「沈黙と孤立」を超える支援とは?

僕たちは、想像以上に「常識」の眼鏡に拘束されている。特に、自分とは関係ない、と思い込んでいること、普段接していないこと、関心をこれまでもってこなかったこと、関わりのなかったこと、に関しては、常識や通念をそのまま当てはめて、「思考の節約」をする。あるいは、周りの人やマスコミが言う事を、何となくそのまま受け止めている。

つまり、自分が直接関わったり体験したこと以外は、イメージ上の世界、であり、しかもそのイメージは、検証も考察もされていない、「何となくそういう感じだよね」という先入観や偏見に基づいたイメージ世界である。別にそれで生きていくのに困らないなら、それでいい。だが、実際にその世界に関わってみたり、あるいは自分がその世界の当事者になってみたら、世間の常識や通念と全く違うリアリティにびっくりしてしまうケースもある。
例えば、精神病、ホームレス、自殺、ゴミ屋敷、犯罪者の更生・・・こういうカテゴリーは、どれにも「社会の落伍者」といった偏見やマイナスイメージがついており、かつ「自分はそうならない」と思い込みたい人にとっては、見たくもない現実である。また、昔から「自己責任」論や懲罰・排除の対象論、あるいは「仕方ない」「どうしようもない」という諦めのラベリングの対象でもある。「ああいう人って、どうしょうもないね。誰か何とかしてくれないかしら」と。「臭いものには蓋」の対象者となる。身内なら「恥」の対象と言われる。
だが、この常識や通念を打ち破り、そういう人たちに本気で関わろうという人たちもいる。排除や蔑視ではなく支援を差し出す事によって、人間の変容可能性に賭けようとする人たちがいる。今日はその人々の記録について書かれた、二冊の本をご紹介したい。
①『生活保護200万人時代の処方箋―埼玉県の挑戦』(埼玉県アスポート編集委員会編・ぎょうせい)
②『ライファーズ-罪に向き合う』(坂上香著、みすず書房)
①は、「生活保護受給者チャレンジ支援事業(アスポート)」を3年継続する中で、生活保護世帯に本気の支援を提供した埼玉県の実践記録である。この事業の中核を担う大山さんは大学時代からの知り合いで、PHP新書で以前『生活保護vsワーキングプア』を書いた著者としても知られている。今回、彼から献本頂いた。(ありがとうございます)
この本は、具体例がふんだんに盛り込まれ、非常に読みやすいし、かつ夢と希望を読後に持てる一冊である。生活保護世帯が急増する中で、福祉事務所の機能が限界を超えている。ケースワーカーをどれだけ増員しても、こまめな対応がしにくい。かつ、昨今、例の芸能人がらみの「生活保護バッシング」のお陰で、生活保護全体への世間の言われ無き非難の風も強い。そんな状況を変える為の処方箋が、この本には詰まっている。特に興味深かったのが、その変わるきっかけは、「この緊急事態に県も一緒にやりくぬのだ」と覚悟を決めて、全県をまとめて支援体制を構築した(p177)点であろう。今まで「自己責任論」で、事後対応に追われていた行政が、初めてこの問題に真正面から向き合おうとした、という点が、変わるきっかけだったという。
真正面から生活保護受給者の支援に関わろうとしたとき、まず初めに福祉事務所へのニーズ調査を行った。すると、現場のケースワーカーが困っていたのは、「就職斡旋や職業訓練受講などの就労支援」「住居を失った離職者の住宅確保支援」「「ひきこもり・ニートなどの児童・若年層の教育支援」の三つだった。この三つに共通することは何か。それは、規格化・標準化された仕事とは対極の業務である、という点だ。どれも信頼関係構築がないと、そもそも支援が始まらない。また、一度就労や住居、教育から「外れて」しまった人々の復帰支援はすごく手間がかかる。さらにはその方法論がマニュアル化されている訳ではなく、関わりの中で、何度も試行錯誤をくり返しながら個々人にあった方法論を模索するしかない性質のものである。一言で言えば、お役所的に考えたら、規格外の・標準化不能な仕事なのだ。ただでさえ、対応する件数が多い福祉事務所職員が、そんなきめ細やかで長期・継続的な業務をこれ以上抱える事が出来ない。そういうSOSのサインが福祉事務所から出されていた。
埼玉のすごいのは、普通こういう「行政の出来ないこと」は、身内の「恥」として表に出しにくいのに、きちんとそれを真正面から受け止めよう、としたところ。そして、自らの限界を知り、民間団体に「助けて下さい」と協力を依頼し、500人のケースワーカーが配置されている埼玉県全体で、新たに116人の民間の相談支援に携わる人材を「支援員」として活用したのである。
「アスポートの活動は、地域の善意を引き出し、それを丁寧に束ねることで成り立っています。生活保護受給者の支援は、今まで役所が担うものとされ、ある意味では一般の方々からは隔離されたブラック・ボックスの中で行われてきました。それを思い切って外に協力を求めていくことで、多くの方に生活保護受給者の現状を知っていただくことができました。その結果、多くの方が、自分には関係のない特別な世界として『無関心』だった生活保護制度に興味や関心を持ち、『自分にもできることがあるよ』と手をさしのべてくれています。」(p176)
つまり、これまでブラック・ボックスの中で、福祉事務所が「抱え込んで」、結局たらい回しにしたり、自己責任と放置していた案件について、「福祉事務所では出来ないことを、ノウハウを持つ民間の支援員チームに委ね、行政の取るべき責任と取れない(それが得意ではない)責任をわけ、役割分担をして総力戦で取り組んだ」点であろう。そしてそこには大山さん初め行政のワーカー達の、「生活保護の問題は自己責任論ではないし、支援を手厚くすれば、悪循環を好循環に転換出来るはずだ」という信念があると僕は感じた。
この循環性の転換については、以前ブログで考察したことがあるが、ちょっとだけ振り返っておく。
「悪循環から抜け出るためには、その循環のプロセスを含む循環性を認識することが重要である。そしてすべての循環性を否定するのではなく、別の方向へと出発するプラスの循環に入ることである。人が復讐から逃れるのは、マイナスの循環をプラスの循環に反転させることによってだけなのである。」(アンスパック『悪循環と好循環』新評論、p174)
「悪循環から抜け出るためには、その循環のプロセスを含む循環性を認識することが重要である」。この時、循環性の認識とは何を意味するか。それは、表面上見えている問題の背後にある構造に目を向ける、ということである。例えば、「ホームレスの人は、住宅支援をしても、なかなかうまくアパート生活が定着しない」「仕事の斡旋をしても、すぐに『出来ないから』と仕事を辞めてしまう」「母子家庭の子どもは無気力で勉強しようとしない」という問題。これを自己責任と片付けるのは、明らかに「思考の節約」である。そうではなくて、この表面上の「問題」の背後に、どのような「生きる苦悩」があるのか、に徹底的に寄り添おうとすると、違う論点が見えてくる。「ホームレスや無料簡易宿泊所での生活が長くて、計画的に生活する暮らしから長年遠ざかっていた」「以前の仕事をしていた時のトラブルや人間関係の不信を引きずっていて、些細な躓きでも自信を失ってしまう」「勉強に取り残された経験があり孤独だから、学校なんて行きたくない」・・・このような「循環のプロセスを含む循環性」が、表面的な失業・ホームレス・引きこもり、の裏側に存在している。そして、表面上の問題を排除・隔離・蔑視して終わり、とせず、その背後にある「悪循環構造」に目を向け、それを断ち切るための手厚い継続的な支援を行う、というのが、埼玉県の挑戦のすごさ、である。
こう書くと、「そんなことをするのは甘やかしだ」「自己責任ではないか」という非難の声も聞こえそうだ。ただ、そんな安易な「思考の節約」をせずに、立ち止まって考えてほしい。では、そうやって自己責任論で問題を放置して、この悪循環サイクルは止まるのか? むしろ、10年まえには75万世帯だった生活保護世帯が200万を突破したのは、リーマンショックや不況、だけでなく、何でも自己責任論として社会的関与を放置してきた悪循環プロセスそのものの構造的な問題では無いか。であるならば、行政が取るべき責任は、生活保護バッシングの事後対応としての保護費削減という懲罰的対応ではなくて、この悪循環プロセスそのものの「循環性を認識」し、「別の方向へと出発するプラスの循環」構造を作り出すことではないか。そして、埼玉県はその好循環構造を、ブラックボックスを開き自らの限界性を察知し、アスポート事業という官民協働の事業を作る事で、乗り越えたのではないか。そんな風に受け止めた。
この埼玉県の事業の根底にある価値観を、「当事者の変容可能性を諦めずに継続的に支援する」「スティグマや偏見、自己責任論に問題を矮小化しない」「対象者を孤立や孤独から救い出す」「信頼関係の構築が関係性を変える」という点にあるとすると、実はこの悪循環プロセスを変える「好循環」構築支援は、そっくりそのまま、犯罪者の更正支援という②の話につながってくる。
「犯罪者は罪を犯したんだから、処罰されて当然。被害者だって許せないはずだし、そういうロクでもない連中は、一生刑務所に閉じ込めておけばいい。」「やっぱり死刑をきちんと執行する事で、犯罪を許さない姿勢を知らしめることが重要だ」という常識や社会通念。これも、冒頭に書いた事に照らしてみるならば、出来事への感情的反応であり、「思考の節約」である。それはなぜか。犯罪者への厳罰化が、犯罪そのものの抑止力になっているか、を見なければいけない。生活保護行政の厳格化が生活保護受給者の抑止力としては不適切であることは、①の本でも描かれていた。それと構造的類同性を持つことが、『ライファーズ』の中で絵が描かれている。この舞台となる犯罪者の更生を目指す「治療共同体 Therapeutic Community(TC)」のアミティ。このアミティが従来の関わりとどう違うのか。
「アミティとそれらとの大きな違いは、単に問題行動を止めるのではなく、人間的な成長を目指すところにあるといえる。そこに欠かせないのが、人とのつながりだ。大半のレジデントたちは、ここにたどり着くまでの間に他者を傷つけているが、その以前に自らが深く傷つき、人間不信に陥っている。家族や親族との関係はとっくの昔に断たれ、友人や知人と呼べる人もほとんどいない。いたとしても、利益のために利用しあうような関係だ。自分への関心が薄く、総じて人生に投げやりだ。アミティでは、そんなレジデントたちが、自分や他者に感心を持てるように促すところからはじめる。」(p36)
ここでも、①と同様に、信頼関係の再構築が支援の全ての基本になる。アミティが行っているのは、免罪活動ではない。贖罪につなげる以前に、「自分への関心が薄く、総じて人生に投げやり」な犯罪者達に、再び「人間的な成長を目指す」希望を持ってもらうことである。こう書くと「甘やかし」という非難を受けそうだが、本当に罪を購うためには、その罪を直視する勇気を持たなければならない。牢屋に何年入れられても、牢屋で出来ることは、個人の自由を制限するだけであり、外的な規制は出来ても、内面の規制は出来ない。むしろ、これまで「自らが深く傷つき、人間不信に陥ってい」て、自己への信頼を全く持てない人間に、贖罪という最大級の自己との闘いに向き合えといっても、無理だ。アミティの創設者、ナヤ・アービターもこう述べている。
「問題に直面することは決して容易ではない。なぜなら、それは自分を問題行動へと駆り立ててきた、過去の記憶に向き合うことを指すから。自分につながる他者の声を繰り返し、繰り返し、耳にしなくてはならないから。それは、薬物やその他の暴力で蓋をして、感じないようにしていた『真の痛み』を感じることを意味するから。そして、自分の人生を取り戻すためにも、繰り返し、繰り返し、その忌まわしい記憶を語らねばならないから。」(p42)
このアミティた大切にしているのは、刑務所や街中で「サンクチュアリ(本音で語り合える安全な場)」を作ることである。絶望的な人間不信に陥り、その結果として一線を越えて薬物依存や犯罪を繰り返してきた人々。もう「どうせ」「しゃあない」と自暴自棄になっている人々。彼ら彼女らが「自分の人生を取り戻すためにも、繰り返し、繰り返し、その忌まわしい記憶を語」る場を提供すること。その中で、その人の変容可能性を信じている他者に出会うこと。また、実際に語る中で更正をしていった「かつての仲間」の変容場面に立ち会うこと。このような、同じような「生きる苦悩」の極まりを共有する仲間と語り合うセルフヘルプグループがあることで、頑なに現実を見ようとしない犯罪者達が、少しずつ心を開き、罪とも向き合おうとし始めるのである。
犯罪者が罪を重ね続ける累犯。この問題を、単に厳罰化で乗り切ろうとしても、切り札にはならない。むしろ、累犯という「その循環のプロセスを含む循環性を認識すること」が悪循環を抜け出すために、もっとも必要とされていることである。そして、それは刑務所の独房で接見禁止になって正座をしているだけで、その認識に到達出来るわけではない。
「沈黙と孤立が最大の暴力行為だということです。折れた腕はいつかくっつくし、血が流れていてもその上からバンドエイドを貼ればいい。歯が欠けたら入れ歯を入れればいいのですが、沈黙や孤立に即効で効く治療薬はない。それらは強く感情を傷つけ、深い心の傷を残します。」(p236)
悪循環構造を成り立たせているのは、「沈黙と孤立」である。そう語るのは、現在はアミティの母子支援プログラムのディレクターであり、自らも児童虐待・薬物依存・DVを経験し、累犯を繰り返していたがアミティで人生を取り戻したシャナさん。そんな彼女の言葉は、本質を鷲掴みにしている。①を読んでいても感じたが、ホームレスや離職者、引きこもりやニートの若者にも共通するのが、「沈黙と孤立」だ。さらに言えば、僕が関わってきた精神障害者にとって、最も苦しいのも、この「沈黙と孤独」である。それは、標準的な家族や友人関係から疎外・排除され、「豊かな関わり合い」の関係性を見失い(あるいは幼少期から持たず)、自分自身の生きる希望を持てなくなった(そもそも最初からなかった)人々の、生きる苦悩の根源にある。
ここまで書くと、以前に紹介したイタリア精神医療改革の先導者、フランコ・バザーリアの言葉との共通性を感じずにはいられない。
「病気ではなく、苦悩が存在するのです。その苦悩に新たな解決を見出すことが重要なのです。・・・彼と私が、彼の<病気>ではなく、彼の苦悩の問題に共同してかかわるとき、彼と私との関係、彼と他者との関係も変化してきます。そこから抑圧への願望もなくなり、現実の問題が明るみに出てきます。この問題は自らの問題であるばかりではなく、家族の問題でもあり、あらゆる他者の問題でもあるのです。」(ジル・シュミット『自由こそ治療だ』社会評論社、p69)
精神病、ホームレス、引きこもり、犯罪者、薬物依存者、ニート・・・これらはマイナスの属性であり、ラベリングである。私たちは、そのスティグマ化された強烈なラベルの虜になりやすい。でも、このラベル「ではなく、苦悩が存在する」という補助線を入れたら、全く違って見えてこないだろうか。<病気><犯罪><失業><ホームレス><引きこもり>というラベリングは、多くの人にとっては、他人事である。だから、「自己責任」と突き放せる。だが、「生きる苦悩」の「絶望的なアピール」として捉えると、僕やあなたとも地続きの地平にある、と認知転換される。僕やあなたも、様々な絶望的な経験を重ねる中で、生きる希望を失い、このような苦悩の最大化に至る可能性もある。であるならば、その人々の悪循環構造を理解し、どう抜け出す支援が出来るか、というセーフティーネット構築支援は「自分事」の課題となる。そして、そこで大切なのが、絶望に結びつく「沈黙と孤立」から救い出す支援なのである。
繰り返し書くが、このような支援は「甘やかし」ではない。むしろ、本当に安全・安心な社会を目指したいなら、困り者を隔離収容しておわり、ではなく、「沈黙と孤立」ゆえに「生きる苦悩」を最大化させた人に寄り添い、信頼関係を構築しながら、その人々の人間的成長を再び願う、息の長い支援をするしかない。でも、人の苦悩は、人が本気で寄り添う中で、確実に変容していく。それが、二冊の本に書かれていたことの本質であり、僕がイタリア視察以後、感じ続けていることである。隔離や排除という暴力行為ではなく、沈黙や孤立を超える為の、一人一人に寄り添うパーソナル・サポートを構築する体制作り。これは、様々な悪循環構造を乗り越える為に、高齢・障害・児童・生活保護・虐待防止・犯罪更正・・・などの表面的なジャンル分けを超え、「生きる苦悩」が極大化した人々への支援の共通枠組みとして、見ていく必要があるのではないか。そんなことを感じた。

「ひっくり返し」の醍醐味

気がつけば、3週間近くブログを放置していた。

この間、ツイッターにぶつぶつ呟く時間はあったのだが、ブログにまとめて議論する時間が取れなかった。授業がない「夏休み」だが、何だかその内実、めちゃんこ忙しいのだ。
ノルウェーから帰ってきた後、イタリア語の勉強を再開すると共に、バザーリアの英訳された論文集を読み始める。そのタイトルが、Psychiatry Inside Out、日本語にするなら「精神医療をひっくり返す」。確かに、既存の価値体系そのものをひっくり返す面白さがある。毎日10頁程度しか読み進められないが、やっと半分を超えたところ。その間に三重や東京や大阪への出張が入ったり、あるいは単著原稿のゲラが送られて校正をしていたりして、なかなか読み進められないが、とにかく現時点で気になる「ひっくり返し」の醍醐味をいくつか備忘録的にメモしておく。
現象学を学び、サルトルを手放さず、弁証学的な対話を続けてきたバザーリア。マルキシズムに親和的な事もあって、彼の文章はかなりの左派的な過激さを帯びている。が、深く読み込んでいけば、すごく真っ当な「ひっくり返し」の論理である。例えば「狂気」を議論しているとき、では「健康」って一体何だろう? 健康な人の中に狂気は潜んでいないのか?と問い直す。あるいは、障害者は生産能力が低いとして隔離収容の対象になるが、そもそも「生産性」って一体何だろう、と問い返す。劣っている、狂っている、不適応である・・・といった「逸脱」のラベリングに対して、そもそもその「逸脱」のラベルを貼ろうとする資本主義体制そのものの「狂い」や「不適切さ」を問いの主題とする。精神病者の暴力行為をとがめる資本主義社会の暴力性そのものを問いかける。私達の社会で「当たり前」「正しい」とされている事そのものに疑いの眼差しを入れる(call into question)。このあたりが、実に興味深い。
で、この社会での「当たり前」「正しさ」への疑いを持つ、という視点は、何も69年的な発想で時代遅れ、ではない。現代日本社会においても、実に必要とされている視点である。
ちょうど昨日は、某市役所での職員研修だった。福祉課だけでなく、商工や環境、土木課の職員も対象にして、「孤立死・自殺・虐待を防ぐために、市職員として出来ること」というお題で話をする。その中で、一番興味を持ってもらったのが、いわゆる「ゴミ屋敷」問題と「用地買収」問題の共通性だった。
「ゴミ屋敷」と「用地買収」の共通性とは何か。それは、異なる思惑を持つ人と、どのように共通の理解を構築し、変容可能性を模索するか、ということだ。たとえば、「ゴミ屋敷」の場合、近隣住民から市役所に対して「何とかしてほしい」という苦情が入る。あるいは、例えば道路や施設を作る際、用地買収に応じない家が一軒だけ残ると、建設が進まない。その時、「ゴミを捨てない家庭」「立ち退きを拒否する家庭」は、社会秩序に従わない、逸脱者、というラベリングを貼りたくなる。
だが、そのラベルを貼ってみたところで、問題は解決しない。それどころか、対応に当たる役所の担当者が、その相手にラベリングを貼って、斜め上からの目線で接している、ということは、必ず「逸脱者」とレッテルを貼られた相手に伝わる。すると、まとまるはずの問題でさえ、まとまらない。これは一体どういうことか?
以前、用地買収のプロのお話を伺ったことがある。その中で、今はやってはいけないけれど、当時のプロは、例えば絶対に土地を売らない、と頑なに拒絶する家庭には、日本酒の一升瓶を下げてご挨拶に伺っていた、という。そして、売って下さい、というのではなく、日本酒を酌み交わしながら、売ってくれない訳をじっくり伺うというのだ。ゴミであれ、土地であれ、そこにこだわりを持つからこそ、手放したくない。その「こだわり」を「変だ」とか狂っているとか逸脱している、と片付けず、その人らしいこだわりとして、その背後にあるその人の人間性、人生観、これまでのパーソナルヒストリー、それらにじっくりと耳を傾ける、というのである。そういう風に語ってもらう中で、少しずつ、その人の中でも何かが溶け始め、結果としてそこから解決策がじんわり産み出されることもある、というのである。
もちろん、これはどんなときにも解決する魔法の方策、ではない。でも、少なくとも「強制代執行」とか「強制入院」とか、警察権力を活用して強制的に排除する思考は、明らかに高圧的であり、「反ー対話」的である。問題が解決しないとき、それはどちらか一方が「逸脱している」「狂っている」「おかしい」のではない。実は、対話をする中で、単にそうやって排除する側、追い詰める側の方の矛盾や問題点が表面化することだってある。その時に、私達の社会の主流となる「正しさ」や「常識」そのものも問い直し、書き換えるような柔軟性を持ち、現場で必要な解決策に結びつけていくことが出来れば、実は「困難事例」とラベリングされるケースであっても、動き始めるのだ。そして、動き始めてみると、「困難事例」とラベルを貼っていた支援者側の「困難性」が、その事例への対応に析出されていた、なんてことも、少なからずある。
つまり、常識に従うことが正しい、という論理自体を「ひっくり返す」「問い直す」ことによって、その論理の持つ暴力性やイデオロギー性、あるいは抑圧的権力性そのものにも目を向ける事が出来るのだ。
ひとは、納得しないと、態度を変容しない。説得では、山は動かない。その時、納得出来ない人を「わからずや」と糾弾したり、縛ったり、閉じ込めたり、薬漬けにしたりしても、態度は変わらない。態度を変えられない、変えたくない、その根拠にこそ耳を傾け、共感する。その中で、変えたい社会と変わりたくない人の双方にある「歪み」も先鋭化される。その歪みの構造的問題をお互いが理解し、その中で、とにかく妥協できるポイントを少しずつ探る中からでしか、解決策は見いだせない。「ひっくり返し」の醍醐味とは、現象学のエポケーにも通じる、「常識的な通念を一旦括弧に括った上で、根本から問い直す営み」なのである。なぜこの人はゴミを溜めるのか、なぜ土地を売ってもらえないのか。ゴミや土地を通じて、その人が大切にしているもの、表現したいもの、信条としているものはなにか。そういう自分とは異なる世界観を排除せず、それを尊重する「ひっくり返し」の論理を、ご本人に寄り添う中で構築していければ、そこから事態を打
開する信頼関係も生まれてくるのではないか。
現に用地買収をしている、「ゴミ屋敷」への対応をしている、自治体現場の最前線で働いている人が、一番頷いてくれた場面であった。