バランスを考える

前回のブログを書いたのは大阪、上本町のホテル。その後、大阪で講演し、翌日と翌々日は三重県のお仕事で研修にみっちり関わって、帰ってきた時には、ひどく疲れて果てていた。それでも、翌日講義をしてから、東京での会議に行こうとしていた。だが、さすがに体力の限界一歩手前。ドクターストップならぬ、妻からの「倒れる前に休んだら」の一言で、仕事をキャンセルして、火曜水曜と静養する。

倒れるまで最善を尽くして働いても、その後、沢山の穴を開けることになるくらいなら、倒れる前に、休みを入れる。いや、その前に、4月末からの20日間の間に、金沢2泊3日、京都・岡山3泊4日、大阪・三重3泊4日、というタイトな予定を入れる事の方が、問題性が高い。連休で、同僚の結婚式に実家周り、それに講演が重なった事による無茶なスケジュールだが、もう少し1ヶ月とか半年とか、見通しを立てた日程調整をしなければ、とつくづく痛感。
火曜日も水曜日も、最低限の講義だけをこなして、家に直帰してゆっくり休んでいたら、何とか復活。やはり、寝不足と移動時間の長さが応えたようだ。何せ、一日5時間以上の移動が計7日、という強行スケジュールで、しかもずっと旅というわけではなく、その間に甲府に戻って講義もしたり、という環境を続けて来たので、平時と旅路の混ざり具合もしんどさに拍車をかけていたのだろう。何せ、オン・オフの切り替える暇もなく、ずーっと5速で走り続けて来たのと同じだから、そりゃあ、モーターも焼け焦げます。というわけで、先週後半はかなりセーブモードで過ごしていた。
そのクールダウンの時期に読んだのが、もう1年も前に買った次の二冊。
『未来を変えるためにほんとうに必要なことー最善の道を見出す技術』(アダム・カヘン著、英知出版)
『シンクロニシティー未来をつくるリーダーシップ』(ジョセフ・ジャウォースキー著、英知出版)
ちょうど一年前にカヘンの『手ごわい問題は、対話で解決する』ジャウォースキーの『出現する未来』を読んで、ブログにご紹介もしていた。そのときに買ってはいたのだが、書棚に寝かせていた両著者の別の本を、改めて読んでみて、なかなか刺激的だった。いつものように両方の引用をする、というよりも、印象に残っている事を、デッサンしてみようと思う。
この両者は、ロンドンのシェルの世界戦略を考える部門で共に仕事をした事がある、というだけでなく、ある共通点がある。それは、徹底的に論理的に考え抜いた上で、論理思考以外の何かを取り込みながら、自らの思考を発展させて来た、という点である。
カヘンはアパルトヘイト後のアフリカや内戦後のグァテマラなど、コンフリクトや対立の激しい現場において、方向性をまとめ上げ、コンセンサスを作るファシリテーターの仕事をずっと続けてきた。ジャウォースキーは、一流弁護士の立場を捨てて、リーダーシップを育てる為のフォーラムを組織したり、あるいはシェルでは90年代の激変期にシナリオ・プランニングの仕事を続けてきた。両者とも、科学的因果論で徹底的にロジカルに考えた上で、その論理だけでは突き抜けられない壁を、生成的複雑性やシンクロニシティの考え方を取り入れながら、バランス感覚や直観も大切にしながら、乗り越えていく。そのプロセスの物語自体が大変興味深いだけでなく、東洋人の僕からすると、西洋的思考の限界を東洋的叡智を吸収しながら乗り越えていく、という点でも興味深い。
ニュートン・デカルト的な心身二元論的思考は、産業革命や大量生産・大量消費というパラダイムシフトをもたらし、ヨーロッパ・アメリカ主導型の20世紀型文明を構築する事に高く貢献した。だが、その因果論的な思考の枠組みそのものが、実験・論証可能なものに限定する事によって成り立つ世界である。メタ認知的に考えた時、認知可能なものしか認識せず、それ以外のものについては口を閉ざす、というあり方は、確かに知的には誠実かもしれない。だが、「だからこそ、それ以外のものはない」という思考は、実はそれ以外の可能性のふたを閉ざす可能性があるのではないか。そのことは、これまでバーマンの『デカルトからベイドソンへ』、あるいは佐藤優の『国家と神とマルクス』などの著作に引き付けて、ブログでも書いた事がある。20世紀の後半、特に複雑系の知識が広まった後に明らかになってきたのは、因果論的科学思考の外側にも、何らかの世界観がある、ということであり、それは仏教哲学やユング心理学、老荘思想などでは、ずっと前から言われていたことを再発見する過程でもあった、ともいえる。
とまあ、小難しいことを書いていたが、結局のところ、自然と人間、論理と直観、心と身体、男性と女性、文明国と発達途上国、一神教と多神教、などを二項対立として浮きだたせ、そのどちらかを優位だと盲信するところに、問題の複雑化、絡まり具合のさらなる混乱化がある、ということは、どうやら間違いないようだ。だが、だからと言って、今傾いている一方を否定して、もう片方に傾けば、オカルト主義か、あるいは逆のイズム信奉者で終わってしまう。大切なのは、自分がどの領域に偏っているのか、それ以外の何が足りない(見えていない)のか、という己の偏差を自覚し、吸収できそうなものがあれば、適宜吸収する、というバランス感覚なのだと思う。
そのバランス感覚で言えば、合気道をするようになって今月で3年目に突入するが、身体の声をちゃんと聴いてこなかった、ということが、最近は以前より、よくわかる。身体が固い、凝っている、疲れて悲鳴を上げている・・・などのことは、以前は全くセンサーを切っていたので、気づけなかった。だが、先週のダウン時も含め、限界でヒューズが飛ぶ・ブレーカーが落ちる前に、危機を察知することが、少しずつではあるけれど、できるようになってきた。そして、昨日の朝は、急に緑が恋しくなって、近所の武田の森まで車を走らせ、午前中は森林浴。すっごくエネルギーを充填できたので、その後は仕事もはかどり、今日は模様替えや書斎の整理まではかどった。
ことほど左様に、バランスを保とうと意識することが、何らかの歪みやひずみを補正し、邪気を払い、まっとうな魂の感覚を保全するために、実に大切なのだ、と、昨年から感じつつあるし、今年はとみにそれを意識している。
さて、そろそろ合気道の時間なので、今日はこの辺で。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。