生産ー拡大再生産に回収されない何か

「はたらく」とはなにか。最近、改めてこんなことを考えている。

きっかけは色々あるが、フックは障害者就労に関する報道。テレビニュースなので、こういう支援をすることによって、これくらい重度の障害者でも、大手の企業で働くことが出来ます、というポジティブな紹介である。
そのこと自体にけちをつけるつもりはない。障害者自立支援法で評価されるべき部分として、障害者の一般就労が広がった、工賃が上がった、ということであろう。大学院生の頃、京都の作業所で、フィールドワークの一貫として、「お○べ」の箱折作業をしたことがあるが、一つ折って何十銭!にしかならない箱折を、汗だくで丸一日体験して、その労賃が数百円レベルだったことに、唖然としたことがある。多くの障害者が働く作業所の平均月収は1万円を越えない、という現実をどう変えるのか。そのために、工賃倍増計画などの取り組みをして、実際に山梨でも工賃がかなり上がった、という実績を聞くと、これはこれでいいことだと思う。
ただ、一方で、障害者の就労は、その方向「しかない」のか、といわれると、それはそれで疑問が生じる。社会復帰やリハビリテーションが、健常者世界との「同化」側面だとすると、「健常者並みの賃金を」というのは、就労における「同化」側面とされやすい。それ以外のベーシックインカムを求める方向性もあるが、上のテレビニュースや工賃倍増計画で言われるのは、あくまでも「同化」側面だ。繰り返し書くが、これもこれで「あり」であり、ケチをつけるつもりは毛頭ない。
だが、健常者の就労感覚に「同化」させること「しかない」のであれば、重度障害者と呼ばれる人、あるいは精神障害者の中でも、たとえば一般就労の厳しさの中で耐え切れなくなって、ドロップアウトを余儀なくされた人には、過酷な「同化」とは言えないか。自らが否定された空間に戻る・漸近線的に近づくこと(=同化を目指すこと)しかない世界であれば、なかなか夢も希望も抱けない。
では、どう考えればいいか。
たとえば、重症心身障害と呼ばれる、たいへん重い障害を持っている人々の地域生活支援を展開している西宮市の青葉園の基本理念には、こんなことが書かれている。
「青葉園のとりくみは、生産性・効率や、単なる身辺自立のみを追求する活動 とは根本的に異なり、通所者や職員・親など園にかかわる全ての人たちが一体となって共に考え、悩み、理解し合い、そして主体的に生き会うくらしを 創造していくことを基本目標にしている。」
重症心身障害の人は、資本主義社会が求める生産性や効率の概念に合わない「規格外」だから、と、資本主義社会が進行する中で、隔離収容の対象となり、入所施設や精神科病院の重心病棟に社会的入所させられてきた。だが、それは、効率や生産性「のみ」を重視した考え方・価値観の押し付けである。その押し付けが、重症心身障害の人だけでなく、「健常者」と呼ばれる人々にも重圧を与え、自殺者3万人社会、そしてうつ病患者が多発する日本社会という帰結になっているのは、皆さんもご承知のとおりだと思う。
青葉園の取り組み、あるいは精神障害者の「作業をしな作業所(=たまり場)」のような空間は、資本主義社会の「生産性・効率」に「のらない」場である。健常者の就労への「同化」とはスタンスを異にする空間である。ではそれをどう表現したらよいのだろう。そう思っていたら、思想家バタイユの解説書の中に、そのヒントが出てくるとは思いもよらなかった。少し長いが、引用してみる。
「近・現代の産業社会において、同質性の基盤をなしているものはなにか。それはまず生産活動である。資本制生産では、生産手段を所有する階級が、生産活動を主導する。それだけではなく、生み出された生産物を商品として流通される仕方、それに応じて消費される仕方も導いている。大衆は自分で好きなように消費していると思っているかもしれないが、基本的には<資本>が商品として流通させたいものを-そして再生産の拡大が円滑に進行するよう企図しているものを-消費している。それゆえ生産-拡大再生産の活動が社会の中心を占め、流通(交換)過程も消費過程もその中心軸に即してオルガナイズされる。したがって、そこでは生産-拡大再生産に役立つことが最優先され、ものごとや人間を測る尺度になる。(略) こうした尺度に照らして『悪い』もの、なにも有用性のないものは嫌われ、抑制され、縮減され、排除される。社会全体から、というよりも『社会の同質的領域』から、である。バタイユの見方では、社会の同質性は、邪魔になる部分、有用性を欠き、意味あるものにはなりえない、<異質性をおびた>エレメントを抑制し、排除することで(より精確にいえば、排除しつつ、欺瞞的に同化し、押さえ込むことで)形成されている。」(湯浅博雄『バタイユ-消尽』講談社学術文庫 p96-97)
資本主義社会の「社会の同質性領域」では、労働者や一市民が生産の主導権を握っているわけではない。「<資本>が商品として流通させたいものを」「消費している」。「流行」なるものに象徴されるように、消費者の欲望は、あくまでも資本の論理の領界内である。そうしないと、「生産-拡大再生産」の活動がうまくまわらない。その意味で、「社会」は「同質性」を保たないと、うまくまわらない、というのが「資本制生産」の論理である。そして、障害者就労というのも、「生産-拡大再生産」の論理の「領域内」のルートにのることを、目標とされている。それ自身は、繰り返して書くが、一つの方向性としては「あり」だと思っている。
だが、その「生産-拡大再生産」の論理の究極的な形としての、新自由主義的・グローバリズム的な、たとえば年俸制や能力給、あるいは派遣労働などによって、仕事の「ゆとり」や「あそび」の部分がどんどん労働空間から縮減し、結果として働く人のうつ病や自殺という形でのドロップアウトを加速させているのではないか。「生産-拡大再生産」の論理は、自らの論理にのらない、「邪魔になる部分、有用性を欠き、意味あるものにはなりえない、<異質性をおびた>エレメントを抑制し、排除すること」をひたすら続けてきたのではないか。
その際、<異質性をおびた>側が、「排除」されることや「欺瞞的に同化」させられることに抗う、ということも一つの形態なのではないか。北海道浦河の精神障害者のコミュニティ、べてるの家は「右肩下がりの人生」「降りていく人生」をスローガンにしているが、このとき、「生産-拡大再生産」から「降りる」「下がる」ことによって、それ以外の豊かさを手にしている、から、あれだけ沢山の「べてらー(べてるファン)」を作り出している、とはいえないだろうか。
バタイユ自身は、この「社会の同質性」に回収し尽くされない、<ロゴス中心主義的>考えに内包されないものとして、<至高な瞬間>と読んでいる。この<至高性>や<消尽>概念が、障害者就労のオルタナティブとどう接続するのか、はまだ僕自身、研究不足であり、断言は出来ない。でも、生産性に回収されない消尽としての活動、と言われると、青葉園の活動なんて、まさにそのような「わくわく」「いきいき」した活動のように見えてくる。
生産-拡大再生産、というのは、現在の消費社会の基本であり、それを否定するつもりはない。だが、その論理「しかない」といわれると、その論理にしんどさを感じている人、その論理に適合的ではない人が、結果的に「排除」「欺瞞的に同化」されてしまう。すると、それ以外の論理をどう組み立てていくのか。<至高な瞬間>という考え方で、「拡大-再生産の論理」をどう捉えなおせるか。このあたりが、今の世の中の「閉塞感」なるものを相対的に捉えなおすための鍵にもなるような気がする。そういえば、「生産-拡大再生産」のルールをまじめに遵守していた人が、障害者福祉に関わって、ねじが外れ、どっぷりその世界にはまり込む、という場面も少なからず見かける。これも、もしかしたら、障害者福祉のもつ、「同質化」概念への<異化>作用に、少なからぬ魅力を感じたせい、と解釈できるかもしれない。
時間切れなので、今日のところはこのあたりにしておくが、この「生産-拡大再生産に回収されない何か」については、もう少し突き詰めて考えてみたい。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。