外国人介護職の受け入れ論・再考

前々回のエントリーで、外国人看護・介護職受け入れ問題について書いたところ、ASEAN関連で仕事をしている友人から、興味深いリプライがきた。ご本人の了解の上で、その意見を貼り付けた上で、ちょっと考えてみたい。

だがその前に、前々回のエントリーの要点。
----------------
外国人介護・看護職受け入れには、次の4つの前提が、意識的であれ、無意識であれ、あるような気がする。
前提1:日本人の若者にとって介護労働は人気がない
前提2:介護労働の報酬は低い
前提3:介護労働の内容は、トレーニングさえ受ければ誰でも簡単にできるものであり、代替可能性が高い
前提4:香港や欧米では、フィリピンなどの外国人介護職を受け入れて成功している
この4つの前提を一つ一つ検討してみると、介護や看護労働は、人手不足だから、安価な外国人を受け入れたらいい、という論理は、介護や看護労働を非常に表面的に捉えて、有り体に言えば見下した視点であると僕は考える。
-----------------
その上で、以下は友人からのメール。
-----------------
介護・看護のご意見拝読しました。
正直、本当に足りないのか、日本人でまかなえないのか、よく分かりません。産業界の移民推進の議論も、よく分かりません。ただ、厚生労働省が、以下の流れを全く理解しない(したがらない)ことによって、実際にやって来た人がぼろぼろになって帰っていくのをみるのが不憫ではあります。少なくとも厚労省は積極的に受け入れる立場ではありません。
私は貿易自由化の立場から、「入れればいいんじゃないの?」派です。労働力が輸出産業の国と工作機械が輸出産業の国で貿易自由化の議論をするのであれば、当然起こりうることでしょう。「うちのものは買え、でも、おまえに優位があるモノは買わん」では商売にならない。問題は、それが国内の需要とマッチしているかどうか。インドネシアやフィリピンは、「それが日本の需要にマッチしそうだ」という判断をして、EPA交渉に臨んだわけです。介護・看護に関しては、非熟練労働者としてではなく、熟練労働者の移動として向こうはとらえているわけです(少なくともハウスメイドの輸出を認めろとは言われていない)。
日本側が、日本国内の熟練労働者としての介護・看護と同等の質を求めるのも当然でしょう。ただ、そのために難しい日本語の専門用語による国家試験を課すことが正当かどうか(不当な障壁かどうか)は別の議論です。また、熟練労働者の移動である以上、賃金に関して内外価格差があったら、これも不当な話です。ですから、前提2であったような話は本当はあってはいけない。
おっしゃるように介護は準市場の領域です。準市場、ということは、介護は公共財ではないわけです。つまり、今の日本において、介護は競争的な財として考えられています。価格が公的に決められているので、消費者は価格以外の要素に反応して選択をすることになります。自由化の議論でこの話を推し進めていくと、最終的に消費者が「介護をする人」を選べばいい、ということになります。
たけばたさんがおっしゃる、ケアのきめ細やかさ=専門性と言語は、確かに大きな課題です。看護師で言えば、インドとイギリスがやはり類似の関係にあります。看護師不足が出たときにどっと受け入れて、解消すれば帰っていただく。日本でこんなことはできない。だから、おのずから、移民論は限界のある話なのだろうと思います。
もし、人材不足が将来にわたって予測されるのであれば、報酬単価をもっときちんと上げた上で、門戸を開けばいいだろうと思います。実際に、EPAの枠ではなくても、すでに外国人は介護現場にいます。CILにもいたりします。うまくいく人もいれば、うまくいかない人もいる。現状では、消費者の「選択」が可能ではないから、たけばたさんが心配することが起きかねない。だったら、選択が可能になるぐらい選択肢を増やせばいい。そのためには、報酬単価をきちんと上げたり、外国人の給与を抑えるような行為を規制したり、そうした制度的・財政的なインフラを整えてあげる必要があります。
とにかく介護保険以降、介護を準市場の領域にして(これは厚労省)、なおかつEPA/FTAの交渉の一部となった(これは経産省)以上、積極的に受け入れるかどうかは別として、この流れは避けられないのではないでしょうか。
と、思いつくままに。。。
----------------
経済学の修士号も持っていて、福祉現場にも造詣が深く、かつ今ASEAN諸国で仕事をしている友人(といえば誰か分かる人には分かるんのですが・・・)の指摘はなるほど、説得力がある。
そして、それに対するリプライを書こうと思っていた矢先、介護人材の不足の記事が。
「介護現場の人手不足感が再び強まっている。23日に公表された2010年度の介護労働実態調査によると、「職員が不足している」とする介護事業所は50.3%と過半数に上り、前年度より3.5ポイント増加。1年間に辞めた人の割合を示す離職率は17.8%で、3年ぶりに悪化した。
昨年10月1日時点の状況について、厚生労働省所管の財団法人「介護労働安定センター」が調査。全国の約1万7千事業所とそこで働く約5万1千人を抽出し、約7300事業所、約2万人から回答があった。
ここ数年は政府が介護職員の処遇改善に力を入れた効果で改善傾向にあったが、同センターは「景気の回復に伴い、介護よりも待遇がいい他の仕事へ転職する傾向が再び強まっているのではないか」とみている。
最も人手不足感が強いのは訪問介護の事業所で、「職員不足」とする事業所が65.9%。施設介護の事業所では40.4%だった。
離職率では、施設介護職員が前年度より0.2ポイント改善したものの19.1%と高い水準。一方、訪問介護職員は14.9%で、前年度より2ポイント上がった。
介護職員の賃金は、全体平均で月額21万6494円と前年度に比べて4062円増えたが、46.6%の職員が「仕事内容のわりに賃金が低い」と不満を感じている。事業所も過半数が「今の介護報酬では人材の確保・定着のため
に十分な賃金を払えない」としており、さらなる労働環境の改善を求める声が強い。」(朝日新聞 8月24日
さて、どう考えるべきか。
友人の指摘も、介護人材の不足の記事も、やはり先述の前提2と3に立ち返って考える必要がある。
前提2:介護労働の報酬は低い
前提3:介護労働の内容は、トレーニングさえ受ければ誰でも簡単にできるものであり、代替可能性が高い
朝日の記事では、前提2が大きな問題になっている、という。そして、この前提2の報酬という公定価格を決める国基準がなぜ低いのか、を考える必要がある。公定価格が定まっていても、例えば医師はある程度「食える」し、看護職でもそこそこの給与がある。(ただし看護で食えるのは、実は夜勤加算が大きいウェイトを占めており、公定価格自体は決して高くなかったり、また低いままに据え置くために准看護師制度が未だにある等の問題点もあるが、これも置いておく)。だがその一方で、介護職は看護職と比較してもなぜこれほど賃金が低いのか。これは、前提3と直結する。そして、この部分は、友人の次の指摘にもやはり直結するのだ。
「報酬単価をきちんと上げたり、外国人の給与を抑えるような行為を規制したり、そうした制度的・財政的なインフラを整えてあげる必要があります。」
そう。前提3を「既定路線」とした上で、低い報酬という「制度的・財政的」制約を課している限り、「報酬単価をきちんと上げ」ることなく、「外国人の給与を抑えるような行為」を規制しないまま、「やすかろう」というノリで、かつ、「前提4:香港や欧米では、フィリピンなどの外国人介護職を受け入れて成功している」ということを鵜呑みにして受け入れると、介護分野に関わる人材は、国籍を問わず、不幸になっていくのである。
そして、もう一度前提3に絡めて言うならば、外国人看護師・介護職について、ASEAN諸国はどう捉えているか、という友人の指摘を再度振り返る必要がある。
「介護・看護に関しては、非熟練労働者としてではなく、熟練労働者の移動として向こうはとらえているわけです」
実は、この視点が前回の僕の考察には抜けていたし、前提3とも通底する大きな問題である。介護・看護は「熟練労働」という考えで、我が国でも教育(現任者教育含む)しているのか、そしてそれに見合うだけの対価をちゃんと支払っているのか、という点である。
国として、介護・看護は「熟練労働である」と前提3を変える事によって、前提2の単価も自ずと変わらずを得ない。その上で、日本の若者や他職種で働く人にとって、本当に介護労働市場は魅力のない業界か、という前提1を問い直し、さらには自由貿易の観点から前提4に関して外国人労働力も「熟練労働の移動」として、国内と同一水準、同一評価基準で受け入れ、利用者の選択の幅を増やす、というのであれば、僕は何も反対する理由はない。
繰り返し述べると、前提2と3を、所与の現実とするか、その労働に対する認識不足と価値の引き下げであると見なすか、がこの問題の攻防戦だと思う。
ついでに述べておけば、特に震災以後、国債発行残高の件も併せて、歳出削減の大合唱になっている。来年度予算も1割カットという報道もなされていた。こういうと、思考の省略が得意な人は、「だから介護報酬を上げるなんて無理だ」と簡単に言う。ちなみに障害者予算の増額にも同じ思考の省略が働く。だが、これらは思考の省略である事を繰り返し述べておく。介護・介助の報酬を上げること、とか、障害者の地域生活支援の充実のための予算増、などは、目的が真っ当であるが故に、予算という方法論的制約故に止めてはならない。
予算はあくまで方法論である。その必要な予算を考えた上で、それを捻出する財源や、あるいは雇用創出などのマクロ的視点からの均衡も含めて考えなければならない。また、例えば障害者福祉なら入所施設や精神科病院につぎ込んでいる財源を地域に付け替える、などの予算の振り替え、組み替え、という名の本当の意味でのリストラクチャリングも必要である。そうしないで、ギリシャやイタリアにならないために、という安易な財政削減論は、思考の省略以外の何物でもない、とも思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 山梨学院大学法学部政治行政学科教員。現場(福祉、行政、学生)を掻き回す、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 真面目な紹介は下記参照。 http://www.ygu.ac.jp/profile/h-takebata.html 「読めば読むほど味の出る!?伝言板」として始めたこのブログ、最近は割と長めのエッセイを書き散らしています。 日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればh-takebataあっとまーくygu.ac.jpへ。