「箱の外に出る勇気」

表題のフレーズは、スタンフォード大学の別府晴海先生の名言である。以前のブログでもご紹介したが、改めて、ご紹介する。

「新しい概念を創出することが『箱の外に出る』ことだと思います。『箱の外に出る』ことは必ずしも生産性のある創出にはなりませんが、『箱の外に出る』勇気が、学問にはいると思います。英語でもthink outside the boxと表現します。『自己の呪縛を乗り越える』と同時に、『(学問上の)常識(ドミナントストーリー)の呪縛を乗り越える』ことだと私は理解しています。」(東洋文化92号、p12)
この「箱の外に出る勇気」は、学問だけで無く、日本社会のあちこちで必要とされている勇気だな、と感じている。
例えば、いじめ問題について。
ふと、ツイッターを読んでいて、ある知人が昔いじめられていた、という呟きに接した。その時、彼女は「窓際のトットちゃん」が、自分に自信を持ち続けるためのよりどころだった、と。その気持ち、僕にもよくわかる。
僕もトットちゃんは、貪るように何度も何度も読み返した。いつの間にか、その本は実家からも無くなっていたけれど、それはその本が必要なくなるくらい、僕の心の中に刻み込んだからかもしれない。トットちゃんは、言わずもがなの黒柳徹子さん。そのたぐいまれな才能も、最初の学校では「不的確」と診断されていた。窓の外のおじさんに呼びかける、絵を描いたら画用紙をはみ出して机にまで書き出す。こういう「状態」を見ると、今ならすぐにでも「○○障害」「○○病」、とラベリングがされるかもしれない。
でも、トットちゃんは違った。自分を丸ごとうけとめてくれるトモエ学園や小林先生がいた。(そう言えば等々力渓谷という言葉はトットちゃんで覚えた) トットちゃんの行動は、逸脱でも問題行動でも何でもなく、丸ごと受け止められ、みんなからも祝福され、そして愛された。その経験が、トットちゃんの根底的な生きる自信につながり、やがて大スターに育っていった。
この話を重ね合わせながら、そう言えばトットちゃんの世界に浸っていたのは、僕が「箱の外に出る勇気」を持ち合わせていなかった、小学校5,6年生の頃だったな、と思い出す。
あの頃、僕は毎日が本当につまらなかった。毎日が嫌で仕方なかった。マンションの11階に住んでいたのだが、「ここから飛び降りたら楽になれるのだろうか」とばかり考えていた。僕は、クラスの中でいじめられていた。
「ここじゃないどこか」への憧れ。それは、狭いクラスという世界内に閉じ込められ、そこで自らが肯定されず、毀損され続けることへの、大いなる反発でもあった。でも、当時10才のタケバタヒロシには、そういう「ここじゃないどこか」が、どこにあるのかわからなかった。あまり読書家でもなかったので、かろうじてトットちゃんを読み、桂川の河川敷を自転車でブラブラしながら、退屈な毎日、嫌な日々に倦んでいた。
なぜ今、こんなことを書いているのか。それは、今が、その当時の僕と比べたら比較にならないほど、めちゃくちゃ楽しいからだ。
3年まえに始めた合気道はやっと一級までこれた。次はいよいよ憧れの袴・黒帯の世界への挑戦。最近やっと様々な技の理屈が身体に馴染んできて、技が見えるようになってきて、すごく練習が楽しい。テニスも長らくお休みしていたが、うちのテニス部の学生コーチに教わったら、やっとサーブが入るようになってきた。イタリアから帰ってきて始めたイタリア語基礎文法の教科書は、7月末までに終える、という目標を達成できた。この夏は網笠山や甲斐駒ヶ岳の山登りにもチャレンジしようとしている。
と書くと、趣味の世界ばかりだが、仕事の世界も、楽しい。もちろん、義務的な関わりはゼロでは無いけれど、ゼミや講義の中身も、ここ数年、教えている僕自身の方がワクワクと楽しめている。研究も、単著用の原稿を書き終えた後にイタリアの精神医療改革の事を勉強し始め、社会を変える為の思想史を学び直そうと充実している。今日で講義は終わるけど、夏に研究したい課題は山ほどある。
こんな、仕事も遊びも、そして家庭環境も満足する日がくると、10歳のタケバタヒロシは想像もしていなかった。あの頃の記憶はほとんどなく、退屈そうに自転車でブラブラするか、ベランダや廊下から下を眺めて「ここから飛び降りることができるよなぁ」と考えていたイメージだけが強烈に残っている。そういう、「箱の中」の狭い記憶。
思えば、その後四半世紀かけて、ずっと「箱の外」を希求し、そこに「出る勇気」を持つために、試行錯誤してきたのかもしれない。小学校のクラスの中、という狭い狭い「箱の中」での権力関係や同調圧力。それが嫌で嫌で仕方なかった。でも、出る術をしらなかった。僕にとって、そこから脱出する術は、特に運動に対する苦手意識も強かったので、勉強しか無かった。中学校で出会った塾に救われ、塾長に対して議論をふっかけてもきちんと受け止めてもらった経験が、少なからぬ自信につながった。その塾で、議論が出来る仲間にも出会った。そして、高校、大学、と、京都市南区吉祥院という狭い世界以外の人が集う場に出かけた事により、僕の世界観、価値観は急激に広まった。予備校生の時、大阪の十三まで通ったことが、結果的に京都の呪縛(つまらん盆地根性)から離れるために大切だった。京都大学を志望したのに、センター試験で点数が足らずに阪大に入ったことが、その盆地根性から抜け出し、結果的に今、研究者になるための大切な条件だったのだから、不思議なものだ。
そうやって、徐々に世界観を広げる中で、自分自身の関わる日常世界や「世間」の狭さに気づき、その「箱の外」に拡がる世界の広さに驚き始めた。「箱の中」しか知らない人間にとって、その箱が何か、は問わないお約束になっている。「どうせ」「しかたない」と諦めの対象だ。だが、たまたま中学以後、自分自身が諦めずに変わるきっかけをもらえたから、承認される場を得たから、トットちゃんと同じように、自分の中で小さな自信が生まれ始めた。そこから、世界が変わり、気づけば今、甲府にいて、楽しい毎日を過ごせている。
大津のいじめ事件の報道は、ほとんど見ていない。だが、その繰り返される惨事に接していると、日本社会の「箱の中」の同調圧力の強さというものが、苦々しい記憶と共によみがえってくる。そんなしんどい境遇のただ中にいる人に、「大人になったら楽しいこともあるよ」なんて、無責任な事は言いたくない。でも、その自らの辛い環境が「箱の中」であると気づく事。そして、その「箱の中」から「外に出る勇気」を持てば、そして実際に外に出てしまえば、箱の中が実にちっぽけな、どうでもよい世界だったことに気づくのである。その、世界「間」移動を果たすことが出来たからこそ、今の学校教育という「箱の中」の構造的問題性が、やはり気になるし、ここは変えてほしいと思う。個々の教員や学生の問題では無く、これは管理教育とか、少人数学級に出来ない人員配置とか、そういう社会構造の問題である。
でも、その一方、今、しんどい思いをしている、四半世紀前の僕に向かっては、こう伝えたい。
「箱の外には、実におもろい世界が拡がっている。それを見つけるために、つまらん箱の中の流儀に縛られている必要はない。箱の外に出る勇気を持って、旅に出よう。そのために、本を読んだり、あるいは運動したりして、自分の中で、基礎体力・人間力をつけよう。そうして、嫌な時期が過ぎ去るのを待つのだ。嵐の中ではドタバタもがくより、今自分が出来る基礎体力・人間力作りをコツコツ積み重ねる方がいい。止まない嵐はない。嵐が止んだ時、船出すればいいのだ。死にたい、なんて考えていても、何も変わらない。自らが変わるための努力をする中で、嵐がやんだその一瞬のタイミングを捕まえ、脱出しよう。そのために、力をつけるのだ。」

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。