福祉の街作りから、コミュニティデザインへ

ここしばらく、毎週長時間移動の日々。先々週は京都→三重、先週は大阪と2週連続、片道5時間の旅。

若い頃は身体が持ったが、最近、どうも疲れがかなり内部に蓄積される。とはいえ、出張先の本屋で色んな新しい本と出会い、読み進めるには、列車内という空間が決して悪くないのも、また事実。
最近は、デザインに対する認識を変える本と何冊も出会っている。
きっかけは、こないだのブログでも書いた、西村佳哲さんの著作。読み始めた時は、自らの変容期における仕事観の再考、という内的必然性から読み始めたのだが、彼の著作を読み進める中で、それは僕自身の仕事のやり方の再考にも直結している、と思い始めた。つまり、福祉という領域を、そのコップの内部でのみ、観察していないか。タコツボ化をあれだけ警戒しながら、実は福祉という領域内での横断的なつながりは求めていたとしても、福祉以外の領域との関係性を捉えようとしていたか、と言われると、全然出来ていなかった。環境問題やまちづくりなど、近接領域はあるのに、そういう近接領域にすら手を出せていなかった。
しかし、福祉領域内にとどまる、というのは、実は与えられた枠組みを、所与の前提として受け止める、ということにもつながる。例えば精神障害者福祉を専門にしています、いうのは、高齢者福祉や家族福祉は専門外です、ということと裏表の関係であったりする。しかし、それは実は社会的に構築された枠組みを、そのまま鵜呑みにしている、ということ。精神に障害のある人の地域生活支援を考えようとしたら、認知症の問題は高齢精神障害者の問題であり、家族関係の問題を捉えると家族福祉にも直結する。もっといえば、精神障害とは個人と社会環境との相互作用の中から生じてくる何か、であるから、障害者を排除する街作りかどうか、や、そもそも高ストレス・強い同調圧力社会の中での精神障害の位置づけ、さらには「生き方」や哲学の一部としての病、など無限に広げて考えることが可能だ。思考のリミッターをかけているのは、訳知り顔のこちら側であり、リミッターを外すと、ある問題と他の問題は、縦横無尽に関係している。その関係性をどれだけ広げながら、深めることが出来るのか。あるいは、関係性を厳格に限定して、ある部分のみを局所的に掘り下げるか。
僕のやり方は、残念ながら、これまで前者だった。だから、以前西村氏の最初の著作『自分の仕事をつくる』を読んだ時、何となく面白い、と思いながら、その重要性が分からなかった。ゆえに、今回読み直そうと書棚を探したが、実は引越の整理で処分していた事を発見。2年前の僕には、アクチュアルな本として響いてこなかった。しかし、こないだ買い直して読み始めると、今はアクチュアルな問いとして引っかかってくる。枠組みに囚われるのではなく、僕自身が納得する、自分の仕事をつくっているだろうか?と。
その際、出張先の書店で何気なく手に取ったもう一冊の本も補助線になる。
「100万人以上いるといわれる鬱病患者。年間3万人の自殺者。同じく3万人の孤独死者。地域活動への参加方法が分からない定年退職者の急増。自宅と職場、自宅と学校以外はネット上にしか知り合いがいない若者。その大半は一度も会ったことのない知り合いだ。この50年間にこの国の無縁社会化はどんどん進んでいる。これはもう、住宅の配置計画で解決出来る課題ではない。住宅や公園の物理的なデザインを刷新すれば済むという類の問題ではなくなっている。僕の興味が建築やランドスケープのデザインからコミュニティ、つまり人のつながりのデザインへと移っていったのは、こんな問題意識があったからだ。」(『コミュニティ・デザイン』山崎亮著、学芸出版社)
この本を読んで、僕自身、なぜデザインに惹かれているのか、が非常によくわかった。実は僕は山崎さんと逆の辿り方で、同じ問題意識にたどり着いているのかもしれない。
障害者の地域自立支援協議会や、高齢者領域で言われている地域包括ケアに関わる事が多い。行政の会議に呼ばれるだけでなく、いくつかの自治体の場作りや仕掛け作りのアドバイザーもしている。で、市町村の福祉現場の話を聞きながら、どうしたら社会資源を増やせるか、開拓できるか、ソーシャルアクションの仕掛け作りはどうしたらいいか、などを話していて、先述のタコツボ的な限界を感じていた。限界集落や、高齢化率が5割近くなる町の課題、あるいは公共交通が少ない中での移動支援の課題などは、単に障害者や高齢者の問題、という対象を限定した話ではなく、街作りや地域課題そのものなのだ。それは福祉政策の領域を、明らかに超えている。だが、最近までどうそれを言語化していいのか、わからなかった。でも、山崎さんの文章を借用すれば、今なら言えそうだ。
「これはもう、障害福祉計画や介護保険事業計画、地域福祉計画で解決出来る課題ではない。障害者や高齢者制度の物理的なデザインを刷新すれば済むという類いの問題ではなくなっている。」
そう、ゆえに、山崎さんが言うように、「人のつながりのデザイン」を通じて、街作りや観光、商工、環境問題など、いろいろな別の領域と繋がっていかないと、福祉課題は根本的に解決出来ないのではないか。そう思い始めている。一方で、国の会議にコミットし、国レベルの政策転換のお手伝いは続けている。だが、こちらは財源がないという安易な言い訳に逃げる官僚や政治家の都合に、かなり左右される。そう簡単に動きにくい。もちろん、それでも自分に出来るアクションは何らかの形で続けていくが、他方で、市町村レベルであれば、担当者と住民が力を合わせてやる気になれば、大きな変化やアクションが、国レベルよりも遙かに具現化しやすい。山崎さんは家島や海士町でその事を体現されていたが、僕も鳥羽市や南アルプス市と関わる中で、そういう実感を感じ始めている。メゾ的な変化を起こすには、マクロからも、ミクロからも、両面作戦があってよい。で、そのミクロから攻め入るときには、障害者福祉がテーマとなっていても、それに限定せずに、より広いコンテキストの中で、人と人のつながり・関係性を変えるデザインを意識することが、かなり重要になってくるのだ。
これは決して僕のオリジナルな発見ではない。そういえば、面白い地域福祉の実践をしている人は、総じてその土地の物語に耳を傾け、福祉以外の様々な関心ある市民と関わりながら、その土地の、そこで暮らす人との関わりの中で、福祉問題を文脈化させていた。そういう地に足ついた福祉課題の再文脈化と、変革に向けた方向性付けのデザインこそ、コミュニティデザインなのかもしれない。遅まきながら、僕もその志向性をきちんと耕したい、と思い始めている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。