「創発的な出会い」について

先週末、勤務先の仕事で、2泊3日の静岡出張に出かけた。そこで、創発につながる、貴重な出会いがあった。

その前に、この聞き慣れない「創発」なるキーワードについて。広辞苑で引いてみると、こんな風に定義されている。
「進化論・システム論の用語。生物進化の過程やシステムの発展過程において、先行する条件からは予測や説明のできない新しい特性が生み出されること。」
創発やイノベーションとは、先行条件から予測や説明できない新しい特性、ということ。時として、無から有が生み出されることであったり、これまでの関係性から別の新たな関係性が紡ぎ直されることであったり。僕は今、この創発的コミュニケーションを強く希求しているような気がしている。で、この創発的コミュニケーションについては、安冨先生の定義を補助線にすると、わかりやすい。
「社会をよりまっとうな方向に動かしていくためにすべきことは、創造的な出会いを通じて、一人一人が自分自身の真の姿に恐れず向き合う勇気を持つことである。暗黙知の十全な作動が価値を生み出すのであり、そのためには創発の作動を疎外するものに勇気を持って目を向け、取り除かねばならなない。個々人のこの努力を背景として、人々は創造的な出会いを積み重ねることが可能となり、それが社会の要素たるコミュニケーションの質を高める。組織もまた同じように、自らの真の姿に直面し、それを改め、社会という生態系のなかにふさわしい地位を見出す必要がある。それは個々人の創造性の発揮を促すことではじめて可能となる。」(安冨歩『経済学の船出-創発の海へ』NTT出版、p258)
安冨先生の本を読んで、上記の引用をした1年前のブログでは、まだ僕自身、創発を頭の中で理解するだけで精一杯で、自らの実践として受け止める事は出来ていなかったと思う。だが、最近少しずつ、創発的コミュニケーションの面白さ、にはまりつつある。そこで出てくるのが、静岡での話。
今回はマーケティング論がご専門のH先生とご一緒した。マーケティングとは、お客様に何らかの新たな価値を提供し、ある商品購入へとつなげてもらう戦略である。そこには、創発的コミュニケーションが当然のことながら、必須条件となってくる。その領域のことについては耳学問でしか知らない僕は、行きの車の中から二泊三日の旅の中で、仕事の合間、あるいは飲みながら、色々マーケティングと創発にまつわるお話を伺い続けた。その中で、僕の心の中に強く残ったのは、次のフレーズだ。
「創発とは、関係性を紡ぎ直し、新たな関係性をコンテキストの中に埋め込むこと」
これは、H先生が言ったのか、僕が言ったのか、あるいは今飲み屋の記憶を思い出している僕の創作なのか、よく覚えていない。でも、案外このフレーズは大切なよう気がしている。
安冨先生のいう「創造的な出会い」とは、関係性を紡ぎ直したり、予測不可能な新たな関係性が生まれ出す出会いである。その中では、自家薬籠中のものであったり、当たり前、とされたものが、別の角度から再度、捉え直される。あるいは、固定観念に囚われていた枠組みそのものへの疑いのチャンスが到来する。それを「あいつはわかっていない」とか、これまで構築したブランドやアイデンティティの危機だ、として蓋してしまうことも出来れる。だが、安冨先生が言うように、「創発の作動を疎外するものに勇気を持って目を向け、取り除かねばならなない」。そうしないと、新たな何かを生み出す努力が、いつのまにかこれまでの関係性の枠組みの墨守に、結果的につながる可能性もあるのだ。
つまり、「創発的な出会い」を感じた時、これまでの暗黙の前提世界に引きこもるのではなく、時として量子力学的跳躍(quantum leap)をする事が求められるのである。それが「創発の海」へ飛び込むための、条件なのかもしれない。ちょうど、出張時に買い求めた内田先生の最新刊の中にも、安冨先生の指摘と通底するフレーズがあった。
「新しいものを創り出すというのはそれほど簡単ではありません。創造するということは個人的であり具体的なことだからです。」(内田樹『呪の時代』新潮社、p18)
安冨先生は組織の創発とは、「個々人の創造性の発揮を促すことではじめて可能となる」という。そう、何か新たな価値や関係性が生まれる時には、それを作り上げる「個人的」「具体的」な物語が付随している。これは法や制度であっても、同様だ。最初のモデルは、脱法的で、反制度的な、個々人の努力である。たとえば、富山の看護師の惣万さんが始めた時には「脱法行為」とまで言われた宅老所が、各地に伝播する中で、「小規模多機能ケア」という形で介護保険制度の中に組み込まれたのは、局所的な「成解」のユニバーサルな「正解」への昇華だった。(その事は以前のブログでも触れた)。そう、法や制度は何らかの標準化としての安定的・継続的な「正解」として認識されているが、その内実は、局所的(ローカル)な「創発」が、その地域やコンテキストを書き換える中で「成解」となり、そのエキスが他でも利用可能なものとして抽出される(=普遍化される)中で、結果的に「正解」として機能するのである。つまり、「成解」としての「創発」は、非常に「個人的」「具体的」な何か、からしか生まれない、ということである。そして、その「個人的」で「具体的」な何か、というのは、これまでの関係性の閉塞感を超える、関係性の紡ぎ直しや書き換え、であるのだ。
同じく出張先の静岡で、森まゆみさんの『起業は山間から』(バジリコ)を買い求め、今日読み終えた。世界遺産となった石見銀山で郡言堂というアパレル会社を作り出し、人口500人の村で100人もの雇用を生み出し、旧家を再生させたりリノベーションさせていく達人、松場登美さんと、地域雑誌の古株『谷中・根津・千駄木』の仕掛け人との掛け合いは、非常に面白い。僕もこの松場さんの事は、確か「ソロモン流」で取り上げられていて知ったのだが、彼女のライフヒストリーを、聞き手の名手である森さんが上手に整理してくださった同書を読んでいると、松場さんの創発は実に「個人的」で「具体的」な物語である、と気づかされる。旦那がたまたま石見銀山の出身で、たまたまデザインや服飾にご縁があって、たまたま自分の着たい服がなかったから、という入り口から、松場さんが様々な人との「創造的な出会いを通じて」「自分自身の真の姿に恐れず向き合う勇気」を持ち続けた事によって、地域に根ざした会社作りから、街作り、地域アドバイザー的な存在として全国で講演に引っ張りだこになるほど、の活躍をしておられるのだ。彼女の人生には、何らかの「正解」があったのではない。あくまでも現実との出会いの中で、「自分自身の真の姿」と向き合い続け、「関係性を紡ぎ直し、新たな関係性をコンテキストの中に埋め込むこと」としての創発的な出会いに賭け続けた中で、結果論としての成功や注目に結びついたのである。
前回のブログでも書いたが、僕はこういう「個人的」「具体的」な物語形成が、「福祉の街作り」に決定的に欠けている、と感じ始めている。行政が主導になった時、「個別性」と「具体性」は捨象され、ついつい普遍性と公平性の原則に縛られてしまう。しかし、地域の再生とは、本来、行き詰まった関係性を紡ぎ直す、という意味で、創発的な何か、である。そこで、マクドナルドのマニュアルのような、普遍的なものを外部のコンサルティング会社が持ってきても、そのローカルなコンテキストにはまる訳がない。あくまでも、ローカルなコンテキストにおける一回性や偶有性の土壌の中で、その土地の人びとがどう「関係性を紡ぎ直し、新たな関係性をローカルなコンテキストの中に埋め込み直すのか」が問われている。そこで、高齢者や障害者、児童福祉の問題も、行政課題として、だけではなく、町のこれからの大事な問題(の一つ)として、町のコンテキストの中で、他の問題と重ね合わせながら論じられ、具体的な解決策を模索しない限り、いくら制度や法の編み目をかぶせても、絶対にうまくいかない、と感じ始めている。官民の協働も、結局個々人の「創発的な出会い」がその土台にない限り、うまくいかないのではないか、と。
つまり、福祉の街作り、なるものも、お顔の見える個々人の「創発的な出会い」を通じた関係性の変容や、そこから生まれる新たな価値という個人的・具体的な物語が土台にあって、初めて可能になるのではないか。
今日のエントリーは、たまたまご一緒したH先生との「創発的な出会い」からスタートした。そういう「出会い」に気づける主体でいるか? そういう己自身の課題が創発の鍵を握る、ということに、遅まきながら気づき始めている。

福祉の街作りから、コミュニティデザインへ

ここしばらく、毎週長時間移動の日々。先々週は京都→三重、先週は大阪と2週連続、片道5時間の旅。

若い頃は身体が持ったが、最近、どうも疲れがかなり内部に蓄積される。とはいえ、出張先の本屋で色んな新しい本と出会い、読み進めるには、列車内という空間が決して悪くないのも、また事実。
最近は、デザインに対する認識を変える本と何冊も出会っている。
きっかけは、こないだのブログでも書いた、西村佳哲さんの著作。読み始めた時は、自らの変容期における仕事観の再考、という内的必然性から読み始めたのだが、彼の著作を読み進める中で、それは僕自身の仕事のやり方の再考にも直結している、と思い始めた。つまり、福祉という領域を、そのコップの内部でのみ、観察していないか。タコツボ化をあれだけ警戒しながら、実は福祉という領域内での横断的なつながりは求めていたとしても、福祉以外の領域との関係性を捉えようとしていたか、と言われると、全然出来ていなかった。環境問題やまちづくりなど、近接領域はあるのに、そういう近接領域にすら手を出せていなかった。
しかし、福祉領域内にとどまる、というのは、実は与えられた枠組みを、所与の前提として受け止める、ということにもつながる。例えば精神障害者福祉を専門にしています、いうのは、高齢者福祉や家族福祉は専門外です、ということと裏表の関係であったりする。しかし、それは実は社会的に構築された枠組みを、そのまま鵜呑みにしている、ということ。精神に障害のある人の地域生活支援を考えようとしたら、認知症の問題は高齢精神障害者の問題であり、家族関係の問題を捉えると家族福祉にも直結する。もっといえば、精神障害とは個人と社会環境との相互作用の中から生じてくる何か、であるから、障害者を排除する街作りかどうか、や、そもそも高ストレス・強い同調圧力社会の中での精神障害の位置づけ、さらには「生き方」や哲学の一部としての病、など無限に広げて考えることが可能だ。思考のリミッターをかけているのは、訳知り顔のこちら側であり、リミッターを外すと、ある問題と他の問題は、縦横無尽に関係している。その関係性をどれだけ広げながら、深めることが出来るのか。あるいは、関係性を厳格に限定して、ある部分のみを局所的に掘り下げるか。
僕のやり方は、残念ながら、これまで前者だった。だから、以前西村氏の最初の著作『自分の仕事をつくる』を読んだ時、何となく面白い、と思いながら、その重要性が分からなかった。ゆえに、今回読み直そうと書棚を探したが、実は引越の整理で処分していた事を発見。2年前の僕には、アクチュアルな本として響いてこなかった。しかし、こないだ買い直して読み始めると、今はアクチュアルな問いとして引っかかってくる。枠組みに囚われるのではなく、僕自身が納得する、自分の仕事をつくっているだろうか?と。
その際、出張先の書店で何気なく手に取ったもう一冊の本も補助線になる。
「100万人以上いるといわれる鬱病患者。年間3万人の自殺者。同じく3万人の孤独死者。地域活動への参加方法が分からない定年退職者の急増。自宅と職場、自宅と学校以外はネット上にしか知り合いがいない若者。その大半は一度も会ったことのない知り合いだ。この50年間にこの国の無縁社会化はどんどん進んでいる。これはもう、住宅の配置計画で解決出来る課題ではない。住宅や公園の物理的なデザインを刷新すれば済むという類の問題ではなくなっている。僕の興味が建築やランドスケープのデザインからコミュニティ、つまり人のつながりのデザインへと移っていったのは、こんな問題意識があったからだ。」(『コミュニティ・デザイン』山崎亮著、学芸出版社)
この本を読んで、僕自身、なぜデザインに惹かれているのか、が非常によくわかった。実は僕は山崎さんと逆の辿り方で、同じ問題意識にたどり着いているのかもしれない。
障害者の地域自立支援協議会や、高齢者領域で言われている地域包括ケアに関わる事が多い。行政の会議に呼ばれるだけでなく、いくつかの自治体の場作りや仕掛け作りのアドバイザーもしている。で、市町村の福祉現場の話を聞きながら、どうしたら社会資源を増やせるか、開拓できるか、ソーシャルアクションの仕掛け作りはどうしたらいいか、などを話していて、先述のタコツボ的な限界を感じていた。限界集落や、高齢化率が5割近くなる町の課題、あるいは公共交通が少ない中での移動支援の課題などは、単に障害者や高齢者の問題、という対象を限定した話ではなく、街作りや地域課題そのものなのだ。それは福祉政策の領域を、明らかに超えている。だが、最近までどうそれを言語化していいのか、わからなかった。でも、山崎さんの文章を借用すれば、今なら言えそうだ。
「これはもう、障害福祉計画や介護保険事業計画、地域福祉計画で解決出来る課題ではない。障害者や高齢者制度の物理的なデザインを刷新すれば済むという類いの問題ではなくなっている。」
そう、ゆえに、山崎さんが言うように、「人のつながりのデザイン」を通じて、街作りや観光、商工、環境問題など、いろいろな別の領域と繋がっていかないと、福祉課題は根本的に解決出来ないのではないか。そう思い始めている。一方で、国の会議にコミットし、国レベルの政策転換のお手伝いは続けている。だが、こちらは財源がないという安易な言い訳に逃げる官僚や政治家の都合に、かなり左右される。そう簡単に動きにくい。もちろん、それでも自分に出来るアクションは何らかの形で続けていくが、他方で、市町村レベルであれば、担当者と住民が力を合わせてやる気になれば、大きな変化やアクションが、国レベルよりも遙かに具現化しやすい。山崎さんは家島や海士町でその事を体現されていたが、僕も鳥羽市や南アルプス市と関わる中で、そういう実感を感じ始めている。メゾ的な変化を起こすには、マクロからも、ミクロからも、両面作戦があってよい。で、そのミクロから攻め入るときには、障害者福祉がテーマとなっていても、それに限定せずに、より広いコンテキストの中で、人と人のつながり・関係性を変えるデザインを意識することが、かなり重要になってくるのだ。
これは決して僕のオリジナルな発見ではない。そういえば、面白い地域福祉の実践をしている人は、総じてその土地の物語に耳を傾け、福祉以外の様々な関心ある市民と関わりながら、その土地の、そこで暮らす人との関わりの中で、福祉問題を文脈化させていた。そういう地に足ついた福祉課題の再文脈化と、変革に向けた方向性付けのデザインこそ、コミュニティデザインなのかもしれない。遅まきながら、僕もその志向性をきちんと耕したい、と思い始めている。

誰のための継続性・安定性?

この前、某自治体職員と雑談していたとき、こんな話をきいた。

「厚生労働省は、総合福祉法を本気でやる気など、一ミリもなさそうですね。だって、こないだの主管課長会議でも、来年4月からの改正自立支援法の説明ばっかりで、総合福祉法の話なんて、話題になったのは、たったの5秒ですよ。8月に骨格提言が出て、その後の厚労省の会議で全く説明されないなんて、普通に考えればあり得ない話であって、随分変ですよね」
哀しいけど、さもありなん、と思いながら、その話を聞いていた。以下書くことは、その話を聞きながらふと頭をよぎった、事実に基づく僕の妄想であることを、始めにお断りしておく。
先ほど話題にしたのは、障害保健福祉関係主管課長会議と呼ばれる、厚生労働省が都道府県や政令指定都市の担当者向けに行う会議のエピソードである。確かにHPで出されている上記会議の資料をざっと眺めてみても、障害者自立支援法を廃止し、新たな法律を作るために、私も委員として関わった内閣府障害者制度改革推進会議、総合福祉法部会の骨格提言について、まったく触れていない。私たちは昨年の4月から議論をスタートさせたが、震災で2ヶ月ほど進度も遅れ、拙速にまとめられないから、出来れば1,2ヶ月結論を出すまで時間がほしい、と再三厚労省にお願いした。だが、厚労省は平成25年8月に施行するためには、来年の通常国会に載せなければならないので、8月末の〆切りは絶対に譲れない、と主張。その厚労省の意見を受け入れる形で、8月30日に骨格提言を作り、親会議を通じて蓮舫大臣にも手渡した(この骨格提言の内容や意義については、8月30日のブログにも書いた)。つまり、国の審議会として、正式に国にその内容を上程したのである。しかし、それを担当課である厚労省が全く無視している。これは実に異常な事態である、と共に、霞ヶ関の官僚支配の本質を垣間見たような気がしている。
官僚の仕事の重要なミッションは、「継続性と安定性」の確保、である。ルーティンワークをルーティーンたらしめる継続性と安定性にかけては、「お役所仕事」と揶揄されるほど、彼らの本領を発揮する。だが、震災のような安定した規範の消失した現場では、この「継続性と安定性」の土台が崩壊している。震災時から復旧や復興支援、あるいは原発対応を巡って役所が機能不全を起こしたのも、そもそもこの「お役所仕事」の基盤である「継続性と安定性」そのものが崩れ、圧倒的な「前例なき事態」に押し流されたからであった。そこではボランティアやNPO・NGOのような即興性をもった支援が活かされたのも、阪神淡路大震災や中越沖地震と同様であった。
そして、今、社会保障領域においては、震災時に匹敵するような、「継続性と安定性」の危機にある。増大する社会保障費を前にして、増税という選択肢を取る事が、政治・政局の問題として、何度も否定されてきた。すると、特に介護保険制度財政的にを破綻させないためには、介護保険の被保険者(つまり保険料を支払う人)を40歳から20歳に引き下げ、安定的な独自財源を確保したい、というのは、厚労省の悲願であるはずだ。だからこそ、障害者自立支援法は、将来的な介護保険との統合を前提した制度設計を行ってスタートさせた。であるがゆえに、厚生労働省と自立支援法違憲訴訟団との間で取り交わした、「介護保険との統合を前提としない」という基本合意文章は、おそらくは厚労省にとって「目の上のたんこぶ」の存在であるだろう。しかも、この基本合意文章に基づいて作られた、制度改革推進会議の総合福祉法部会では、介護保険の根幹である要介護認定やそれに基づく支給決定が、障害者の地域生活には不適合である、という整理の基で、新たな支給決定の枠組みを提案した。これは、自治体でやられている支給決定の実態にかなり近いものであるが、これを認めてしまうことは、厚労省の枠組みの否定であり、かつ将来的な介護保険と障害者福祉法の統合=介護保険の被保険者の拡大論をつぶしてしまう。介護保険の「継続性と安定性」を守ることが本丸である霞ヶ関側にとっては由々しき事態である・・・こんな認識なのではないか。だからこそ、厚労省の制度改変を伝える会議で、2ヶ月前に出された障害者自立支援法に変わる新法の骨格提言について、全く紹介しない、という異例な事態になっているのではないだろうか。
さらに邪推すると、来年4月からの改正自立支援法は、「改正」と言いながら、大幅な制度改変を予定している。相談支援や虐待防止が強化されるが、その中でも現場にはかなりの変更を強いられる部分が多い。そういう圧倒的な制度改変のリアリティを来年4月に持ってくる意味は何か。もちろん、表面的には「障害者支援の現実を一刻も早くよりよいものにしたい」という言葉が聞こえてくる。しかし、平成24年4月という時期に大幅な制度改変をすると、当然25年8月にまた新法への改正をする、なんていう気力が自治体担当者や福祉施設の現場の人びとに沸くはずがない。それを承知で厚労省は「今後3年間の間に改正自立支援法を完全実施すればいい」などと述べている。つまり、平成25年8月に自立支援法の枠組みを捨てる気などさらさらなく、この改正自立支援法こそを着実にしたい、そのための仕掛けをしっかりしているように思えてならないのだ。
そういう指摘は、総合福祉法部会でも出された。だが、そのときの厚労省側の答弁は、「政治家が出された法案を着実に執行しているだけですから」とポーカーフェイスで答える。だが、来年4月から始まる改正自立支援法案は、厚生労働省が元々原案を作り、障害者団体の反対で一旦阻止された内容をほぼそのまま踏襲していることは、業界内での「常識」である。かつ、この間、厚労省側が、与野党の厚生労働関係の国会議員周りをしながら、総合福祉法は予算が青天井であり、実現は無理と吹聴して回っている可能性も十分にありうる(その片鱗は小宮山大臣の発言にも見て取れる)。
継続性と安定性の話に戻ろう。いったい、誰のための、何のための、継続性や安定性が大切なのだろうか。
霞ヶ関で働く一人一人の官僚は、障害者の暮らしの継続性や安定性向上を願って働いておられる方も少なくない。これは、霞ヶ関に通いながら、官僚の方と出会いながら、感じていることである。だが一方、省としてこの間の厚生労働省の動向を、部会の一委員として眺めていると、どうも厚労省の考える「継続性と安定性」とは、厚労省の施策体系の「継続性と安定性」であり、障害者の地域生活の「継続性と安定性」が第一義に置かれていないような気が、ふとしてしまう。これが非現実な僕の妄想であればよい。だが、先ほどから書いていた断片をつなぎ合わせてみると、どうも現実感の希薄な空想に思えないような気がする。
青臭い話を敢えて書くが、法律や制度、政策や予算は、人びとの暮らしを豊かにするための方法論にすぎない。そして、その方法論が実態と乖離しているなら、抜本的に見直す、あるいは法律を作り替えて対応する必要がある。2年前に取り交わされた国と訴訟団の基本合意文章が示しているのは、現行法の改正では障害者の地域生活支援の実態に合わないということであり、だから新法を作り直し、パラダイムシフトする必要がある、ということを、国が約束した文章でもある。総合福祉法部会が1年半かけて必死になって作り上げたのは、そのパラダイムシフトの具体的な内容であり、55名という立場もスタンスも異なる障害者団体間で、何とかまとめ上げた、障害者の地域生活支援を実質的に保証する為の、あらたな骨格であった。しかし、その実質的内容を、厚労省は実質的に反故にしようとしている。
誰の、何のための、継続性や安定性の確保なのか? 守るべきは、変えるべきは、一体何なのか? この点について、官僚や政治家の間できちんとした認識がなされないと、真剣に内容を検討することなく「予算がない」という安易な言い訳にすがり、制度改革そのものが流されてしまう。総合福祉法部会は制御不能なアンコントローラブルな部会だったから無視をして、制御可能な自立支援法で対応する、というのが妄想でなければ、優秀な官僚の皆さんは、一体何を支配したいのか、どの継続性や安定性を確保したいのか、誰の何のためなのか、大きな疑問がうかぶ。まさかその答えが「省益」なんてちんけな答えであるはずがない、ということを、祈るばかりだ。

比較軸から羅針盤へ

風通しのよさ、を欲している。心も身体も。
引越しをしたのも、以前の家が本当に風通しの悪い家だったからだ。隙間風は吹きすさび、冬には凍てつく寒さになる鉄筋コンクリート建てマンションの3階。それが夏になると、隙間風どころか、わずかな涼風も吹かない。さらに、照りつける厳しい日差しは、最上階の我が家の気温を面白いほど上昇させ、篭った熱気と湿気は風が吹かない分、熱帯夜をさらに暑くする。引っ越した後に痛感したのだがついたのだが、コンディション的に相当過酷なマンションに6年も住んでいたことになる。
だが、山梨に赴任してからの6年間、なかなか出て行くことが出来なかった。大家さんが良い方だったから、というのもある。妻は3年目くらいから、SOSを出していた。でも、僕自身が、なんとなく引越をするだけの気力やモチベーションを保持していていなかった。暮らしていたマンションも風通しが悪かったが、それ以上に自分自身の心と身体の風通しが悪かったのかもしれない。だからこそ、物理的風通しの悪さに、文句を言いながらも鈍感になり、そこから脱出する、という具体的方法論を模索することのないまま、澱んでいたのかもしれない。
そんな生活との転機が訪れた今年。物理的に引越しをすることによって、風通しのよさ、ということを体感することが出来た。何事も、比較軸を手にしてみないと、それまでの状態がどうであったか、を相対的に評価することは出来ない。たとえば入所施設や精神科病院に長期間「社会的入院・入所」している人に、「今後どこに住みたいですか?」と聞いてみると、一度目に聞いてみるならば結構な割合で「ここに暮らしたい」とおっしゃる。だが、それは、すでに地域生活という比較軸を長期間の入院・入所で実質的に失っているから、他の別な選択肢が想像できないが故の、「もうここでいい」というメッセージの場合が少なくない。現に、長期間施設入所をした後、地域生活を再開された知的障害者への聞き取り調査を数年前にしたことがあるが、誰も「施設に帰りたい」とは言わなかったのが印象的だった。地域に出たいと最初は思っていなかった人でさえも、同様だった。地域生活という別の暮らし方を実感してみて、初めてそれ以前の暮らしが「風通しの悪い暮らし」だった、と実感しておられたのである。
僕自身も、ある意味そのような浦島太郎状態だったのかもしれない。比較軸を手に入れてみて初めて、それ以前の生活が「不便」で「風通しの悪い」生活だった、と遡及的に振り返りつつある。そして、そういう「風通しのよさ」を手に入れると、次は自分の仕事や暮らし方、日々のすごし方といった部分での「風通し」はどうだろう、と気にし始める。すると、どうやら僕を構成する様々な時間的・空間的配置や、僕の働き方そのものが、「風通しの悪い」ものである、ということに気づき始めた。なんだかしんどいなぁ、と思っているものの少なからずは、単なる加齢に伴う体力低下や運動不足といった表面上の問題ではなく、自らの実存上の風通しの悪さという本質的な何かとリンクしているのではないか、という仮説が、より強いリアリティをもって、身体の中で鳴り響き始めたのだ。
たとえば仕事について。ここしばらく、西村佳哲さんの本を何冊か、集中的に読んでいる。彼は「働き方研究家」であり、その処女作は以前に文庫版で斜め読みをしていたが、その際には僕自身の心にインパクトを持って響かなかった。しかし、こないだ出かけた小淵沢のリゾナーレ内にある、県内ではよいセレクションをしているブックス&カフェで、震災後の「どこで生きるか」を主題とした『いま、地方で生きるということ』(ミシマ社)と偶然出会ったことが、大きなきっかけとなった。震災というとてつもない出来事を未だに租借できぬまま、6月に引越しをするからと現地にボランティアにも行けぬまま、悶々としていた心が引越し後に少しずつほぐれていく中で、西村さんや、西村さんが主題化する東北で生きる人々の言葉が、文字通り乾いた心に吸い込まれるように、僕の心の中に染み入った。そんな浸透の様子に初めて、自分の心がカラカラに乾いていると気づいた。そして、次々に西村さんの本を買い求め、どれも貪るように読んでいる自分がいる。
西村さんは、仕事を単に「食い扶持を稼ぐため」という表層レベルでは解釈しない。その人の考え方、だけでなく、生き方・ありかた・実存といったBeingの問題として捉える。どれだけ魂とつながった働き方が出来ているか。どれだけ心からのワクワク・ドキドキが湧き上がってきているか。自分の実存に正直で、嘘をつかない誠実さを仕事に反映できているか。そして何より、世間の空気を読むのではなく、自分自身の中に吹く(時にはか細い)風を読んで、風通しのよさを心にも身体にも持ち続ける事が出来るか。そのためには、時にはNOを言うことを辞さない原則を持ち続けられるか。彼が主題として選んだ「働き手」たちは、みんな上記のポイントを必ずクリアしている人々だった。そして、書き手の西村さん自身がそのプリンシプルを著作を通じて体現しておられることが、よーくわかった。だからこそ、風通しの悪い以前の僕にはそのよさが理解できず、今になって急激に貪るように読みたくなってきたのである。そして、改めて上記の問いが、僕の仕事、働き方、実存に向けて振り向けられる。
自らの不全感・中途半端さ加減の少なからぬ部分が、この風通しの悪さである、と気づいたのは、彼の著作を読み進める中でのことだったと思う。しばらく前から薄々感じ始めていたが、確信を持てたのは、西村さんが紹介してくださった多くの「働き手」と自らの働き方を比較する、その比較軸を西村さんが提供して下さったからだと思う。比較には、「見ないほうが良かった」という比較だってあるとは思うのだが、この比較軸は、自分の中でなんとなく不全感や疑問として感じていた事をはっきりと言語化し、かつ背中を押してくれる貴重な枠組みとして、僕自身は受け取った。「風通しの悪い人生なんて、つまんないじゃないの」と。
だからこそ、久しぶりに京都→三重と出張を続けた帰り道のスーパーあずさの中で、改めて見つめなおす。僕自身にとって「風通しのよさ」とはなんだろうか。どうすれば、日常世界における澱みを少しでも減らし、今よりは心地よい、風通しの良い心身を保てるだろうか。そのために、働き方や生き様をどう変えていけばいいだろうか。持つべき比較軸や羅針盤は、世間的な価値観や評価軸ではない。自分の魂にとっての風通しのよさ、という比較軸であり羅針盤。その枠組みを気づいたら手にし始めている。だからこそ、これからの航海が、澱んだ内海の吹き溜まりではなく、まだ見ぬ大海原という外海に漕ぎ出し初めている、ということも、少しびびりながらも、感じているのである。もちろん、行き着く宛先は、未だはっきりとした輪郭を帯びてはいないのだが、とにかく風を信じて漕ぎ出すしかないのだ。