制度の自己組織化

中途半端な研究者(僕のような)より遥かに鋭い視点で問いかけをされるとみたさんが、次のような深刻な指摘をしておられた。

「制度の制度化」とでもいうのだろうか。ことば遊びのようだが、介護保険や障害者自立支援法の「制度」を利用・使用するために、「制度化されたルール」にのっとらないといけなかったり、制度を利用するためにさらに制度を利用しなければならないという循環に陥る。その一つは市場のルールである。
制度について、私のまわりにいる幾人かの人たちが、最近なんともいえない自分たちの違和感を訴えているが、私も含めてそこからお金をもらっている限り、その制度化の循環からは逃れられない。そのことは個人的には意識的でありつづけたい。だからこそ、どう「制度化」されたふりをして制度をつかうかというけとになるのだろう。
しかし、もう戦艦大和にのるしかないところまできているような気がしてならない。
僕はそれを読んでいて、「制度の自己組織化」という言葉が浮かんだ。
あるモデルなり実践例を抽象化して、制度が組み立てられる。自立生活運動から生まれた重度訪問介護、作業所運動から発展した!?地域活動支援センター、宅老所ムーブメントから出てきた介護保険の小規模多機能型。どれも、実践例の抽象化、モデル化、構造化である。だが、その抽象したシステムとは、ムーブメントが持っていた息吹や魂の捨象を伴う。いや、制度に組み込まれる、ということは、とみたさんの言うように、「制度の制度化」、あるいは「制度の自動律」「制度の自己組織化」が始まる。つまり、制度のもともと内在的に持つ志向性や動きに、取り込んだ新たなものも吸い寄せられてしまう。つまり、制度化する以前にもっていた、作業所運動なり自立生活運動なり、宅老所のダイナミズムのようなものは、より大きなシステムである「制度」の規範性の中に取り込まれ、そこに適合的でないものは、捨てられてしまうのだ。
これはどういうことを意味するか。
「制度の自己組織化」とは、「制度」の生存戦略、とでもいえようか。生物学的な比喩を用いれば、「制度」自身が淘汰圧を超えて生き残るために、様々なものを切り捨て、新たなものを取り込んでいく様相を思い起こす。その際、目新しい動き、時代に先駆けた展開も、キャッチアップして取り込んでいこうとする。先述の様々な運動の中から出てきた実践例の取り込みも、その一例である。
だが、この際、気をつけなければいけないのは、あくまでも「制度の根幹」を変えることなく、自らの制度に都合の良いように、新たなな何かを取り込む、ということの問題性である。ここは重要なので繰り返して述べるが、新たな何かを制度に取り入れるとき、特に日本の社会福祉の領域では、制度適合的な部分が選択的に取り入れられ(あるいはそうなるようにモデルが改変され)、それ以外の、特に制度の根幹への根本的な問いは、きっぱりと選択的に忘却される。制度が実情にあっていないなら、その根幹も含めて変えよう、という反省的な営みはそこにはない。実情がどうであれ、制度「さえ」生き残ればいいのだ、という意味での「制度の自動律」であり、「制度の自己組織化」戦略である。それゆえ、制度に取り込まれた新たなモデル、というのは、残念ながら制度化された時点で、その本質を失う運命にある。なぜなら、実情に合わせた支援をしたい、という新たなモデルの理念そのものが、制度化では捨象されてしまうからである。
そして、僕自身が今一番疑いのまなざしを向けているのは、官僚は何のために働くのか、という部分である。本来、制度とは、人々の幸せを導くための方法論であるはずである。その方法論が、現在の実情とずれたなら、方法論を変えて実情にそぐうようにする。これは、誰でもわかる話である。だが、ブログでしつこく書き続けた障害者制度改革の例を挙げるまでもなく、わが国の官僚制システムの中では、その方法論の維持こそが絶対的な目的とされ、実情とのズレは「仕方ない」と目をつぶってしまう。このような、方法論の自己目的化、としての「制度の自己組織化」が実に進展していると思う。とみたさんが「戦艦大和にのるしかないのか」という悲観は、この方法論の自己目的化の自壊的作用についての悲観なのだ。
ではどうすればいいのか?
僕はその処方箋を持っていないが、少なくとも、こうやってその「制度の自己組織化」の逆機能や問題点、方法論の自己目的化の自壊的作用について、指摘し、警鐘を鳴らすことから始めるしかない、と思っている。まずは、その問題性を言語化すること。その違和感を共有すること。それではだめだ、という認識を広げること。迂遠にみえても、ここからはじめるしかない、と思っている。そして、総合福祉部会の骨格提言のように、愚直に見えても、理想論と言われても、「制度の自己組織化」に歯止めをかける提言をし続けることからしか、光は見えないと思う。
制度は、ぬえのように自己組織化を突き進める。ジョージ・オーウェルの「1984」的世界は、今の介護保険制度の自己保身的態度やそのとばっちりとしての自立支援法への固執の論理と、人々の幸せより制度の自己組織化を優先する、という意味で通低する要素があるような気がしてならない。テクノクラートは、何のための技術者なのか。市民の幸せのためか? 制度の自己組織化維持のためか? この本質的な問いを、本当に問うてみるならば、答えはおのずと出てくると思うのだが・・・

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。