「箱の外に出る勇気」

表題のフレーズは、スタンフォード大学の別府晴海先生の名言である。以前のブログでもご紹介したが、改めて、ご紹介する。

「新しい概念を創出することが『箱の外に出る』ことだと思います。『箱の外に出る』ことは必ずしも生産性のある創出にはなりませんが、『箱の外に出る』勇気が、学問にはいると思います。英語でもthink outside the boxと表現します。『自己の呪縛を乗り越える』と同時に、『(学問上の)常識(ドミナントストーリー)の呪縛を乗り越える』ことだと私は理解しています。」(東洋文化92号、p12)
この「箱の外に出る勇気」は、学問だけで無く、日本社会のあちこちで必要とされている勇気だな、と感じている。
例えば、いじめ問題について。
ふと、ツイッターを読んでいて、ある知人が昔いじめられていた、という呟きに接した。その時、彼女は「窓際のトットちゃん」が、自分に自信を持ち続けるためのよりどころだった、と。その気持ち、僕にもよくわかる。
僕もトットちゃんは、貪るように何度も何度も読み返した。いつの間にか、その本は実家からも無くなっていたけれど、それはその本が必要なくなるくらい、僕の心の中に刻み込んだからかもしれない。トットちゃんは、言わずもがなの黒柳徹子さん。そのたぐいまれな才能も、最初の学校では「不的確」と診断されていた。窓の外のおじさんに呼びかける、絵を描いたら画用紙をはみ出して机にまで書き出す。こういう「状態」を見ると、今ならすぐにでも「○○障害」「○○病」、とラベリングがされるかもしれない。
でも、トットちゃんは違った。自分を丸ごとうけとめてくれるトモエ学園や小林先生がいた。(そう言えば等々力渓谷という言葉はトットちゃんで覚えた) トットちゃんの行動は、逸脱でも問題行動でも何でもなく、丸ごと受け止められ、みんなからも祝福され、そして愛された。その経験が、トットちゃんの根底的な生きる自信につながり、やがて大スターに育っていった。
この話を重ね合わせながら、そう言えばトットちゃんの世界に浸っていたのは、僕が「箱の外に出る勇気」を持ち合わせていなかった、小学校5,6年生の頃だったな、と思い出す。
あの頃、僕は毎日が本当につまらなかった。毎日が嫌で仕方なかった。マンションの11階に住んでいたのだが、「ここから飛び降りたら楽になれるのだろうか」とばかり考えていた。僕は、クラスの中でいじめられていた。
「ここじゃないどこか」への憧れ。それは、狭いクラスという世界内に閉じ込められ、そこで自らが肯定されず、毀損され続けることへの、大いなる反発でもあった。でも、当時10才のタケバタヒロシには、そういう「ここじゃないどこか」が、どこにあるのかわからなかった。あまり読書家でもなかったので、かろうじてトットちゃんを読み、桂川の河川敷を自転車でブラブラしながら、退屈な毎日、嫌な日々に倦んでいた。
なぜ今、こんなことを書いているのか。それは、今が、その当時の僕と比べたら比較にならないほど、めちゃくちゃ楽しいからだ。
3年まえに始めた合気道はやっと一級までこれた。次はいよいよ憧れの袴・黒帯の世界への挑戦。最近やっと様々な技の理屈が身体に馴染んできて、技が見えるようになってきて、すごく練習が楽しい。テニスも長らくお休みしていたが、うちのテニス部の学生コーチに教わったら、やっとサーブが入るようになってきた。イタリアから帰ってきて始めたイタリア語基礎文法の教科書は、7月末までに終える、という目標を達成できた。この夏は網笠山や甲斐駒ヶ岳の山登りにもチャレンジしようとしている。
と書くと、趣味の世界ばかりだが、仕事の世界も、楽しい。もちろん、義務的な関わりはゼロでは無いけれど、ゼミや講義の中身も、ここ数年、教えている僕自身の方がワクワクと楽しめている。研究も、単著用の原稿を書き終えた後にイタリアの精神医療改革の事を勉強し始め、社会を変える為の思想史を学び直そうと充実している。今日で講義は終わるけど、夏に研究したい課題は山ほどある。
こんな、仕事も遊びも、そして家庭環境も満足する日がくると、10歳のタケバタヒロシは想像もしていなかった。あの頃の記憶はほとんどなく、退屈そうに自転車でブラブラするか、ベランダや廊下から下を眺めて「ここから飛び降りることができるよなぁ」と考えていたイメージだけが強烈に残っている。そういう、「箱の中」の狭い記憶。
思えば、その後四半世紀かけて、ずっと「箱の外」を希求し、そこに「出る勇気」を持つために、試行錯誤してきたのかもしれない。小学校のクラスの中、という狭い狭い「箱の中」での権力関係や同調圧力。それが嫌で嫌で仕方なかった。でも、出る術をしらなかった。僕にとって、そこから脱出する術は、特に運動に対する苦手意識も強かったので、勉強しか無かった。中学校で出会った塾に救われ、塾長に対して議論をふっかけてもきちんと受け止めてもらった経験が、少なからぬ自信につながった。その塾で、議論が出来る仲間にも出会った。そして、高校、大学、と、京都市南区吉祥院という狭い世界以外の人が集う場に出かけた事により、僕の世界観、価値観は急激に広まった。予備校生の時、大阪の十三まで通ったことが、結果的に京都の呪縛(つまらん盆地根性)から離れるために大切だった。京都大学を志望したのに、センター試験で点数が足らずに阪大に入ったことが、その盆地根性から抜け出し、結果的に今、研究者になるための大切な条件だったのだから、不思議なものだ。
そうやって、徐々に世界観を広げる中で、自分自身の関わる日常世界や「世間」の狭さに気づき、その「箱の外」に拡がる世界の広さに驚き始めた。「箱の中」しか知らない人間にとって、その箱が何か、は問わないお約束になっている。「どうせ」「しかたない」と諦めの対象だ。だが、たまたま中学以後、自分自身が諦めずに変わるきっかけをもらえたから、承認される場を得たから、トットちゃんと同じように、自分の中で小さな自信が生まれ始めた。そこから、世界が変わり、気づけば今、甲府にいて、楽しい毎日を過ごせている。
大津のいじめ事件の報道は、ほとんど見ていない。だが、その繰り返される惨事に接していると、日本社会の「箱の中」の同調圧力の強さというものが、苦々しい記憶と共によみがえってくる。そんなしんどい境遇のただ中にいる人に、「大人になったら楽しいこともあるよ」なんて、無責任な事は言いたくない。でも、その自らの辛い環境が「箱の中」であると気づく事。そして、その「箱の中」から「外に出る勇気」を持てば、そして実際に外に出てしまえば、箱の中が実にちっぽけな、どうでもよい世界だったことに気づくのである。その、世界「間」移動を果たすことが出来たからこそ、今の学校教育という「箱の中」の構造的問題性が、やはり気になるし、ここは変えてほしいと思う。個々の教員や学生の問題では無く、これは管理教育とか、少人数学級に出来ない人員配置とか、そういう社会構造の問題である。
でも、その一方、今、しんどい思いをしている、四半世紀前の僕に向かっては、こう伝えたい。
「箱の外には、実におもろい世界が拡がっている。それを見つけるために、つまらん箱の中の流儀に縛られている必要はない。箱の外に出る勇気を持って、旅に出よう。そのために、本を読んだり、あるいは運動したりして、自分の中で、基礎体力・人間力をつけよう。そうして、嫌な時期が過ぎ去るのを待つのだ。嵐の中ではドタバタもがくより、今自分が出来る基礎体力・人間力作りをコツコツ積み重ねる方がいい。止まない嵐はない。嵐が止んだ時、船出すればいいのだ。死にたい、なんて考えていても、何も変わらない。自らが変わるための努力をする中で、嵐がやんだその一瞬のタイミングを捕まえ、脱出しよう。そのために、力をつけるのだ。」

産婆役という”かまえ”

昨日、ゼミ生から相談を持ちかけられる。これからの生き方に困惑して、どうしていいのかにっちもさっちもいかない、というご相談である。家から外にも出られず、悶々としていた、という。確かに顔の表情はこわばり、身体の動きも硬い。最近ゼミに顔を出さず、昨日のゼミも、先輩に相談してやっと出てこれた、という。

そういう学生さんを前にすると、講演や講義の時とは違う僕のモードが到来する。それは「対話」モードである。
昨日のゼミ生も実際に語っていたが、僕の前に相談に現れる学生達は、何らかの具体的なアドバイスを求めて現れるわけではない、という場合も少なくない。アドバイスを聞いてすぐに実行できるくらい余裕があれば、何もこんなに困り果てない。まず、自分の中でその困惑の正体が掴みきれず、どこから考えていいのかわからず、濁流の中に飲み込まれたように、とにかく困惑の海の中で疲れ果てている、という状態のこともある。
そういう学生さんと「対話」する際、まず大切なのは、じっくり時間をかけること、である。
木曜日は4限がゼミの時間だが、その後も、だいたい予定を入れないでいる。すると、ゼミを延長することもあるが、昨日のように特定のゼミ生とゆっくり対話する時間も出てくる。そういう時間的な余裕があれば、次にすることは「待つこと」である。
どう言っていいのかわからず、何から話していいのかわからない。そんな彼ら、彼女らが、でも僕を前にして、一生懸命、言葉を発しようとする。それは、未分化な気持ちや想念を具現化する、という意味で、「言分け」であり、身体全体から言葉を絞り出す、という意味で、「身分け」でもある。(言葉によるゲシュタルト化としての「言分け」、生身のアクチュアリティで世界を分節化する「身分け」については、丸山圭三郎の『言葉と無意識』講談社現代新書を参照)
そういう、ゼミ生の中から「世界が立ち上がる」瞬間に、間主観的な存在としてたたずむ僕。相手の「言葉」が「分かれて」くる瞬間を信じて、待つ僕。こう位置づけると、僕の役割は、助言者や指導者、ではなく、ソクラテスのような「産婆役」である。大切なのは、今、世界に向けて「身分け」をし、その中で自らの言葉を「言分け」ようとしている彼・彼女の呼吸に同期させていくことである。その波長をシンクロナイズさせていくなかで、そっとお餅つきの返し手のように、時には言葉を添える。すると、波長が合致してくるので、深い部分で、ゼミ生の中に、声が、届く。そこから、堅い殻の中に閉じ込めていた何かが、少しずつ融解し始める。そして、言葉が、出てくる。
生命が誕生する時と同じように、言葉が誕生する時、それはおずおずと、少しずつ、振り絞るように出てくる。時には、涙が先行する場面も少なくない。でも、そうやって、「身分け」しながら、そのプロセスの中で「言葉」が「分け」られていくなかで、全身を覆っていた緊張感が少しずつ、溶けていく。その中で、とつとつと、少しずつ、言葉が増えていく。
こういう場面に身を置いた時、しばしば、「お忙しい先生に時間を割いていただき、ご迷惑をおかけして、すいません」とお詫びされることがある。でも、僕は、昨日も次のように、返礼していた。
「あなたと共に、こうやって時を過ごす中で、僕はあなたから何らかの『元気』を頂いています。それは、二人の間で分かち合うものが増え、そしてあなたがそのわかちあいの中から、何かを産み出しつつある、その過程を共に出来たからこそ、頂けた気です。また、僕自身が、あなたの役に立っている、ということから得られる気でもあるのです。」
むかし、相談への「かまえ」が出来ていなかった頃、「取るべき責任と取ってはいけない責任」を理解していなかった頃、僕は相談を受けることにクタクタになっていた。だが、ゼミ生に鍛えられる中で、少しずつ、対話の”かまえ”のようなものを身につけ始めた。こちらから投げかけるのではない。相手から出てくる何かを、ただ信じて待つ。その中で、産婆役として、そっと手を添える。しかも、控えめに。
そういう波長を合わせる産婆役に徹していると、新たな言葉という「生命」が立ち上がる瞬間に出会えるのかもしれない。

精神医療における「自愛」と「自己愛」

安冨先生にご恵贈頂いた『生きる技法』が非常にわかりやすくて刺激的だったので、3・4年ゼミ生全員に読んでもらい、数回のゼミで議論をし続けている。その中で、特に学生達にとって議論が深まった論点の一つに、「自愛」と「自己愛」の違いがある。安冨先生は、次のように命題化している。
【命題3】 愛は自愛から発し、執着は自己愛から生じる
【命題3-1】 自愛とは、自らその身を大切にすることである
【命題3-2】 自己愛とは、自己嫌悪を埋め合わせるために偽装することである
【命題3-3】 自己愛はいつも不安と隣り合わせである
【命題3-5】 自己愛を満足させるために、他人の美点に欲情することが、執着である
(安冨歩『生きる技法』青灯社)
これらの命題を僕なりに解釈し直すなら、自分のあるがままの等身大の状態を受け入れ、認める事が「自愛」である。一方で、今の自分をそのまま受け入れることが出来ず、他者との比較の中で自己嫌悪に陥ったり、あるいは「他人の美点に欲情」し、あこがれて執着することが、「自己愛」である。自らの今を認めることなく、他者との比較という相対軸の中でのみ自らを捉えようとするから、「自己愛」は不安状態の継続であり、「自愛」より振幅の幅が大きい。よって、「自己愛」の状態の人は、「自愛」の人と違い、もたれかかったり罵倒したりする相手に依存的である、とも言える。そのことを、安冨先生は次のようにも命題化している。
【命題11-4】 何かに強く憧れているとすれば、それはあなたが自己嫌悪に囚われていることを意味する
【命題12-1】 自己嫌悪は、他人(親や教師など)に押しつけられたものである
【命題10-2】 夢を実現する過程で得られる副産物が、あなたの糧になる
憧れと自己嫌悪は、不安に基づく「自己愛」のポジとネガの関係にある。そのどちらとも、他者との比較しか存在せず、しかも「他人に押しつけられたもの」でもある。実はゼミ生と議論をしていて、一番ゼミ生が困惑していたのは、「憧れ」と「夢」の違いである。「憧れ」は本当に悪いモノなのか。成長するためには、憧れは大切なのではないか、と。だが、この部分も、安冨先生はわかりやすく指摘している。
「魂がいるべき場所とは、言うまでもなく、この私自身です。そこを離れるというのは、つまり、自分が嫌になっている、ということです。自分の外部にある名声だとか都会生活だとかいった、どうでもいいものを『理想』として設定してしまい、それを手に入れていない自分は駄目な奴だと思い込まされている。そうすると、魂がふらふらさまよって、茫然自失してしまいます。それが『憧れる』ということです。」(同上、p150)
夢は、自らの内部から沸き出でるもの。それに対して、憧れは、他人やメディアから押しつけられたもの。こう整理すると、見通しがよくなる。自分の中でワクワクして、こんなことをしてみたい、と気づいたら思ってしまっている夢。一方で、憧れとは、今の自分への自己嫌悪に基づき、「ここじゃないどこかへ」を希求すること。しかし、どこか、はハッキリとは定まっていない。とにかく、自己否定と自己嫌悪の反転として、何でもいいから「理想」を設定し、それへ憧れて茫然自失になっていること、を指す。よって、「憧れ」だけでは、何も始まらない。一方で、夢とは自らの中から湧き出すもの。それに向けて一歩一歩成長する中で、自らの個性化に向けた道が進み始める(そのことは、少し前のブログで触れた)。だから、その夢が実現したかどうか、には関係なく、「夢を実現する過程で得られる副産物が、あなたの糧になる」のである。
さて、この補助線があると、「自愛」と「自己愛」の違いが見えてくる。それを、僕自身は今、イタリア語学習で実感している。
前回のブログでも触れたが、イタリアからの帰国後に始めたイタリア語文法学習が、途切れることなく毎日続いている。大学生の時にドイツ語学習に失敗した記憶があって、「どうせ」「むりだ」と思い込んでいた。だが、それは「英語以外の外国語がペラペラしゃべれる格好いい人になりたい」という憧れと、その反転としての、「俺には語学的才能がない」という自己嫌悪という「自己愛」の枠組みに埋没していたからであった。そのことに気づいた今、「自己愛」では語学は身につかない事も痛感する。なぜなら、憧れも自己嫌悪も、つまり「自己愛」には、ワクワクする学び、や、それを喜んで継続・反復しよう、という動機と実践に欠けているからである。自らが行動や努力を主体的に我が事として引き受ける、という自発性と有責性が、「自己愛」には欠けている。
「自己愛」に基づく他者への憧れと自らへの自己嫌悪、は、「どうせ」「むりだ」「しかたない」という「出来ない100の理由を並べる」動機にはなっても、「出来る一つの方法論を徹底的に模索する」ことにはつながらない。だが、「出来る一つの方法論の模索」とは、「自愛」に基づく夢の実現に向けた、自らのメタモルフォーゼのプロセス(=つまりは個性化)そのものである。
ながーい前置きになったが、今日一番論じたいのは、表題にも書いた精神医療における「自愛」と「自己愛」の話である。だが、別に臨床における「自愛」と「自己愛」の違いを語りたいのではない。今日ここで議論の遡上に上げたいのは、精神医療構造の「自愛」と「自己愛」の問題である。端的な問いで書くと、
・我が国の精神医療は、自己嫌悪と憧れに基づく「自己愛」の枠組みから抜け出ていないのではないか?
・脱精神病院というのは、精神医療の従事者が「自愛」に基づく「個性化」を果たす上で、必要不可欠な過程ではないか?
という二点である。この問いを一つにまとめるなら、「取るべき責任と取ってはいけない責任」をごっちゃにしていませんか?となる。
以前のブログにも書いたが、精神医療が対象として扱うのは「生きる苦悩」が最大化した(しつつある)人々である。幻覚や幻聴、妄想や問題行動という形で先鋭化した何かの背後には、この日本社会の中で、組織や家族の中で、他者との関わり・つながりの中で、あるいは自分自身の存在そのものと向き合う中で、生きる苦悩がきわまり、自分ではコントロールできず、にっちもさっちも行かなくなった、という背景がある。以前は、その「生きる苦悩」の最大化の表現手段としての「問題行動」に対して、「縛る・閉じ込める」という方法論しかなかった。だが、20世紀の中庸以後、そこに「薬」というものが登場し、制圧可能に見えた。
このことを、一般医療と精神医療の比較軸で並べてみるとわかりやすい。精神医療は、一般医療と常に「比較」して、一般医療ほどの「エビデンス・ベースド」になっていない事への自己嫌悪に陥っていた。逆に言えば、一般医療に近づきたい、という「憧れ」があった。それが、生物学的精神医学への過剰な傾倒や、脳科学への絶対帰依とも言えそうな信仰につながっていく。ドーパミンの動きに作用を及ぼせる薬があれば、きっと行動化は収まるはずだ、と。だが、この推論には、この生物学的な発想が主流を極める一般医療への憧れと、そこに近づけていない精神医療への自己嫌悪に基づく、「自己愛」の構造の部分があるのではないか、と。
繰り返しとなるが、精神医療が対象にしているのは、「生きる苦悩」に向き合うことである。この際、重要で当たり前なことを書くが、「生きる苦悩」とは、「この社会の中で生きる苦悩」のことを指す。脳の気質や機能という生物学的な領域で収まることのない、特定の時代、文化、社会、組織、家庭環境・・・に育つ中で極大化した「生きる苦悩」である。それを、生物学的な視点のみで捉えることに、そもそも捉え方の問題性や限界がある。もっと言えば、「生きる苦悩が最大化した人への支援」に、精神科医が出来る事には限界がある。
薬や精神療法で、その「生きる苦悩」が収まる部分も、もちろんある。その意味では、反-精神医療、つまり精神医療を全否定するつもりはない。でも、精神科医が出来る事には限界が有り、投薬や精神療法以外のことも、「生きる苦悩」に寄り添う支援には必要である。つまり、精神科医が出来る事には限りがある、という自らの限界性に気づく事。この自分のあるがままの等身大の状態を受け入れる、という意味での「自愛」が、今の日本の精神医療に欠けている部分ではないだろうか。だからこそ、イタリアやアメリカのような、脱精神病院やACTのような動きを見ても、「あれは日本には無理だ」「どこかに重病者が隠されているに違いない」「ホームレスになるはずだ」と「出来ない理由」ばかりを探しているのではないだろうか。
日本の、特に民間精神病院の経営者医師に問われているのは、自らが取れない責任まで取ろうとして入院患者を囲い込んでいる、という等身大の事実に向き合うことだろう。この、ありのままの自分を認めること(つまり「自愛」)が出来ないと、いつまでも自己嫌悪と憧れの「自己愛」モードから抜け出せない。政治家が悪い、とか厚労省が悪い、とか、地域の反対運動が大変だ、とか、「出来ない100の理由」を並べて、囲い込みの悪循環に嵌まる。だが、それは本来民間病院が「とるべき責任」を超えている。「取ってはいけない責任」を担わされているのである。
精神医療は、「生きる苦悩が最大化した人々」への、寄り添う方法の、一手段として機能はしている。これは統合失調症や躁鬱病だけでなく、発達障害や依存症にもあてはまるだろう。だが、精神医療「のみ」が役立つのではないし、精神医療が全能だと考えることは、「自愛」ではないく、「自己愛」の思想である。
イタリアで見たチームでの実践は、日本で言うところのチーム医療という枠組みも超えていた。ある利用者が、何らかのトラブルを抱えているとする。すると、その利用者に対して、医師は精神医学的な所見を述べるが、それに対してナースやOT、ソーシャルワーカーが、別の視点から別の見立てを述べる。コメディカルは「医師の指示の下」という呪縛には嵌まっていない。生活場面で生じたその人の生きる苦悩の最大化場面に対して、互いの専門性の観点から、どういう寄り添う支援が出来るのか、を議論して、方針を定める。もちろんそこには、本人の意見や考えが第一義的に尊重される、という前提もある。
精神病院だけで責任を取ろうとしない。医者が最終責任を全て引き受けようとしない。でも、無責任ではない。医師も看護師もコメディカルも、お互いの「取るべき責任と取ってはいけない責任」を自覚し、その中で、最大の努力を果たそうと連携する姿であった。これは、全能感への憧れや、その反転としての自己嫌悪といった「自己愛」とは真逆の、等身大の自分自身の出来る事を追求し、出来ない部分は多職種で連携する、という意味での「自愛」の思想に基づくチーム支援であった。
個々の専門家が、本当に自らの技量を磨き、個性化を果たして行くためには、まず自らの限界性を知る必要がある。だが、我が国の、特に精神病院の現状は、その自らの限界性を見ることなく、患者さんを病院の中に溜め込んで、パターナリスティックに囲い込み、医療化することによって、憧れと自己嫌悪に基づく「自己愛」を育み続けてきたのではないか。だからこそ、入院患者が治らないということに自己嫌悪して、ますますその現実を直視せず、患者を溜め込み続けているのではないか。それが、人口比で他国の5倍以上の入院ベッド数を持つに至ったのではないか。そして、今進行しているのは、従来の入院患者が入院してくれないから、と、認知症患者を精神科病床に穴埋めすることによって、自らの自己愛を増殖させよう・生き延びさせようとする努力ではないか。
安冨氏は、自己愛について、こんなことも書いている。
【命題4-1】 自己愛は、他人を犠牲にする
【命題4-2】 他人を愛することは、自己愛の否定による
「生きる苦悩」が最大化する中で、精神医療に救いを求めて来る人々。その人々を「犠牲」にして、憧れと自己嫌悪の手段として収容や囲い込みを行うのは、自己愛型の精神医療である。今、精神医療に求められている質的転換とは、その人々の「生きる苦悩」に寄り添いながら、精神医療に出来る事には限りがあることを、率直に認めること。その上で、元患者や家族、行政や地域の人々も含めた、医療保健福祉の枠を超えた広い支援チームをつくり、その「生きる苦悩」を抱えた人に寄り添いたい、と希求すること。このような、自己愛を否定し、患者の真の個性化や自己実現を希求するという「他人を愛する」姿勢を持つ「自愛」の存在となること。
抽象的に書いたが、日本の精神医療の構造に求められる質的転換とは、この部分が大きく関わっていると感じる。そして、精神医療に携わる人々も、憧れや自己嫌悪ではなく、脱精神病院や地域精神医療の実現といった、夢のある精神医療を実現する過程に、真剣に関わって欲しい。そう、強く感じる。

まず、自分から変わる(連作4)

ずいぶん久しぶりのブログである。

海外に出かけている間は、エアポケットや真空状態のように、ぽこっと予定があき、開放的になり、楽になる。だが、直前まで仕事を根詰めたり、帰ってきてから溜まっている雑事に格闘するうちに、旅に出かける前の日常的世界に逆戻りする。それが、これまでのパターンだった。
だが、今回のイタリアの旅の後、もしかしたら少しだけ、それまでのパターンと変化が生じ始めているのかもしれない。それが、Io studio l’ italiano! そう、前回のブログで書いて以来、イタリア語の勉強が進んでいるのである。
正直、続くかどうか半信半疑だったので、自分自身が本当にびっくりしている。というのも、大学の第二外国語で、カントやヘーゲルやウェーバーを原書で読めたらかっこいいな、と、そもそも日本語でも読んだことがない哲学者・思想家への形だけの憧れでドイツ語をとって、本当に苦労した失敗の記憶が大きいからだ。そもそも、あのころは、やっと終わった受験勉強の反動で、しっかり勉強したい、という意気込みもなく、そしてドイツ語世界に対して具体的な願望もなかったから、まったくご縁がなかったのかもしれない。
さらにいうなら、今から8年前には、スウェーデンに半年も住んでいたのに、スウェーデン語は本当に挨拶程度しか出来ない。今から思えばイエテボリの語学学校もあるはずだし、そこに通っていたら、もっといろんなやり取りが現地の人とでき、そこからネットワークが広がったのかもしれない。だが、あの当時、とりあえず半年間で調査の成果をあげることに必死で、かつ「スウェーデン語が出来る日本人の福祉研究者はたくさんいるから、僕がスウェーデン語を学んだってしょせん・・・」と、思い込んで、語学学習に蓋をしていた。いや、そう思い込んで、怪しい英語(ブロークン・ぐろーびっしゅ?)でとにかく課題と向き合うことに必死だった。妻と二人、初めての海外生活で、サバイバルに必死だったと思う。
そういう苦い経験が重なるなかで、「英語を何とかこなすことは出来るかもしれないが、他の言語を僕は獲得するのは無理だ」と思い込んでいた。
だが、今回のイタリアでは、「Si puo fare! (やれば、できる!)」のアイデアをたくさんもらって帰ってきた。極端に言えば、ねじが一本、外れてしまった。
このブログで何度も書いてきたが、僕は「どうせ」「むりだ」「しかたない」という壁と向き合う機会が多い。たとえば、金曜は入所施設の職員労働組合に呼ばれて講演をしたが、そこでも「改革なくして改築なし」と仰る労組の方々に対して、「そもそも改築したら、入所施設をなくすことは出来ないのではないですか? もともと施設ありき、という発想そのものが、どうせ重度の知的障害者は地域生活は無理だ、しかたない、という思い込みに基づいていませんか?」と問いかけていた。
前回のブログでも述べたが、イタリアから帰国して感じるのは、日本はやはり、価値前提の問いかけに関しては「どうせ」「むりだ」「しかなたない」と、問いを発しない(=所与の前提とした)上で、その価値前提の上で、漸進的な変化をもたらそうとしているような気がしてならない。たとえば、入所施設の話でも、いかにそこでの待遇をよくしようか、という漸進的改善については、労働組合の皆さんは必死になって考えている。でも、それは「入所施設は今後も必要だ」という価値前提を所与の前提にしたうえでの考えである。この前提自体を疑い、「やればできる」精神で変えていこうとするのか、と言われると、しり込みする人が少なくない。そして、実は価値前提への問いとは、エネルギー問題や政治改革、社会保障改革など、私たちの生活全体に突きつけられている課題である。
にもかかわらず、価値前提については「どうせ」「むりだ」「しかたない」と蓋をして問わずに、小手先の技術論的課題だけで「国論を二分する」と言わしめる問題がどれほど多いか。消費税の増税、原発の再稼動、政界再編などの論点を巡っても、価値前提については問わずに事象や出来事だけを問うているので、そのときの気分や空気で流される議論が展開されている。だが、出来事の背後にあるパターンや構造、それを突き動かす価値前提をも見抜いて、「本当にそれでいいの?」という問いを発しないと、結果的に「井の中の蛙」のようなむなしい議論の枠の中から出れないのではないか。マスコミで報じる政治家や官僚の動向、だけでなく、「街の声」を聞いていても、あまりに空気に基づく小手先の感想が多く、またそれを選択的に取り上げるマスコミも少なくなく、うんざりしてしまう。
そして、それを「○○が悪い」と他責的にすごしたくもない。とはいえ、僕自身が大きな政治的課題に、他責的にではない形で今すぐにコミットするだけの準備も心構えも出来ていない。そんな中で、自分から出来る、自分の中での変容とは何か。それが、冒頭に戻ると、イタリア語の学習なのである。
他人に「どうせ」「むりだ」「しかたない」と諦めるな、と訴えている人間が、そもそも自らの第二外国語に関しては、その諦念を「しかたない」としていませんか、と。それって、自己矛盾ではありませんか、と。
もちろん、「バザーリアの実践をイタリア語で読みたい」というのが、最大の動機であることに間違いはない。でも、それだったら、ノーマライゼーションの原理について、スウェーデン語のニィリエの文献を読みたい、という気持ちはなぜ沸かなかったのか。あの時と今の違いはおそらく、知識としての学びと、実存に結びつく学びの違い、かもしれない。価値前提を問う現象学的精神医学を、トリエステ語と言われるバザーリアの論理を読み直す中で体得したい。それを通じて、自らの、支援枠組みの、そして日本社会の価値前提を問い直す論理を強固なものにしたい。そのためにも、まずはイタリア語の文法をきっちり身につけたい。
今回、そういう具体的な目的がはっきりしているから、語学学習の戦略もぶれない。イタリア語を学ぶ前に『外国語上達法』(千野栄一、岩波新書)『わたしの外国語学習法』(ロンブ・カトー、ちくま学芸新書)などを読んでみたが、これらの本に書かれていたのは、
・文法を、単に暗記するのではなく、法則性を理解し、日本語とどのように違うのか、を意識して学ぶと頭に入りやすい
・反復こそ、忘却に打ち勝つ最大にして古典的な方法
・週に10~12時間の学習時間を確保すべし
ということであった。
そこで、これらの原則に則って、イタリア語の文法書を7月末に終わらせる目標を立てて、取り組み始める。CDもipodに取り込んだ上で、出張する日は移動の電車内で、普段は朝に原則1コマ分、テキストと向き合っていく。男性名詞と女性名詞、あるいは冠詞の変化、と聞いただけでドイツ語の悪夢を思い出しそうになるが、上記のようなビジョンが明確なので、三日坊主にならずに、進んでいる。そして、こうやってブログに書くことで、ますますイタリア語学習が不退転になるように追い込んでいる。(なので、僕に今度あったら「続いている?」と尋ねてください(笑))
今のところ、規則動詞の変化あたりまでは、非常に順調に、楽しく学べている。これが時制の変化あたりで躓くのか、そのままスルッと文法書を越えられるのかは、わからない。でも、自分の潜在的な可能性が見開かれるような、そんなワクワク感が、現時点では僕の中で渦巻いている。その渦の勢いをとめてしまわないように、「やれば出来る!」の精神で、まず自分自身から変わることが出来ないか。そして、この一見すると非常に個人的で、デタッチメントに見られる内発的な穴掘りも、その穴を掘り下げ続けていくうちに、どこかで広い社会とのアクセスが出来る場面があるのではないか。他責的に陥ることなく、僕の中での閉塞感を越える突破口は、このイタリア語学習の中にあるのではないか。そんなことを夢見ながら、今日もこつこつ参考書に向かうのであった。