書き手の存在感と覚悟

珍しく二日連続でブログをアップする。昨日のマスコミ報道に関するブログに関連して、毎日新聞の若手現役記者、蒔田さんが大変興味深い文章を書いている。蒔田さんは「難病カルテ」というご自身の連載の中で、取材対象者には必ず実名で出てもらっている、という。その理由について、次のように書いている。

「一つは、「難病」と聞くだけで依然、偏見を抱く人がいることへの無理解を解消し「病気を持って暮らす」ことが、後ろめたいことではないということを、新聞記事という場を通じて、病気を抱えている人に訴えかけたい、という思い込めていました。顔も名前も隠すことなく、公の場に出ていい、ということをその患者さんに託した、とも言えます。

また、難病患者さんの中には、外見からはその症状が分からなかったりするため、周囲から理解、受けるべき配慮が得られなかったりする。写真を付けることで、「普通」に見えている人が抱えている状況をできるかぎり伝えたい、という意図がありました。」(蒔田備憲  実名掲載と被取材負担について~連載を通じて考えたこと )
その上で、メディアの実名報道問題について、このような視点を投げかけている。
「重要だと考えているのは、実名・顔出しについて、取材を受けることや記事が載ることへのリスクと負担について、被取材者にどれだけ説明できるのか、ということです。」(同上)
僕はこれを読んで、強く共感した。それとともに、研究者の書く研究論文と、新聞の共通点について考えていた。それが、「客観性への呪縛」、および「主語を消すこと」である。
新聞でも論文でも、「客観性」というものが大切にされている。科学論文では「反証可能性」「再現可能性」が重要視され、新聞では「事実をきちんと伝えること」が前提となる。また、論文では「私は・・・だと考える」という文体は原則アウトだ。事実や論理に語らせる文体なので、「・・・から○○と考えられる」という受動態になる。また、毎日新聞は以前から署名記事が多かったが、社説に代表されるように、無署名の記事が多い。さらには、署名入りの記事であっても、記者の個人的見解が全面に出される、というのではなく、「警視庁の発表によると・・・と見られる」などの文体がならぶ。
この新聞や論文の「文体」にこそ、実は不信感のまなざしが注がれているのではないだろうか?
一応これでも査読論文もいくつか書いているのだが、その際の事実の組み合わせには、明らかに僕自身の主観が入り込んでいる。新聞だって、書き手がどのように内容を切り取るか、どの角度から文章を眺めるか、には、主観が入っている。新聞はそれでも公平性を重視して、意見の分かれる論評については賛否両論を書いている。研究論文では、事実や論理の組み合わせに妥当性があるかどうか、査読者に評価される。だが、それであっても、消された「書き手である私という主語」は、どこかで厳然と残っているのである。それを、さも「無機質な事実」であるかのように語っているのである。
しかし、小沢バッシングや原発問題、あるいはTPPや尖閣問題など、その問題についての価値観が大きく分かれる問題については、さも「無機質な事実」であるかのように語っている、その語り口に不信感がもたれたのではなかったか? いっそのこと、記者や新聞社という「書き手」が、「私は○○と考える」とはっきり書いてくれたら、そっちの方がよほどすっきりするのではないか。「小沢はダメだ」でも、「原発は廃炉にすべきだ」でも「尖閣は国有化すべではなかった」でも、何でもよい(もちろん、各事象に関して、それとは逆の見解でも良い)。きちんと、「私は(わが社は)○○と考える」と書いたうえで、その根拠を説明する。そういう記事を読み比べる中で、読者は自分自身がどう考えるか、を判断する材料とする。それならば、ネット記事ではなく、紙の新聞を買い続ける価値があると思う。
では現実は、とみてみると、裏にある程度の意図や考えがありながら、表面的に客観報道の「ふり」をしているので、きわめてわかりづらいし、あいまいに見える。本当に事実のみを伝えているのなら、それはそれでわかる。だが、その事実をある角度から、こういう意図を持って伝えたいな、という「書き手の欲望」がありながら、、「私は○○と考える」とせずに、「・・・と見られる」などと推測的文体になってしまうため、いったい何のことかよくわからなくなってしまうのだ。
その点、蒔田さんの連載「難病カルテ」には、書き手である蒔田さんの姿が見える。彼は記事で「私は」とは書かない。だが、登場人物の姿に寄り添い、その方が社会の中でどんなに苦労をしながら、でも一人の人間として生きていこうか、を書こうという意思が、その文体には表れている。単なる「客観的表現」ではなく、その登場人物の内在的論理をつかみ、その人の目線から、病気のしんどさと生活のしづらさを書こう、という書き手の姿勢が見えているのだ。
先にも引用したが、蒔田さんは「実名・顔出しについて、取材を受けることや記事が載ることへのリスクと負担について、被取材者にどれだけ説明できるのか」が重要だ、という。その信頼感を構築する中で、取材をする側とされる側の相互行為が成立する。あくまでも新聞に出てくるのは、取材をされた難病の方である。でも、その人を連載の中で表現しようとする書き手である蒔田さんの主観も、この記事の中に盛り込まれている。お互いの主観や主体性が響きあう中で、記事という作品に仕上がっている。
実は、本来は論文だってそういう側面がある。特に社会学や社会福祉学のようなフィールドワークの論文であれば、そのフィールドで参与観察者がどのように感じたか、という感覚的な何かがあるはずである。それを、あたかも「彼らは・・・だった」と客観的に表現したところで、その観察をしている観察者である私の評価や視点が、どうしてもその中に入り込む。フィールド現場の対象者と、それを調査する私が、その現場で関わるのであれば、きっちりその関わりを主体的に研究者が受け止め、その中で、主体的にどのように切り取るのか、という覚悟が問われる。
阪神淡路大震災後の被災地では「調査公害」なる言葉がはやった。研究者が仮設住宅などにやたらめったらやってきて、信頼関係も構築されないうちに質問用紙を渡されて、自分の研究関心のためだけの調査が山ほ行われた、ということに対する批判である。これは、昨日のブログでも批判した、大きな事件や事故が起こるたびに、犠牲者やその家族のもとにマスコミが殺到して「お気持ちは?」と問い詰めるメディアスクラムと同じである。調査公害もメディアスクラムも、それが一過性であること、相手の論理を無視して取材者・調査者の論理だけが先鋭化すること、その後の姿をフォローもすることなく被取材者・被調査者には不信感と不満が残ること、が共通の問題である。つまりは、信頼感に基づく「お顔の見える関係」が構築されない、というのが、最大の問題なのだ。
個人の悲劇の物語、被災者のトラウマというデータ、などは、取材者・調査者にとって「おいしい」素材にみえる。それは、大して深堀しなくても、その劇的な表面だけで、一つの紋切り型のストーリが出来上がってしまうからである。でも、物語やデータの背後には、そうなってしまうまでの、紆余曲折や複雑な構造が背後にある。それらをすっ飛ばして、「うれしい」「悲しい」「つらい」「苦しい」「許せない」という表面的感情言語を捕まえて、それを表現したほうが、「わかったふり」ができる。そこに、いくつかの事実をまぶしたら、消費しやすい一つの物語が構築される。
しかし、感情の背後にある機微まで含めて表現するからこそ、物語が立体的に見えるはずである。なぜ「つらい」「許せない」のか。そうはいっても、それとは逆の気持ちに揺れ動くことはないのか。それを、何度も足を運んで、声に耳を傾けて、時には一緒に歩きながら聞き取るからこそ、ぽつり、ぽつり、と表面的な感情以外の何かが聞こえてくる。それは、語り手の「私」だけでなく、そこに具体的な手触り感のある、信頼できる調査者・取材者の「あなた」がいるからこそ、語れる何か、である。そして、その「あなた」に語る「私」の語りこそ、迫力があるのである。そういう意味では、いくら語り手の一人語りに見える文章であっても、そこに取材者・調査者の存在感が厳然としてある。だからこそ、一人語りが、立体的に立ち上がってくるのである。
新聞やモノグラフを読んでいて、そういう語りの背後にある取材者・調査者の存在感が立ち上がってくるものが、あまりない。それが、「客観性の呪縛」や「主語を消すこと」による、書き手の意図の去勢であるとしたら、随分不幸な出来事である。
僕自身は、初めての単著を書く際、悩んだ末、「僕」という文体を採用した。その理由を、こんな風に書いている。
「大学院生の頃は割と自らの考えをはっきりと述べていたが、大学教員になった後の僕の文体は、その発言に社会的責任が付与された(と自ら思い込んでいた)事もあり、なるべく内面の価値観を出さない文章にしよう、「正しい発言」をしようと、抑制的であった。いわゆる「正解幻想」に陥っていた。まして「僕」という主語は、個人ブログ上で用いることはあっても、論文や書籍などの公の文章で書く時には忌避していた。そういう意味で、僕自身は大学教員というものに文字通り「形(=エクリチュール)から」入り込んで、気がつけば自らの思考や感覚を縛る結果になっていた 。」(竹端寛『枠組み外しの旅―「個性化」が変える福祉社会』青灯社、p37-38)
論文を書く中で、いつの間にか「価値中立」の「正解幻想」に浸り、そこに呪縛されていた。客観的な「ふり」をすることに慣れていた。それが、自らの思考や感覚をも縛り、大学教員としての「正しさ」の虜囚になっていた。それをぶち壊したくて、あえて「僕」というブログの文体を使い、自分の頭でぎりぎり考え続けた。その中で、書き手の意図を去勢することなく論理を展開する中で、自分なりの「個性化」という大きな発見に出会えた。
だが、これは、単に主語を入れるかどうか、「筆者」と「私」と「僕」というどの主語を選ぶか、という問題ではない。文章の書き手が、その対象世界に対してどのように向き合い、どう取り組み、どう表現するか、という覚悟の表明が求められているのだ。その覚悟があれば、そこには主語がどうであろうが、書き手の主語がなかろうが、書き手はきちんと文章の中に存在している。そして、僕が新聞や論文を読んで心打たれる文章とは、どんな対象世界を論じるものであれ、書き手の存在感と覚悟がきちんと浮かび上がってくるものなのだ。
もちろん、僕だってまだまだ修行中の身ではある。だが、無味乾燥な、魂の抜けた文章だけは書きたくない。心からそう思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。