イメージの書き換え

ポスト311、という現実の中で、以前なら手に取らなかった本と出会い、その視点の鋭さに驚かされることは少なくない。たとえば、以前なら表題だけでよまなかったであろう次の本にも、はっとさせられる記述と出会った。
「人間は自分を取り巻く周囲の現実に注意をふり向けなければ、快適に、あるいは効率的に生きていくことはできない。そして我々は頭のなかで、言葉やイメージといったシンボルを通じて現実を理解する。もちろん人によって思い描くシンボルは異なる。現実に対するイメージも、各人が抱く感情や人生に対する価値観によって違うだろう。しかし共同体の人々とともに効率的にものごとを処理し、生きていくためには、だれもが共有できるイメージが必要である。もしある人物が思い描く現実が、周囲の人々に共通する平均的なイメージと著しく異なっていたら、その人物は共同体社会のなかでは、変人あつかいされることだろう。では、人々が共有できるような現実というイメージを決定するのはだれなのか?」(カレル・ヴァン・ウォルフレン『誰が小沢一郎を殺すのか?』角川書店、P116)
小沢一郎氏と検察とのやり取りが、正当な判断なのか陰謀的なものなのか、そのあたりは私には判断できるだけの材料がそろっていないので、このブログで何か書くことは、今のところない。ただ、現実認識の社会的構築と、そのイメージ化にマスコミが果たした役割、ということを考えるとき、この記述は非常に重い意味を持つ。私たちが、自分とは直接面識もないし、知識もない、関わり合いも薄い・ない「大きな問題」、たとえば原発や政治家の問題を考えるときに、多くの人はその考える素材は、「言葉やイメージといったシンボル」を通じた間接的な思考方法でしかない。そして、そのシンボルによる判断、というのは、実のところしっかりした論理的根拠や土台に基づかない、あやふやなものなのかもしれない。
「現実とはイメージだからである。そして私たちがイメージとして思い描くシンボルや思考、概念は、周囲との関係性のなかで解釈する必要がある。そしてそれがどのように解釈されるかということには、当然、意味がある。なぜならば政治的現実とは、我々が手で触れ、その形や色について容易に表現できるようなものではないからだ。それは政治にかかわる人々のあらゆる行動、思考、相互作用、政界での出来事、そうした一切は我々に示されて初めて現実となるわけだが、それがどう示されるか、ということが重要になる。ところがそれが示される際、そうした行動や出来事を我々のために解釈する人々がいるために、ゆがんだ形で提供されることがある。ではそのような人々とはだれかなのか? それはメディアを動かす人々である。」(同上、P116)
この文中にある「政治的現実」を、「原発を巡る現実」と入れ替えても、同じことがいえる。原発を巡る情報は、専門家ではない一市民は「手で触れ」ることもできないし、「容易に表現できるようなものでもない」。だから、ベクレルだのマイクロシーベルだの、出てきてもさっぱりわからない。「そうした行動や出来事を我々のために解釈する人々」の解説を聞いて、安全か否か、を判断している私たちがいる。しかも、その判断は、あくまでもシンボルによる判断であり、イメージによる判断でしかない。だから、「あの学者(政治家、テレビ局、新聞・・・)は信用できそう」という信念も、あくまでも想像上の信念でしか、ない。だが、その信念を、「周囲の人々に共通する平均的なイメージ」として受け止め、「平均的なイメージ」なんだから、「なんとなく真実に違いない」と思い込むことによって、「大きな問題」に悩まされることなく、日々の些事に没頭できたのである。
だが、ポスト311の現実が突き付けたのは、この「平均的なイメージ」の虚構性の暴露、であった。恥ずかしい告白だが、私自身、震災直後は「原子力発電所はなんとか止まったはず」「安全性はきっと東電で保証してくれているはず」と思い込んでいた。自分が直接かかわることができない「大きな問題」については、日本社会の「平均的なイメージ」を信じ込み、大丈夫なはずだ、という無謬性にすがろうとしていた。ツイッター上で流れる様々な情報も、「そうではない”はず”」と思い込もうとしていた。つまり、現実の直視、よりも「平均的なイメージ」の延長線上(土台?)にある、イマジナリーな想像上の不安定な信用性に逃げ込み、それ以外の情報を「そんなはずはない」と信じ込んで安心しようとしていた。そして、震災から1週間、2週間とたつ中で、「我々が手で触れ、その形や色について容易に表現できるようなものではない」問題についての認識の虚構性、イメージという不安定さ、に見事に直面することになってしまったのだ。
もちろん「共同体の人々とともに効率的にものごとを処理し、生きていくためには、だれもが共有できるイメージが必要である」。だが、この「だれもが共有できるイメージ」の再構築、およびイメージの書き換え、も、ポスト311の局面で、切実に求められているのではないか。そんな風に感じ始めている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。