざるを得ない。他者への罰、ではなく、私自身への存在論的問いかけに感じてしまうのである。
このレインの著作の副題は「分裂病と分裂病質の実存的研究」と書かれている。私には、統合失調症を抱えた友人や知り合いが何人かいるが、多くの統合失調症の人が言う、「病気のしんどさ」と「生活のしづらさ」の本質的な部分、「自己を充足させるよりも保持することに精いっぱいなのである」という事の意味が、このポスト311の局面で、少しだけかもしれないが、僕にとってはアクチュアルなものとして感じられている。こんな存在論的揺らぎを、しかも、自身の内面での直下型の出来事として体感した人は、ものすごく圧倒的な恐怖を受け、ズタズタに引き裂かれるだろうな、と、身体から析出された感覚として、共感する。
僕にとってのポスト311の2週間は、「日常的な生活環境さえが、彼の安定度の低い閾値をおびやかす」ような日々だった。確かに表面的に見れば、山梨は余震があってもひどくはないし、家も仕事場も、殆ど被害がなかった。計画停電は実施されているが、ライフラインもロジスティックも、山梨に関しては問題はない。ガソリンだって、今なら問題なく入れられる。
だが、そういう一見すると安定した日常生活環境にあっても、僕自身の存在論的な安定さに亀裂が入り、引き裂かれた状態で、ぱっくりと存在論的な不安定を目の前にすると、日常生活を普通に過ごすことだけでも、ものすごく大きなストレスと疲れを生じさせる。311以前ならひょいひょい片づけていたハードワークも、優先順位づけに基づく仕事の効率化も、一気に低下するほど、僕自身の「安定度の低い閾値をおびやかす」事態だったのだ。
そんな中で、計画停電のある夕方、蝋燭の灯火だけを頼りに、この間の事を少しまとめるために、ブログ用ではなく、自分自身の心の整理として、文章をリハビリ的に書いていた。レインを手に取る数日前のことである。
「以前から考えていることだが、タケバタヒロシを巡る世界は、タケバタヒロシがいなくなれば、オシマイである。それは明日かも知れないし、10年後、50年後なのか、僕にはさっぱりわからない。
であれば、近視眼的な情報に惑わされて、一喜一憂し、空気を読むだけで精一杯な人生で終わることだけは、絶対に嫌だ。
生きていること。妻と楽しむこと。毎日新しい発見があること。何かをつくり出していくこと。そういうアクティブ・イマジネーションを最大限に意識し、日々の暮らしを祝い、楽しみ、喜びを見つけ出していく。それがまずもって、豊かな暮らしを日々過ごすために、必要不可欠なのだと思う。そうして、自らがアクティブ・イマジネーションを最大化させた生活を送ることが、社会を変え、世の中に貢献すること、つまり必要とされる時に<行為>できることにもつながるのだ。」(2011年3月23日 午後6時)
存在論的な裂け目において、僕自身が、「何のために生きるのか」という、20代前半以後は蓋をしていた課題に、再び目を向けようとしていた。少し前に読んでいた『ユングの生涯とタオ』の中で出会った、「危機とは危険と機会いう表裏一体の局面である」、というフレーズを思い出しながら、己の存在論的危険の局面において、改めて再生の機会を与えられたような気もしている。
刹那的に生きるのではない。それとは真反対で、いつまで続くか分からない命であるからこそ、日々をもっと豊かに、時には祝祭的に、そして実りある内容を持って暮らしたい、という欲望がムクムクと内発的に生まれてきたのである。そうして、自らの存在論的な充溢があるからこそ、他の人の支援や応援という、利他的な<行為>も求められる、必要とされる、と強く実感し始めている。
求められもしないのに、しゃしゃり出る「我が我が」的行動の背後に潜む、アイデンティティの空虚さの埋め合わせ的独我論は嫌だ。とはいえ現実は募金や呼びかけくらいしか出来ず、直接的に被災地・被災者のお役に立てない、という厳然たる事実にも打ちのめされていた。そんな僕にとって、ポスト311の2週間は、自分自身の存在論的安定性の裂け目に直面し、これまでの「経験的意味」を改めて問いなおし、一次的・本質的な部分から己の組織編成の内在的組み替えをしていた日々だったのかもしれない。
そうして、「存在論的裂け目」は、再び後景化しつつある。少しずつ、日常生活の暗黙の前提に支配される日々に戻るのだろう。だが、ポスト311という原体験は、僕自身にも、己の中の本質的な部分に潜む「存在論的不安定性」を直視させた。その経験は、僕をどこに運ぶのか、それはわからない。だが、見てしまった、知ってしまった亀裂と付き合うことが、僕自身の組織変容に課せられた課題なのだと、肯定的に引き受けるつもりだ。
この衝撃を、僕は、忘れまい。

相互的な行為が創り出す支援

震災の後、現地に向けて何も動けなかった数日間は、実にきつかった。

だが、被災地以外でも、様々な支援や義援金を集める動きが始まっており、いくつかのプロジェクトには、直接間接にお手伝いや支援もしている。そういう状況において、今求められていること。それは、行動と行為の違いから読み解けるような気もする。
被災地で何とか役に立ちたいという思いはあっても、相手のニーズに基づかなければ、一方的なお節介になる。また、自己承認や「俺が俺が」を前景化、目的化させた行動であれば、いくら善意志に基づいていても(いやそうであれば尚更)、足手まといなだけだ。
被災地に求められているのは、現地の人々が必要としている本当のニーズを伺い、そのニーズに基づいて適切な支援を行う、という相互的な行為である。
一方的な行動なら、個人の独善的判断で、何でも出来てしまう。だが、相手のニーズに基づいた支援、というのは、相手があるが故、一筋縄ではいかない。更に言えば、前者は自己完結型にもなりがちだが、後者の場合は、より多くの人を巻き込んで、多層的なネットワークを形成していく傾向が強い。前者はトップダウン型に、後者はボトムアップ型に、より親和的なものかもしれない。
平時であれば、継続性や安定性を基盤とした官僚制が確立されていて、指揮命令系統というものも整っている。そこから逸脱する事については、大きな制裁が加えられることも少なくない。だが、今回のような大震災が奪ってしまったのは、そのような継続性と安定性、それに指揮命令系統そのものである。その際、一方的な単独行動が横行すると、ただでさえ混乱している現場の秩序がさらにかき乱され、ぐちゃぐちゃになってしまう可能性が高い。
一方で、現場のニーズと何らかの形でアクセス可能な人々が集まり始めた場合、その現場のニーズをボトムアップ的に拾い上げ、それを資金や物資と繋げるネットワークが形成される。これは、決してトップダウンではなく、あくまでも現場のニーズに基づいた柔軟で動きのあるネットワークではないと、うまくいかない。そして、例えば障害者支援領域では、そのようなネットワークがいくつも立ち上がっている。
どちらも少なからぬご縁のある方々が担っておられる、信用出来るプロジェクトである。内容も、普段からお顔の見える関係のある横の繋がりの拡大・延長線上の中で、被災した障害者を支援しよう、という動きである。これらの動きは、もともとの平時から水平な、ボトムアップ型の繋がりであるし、お顔が思い浮かぶので、すぐさま連携が取れ、かつ必要な支援が動き出しやすい。相手のお顔が思い浮かぶが故に、「我が我が」という支援には絶対にならず、相手のニーズに基づいた支援が着実に実行しやすい。
これを読まれているあなたご自身が、これまでにつながりがある団体や組織を通じて、何らかの支援を求められているなら、もしかしたら既に支援を始めておられるかも知れない。だが、あなたがそういうご縁がないのであれば、例えば上記でご紹介したようなネットワークに寄付をするなども、新たなご縁をつなぐこと、と言えるかも知れないし、単独行動ではない、相互行為の一つの形かも知れない。
それは何も障害者支援に限ったことではない。僕は参加出来なかったが、19日はヴァンフォーレ甲府の選手と山梨学院大学の学生、教職員による、チャリティーイベントが開催された(詳細はこちら)。これは、3月の試合が中止になったけれど、何か震災のことで役に立ちたい、と思ったヴァンフォーレ甲府のクラブチーム側と、この間ホームの試合をサポートし続けて来た、山梨学院大学の長倉ゼミとの協働企画の中から実現したものである。これも、様々な思いが一つになった、という意味では、山梨から東北を応援したい、という相互行為の一つとも言える。
この時期に必要とされること。それは、今、自分の立場で、相互行為として被災地の為に出来ることは何か、と、関連づけて考えることだと思う。単独の行動であれば、思いつくことはあまりない。思いついたとしても、ろくな結果にならならいこともしばしばだ。だが、自分のご縁や関わり、関連性の糸をたぐる中で、自分から、あるいは余所から、声がかかる瞬間があるはずである。その時に、関わりやご縁、きっかけの糸をたぐりながら、相互行為として編み込んでいく、ある種の協働の物語や文脈形成の環の中に入ることが出来れば、そこから、確実に相手のニーズに伝わる回路が拡がるはずだ。
今こそ、相手の立場やニーズ、だけでなく、自分の立場や役割、他人との関わりを改めて見つめなおす時期だと思う。どういう相互行為や文脈の糸の中に自分はいるのか。その文脈の延長線上で、被災地のために、自分の今の場所だからこそ出来ることはなにか。そういう自己を掘り下げる行為を一度くぐらせたあとの、被災地支援は、自我の押しつけではなく、相手の気持ちに寄り添う形での相互行為に成りうる。
この一週間、そういう意味では、動けなくても仕方なかった。でも、向き合う中で、そろそろ色々な声がかかり始める。その声に耳を傾け、動くべき時に、動くべき方向性に向かって、動き始めるタイミングなのかも知れない。そう感じている。

慎みのある暮らし、とは?

連日膨大な、かつ苛酷な情報が流れてくる。一気に食べ過ぎると腹を下すように、情報が過剰に流れてきて昇華不足では、頭と心がパンクする。僕にとって書くことが頭と心の整理とリハビリ、置き所の確保なので、今日は備忘録的なことを書いておく。

まず、今回の広範囲に渡る大規模な震災と、続く余震、そして原発問題という様々な問題の連鎖に際して、日本社会うんぬんを言う前に、己の生き方自身も問われている、と感じる。
大地が裂け、津波が押し寄せる大きな被害。余震が続き、計画停電も起こり、ガソリンや食パンの買い占めも発生し、原発は信じられない事態が次々発生して、国外退去をし始めた外国人、東京から西に逃れる人々も出ている。
そういう流動的状況は、「当たり前の前提」という日常を一気に押し流し、人々を不安にさせ、群集心理にすがりやすくさせる。「非常事態だ」「自粛せねば」「不謹慎だ」という声も早くも聴かれる。また、それに対して懸念する声も上がっている。(自粛ムードに批判の声 本当に「不謹慎」なのか
私自身は、昨日も飲み会があり、上記で引用を張ったブログの佐々木さんと近いような、ワイナリーでフランス料理、というのを堪能していた(でもフランス料理なんて、随分久しぶりに食べるのですよ♪)。正直、連日ずーっと気を張りつめていると、そういう「ほぐす」場が無ければ、身が持たない。昨晩も帰ってきた後、震度5のゆれで、また気が張りつめてしまったが、少なくとも飲んでいる数時間は、報道も情報も忘れて、落ち着いていた。
流言飛語に惑わされたり、不要・不急なものの買い占めに走ったり、または繰り返し報道される被災地の酷な映像でPTSDになるくらいなら、情報はある程度セーブして、楽しめる場にいるのなら、楽しめる時は、楽しんだほうがいい。本当にそう思う。楽しんで、心と身体の緊張をほぐして、そして日々目の前のお互いのポジション、持ち場、立ち位置、役割・・・で出来うることをする。それと節電・募金しか、被災地にいない一般市民に今できることはないのだと思う。
前回のブログにも書いたが、阪神・淡路大震災を遙かに上回る被害を受けた今回の震災は、間違いなく長期戦になる。ということは、特に被災地以外の人々にとっては、一週間、数週間頑張り続けて、自粛し続け、緊張し続けて、それで燃え尽きても、問題は解決しない、ということだ。地域も人種も思想も越えた、日本に住むみんな、という意味でのオールジャパンで連帯して問題を解決して行くためには、これから数年間かけて、被災地の事も忘れずに、一緒になって、今ある場所から前に進んでいこう、ということである。
であればこそ、まずは今こそ、緊張しすぎないように、リラックスを心がける必要がある。正直、今日が初めての甲府での計画停電だったのだが、計画停電を無事に過ごせるか、だけでも、相当緊張した。私も妻も、毎日をきちんと送るだけで、相当疲れ果て、ぐったりしている。だから、今日も美味しい料理を作って、ワインも開けて、夜は心を落ち着かせるカームダウンの必要性を感じている。
3月11日以後は、それ以前の日常とは変わってしまった。であれば、11日までの日常意識を引っ張っていても仕方ない。それよりは、11日以後の現実の中で、新たに日常を再構成していくことこそ、むしろ求められているような気がする。
計画停電を引き受けながらの日常をどう再構成するか。被災地への支援を頭の隅に置きながら、自分にも出来ることをどう考えるか。それと、自分が3月11日以前から置かれてきた、山梨在住の、大学教員としての現実とを、まだ重ね合わせる事は十分には出来なくとも、意識しながら、暮らしていくことが大切なのだと思う。求められているのは、自粛して行動を必要以上に制限するよりも、情報をちゃんと咀嚼出来るクールな判断力を持ち続け、情勢が変わった時には俊敏に動ける柔軟性だ。
昨日とは違う今日、今日とは違う明日。論理的にはわかっていても、こう毎日刻々と本当に違う情報が膨大に流れてくると、日常性にしがみつきたくなる。それは、人間のバランス感覚として当然だ。だが、それを買い占めや流言飛語への飛びつき、と言う形で保とうとするのは、ますますマイナスのスパイラルに陥る。ならば、それよりは、かなりの緊張感が続く日々の中で、被災地以外の人間としては、「きちんと楽しみ」「きちんとリラックスを確保する」ことこそ、慎み深く生活を続ける為に必要不可欠ではないだろうか。
私やあなたが、身が持たなくなってしまっては、元も子もない。まずは、この状況を生き延びる。その為のクールな判断を保ち続ける為に、リラックスや楽しみを確保する。そして、真っ当な判断力を持って、己の立場で出来る日々の暮らしと、被災地に向けた+αの貢献を行う中で、オールジャパンとしての数年に渡る復興計画に、日本に暮らす一員として携わる。それこそ、慎みのある暮らし、だと僕自身は考える。だから、中途半端に「不謹慎」なんて言葉を使うことこそ、慎みたい。

これから出来うること

今回の東日本大震災で、被災された全ての方々の、安全確保が一刻も早くなされることを祈っています。また、原発の危機的状況が、一刻も早く回避されることも。
今はあまりに目の前の出来事の悲惨さに私自身も目を奪われがち。だが、被災地の事を思えば思うほど、少し長期的な展開を見据えて考える必要がある感じている。 
阪神淡路大震災のからの復興支援を丁寧に研究された西山さんによると、被災後の復興支援とボランティアやNPOなどの関わりは、次の6つのフェーズに別れる、という。
第1期:緊急救援期(震災後1週間)・・・生命の救済、緊急避難、物資供給
第2期:避難救援機(1995.1~3月)・・避難所での緊急支援、物資供給、生活再建に向けて支援
第3期:復旧・復興期(1995.4~12月)・・・生活再建、仮設住宅での生活支援、自立支援活動への展開
第4期:生活再建期(1996~1997年)・・・ボランティア活動の再構成、事業化への展開、被災者の生きがいづくり
第5期:まちづくり・社会のしくみづくり期(1998~1999年)・・・運動方向の明確化、ミッションの再確認、情報公開、ネットワーク形成
第6期:市民社会の再構築期 (2000~現在)・・・企業、行政、地縁組織へのインパクト、
NPO・NGOの自己変革
西山志保 2007 『改訂版 ボランティア活動の論理』東信堂、p69)


今日明日、の緊急救援期に、遠くにいて、避難支援の専門家でもない素人の私が、すぐに出来ることは、まずは募金。災害緊急対策用の道路を自家用車で渋滞に巻き込んだり、あるいはニーズの高くない物資を勝手に送りつけるよりは、義捐金の方がよい。ただ、この義捐金なら即効性が高くない、と思われる方もいると思うが、例えば、そういう緊急支援に長けたボランティア団体への寄付などは、実に有効だと思う。
たとえば災害救援で定評の高い日本災害救援ボランティアネットワーク(NVNAD)は、すでにブログで必要な情報を流し始めておられる。こういう情報に眼を向けて、現地でその時期その時期に本当に必要とされる物資を届けたり、あるいは現地や現地以外でもボランティアできることがないかを考えるのも一つの手である。
ただ、阪神淡路大震災の教訓を、今回の東日本大震災に活かすとするならば、この復興は、間違いなく長期戦になる、ということだ。そして、少なくとも第二期の避難救援期から、第三期の復旧・復興期にかけて、外部のボランティアや物資などで、必要とされるニーズも沢山出てくる事が予想される。たとえば、多くの自治体でボランティア受入のためのボランティアセンターを、地元の社会福祉協議会などで立ち上げるだろう。また、そのボランティアセンターを通じて、避難所の運営ボランティア、あるいは被災地の片づけなど、人海戦術が必要な場面も紹介されるだろう。さらに、第四期の生活再建期以後は、「わが町の復興」を地元市民の手でどう創り出していくか、それを外部の市民もどう支えるか、が問われる。(たとえば中越復興市民会議のHPなどを参照)
であれば、僕自身には何が出来るだろうか。正直、昨日は呆然とテレビに釘付けになっていたが、今朝からまずは自宅の食糧備蓄やガスボンベ確保などの安全の確保をした(世界平和の前に、まずは家庭の平和が大切)。そしてその後、自分自身の溜まっている仕事を片づけ始めている。来週は卒業式に出張に、と公的に入っている仕事も少なくないので、その対応をまずする。その上で、仕事を前倒しに片づけて日程的な余裕を作っておいて、また上記のウェブやツイッターなので情報を追いかけながら、自分がどのタイミングで、何をしたらよいのか、を考える。そのためにも、今は冷静に自分のすべき本業をしながら、時間を確保するために仕事を前倒ししようと考えている。
もちろん、こんなものに唯一の正解は、当然ない。みなさんも、ご自身なりの「これから出来うること」をお考えになればいいと思う。そして、募金だとか、あるいは例えば東北の商品を買ったり、あるいは第三期以後なら東北旅行をしてお金を現地に落としたり、もそれはそれで大切な貢献だと思う。トルコの地震の直後、現地の救援チームに同行したが、現地では観光業がかなり打撃を受けていて、地元経済に深刻な影響を与えていた。復興とは生活復興だけでなく、経済復興も大切なので、自粛すべき時と内容は、冷静に見定めた方がいいと思う。
いろいろ書いたが、言いたいことはシンプルだ。「ほっとかれへん」と思うからこそ、浮き足出さず、情報を分析しながら、自分の立ち位置も冷静に考えて、自分でも役立てる行動に移すべきタイミングを考える。これに限ると僕自身は、現時点では考えている。

春の蠢き

昨日は久しぶりに平日にお休みを頂き、奥様とドライブ。

本当は一泊二日で温泉に出かけるはずだったのだけれど、諸般の事情でキャンセルして、御殿場のアウトレットに出かける。僕は何にも買うつもりは無かったのだけれど、彼女が見たいと言って入ったレイバンのグラサンをかけてみたら、あまりに顔の骨格や作りにピッタリで自然。これまでかけていたグラサンは妻に大変不評だったし、6年前の代物なので、グラサンにしては高かったけど、買ってしまいました。意外とヤッピー系なところもあり、ですね。
で、買ってしまいました、と言えば、昨晩デジカメの一眼レフまで買ってしまいました。
事のはじまりは、昨日、御殿場でふらっと入ったニコンのアウトレットショップ。もうカメラから遠ざかって随分立つが、これでも一応高校時代は写真部にいて、中古カメラを何台か持っていたのです。あの当時、白黒写真が主流で、部室兼暗室に入って写真を焼いたりするのが、非常に面白かった事を覚えている。あと、あの時代の友人は今でもやり取りする仲間が多いのも、写真部で得た大きな収穫。このブログサイトの管理人N氏も、1年後輩の写真部部長繋がりだから、もう20年近い付き合いに。彼には本当にお世話になっております。
さて、高校時代は熱狂的に写真にはまっていたのに、飽きっぽいのと、大学の写真部になじめなかったのと、写真以外の刺激が沢山ありすぎる中で、いつしか写真から遠ざかってしまった。デジカメも、研究室と自宅にコンパクトのものを二台ほど持っているが、何だかおもちゃみたいで味気なく、プリントアウトするのもまとめるのも面倒で、ほとんど使っていない。妻と結婚した後もそんな感じだから、結局結婚して8年間、あちことに旅行に行っても殆ど写真をとらない、記録に残さない、という有様。本当に面倒くさがり屋も甚だしいですね。
だから、カメラとは縁が切れたのかな、と思っていたのだが、ところがところが・・・。昨年以来の身体と心の変容の中で、イスタンブールのガタラ橋や熊野の本宮の風景が妙に鮮やかに心の中に残っている。もちろん、写真を撮らずにじっと凝視していたから残っているのだけれど、一方で、そういう心象風景を記録として写真に撮っておきたい、という思いが、少しずつもたげていた。そんな折りにアウトレットショップの中にあったニコンショップに吸い寄せられてしまい、ふと気づくとデジタルの一眼レフカメラをいじっていた。軽いけど、ホールディングが実にしっかりしている。実は20年前、写真部に入った際、初めて手にしたカメラが「ニコマート」(コンビニじゃないよ、40年前の廉価版カメラ)、その後F501とニコン続きで、F3なんていう玄人カメラも持っていたこともある、ニコンとのご縁が深い私。その後、オートフォーカスの方がラクじゃんね、とEOS10に鞍替えしたが、もともとニコン派だったのだ。そんな古い血が、再び流れてしまった。
というわけで、D3100というニコンのデジカメ一眼レフ入門機に惹かれるものの、買おうか買うまいか、かなり悩んだ。アウトレットそっちのけで、色々考えていたのだが、結論は出ず。一世代前のD3000なら4万円で手に入る、というのも魅力だったが、なんか引っかかる。やっぱりここは写真を今もやっていて、使わなくなったF3を使って頂いているナカムラ君に相談するしかない。そこで、一旦おうちに帰って、ゆっくりしてから、ナカムラ君と電話で相談。彼は早速スペックを調べてくれて、出した結論は、「ちょっとくらいケチらんと、最新型のD3100を買いなさい」。素直に従って、アマゾンで早速注文。今日中に届く予定だとか。本当に、早いですね。
カメラを再び手に取りたくなったのは、大げさにいうと、世界と自分との関係のあり方が大きく変容しているから。思えば、10代は単純に写真を撮る、ということに夢中だった。でも、20代に入って、様々な興味関心が指数関数的に増える中で、カメラに費やす時間もエネルギーも縮減していった。そして、専門家になるための修業時代には、一方で生計を立てる為にバイト三昧をしながら、ある種のタコツボというか、深く穴を掘り下げるために、様々な余暇も切りはなしていった。それが、30代になり、大学教員として仕事をし始めて、はや6年。指数関数的に今度は対外的な仕事が増えていくが、でも昨年春のブレークスルー以後、再び「やりたいこと」が強く主題化されてきた。旅に出たい、新たな何かに出会いたい、という思いは、旅をしていない日々でも、例えばヘラトリなんかを読みながら、掘り下げている。すると、地中海の国境警備と難民受入を巡るヨーロッパとアフリカの国と市民の攻防に、例えば行路人を巡る行政間の駆け引きに似た何かを感じてしまう。そういった、「自分事」と捉えられる範囲が、これも指数関数的に増えているのだ。
関連づけを強く意識し始めたから、カメラという装置が、その関連づけの大きな補助具になってくれそうな気がし始めている。そういう意味で、カメラ「との」関連づけが、まずもって強く意識され始めたのかも知れない。
こういうことを感じるのは、春独特の蠢きなのかもしれない。でも、その胎動が、やがて見知らぬ風景の前に、自分を突き動かす。そんな次の瞬間をもとめて、カメラをお供に、量子力学的跳躍(quantum leap)の旅に漕ぎ出してみようと思う。

まちづくりの転換期

今日の文章のフックは、先ほどツイッターに書いた3つの連ツイから。

takebata7:43
ヘラトリの「革命と職の関連性」を興味深く読む。失業者が独裁者の職を追いやった、という指摘に納得。曰く、中国も米国も同様の課題を抱えている、と。我が国だって同じ。ケインズなら公共事業で解決した問題を、市場・準市場中心でどう解決出来るか。  http://bit.ly/ib9x8q
 
takebata7:52
少子高齢化と職のなさ、は共通する課題。この課題の前景化は、土建型福祉国家の衰退・後景化と軌を一にしている。公務員か医療・福祉職か、という公か準市場しか職がない、というリアリティ。中央集権的発想のインフラ整備ではなく、ボトムアップ型での職作り、基盤整備の方法論が求められている。
 
takebata7:58
田中角栄は土建型福祉国家において、優秀な社会主義的指導者であったとも言える。ただ、全国一律の底上げの物語は、もう消費し尽くした。これからは、個々の地域の独自性を再び取り戻す物語が必要な気がする。道路整備と合併で街独自の物語が薄れる中、土木ではない形でどう物語を再生出来るか。
上述のヘラトリ=NYタイムズの記事では、失業と公務員給与削減が大きな課題となっている米国において、グリーン革命のような、新しいインフラ整備が国難を救うのではないか、というジャック・ヴェルチやグーグル幹部のコメントなどを載せている。なるほど、地デジ化、という名のインフラ整備が、こんなに消費者の財布のひもを強引にでも緩ませるものか、ということは、この騒動を見ていてよく分かった。天の邪鬼、というか頭の固い僕はまだブラウン管を見ていますけど・・・。
さて、公共事業と職作り、という話を考えていると、こないだ出かけた熊野や松本、などの光景を思い出す。公共事業が衰退すると、土建業を中心として栄えた地方の多くの街が、衰退の一歩を辿っている、と。特に熊野や新宮などは、明治期に木材の切り出しで栄え、新宮には遊郭まで存在するほどの繁盛した街だった。だが、安い海外の木材に押されてしまい、林業の衰退と共に、街の活気は消えていく。松本の郊外の温泉は、かつて県の会議が泊まりがけであった時代には大きく栄えた。だが、高速道路というインフラ整備によって日帰り会議がデフォルトとなると、会議→宴会という公共事業の固定客がいなくなり、一気に衰えた、という。高速道路や飛行機、新幹線などの物理的インフラと、インターネット等の情報のインフラ整備が進むことにより、その土地の独自性が逆に失われつつある。
それにある意味で追い打ちをかけているのが、平成の大合併だ。山梨でも64市町村あったのが、27市町村まで減った。確かに行政事務の効率化や、市町村ごとの同じようなホール・会館を作る、という無駄を省くには、この市町村合併は有効だったのだろうと思う。ただ、僕は山梨で市町村を廻るようになったのは、28市町村に合併された後の時代からだが、そうやって地域を回ると、合併による弊害の話も聞く。曰く、住民サービスが低下した、町独自の物語やアイデンティティを失いつつある、市役所本庁が置かれた地域に対して周縁化してしまっている・・・。これは山梨だけでなく、三重でも長野でも、同じような声を聞く。効率化は行政機能やハコモノだけでなく、地域の特色まで効率化(=ある種の収奪)がされてしまっているのだ。
政治行政学科という場所に身を置くと、一方で基礎自治体の数をある程度減らすことのメリットについても、オーソリティの先生方の話を聞きながら、頷ける部分もある。例えば福祉現場のリアリティを見ても、1万人以下の人口をカバーするより、例えば7万人らいの人口を抱えた方が、ある程度のスケールメリットのあるパッケージを創り出すことも出来る、と実感もする。ただその一方、「お顔の見える関係作り」というリアリティで考えると、山梨で言うなら、64市町村時代の旧○○町村単位なら十分に知り得るが、27に合併された後なら、なかなかリアリティがわかない、知らない、という実態も生じている。これは一方で、濃すぎる人間関係が薄まる事により良くなった部分もあれば、逆にセーフティーネット機能として薄まった部分もあるので、単純な評価は出来ない。
ここ最近、南アルプス市の社協のコミュニティーソーシャルワーカーの方の実践から学ばせて頂く機会があるのだが、旧6町村ごとに置かれているワーカーさんのお話を聴いていると、同じ市でも、住民課題やニーズがかなり異なる事がわかってくる。総体としての7万2000人として行政運営を画一化・効率化していくと、こぼれていくニーズが結構沢山出てきそうだ、というのが、ここ何回かワーカーの皆さんの実践を伺う中で感じていることだ。山間の旧芦安村の課題と、市役所のある旧櫛形町の課題は各々違い、かつどちらが良いとか悪いとかいう優先順位が付けられない、各々の地区固有の生活課題・住民課題を抱えているのだ。
例えば「困難事例」という言葉がある。これは、福祉現場でよく使われるジャーゴンで、ケアマネさんや相談支援の専門家が、簡単に解決出来ない事例の事を指している。その例として出てくるのは、認知症のおばあさんと統合失調症の娘の二人暮らし、あるいは知的障害のあるお母さんと自閉症の子供、など生きづらさを抱える人が、行政の縦割りを越えて重なる場合である(これもジャーゴンで『多問題家族』なんてラベリングの仕方もある)。
だが、問題は、誰にとってか、というと、単純ではない。ご本人にとっての生きづらさ、もあるかもしれないが、ここで「困難」や「問題」というのは、支援者にとって、あるいはその地域の中で解決するのに「困難」や「問題」がある、と言った方がよい。合併されて行政の縦割りやセクショナリズムが強くなって、以前ならお顔が見える関係で解決出来たのに、今では関係機関の連携が弱くなった、というのが「問題」であるかもしれない。あるいは、社会資源などが少なくて、対応出来る機関が少ないことが「困難」要因かもしれない。つまり、他の地域なら解決出来たかもしれない課題が放置されている事こそが「問題」であり、「困難」を創り出している例が、結構少なくないのだ。
そう考えていくと、各々の地区固有の生活課題・住民課題、とは、その地域の街作りの課題であったりもする。今、そういう視点から「地域福祉」の推進が叫ばれているが、ここも丁寧に考えないとアブナイと思う。福祉の理屈だけで、つまりは行政中心、あるいはそこに社協も加えた官と半官中心で考えると、限界があるのだ。住民が主役、というならば、商業や農業をしている、あるいは建築業をしている、様々な民の人々の声を拾い集めながら解決の方向性を模索しなければならない。それが例え福祉の街作りであったとしても、そう思う。
すると、新しい公共、ではないが、もう一度住民が「自分たちの地域をどうしたいか」を話し合う場を、福祉的枠組みを超えて持つ場面が大切ではないか、と最近感じ始めている。それも、働く世代と長老、若者などが、世代間を越えて話し合う場面が大切ではないか、と感じる。たとえて言うなら米国の開拓者精神ではないが、その土地に住む人々の自主・独立を鼓舞しながら、自分たちで出来ることは何で、行政に手伝ってもらうべきことはこれだ、という、新たな事業仕分け、とも言えようか。自助の力を再活性させながら、共助と公助のあり方を再検討する場のようなイメージだ。これは行政の末端組織化した町内会・自治会であれば、担いきれない役割であるとも思うのだが。
福島県の矢祭町や、徳島県の上勝町、あるいは鹿児島県の「やねだん」などの再生物語を見聞きすると、そこは危機意識を感じた個が、問題意識を共有する仲間のネットワークを創り出し、それが地盤を変えていく素地に繋がっていった、という、クライシスにおける物語の捉え直し、とも感じる。もちろん、そこにトップダウン的な素地もあるのかもしれないが、問題は一方通行的な指示・命令ではなく、そこに共感する人の輪ができ、ボトムアップ型の問題意識の共有と行動化が伴っていたような気がする。そのボトムアップの共有と行動化こそ、実は「まちづくり」と言われるものの成否を分けるポイントであるとも感じる。そんなストーリー、物語を、その地域の中で創り出し、共有出来るか、という本気度が、地域福祉にも求められているような気がする。
田中角栄の時代なら、あまりにも強いローカリティと、あまりにも弱いインフラ整備という条件が揃っていたので、「日本列島改造計画」という物語に強い親和性が持たれ、キャッチアップ型の政策としては大成功を治めた。ただ、内田樹氏のフレーズを援用するなら、それに「成功しすぎた」とは言えまいか。日本列島を改造し尽くした結果、使用頻度の低い道路や空港も含めたインフラ整備をしすぎた結果、辺境性=ローカリティが薄れ、モノクロな単なる都市の郊外と化し、商店街や街の物語も薄れ、規格化・均一化・衰退化を辿る場所が圧倒的に増えた、とも言えないだろうか。つまり、真面目に列島改造をした結果として、今では希薄化したローカリティと、強すぎる(便利すぎて定着化しない、流動化をもたらす)インフラ整備、という結果に収まった、とも言えないだろうか。
では、どうしたらいいか?
僕がこれまで上記で書いたことは、一見すると、ベクトルを逆に進めるように見えている、かもしれない。だが、インフラを潰して、ローカリティを昔の形で再生させる、というのは、単なる復古主義にしかすぎない。今を所与の現実として、そこから何を書き変えることが、物語の再生に繋がるか、という視点でないと、まちづくりは語れないような気がする。であれば、恐らく大切なのは、この行き詰まり=クライシスの局面において、の代表者にのみ「お任せ」したり、コンサルティング会社に「丸投げ」したりするのではなく、住民同士で本気になって考え合う、語り合う、見つめなおす、そんな場面が必要とされているのだと思う。それが、都市部ならコミュニティカフェのような所からスタートするだろうし、田舎なら「○○地域を考える会」といった何かを作るのかもしれない。その形態はどうであれ、少子高齢化と産業の衰退という、特に地方の二重三重苦の現実をきちんと共有し、逆転の発想で何かを生み出す場をどう作り出すか、が求められていることだけは、間違いないようだ。
上手く書けなかったが、本気のボトムアップ型のまちづくり、を巡る課題について、もう少し考え続けてみようと思う。

頑張れ、日本の新聞!

新聞を変える時、それは僕にとっては一つのパラダイムシフトの時であったりもする。

前回の変更は、高校生の頃。実家の京都では、ずっと地元紙を取っていた。父は帯屋の営業。西陣で話をするには、京都の話題が豊富に載っていることが大切だから、というのが、地元紙を取っていた理由だった。だが、その新聞を大手紙に変えるように迫ったのが、高校生の僕。きっかけは、とある出来事だった。
僕の出身高校はある仏教の宗派が持っている高校だった。その高校の校長が、先物取引に数千万、突っ込んでいた。しかもその出所が、学生の保護者から個人的に貰った「御礼」のお金であったり、学校関係の資金、はたまた寺の資金であったり・・・。その由々しき事件のお陰で、いつの間にか月に一度の宗教の講話の時間には「校長職務代理」という先生が替わって話をするし、地元紙だけではさっぱりわからなかった。だが・・・。
「あ、このことやろ」と、新聞記事を見せてくれたのは、同じ写真部の仲間。そう、某四大紙にはデカデカと、事の詳細の報道がスクープでなされていたのだ。その後、地元紙でも小さくは扱うが、積極的に報じているようにも思えない。小さい頃から憧れていた新聞記者。テレビやニュースへの信頼。なぜ信頼出来る「はずの」記事が・・・と思っていた時、誰からから、聞いた。「だって、地元紙なら、部数確保のため、遠慮して書けないでしょ」。世間に批判的な割には、批評のソースである新聞記事やテレビ番組の無謬性を信じ込んでいた自分の枠組みが、ガラガラと崩れ去った局面。なるほど、新聞もテレビも、株式会社ですもんね、と。以来、父は躊躇したが、頑として譲らず、その記事を載せていた某A新聞に実家は変更した。
それから20年。今も一応その新聞はとっているけど、最近二紙目を取りだした。某経済新聞? 違います。中東革命にものすごく興味があるのに、我が国では本当に報じる量も質も不満がある。我が家は未だにアナログゆえに、BSニュースも見れない。その不満を解消するため、買った後で放ったらかしにしていたキンドルを復活させ、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン(略してヘラトリ)のお試し版を読み始めた。すると、中東関連の記事が国内紙に比べて遙かに充実している。しかも、わからん単語は、キンドルなので、スクロールさせると、ちゃんと出てくる。昔、紙のニューズウィークは一年購読したけど、単語を引くのが面倒で挫折してしまったが、これなら続きそうだ。というわけで、ここ1ヶ月ほど、読んでいる。
中東の記事でも、国内紙が報じない多角的な記事内容に、引き込まれる。ツイッターに備忘録で放り込んだものだけでも、例えばこんな感じ。
3/1 21:26
ヘラトリは、アルカイダも曲がり角、と論評。確かにジハードではなく、民主化熱波が独裁政治を倒してしまった。「全ての前提条件が崩れ去った」との識者の指摘が印象的。アメリカ外交も2001年より遥かに大きな政策転換に直面している、とも。
 
2/28 13:13
ヘラトリでスウェーデンの移民問題を読む。確かに昨年訪れたマルメは移民都市だった。今では人口の4分の1が外国籍かその子孫だとか。彼の地でもやはりムスリムとの対話が大きな問題。失業や社会不安を「内なる他者」に押し付けるのは、寛容な国の伝統に反すること。どう闘うのか、が試されている。
 
2/16 7:30
昨日のヘラトリでは、チュニジア・エジプトと続く革命の連鎖の背景についての解説。ガンジーの流れを組むアメリカの政治学者、Gene Sharpの非暴力革命の考えは、セルビア経由でアラブの若者にも引き継がれた。それとネットによる国民へのメッセージ伝達の相乗効果が繋がった結果、と。
 
2/12 12:08
ヘラトリでエリ・ヴィーセルのインタビュー記事。強制収容所体験を持つ彼は、今のエジプト革命に寄せて「技術の進歩ゆえ、知らないとは言えない時代」と。だか、色々聞こえてくるけど、ちゃんと耳を傾けているか?悲劇の教訓から学ぼうとしているか?話す前に考えているか?を問いかける。重い言葉だ。
国内紙で「全然書けていない」と不満だったが、不満なら、別の新聞を読めばいい、という当たり前のことを忘れていた。英語なら、何とか読めるし、文字数も格段に多いので、深くまで掘り下げた記事に出会える。特に日本のメディアは中東情勢の分析がどうも弱いようだが、国際的なメディアは、深く現地に根ざした記者も多い。もちろん、ニューヨークタイムズの国際版なので、アメリカに引きつけた(偏った)記事が少なくないが、アメリカ政府・アメリカ人が考えていることをきちんと眺めるには、もってこいの記事。なので、ついつい読みふけってしまう。
その一方・・・朝日新聞の月曜日の社説を読んで、「あのねえ」と腹が立ってきた。(そう、ここまでは壮大な「前置き」だったのだ)
インドネシアとのEPAで看護師候補が沢山やってきたが、看護師の試験に出てくる用語が難しすぎて受からない、だからこそ滞在期間は延長させるべきだし、もっと看護師が日本に定着出来るように障壁を下げるべきである、と。国内の看護師の労働環境の厳しさや、有資格者が60万人も離職している現実も伝えながら、結論は、「看護や介護と言ったケア人材についても、開国に向けた改革へと踏み出すべきだ」と。
人材が不足している→海外から人を入れるべし。これは必ずしも直接の因果関係にはならない。だって、弁護士が不足している→法科大学院を沢山作る、医師が不足している→医学部の定員を増やす、という解決策をとっているのだ。実際東欧では、医師もお金が稼げるフランスやドイツに沢山流出している、という。ではなぜ、「看護や介護と言ったケア人材」だけが、学校を増やす選択肢を取らずに、「開国」なのか。理由も、この朝日の社説には書かれている。労働環境が低すぎて、離職者が多いからだ。これは介護であっても同様。ついでに介護は、看護師よりも給料が低く、夜勤がない地域支援では、家族を支えられるだけの給料がでず、「結婚したから入所施設や病院で働きます」というワーカーも少なくない、という現実がある。
この現実を所与のもの(変える必要のないもの)とした上で、低賃金で激務で日本人のなり手が少ないなら、安い給料でも満足してくれる、アジアの労働者を入れたらいい。医師や弁護士は「輸入せよ」と書かず、看護師や介護士は「人の開国」と書く論理矛盾。ここには、医師や弁護士と比較して、看護や介護の専門性が低いから、給料や労働環境が低くとも、他国の人なら働いてくれるはず、という職業および人種蔑視的な上から目線を感じるのは、僕だけだろうか。
半世紀前、アミタイ・エチオーニという社会学者が、弁護士や医師というfull professionに比べて、看護師、教師、ソーシャルワーカーはsemi-profession(準専門職)だ、と言った。確かに当時は専門性が低く、「センスの良い近所の主婦でも代用出来る仕事」だったのかもしれない。しかし、これらの対人直接支援の専門職は、近年、その力を上げてきたし、逆に専門性が低いまま接している「でもしか教師」による、セクハラや体罰などが大きな社会問題にもなっている。更に言えば、教師も不足しているから「輸入しましょう」という議論も聞かない。一方、看護師や介護士も、専門性の高い支援が求められる状況が増え、介護保険導入以後、その介護の質やケアのあり方に関する研究や実践の改善も、少しずつ進んできた。これは少しでも取材すれば、わかるはずである。
ついでに言えば、積極的な社会保障と財政、というのなら、看護師や介護士のライセンスを持ちながら、、給料や労働環境が低いが故に現場から離脱している有資格者を現場に復帰させる優遇策を講じた方が、扶養家族も減り、つまり納税者が増え、外国人労働者に国費(介護や看護には大量の税金が投入されている)を海外に送金されるより内需拡大にもつながり、社会保障的にも税収的にも、向上が期待されるはずだ。そういう視点だって、持つことはできないだろうか。
つまり、この「輸入=人の開国論」は、介護や看護は専門性も大して高くないはずだから、低賃金重労働で安価な外国人でよい、という非常に安易な前提(為政者や政府の説明)を鵜呑みにした上での記事としか思えない。国内問題の「所与の前提」を根本的に変えようとすることなく、いい加減なグローバルスタンダード理解を都合良い場面でのみ当てはめる、という「つまみ食い姿勢」。確かに物事をわかりやすく伝える事が報道機関に求められている事はわかるが、安易で暴力的な単純化(=思いこみ)を、社説として掲げる事自体に、何だかなぁ、という強い不満が残るのである。
別にヘラトリにそういう事が書いてある、という訳ではない。だが、他国の新聞が、一歩も二歩も深く突っ込んで報じているのを読めば読むほど、それとの比較の中で、我が国の新聞が、本当に不甲斐なく思えてくる。新聞社には優秀な人材が沢山揃っているのも知っている。だが、総体としての日本の新聞社・新聞記事の劣化を、最近、とみに感じている。もっと頑張ってよ、日本の新聞!