正解幻想からの枠組み外し (連作その8)

枠組み外しの旅は、少しずつ、福祉現場のことから、日本社会の構造にまで対象が伸びてきてしまった。自分の手触り感のないマクロな話をするのは、正直得意ではないが、これまで目の前の現実から立ち上げてきた感覚の延長線上で、少し、大きな地図の中での位置づけをしてみたい。

今日のフックは茂木健一郎氏のツイッターから。
茂木健一郎
けて(5)教科書「検定」の世界観が根本的に間違っているのは、この世に「正解」があって、読むべき「情報」の「集合」があると思っているところ。実際には、ネットの上にあふれている情報を見ればわかるように、玉石混淆。問題は、その中から、何が有益な情報か、判断する能力。
kenichiromogi via web 011/07/16  14:21:03
教育現場のフロントラインに立つ人間の一人として、茂木氏の言わんとすることがよくわかる。大学生と接していて大変なのは、彼らは教科書的な知識を「正解」として受け止めている、という点である。しかも唯一の正しい解としての「正解」。私がやっている講義は、数学ではないし、法律用語の暗記科目でもない。地域福祉やボランティア・NPO論などの課題に関しても、学生たちは同じ「かまえ」で講義に臨む。そして、その「かまえ」自体が、すでに宿命論的に位置づけられている。「おぼえなきゃ、しかたないんでしょ?」と。
僕の授業は、いつも徹底的に学生たちを当てまくり、「なぜ?」「なぜ?」と問いまくる。どの授業でも、最初はすごく学生たちからいやがられるが、次のように彼ら彼女らに語りかけながら、当て続ける。
「皆さんは高校生までに、センター試験に代表されるような答えを一つに確定できる正解を求める練習ばかりしてきた。だから、僕の『なぜ?』という問いかけにかんしても、『正解』を出さなきゃ、という恐怖感と、それがわからない不安などでいっぱいなのだろう。もしかしたら、皆さんの中には『(先生が求める)正しい唯一の答え』が言えずに恥をかいた記憶があり、以来発表には苦手意識を持っている人も居るかもしれない。だが、福祉的課題に唯一の正解はない。だからこそ、自分が考える『こうだ』と思うことや、その根拠も、多種多様のはずだ。それを遠慮せずに言ってほしい。どんな荒唐無稽に見えることでも、僕は否定はしない。そこから一緒に考えよう。」
年長の読者の方なら、「そこまで言わないと意見が出ないのか?」と疑いの目をもたれるかもしれない。だが、フロントラインの立場からすると、「そこまで言っても、今の学生はなかなか自分の意見を言ってくれない」のが事実である。その理由は、表題にあるような「正解幻想」に縛られているから。学校が嫌いであっても、その学校が打ち出す強烈な価値に反発できないで制度内馴化されていく学生たちは、自ずと正解幻想という枠組みの中で思考するようになる。
その事に関連して、内田樹氏は今日のブログで、「マルクスを読み、マルクスの教えを実践しようとすることは、近現代の日本に限っていえば、「子どもが大人になる」イニシエーションとして、もっとも成功したものでした」と述べている。昔なら、教科書的・制度的智に対して、マルクス主義という強烈なアンチテーゼが機能していたので、マルクスというイニシエーションを経ることによって、唯一の正解に縛られない、複眼的視点で物事を眺める、というのが、70年代までに青春を過ごした日本の若者たちには比較的容易にできた。だが、資本主義社会や日本の法制度システムのアンチテーゼとしてのマルクスという指針を失った時、内田氏は「目に見えて「大人」の数が減少した」という。僕なりに再解釈すると、「唯一の正解という幻想」の枠組みを外れ、必要とされる解決方法の選択肢はいくつものオプションがありうる、という視点で物事を考える『大人』の数が減ったのだ。
これは、大学生に限ったことではない。福祉現場でも、「正解幻想」は跋扈している。
私は障害者福祉政策に関して、県や市町村などのアドバイザーとしての役割を求められることは少なくない。その時にも痛感するのは、行政や事業所の職員が、私に「正解」を訊ねてくるのだ。 「これはどうしたらよいのでしょうか?」と。もちろん、僕は障害者福祉のオーソリティではないし、「正解」なんて浮かぶはずもないから、問われたら大概、突き返すことにしている。
その地域の課題は、僕はよく知りません、と。全体的な国の政策の流れ、障害者福祉の理念の変遷は、伝えられる。あるいは、大きな方向性については、見通しもある。でも、その地域の課題を解決する仕組みづくりを、実際に現場で立ち上げていくために、「これをすれば正解」という処方箋があるわけがない。だから、一緒に考えませんか? と。
当事者や官民にどんな役者がそろっていて、社会資源も含めたどんな舞台配置があるのか、人口規模はどれだけか、政治家にやる気があるか、過去どういう経緯と歴史をたどったか、といったその土地のローカルな文脈に沿わないと、絶対にうまくいかない。そして、これは普遍的で規範化できる唯一の「正解」ではなく、その地域のローカルノレッジを活かした形での成功作でしかない。このことを、防災教育についての議論の場面で、次のように整理されている。
「どのような現場でも、また、いつの時点でも普遍的に妥当する真理(「正解」)を研究者が同定することが目標とされているわけではなく、特定の現場において当面成立可能で受容可能な解―「成解」―を得ることが目標とされている」「『成解』は、『正解』とは異なり、ユニバーサル(普遍)ではなく、常に、空間限定的であり、かつ時間限定的な性質を持つ。」(矢守克也『j防災人間科学』東京大学出版会、p32)
「正解」と対置した「成解」概念。ローカルな文脈という空間限定・依存的で、かつその時に求められるという時間限定的な制約を持つ。だが、その中で「当面成立可能で受容可能」で、その現場を変えうる力を持つ「解」としての「成解」。福祉現場で求められる知は、この意味での「成解」ばかりである。教科書的知識や専門職の思い込み・押しつけを外在的に押し付けた「正解」では、現場が大混乱する可能性は高いが、そのメガネですっきり課題が解決する可能性は、まずない。それほど、対人直接支援の課題は、文脈依存的なのである。
にもかかわらず、日本ではシステム自体が「正解幻想」に縛られている、ということも、福祉現場のアドバイザーやコンサルタントの実践を通じて、感じ続けてきた。何か新しいことをしようとすると、「前例がない」「法律で求められていない」「国がモデルややり方を示していない」「予算がない」「人手がいない」といった「○○がない」という「出来ない言い訳」がオンパレードとなる。それは、やるからにはちゃんと「正解」を導かねばならない、という強迫観念の裏返し、とは言えないか。法律に書いてあったり、前例があったら、「正解」は真似すればできるのだから、何とかできる。あるいは、法律や前例にないことでも、ちゃんと考えてくれる人手や丸投げするお金があったら、何とかなるかもしれない。でも、ジェネラリストの自分たちが専門的な、しかもまだ見ぬ何かを新たに作り出せ、と言われても、模範解答もないのにできっこない。これが、おおむね浮かびそうな理由である。
だが、これはあくまでも、昨年のやり方を踏襲することが前提になった、平時の思考方法ではないか。ポスト311の局面で特に強く意識されたのは、「正解」が「想定内」である場合に実に機能する官僚システムが、「正解」の「想定外」の事態に陥った時に、その現場のその時点での問題を解決する最適解である「成解」を求めて立場と役割を柔軟に変えることが、実に難しかった、という事実である。人手も物資も情報もすべてが圧倒的に足りない避難所、原発事故現場、役場・・・などで、「正解」にしがみついていても、何も動けない。確かに法律やシステムを無視する振る舞いは問題であっても、それはそれとして、ブリコラージュ的に、持ち合わせの何かで、とりあえずその場をしのぎながら、最悪の事態を防ぎながら、別の文脈を作り直していくしかない。
そう考えたら、重度の障害のある人を支える福祉現場は、常に「想定外」な有事の局面であり続けている、ともいえる。圧倒的にヘルパーや医療的ケアの支援者が足りない。障害者が一人で暮らせる住宅が少ない、行政の予算も理解も少ない、地域で応援してくれる人も少ない・・・そういう圧倒的な「マイナスカードの連続」の中で、でも入所施設や精神病院で単に安心・安全を護られるだけの暮らしより、地域で自分らしく暮らしたいという事を思い続けてきた重度の障害当事者や支援者たちが、その地域の行政や支援者たちと作り上げてきた仕組みは、まさにそのローカルな文脈に依存した「成解」であった。ただ、そのローカルな「成解」の積み重ねは、他地域での共感を呼び、一定の普遍性の担保するようになると、ボトムアップ的に「正解」になりうる。たとえば、富山の看護師の惣万さんが始めた時には「脱法行為」とまで言われた宅老所が、各地に伝播する中で、「小規模多機能ケア」という形で介護保険制度の中に組み込まれたのは、局所的な「成解」のユニバーサルな「正解」への昇華だった。
この昇華のプロセスの興味深いのは、あくまでも当事者の声に基づく仕組みづくりというボトムアップ性にある。きっと理念先行型のトップダウン型であれば、うまくいかなかっただろう。対人直接支援という福祉政策の領域では、何らかのブレークスルーは、常に局所的現場の実践解という「成解」の中に、そのヒントが隠されている。そして、それを帰納的に普遍化し、新たな制度やシステムとして「正解」として形作り、現場に演繹的に投げ返す。それを運用する中で、やがて出てきた新たな問題が「成解」という形で乗り越えられ、それがまた帰納的にフィードバックされ、新たな「正解」を生み出し、という好循環のフィードバックを繰り返していく。このダイナミズムをせき止めず、うまく流れるように局所的な部分を観察する。この「成解」と「正解」の弁証法的両立と統御が求められている。だが、それは言うは易し、というのが現実である。
今の官僚システムを外から見ていて、もったいないな、と思うのも、このプロセスからの疎外、である。中央集権的システムは「正解」を演繹的に確実に地方に伝えることで、全国一律の底上げを図ってきた。これは、システム創設期から安定期に至るまでは、非常に大切な循環である。今のアフガニスタンやイラク、スーダンなどでは、この演繹的システムがないがゆえに、国としての機能が維持できるか、の瀬戸際である、という。だが、いったん安定した仕組みは、やがて周縁から問題が噴出してくる。その時、現場のローカルな知を結集した形での「成解」を生み出し、そのエッセンスを抽出する中で、現場初のボトムアップ型の「成解」を「正解」のオルタナティブや修正版という形でフィードバックさせる。そして、それを再びトップダウン的に地方の現場に差し戻す。この循環がなく、責任の丸投げとしての地方分権という分化と、予算面での中央集権の独占維持が両立していることが、システム弊害に大きな影響を与えてはいないか。「正解」と「成解」がお互いにフィードバックして好循環していく仕掛けや仕組みがなく、「正解」の鵜呑みや押しつけに終始しているところに、今のジェネラリスト志向的官僚システムの、最大の劣化や限界が来てはいないか。そして、それが教科書検定という形や、学生の「なぜ?」という疑問への畏怖という形で、前景化しているのではないか。
「正解」がいらない、とは言っていない。法や制度という寄って立つルールや規範としての「正解」は必要だ。だが、普遍のカバーできる範囲には一定の限界があり、今、多くの現場の最前線で、その限界が臨界期を迎えている。その際、「正解」への自己呪縛から脱し、「正解」を参照しつつも、その地域におけるローカルな「成解」を探し出すことが出来るか。そして、その「成解」の集積から、「正解」自体の修正や書き換えを、「正解」を維持・主張してきた霞が関側が主体的に行う柔軟性があるか。そして、この「正解」と「成解」の互いのフィードバックと好循環を、うまく導き出すことができるか。
この枠組み外しと捉え直しが求められているのは、福祉現場だけではない、と私自身は思うのだが・・・。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。