「人生の正午」にさしかかり

春は憂鬱。年度末のバタバタと、その後のどっと疲れも重なり、すっかりブログもご無沙汰していた。

こんなに桜が咲き、野菜も美味しくなり、暖かくなるのに、なぜ憂鬱なのか。精神病の友人・知人もみな、春はしんどい、とおっしゃる。寒暖の差がめまぐるしくかわり、自律神経のコントロールも効きにくい。気持ちは前向きでも、身体は冬眠モードからなかなか目覚めない。心と身体の一体感のなさ。そして、目まぐるしい気候の変動。そんなことがあって、調子を崩す人が多いと聞く。僕もそう聞いて、以前からの春先のしんどさを、やっと納得できた。爾来、春先はいつも気怠い、と納得している。
だが、タケバタヒロシ38歳の春は、その例年の気怠さ以外の、より大きな心身バランスの不全感を感じている。
分析心理学の祖、ユングは中年を「人生の正午」と名付けた。そして、「午前」にあたる30代までが、外向的・社交的な関係性や成熟を育む時期だとすると、「午後」の時期は、内向的・精神的な関係性や成熟を育む時期だと整理している。で、その「正午」にあたる中年が、外向から内向へ、社交から精神的関係性へ、と転換期にさしかかる時期である、と指摘している。これは理論的な話だけではない。彼自身の自伝を読んでいると、30代後半、フロイトと決別をした後から、彼は外向的な肩書き・成功を追い求めるのではなく、自らの内面世界との対決に迫られ、人生の危機にさしかかる。彼はその危機を乗り越える冒険の始まりにおいて、何故か住まいの近所にある湖畔の石を拾って、城や棟を作る建築遊びに夢中になっていった。
「私は自分自身の神話を見出す途上にあるという内的な確かさがあるのみであった。というのは、この建築遊びは、ひとつの始まりにすぎなかった。それは一連の空想をさそい出し、後になって私はそれを注意深く書きとめておいた。このようなことは私に適合していた。そして、この後も、何らかの空虚さに立ち向かうときは、私は絵を描いたり、石に彫刻したりした。そのような体験はすべて、成熟されかかっている考えや仕事のための入門の儀式となった。」(『ユング自伝1ー思い出・夢・空想ー』みすず書房、p250)
ユングにとって、建築遊びや絵描き、彫刻などの創作は、自らの内的な「成熟されかかっている考えや仕事のための入門の儀式」であった。つまり、内面の旅に漕ぎ出すための、入り口の役割を果たしているのである。その中で、彼自身の中で少しずつ「内なる声」がはっきりとしたイメージを持ち始める。この際、ユングは次のようなアプローチを用いて、対決していく。
「大切なことは、これらの無意識的な内容を、それらを人格化することによって自分自身と区別することであり、同時に、それらを意識と関係づけることである。これが無意識的な内容の力をとり去る方法である。それらは常にある程度の自律性をもち、それら自身の区別された同一性をもっているので、人格化するのはあまり困難なことではない。この自律性は、これらを自分自身と調和させるのに最も不都合なことであるが、無意識がそれ自身をこのような方法で示すという事実は、われわれがそれを取り扱う最上の手段を与えてくれることになっている。」(同上、p267)
ユングの言う「自分自身の神話」は、簡単に形作られる訳ではない。無意識のイメージは、茫漠で、しばしば不安感や空虚さ、焦燥感など、ネガティブな、しんどい気分で襲ってくる。ユングはそれらの空想を書き留め、やがてアニマという人格を与えることで、統合していく。彼は自らの中で蠢く、「ある程度の自律性をもち、それら自信の区別された同一性をもっている」存在を、アニマ(心の中での異性としてイメージされる何か)として「人格化」して、その「自律性」を促すことによって、自らの意識と区別し、「自分自身と調和させる」ことに成功し、やがて「集合的無意識」の発見からユング心理学の体系化へと、考えを進化・深化させていった。(アニマ・アニムスについて詳しくは復刊されたエンマ・ユングの『内なる異性』を参照)
そして、注意深く観察していると、このような「人生の正午」に、創作を通じて、自らの中での無意識のイメージを分化(differentiation)させていった存在は、彼以外にもいる。
例えば作家の森博嗣氏。彼は名古屋大学工学部の准教授だった39歳の時、『すべてがFになる』でデビューし、一躍人気作家になり、ご本人曰く「一生分稼いだ」とのことで、今は大学も作家業もやめて、もっぱら工作とガーデニングの日々を送っている。彼は最近のエッセーの中で、自らの物語形成に通じる何かを、次のように語っている。
「抽象的思考というものは、結局は、そういういう風に考えられる頭、面白い発想、新しい思いつきが生まれる『場』を作ることが第一であり、そういう『場』というのは、一朝一夕にできるものではなく、毎日毎日、自分の思考空間を観察して回り、具体的な雑草を見つけたら抜き、こんなのがあれば良いなというものの種を蒔く、そういう手入れを少しずつ続けてこそ、ゆっくりと、しだいに現れてくるものなのではないか。」(森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』新潮新書、p179)
彼自身は、模型製作にまとまったお金が必要だから小説を書いたらあっという間に売れた、とよく書いている。事実、そうなのだろう。だが、彼の模型製作も、あるいは小説執筆も、本業以外での『場』を作ることであった、とも感じられる。そこで、「毎日毎日、自分の思考空間を観察して回り、具体的な雑草を見つけたら抜き、こんなのがあれば良いなというものの種を蒔く、そういう手入れを少しずつ続け」るなかで、小説や、あるいは自らの「人生の午後」の歩み方を成熟させていった。そんな風に感じてならないのだ。
あるいは、また作家になるが、村上春樹氏だって、そういう部分があるように思う。
僕はたまに無性に彼の小説やエッセイを読み返したくなる。この春は、どうしても『遠い太鼓』が読み返したくて、単行本を持っているのに、また文庫本を買って読み直していた。これは、彼が30代後半から40にさしかかるあたり、ギリシャやイタリア、イギリスなどのヨーロッパ生活を続けていた時期に書いたエッセイある。僕もちょうど彼がこの作品を書いた時期と同じ年齢にさしかかり、その内容の断片断片が、すごく心に刺さってくる。例えば、『ノルウェイの森』を書き終えた、38歳の時の、こんな一節など。
「朝が訪れる前のこの小さな時刻に、僕はそのような死のたかまりを感じる。死のたかまりが遠い海鳴りのように、僕の身体を震わせるのだ。長い小説を書いていると、よくそういうことが起こる。僕は小説を書くことによって、少しずつ生の深みへと降りていく。小さな梯子をつたって、僕は一歩、また一歩と下降していく。でもそのようにして生の中心に近づけば近づくほど、僕ははっきりと感じることになる。そのほんのわずか先の暗闇の中で、死もまた同時に激しいたかまりを見せていることを。」(村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫、p250)
彼自身が小説を書く中で、「少しずつ生の深みへと降りていく」。そして、近づいていく「生の中心」とは、「死もまた同時に激しいたかまりを見せている」、生と死の交錯点でもある、という。そんなぎりぎりのところに、小説を書く中で降りていく。降りて行かざるをえない。その先にしか、彼自身が求める何かはないから。そこは「死の高まりが遠い海鳴りのように」震わせる危険をはらんでいるが、彼は降りて行かざるをえないのだ。
「人生の正午」。それは、そのような危険極まりない、無意識的なイメージや抽象的な思考の「場」に降りていき、そこでの世界と対決するかどうか、を、あなたにも、そして僕自身にも問いかけている、時間の踊り場。おそらくその際に、外向的・社交的な具体の世界にとどまる事も、不可能ではないだろう。だが、そのような「アンチ・エイジング」は、外見的にいくら取り繕えても、内面を蝕むばかり、僕はそう感じる。「人生の午前」と「人生の午後」は、物語のフェーズが違うのだ。そのとき、具体から抽象へ、外面世界から内面世界へ、意識のみの論理的・合理的世界から無意識の世界も含めた不合理な<生命>や<自然>の世界に、つまりは「生の中心」に、「降りていく」ことが出来るか? それが、問われている。
猪突猛進で、前ばかり向いて、突っ走ってきた。そんな僕も、そろそろと、「自分自身の神話を見出す途上にあるという内的な確かさ」と向き合い始めている。「人生の正午」が、春とともに始まった。そんな、2013年の春です。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。