村上春樹と「神話の力」

まさか自分が「物語」にどんどん惹かれていくとは、よもや思いもしなかった。

仕事場の書架はもちろん、自宅の本棚にも、小説は実に少ない。入り込んだらその世界にずっと浸るのだが、なかなか小説世界に入り込む(その世界に馴染む)のに時間がかかるのか、食わず嫌いなのか、その両方だと思うのだが、小説を読むことは少なかった。例外的に村上春樹だけは小説もエッセーもほぼ全てを何度か読み直すほどのファンだが、同じく物語性の強い漫画も含め、ほとんど手をつけていない。また、映画もドラマも、ほとんど見ない。
では、嫌いなのか、というと、そうでもないような気がする。逆に小さい頃は感情移入しすぎて、疲れたのだ。特に、テレビドラマで主人公が恥ずかしい経験をする時など、先読みしすぎて、いたたまれなくなってトイレに隠れる、なんて変な子どもだった。ドラマがそれだけわかりやすくて陳腐だったのかもしれないし、僕の感覚が、今より少しは鋭敏だったのかもしれない。あと、受験勉強時以来、ドラマや映画は時間がかかるので、見始めたら効率が悪い、という効率第一主義にはまっていた部分もなきにしもあらず、かもしれない。
いずれにせよ、一番小説が吸収できそうな10代20代を通じて、村上春樹以外の物語世界にはほとんど馴染まなかった、という、物語経験についてはいささか寂しい記憶が残っている。生きること、自分の世界観の範囲を広げることに必死で、ノンフィクションや新書、研究所などを貪り読んでいたから、小説まで手が回らなかった、とでも言っておこうか。
それが、30代も後半になって、一冊のキーブックと出会えた。
「この種の冒険の第一段階では、英雄は、彼がなにがしかの支配力を持っていた住み慣れた世界を離れ、別の世界の入り口へとやってきます。湖の岸とか海辺ですね。そこでは深淵の怪物が彼を待ち受けている。で、ここで二つの可能性があります。ヨナのタイプの物語では、英雄は怪物に飲み込まれて奈落の底へ落ちていき、のちによみがえる-死と再生のテーマのバリエーションですね。意識界の人格は、ここでいかんともし難い無意識のエネルギーの支配下に入り、試練と啓示に満ちた恐ろしい夜の海の旅をしなければなりません。それと同時に、どのようにしたらこの闇の力と折り合いをつければいのかを学ぶ。そして最後に腹から出てきて新しい生き方に到達するわけです。」(ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ『神話の力』早川文庫、310頁)
この本は、『リーダーシップの旅』をぱらぱらと読み直しているときに、野田氏と金井氏の双方が薦めていたので買い求めたのだが、しかし内心「神話?僕が?」とかなり偏屈な先入観を持っていた。
だが、上記のフレーズにさしかかった時、これが村上春樹の世界観と見事に通底する、というのがよく分かった。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』における「やみくろ」であり、『ねじまき鳥クロニクル』における「井戸」。あるいは『海辺のカフカ』における森。どれも「いかんともし難い無意識のエネルギーの支配下」の世界である。そこで、「やみくろ」の場合は象徴的に「闇の力と折り合いをつけ」ようとする。あるいは「井戸」の場合なら、「恐ろしい夜の海の旅」をする。そういう世界を繰り返し村上春樹は書き続け、読者の僕は貪るように読み続けた。それが、神話世界と通底する、なんて思うこともなく。
そして、ちょうど買いそびれていた村上春樹のインタビューをネットで注文して読み始めると、共通することが語られていた。
「どうして『壁抜け』ができたかというと、僕自身が井戸の底に潜っていたからです。深く潜って、自分をどこまでも普遍化していけば、場所とか時間を超えて、どこか別の場所に行けるんだという確信を得られた。つまり主人公の『僕』が井戸の底に降りて意思の壁を抜けるというのは、作者である僕自身が実際にその壁を抜けたことのアナロジーなんです。空間と時間を移動する視線を獲得できたことは、小説家としてとても大きいことでした。」(『考える人』2010年夏号p26)
「住み慣れた世界を離れ、別の世界の入り口へとやって」くる。このとき『神話の力』によれば、別世界や怪物を殺してしまうパターンと、そのなかに飲み込まれ「奈落の底に落ちてい」くパターンの二つがある、という。村上春樹の小説世界は、基本的にいつも後者。アノニマスな無名の青年が、わけのわからない世界に引きずり込まれていく。『スプートニクの恋人』におけるギリシャの島も、ある種の異界だ。村上春樹はそうやって、時間と空間の限定性を超えて、普遍的無意識としての物語世界の元型にアクセスし、そのなかでの「試練と啓示に満ちた恐ろしい夜の海の旅」を提示し続けるから、英語で読んでも日本語で読んでも違和感なくその物語世界に入ることが出来、かつ世界的な読者層を持つ作家として成功を収めたのだと感じる。
「境界線を越える、そこから冒険が始まるということです。守られていない、新しい領域へ入っていくのです。限られた場所、固定された生活習慣、決められたルールなどを後にしなければ、創造性を発揮することはできません。」(『神話の力』p331)
通常の生活の中で、「境界線を越える」という事がなかなか出来ない。だからこそ、その代償行為ではないが、すぐれた物語に接することで、人は「限られた場所、固定された生活習慣、決められたルール」び「壁抜け」が出来、「空間と時間を移動する視線」としての「創造性」を獲得することが出来る。
「われわれは独力で冒険を挑む必要さえない。あらゆる時代の英雄たちが先に進んでくれたからだ。もはや迷路の出口はすべて明らかにされている。われわれはただ英雄が開いた小道をたどりさえすればいい。」(『神話の力』p264)
そう、物語世界を読み進めることは、「英雄が開いた小道をたど」ることなのだ。今までそんなことを考えたこともなかったが、何度も村上作品を読み直すうちに(そのうちの何冊かの長編は英語版でも読んでみた)、『神話の力』で提示された内容が、僕にとっては村上春樹という媒介を通じて、すーっと身に染みてきたのである。
そして、ひとたび村上ワールドに浸るその象徴的な意味を、『神話の力』という補助線によって知ることが出来た今、他の「神話」にも、俄然興味が生まれてきた。そうしてみると、僕の本棚は、本当に「神話」が少ない。とりあえず「トニオ・クレーゲル」を読み、一昨日は「風と共に去りぬ」を観た。どんどん色んなタイプの「神話」と出会いたい。そんな10代の少年のような事を感じている、36歳の「読書の秋」の予感である。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。