いたりあ・のおと

『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』の著者であり、大学院時代からの師匠大熊一夫氏が主催するイタリア調査ツアーに近々同行させて頂く事になった。

イタリアのことは師匠から何度も聞いていたし、岩波の本も読んでいたが、ずぼらな僕は、それ以上の勉強をしていなかった。今回、せっかく現地に行くなら、と、以前からあれこれ集め続けてきたイタリアの精神医療する日本語と英語の文献を読み進めている。そして、今、この時期に、イタリアのことを学べてよかった、と強く思い始めている。そこで気づいたことや感じた事、をメモ的に綴ってみたい。
実は、イタリアの精神医療改革や脱施設化の本質を理解する為に外せない鍵の一つが、現象学的思考だと感じている。以前の僕なら、そのことの凄みには気づけなかった。だが、ブログで「枠組み外し」の連作を書き続け、それを東洋文化で『枠組み外しの旅』として論文化し、その後5月の1ヶ月間でその内容も含めて単著に仕上げるプロセスを経る中で、現象学的還元のすごさ、というか、私たちが当たり前と思っている暗黙の前提や、メルロ・ポンティ流に言うなら「世界の定立」にいかに縛られているか、を考え続けてきた。(ご興味のある方は、「存在論的裂け目と枠組み外し」参照)
そして、自分の中である程度、現象学的視点について、書くプロセスの中で考え続けてきた後に、イタリア精神医療改革の本を読み進めると、「めちゃ、わかる!!!」の連続なのである。
実はイタリアの精神医療改革の父とも言われる、故フランコ・バザーリア医師は、フッサールの現象学やサルトルの実存哲学を深く学び、精神医療に取り入れようとした。その中で、ゴリツィアの精神病院の院長として精神医療改革に着手するも反対に遭い、その後、トリエステの病院を解体するプロジェクトを完遂させ、世界的な精神医療改革の旗手となる。バザーリアは従来の精神医学と自らのアプローチの違いを、次のように述べている。
「この仕事の基礎となっている接近法は決して病気が中心にあるという事実を避けようとするものではない。しかしながら、この新しい潮流の中ではこれまで患者に、あるいは少なくとも精神病院に内在するものとされていた葛藤がそれら葛藤が因って来たるところのより広い社会に投げ返される-というのは病気というものは本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ表現と見なされるものだからである。精神医療従事者にとってこのことは全く新しい役割を担うべきことを意味している。つまり患者と病院との関係の中にいて仲介者の役割を果たすのではなく、家族、仕事場、あるいは福祉事務所といった現実世界での葛藤に介入しなければならないのである。」(フランコ・バザーリア「管理の鎖を断つ」『批判的精神医学 : 反精神医学その後』.イングレビィ編、悠久書房、p321)
僕自身も以前はごっちゃになっていたのだが、バザーリアやイタリアの精神医療改革は、精神医療そのものを否定する、という意味での「反」精神医療とは違う。この点はあとで論述するが、投薬や治療をするものも、大熊一夫氏の表現を用いるなら「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」という形態ではない形での、精神障害者へのケアを展開していくのである。だから、バザーリアが言うように、「病気が中心にあるという事実を避けようとするものではない」。ただ、病気を個人の疾病や病理、という形で認識しない点が、最も興味深い点である。バザーリア自身は、「病気というものは本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ表現」である、と述べている。これは、○○病というラベリングを張って理解した、つもりになることへの強烈な批判であり、病気という形で「表現」されている「本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ」何か、に、医療者と患者が協働で目を向ける必要があることを指し示している。そして、この難しい「表現」を理解するためには、「葛藤」という概念も理解する必要がある。
この葛藤概念については、フランコの妻であり、精神病院の構造について鋭く分析した社会学者ゴッフマンの名著『アサイラム』のイタリア語訳者でもあった社会学者で政治家のフランカ・バザーリアが次のように指摘している。
「新しい個人(女性、青年、老人、精神病者、精神遅滞者、同性愛者、囚人など)は、対象化し疎外されることを拒否した象徴であった。現在ではその人たちは、事実、彼らの社会的不平等を確かにすることにしかなっていない、『自然な多様性』という捉え方の中に再び閉じ込められることを拒み、直面し経験するべき社会的葛藤の源となっている。新しい家族の権利、離婚法、性の平等法、妊娠を告知される権利、家族相談サービスの開始、青年雇用促進法、精神医療および保健改革、そして刑務所の改革派、今でも積極的に取り組んでいるとは言えないし、また不完全であったり実施されていない状態であるとしても、こうした葛藤の産物なのである。葛藤は伝統的な文化の自明性に疑問を投げかけたのだ。この自明性は、伝統的な科学の自明性が仲間である人間を全面的に対象化することに基礎を置く場合にのみ可能であったのだが。」(フランカ・バザーリア「社会の鏡としてのイタリア精神医療改革」ラモン、ジャンニケッダ編『過渡期の精神医療』海声社、p398)
対象化し疎外される、というと、これも難しく見えるが、これは深尾先生の言葉を拝借するなら、「魂の植民地化」である。この魂の植民地化、ということは、例えばテレビのCMの言うように「食べる前に飲む」ことで胃薬への依存症状態にあった僕自身の「対象化」と「疎外」にもあてはまる。その社会での常識や「自明性」を鵜呑みにして、それを疑うことなく受け入れた「健常者」とカテゴライズされる人は、実は、「疎外」され「魂の植民地化」された状態であった、といえる。この「対象化」や「疎外」という言葉遣いに、マルクス主義的イデオロギーの匂いを感じる人もいるだろう。確かにイタリアの精神医療改革にはイタリア共産党の存在が大きく影響を与えているが、バザーリア達は、共産主義イデオロギーを患者に当てはめようとしたのではない。マルクスが解き明かし、現象学的還元が見えるようにした、この「疎外」や「自明性」そのものを疑う
、と思考方法で、精神医療そのものを再考する実践を始めたのである。すると、精神障害者の置かれている状況が、「単に病気になった人」とは全く違った地平で見えてくる。「葛藤は伝統的な文化の自明性に疑問を投げかけたのだ」。これは一体どういうことか?
「伝統的な科学の自明性が仲間である人間を全面的に対象化することに基礎を置く」。客観的で合理的で分析的な「科学」によって、「統合失調症」なり「うつ病」なり「反社会性人格障害」というラベルが貼られる。この際、ラベルの持つマイナスイメージが強い場合、ラベルを貼られた人間の主体性よりも、その病名なり障害名が一人歩きする。病気や障害が「人間を全面的に対象化する」のである。そのような病や障害の自明性そのものに「疑問を投げかけた」のが「葛藤」なのである。僕はそれを、次のような疑問として受け止めた。
「この人が暴れているのは、統合失調症だから、でいいんですか? この人が暴れるのは、単に幻聴のせい、というより、幻聴で暴れざるを得ないような状態に、構造的に追い込まれているのではないのですか? その追い込まれている構造を見ることなく、本人の暴れている状態を薬や隔離、拘束で沈静化させたところで、本人が抱えている内在的論理や生きづらさ、あるいは社会の中で生きるつらさや葛藤そのものに目を向けない限り、状態の沈静化はあっても、根本的な解決にむけて動くことはないのではないですか?」
フランコ・バザーリアが「これまで患者に、あるいは少なくとも精神病院に内在するものとされていた葛藤がそれら葛藤が因って来たるところのより広い社会に投げ返される」と述べるとき、病気を患者や病院の中で抱え込んではならない、という警句として、僕は受け止めた。サラリーマンが鬱病になり、自殺未遂をして精神科救急に運ばれる。その際、もちろん救命措置をして、命を救う処置を医者はする。だが、そのサラリーマンを鬱病に追い込んだ「葛藤」そのものは、単にサラリーマンの個人的因子によるものではない。人件費削減や成果主義的志向、新自由主義的発想が強まる中で、社会構造が本人に「自明なもの」として求めている負荷そのものの中に、実は問い直すべき、捉え直すべき「葛藤」があるのではないか、と。それを、あの人は「鬱病だから」と、病名や個人のせいにして、そして治療の対象だからと責任を治療機関になすりつけて終わっていいのか、と。「葛藤が因って来たるところのより広い社会に投げ返される」ことがなければ、本質的な関係性の改善はないのではないか、と。
このブログで考えて来た「魂の脱植民地化」概念とつなげてみよう。会社や日本社会の同調圧力などの強い負荷を、暗黙の前提や自明性として個人化・内面化して受け入れ、「蓋の上の人格」を引き受けるところに、「魂の植民地化」が進行していた。そして、それを「精神病」という個人の病だから、「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」形で治療しよう、という精神医療は、実は「魂の植民地化」の片棒を担ぐ役割を構造的に担っている。葛藤の内面化・呪縛化を支援する精神医療役割、ともいえる。この時、現象学的還元を行う、とは、そもそもその葛藤の内面化・呪縛化に手を貸すことが、精神医療の役割期待としてあったとして、それで本当に良いのか、という問いである。社会防衛機能に手を貸す精神医療、という構造そのものへの疑問を差し挟む。これが「自明性」や「世界の定立」そのものを疑う、という意味での現象学的還元の営みであった。そして、その延長線上にしか、葛藤の呪縛化を開くことはできないし、「魂の脱植民地化」もあり得ない。
「治療と保護の矛盾が、医者が採り入れた方針そのものに帰せられる問題なのではなく、実際は社会制度としての精神医学に基本的に備わっているのだということに医療チームは気づく事になった。精神病院という問題以外に精神医学が社会の中で広く果たしている役割について検討することが必要となった。というのも、精神医学的診断は一般に受け入れられていた道徳的秩序に基づいており、この秩序が正常と異常とをその堅苦しい術語で定義していたからであった。またこの道徳的秩序は階級制度そのものであり、これが『下級階層の人々』が精神科患者になるという事実を引き起こしていた。科学的客観性という名の下に隠蔽されていたが、精神科医の伝統的な役割には社会的問題や軋轢を孤立化し吸収するという仕事があった。この役割が精神科医に現実的な社会権力をもたらした。」(フランコ・バザーリア、前掲書、p314)
科学としての精神医学は、社会制度の体系の中で位置づけられている。その政治性に目を向けたとき、現実的に患者よりも精神科医が「現実的な社会権力」を持つ。その背後には、「異常」者を「正常」社会から区分けし、排除する、という「道徳的秩序」維持役割が精神科医に課せられている。これが「科学的客観性という名の下に隠蔽されて」いるが、だが、その「隠蔽」の「蓋」を外してみるならば、広い社会問題としての矛盾や葛藤の内面化・呪縛の問題が現前化される。このような「社会的問題や軋轢」を、解決すべき課題として考えるか、「孤立化し吸収する」ことで「隠蔽」する役割なのか。科学の名を借りながら、医療者はどちらに進むべきなのか、という問いかけである。
こう書くと、なにやらバザーリア派と呼ばれる人は、治療はせずに社会問題を問うてばかりいるのではないか、という疑いをもたれるかもしれない。だが、バザーリア自身が言うように、「この仕事の基礎となっている接近法は決して病気が中心にあるという事実を避けようとするものではない」。ただ、治療や支援をする時のスタンスとして、社会の中での「葛藤」や「魂の植民地化」、その帰結としての「本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ表現」としての症状と向き合おうとしているのである、と僕は理解した。
で、それが具体的にどのようなものであるか。それは、「のおと」第二回に譲ることとする。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。