計算量爆発による高熱?

最近、季節の変わり目ということもあり、風邪を引いているひとも多い。

僕もご多分に漏れず!?先週末から調子を崩し、月曜日には38.5℃の高熱を出して寝込んだ。幸い、中国医学が専門の主治医、中田先生にすぐに診て頂き、大量の汗を全身でかきまくるうちに、何とか火曜日には平熱に下がって、社会復帰できたのだけれど。
で、今回の風邪は単なる体調不良とかハードスケジュールではない。その原因をいろいろ探る中で、最近自らがうじうじ考えていたことに原因があることが、ようやく見えてきた。
「この先の人生、どうなるのだろう」
このような漠然とした将来への不安を抱く人は、少なくないと思う。就活をしている学生と日常的に出会う僕にとっては、「よくある話」である。で、それが学生からの相談だったら、「予言者でもない限り、誰にもわからないよ」「とりあえず働いてから考えてみたら」等と言っている自分がいる。だが、今回その主訴を抱えるのが、学生ではなく他ならぬ自分自身だったので、話は別になる。
少し前のブログで「人生の正午」について書いた。この頃から、自分自身の生き方の様々な局面で、何をどうデザインしていけばいいのか、が宙づり状態になっている。その中で、具体的に今後何をどうしていこうか、という判断に迫られた際、自分の選択決定に関する判断根拠そのものに疑いの眼差しを向け始め、それによって、堂々巡りをする自分がいることに、最近気づいた。そのしんどさを、夜ご飯を食べながら妻にボソボソしゃべっているうちに、ふと、ある言葉が浮かぶ。
計算量爆発!
これは合理的選択に関する計算量が爆発的に増大してしまう事に関する、安冨先生の慧眼である。少し、その原理をみておこう。
「いま、財2種類で4組の選択肢があった。これが3種類になると、2の3乗で8組の選択肢ができる。4種類なら16組、5種類なら32組。いわゆるねずみ算式に組み合わせが増える。10種類で1024組、20種類で104万8576組、50種類になると、
1,125,899,906,842,620組
なってしまう。(略)こういう具合に種類が増えると組み合わせが激増する事態を、『組み合わせ爆発』あるいは『計算量爆発』と呼ぶ。この膨大な数の組み合わせを、望ましい順にならべるには、さらに長い時間がかかる。」(安冨歩『生きるための経済学』NHKブックス、p30)
そう、合理的選択とは、一つ一つの選択をきちんと理詰めで行っていく、ということだが、そもそも一つ一つの振る舞いを理詰めで行い続けたら、生きていけない。たとえば目覚めから出勤までの間でも、「今起きるのか」「今日はどの服でいくか」「朝食は食べるか・食べるとしたら何をどれくらいか」」・・・など、ものすごい数の選択を無意識にこなしている。これは合理的ではなく自動化された選択である。だから、短時間で何とか身支度が可能なのである。これはルーティーン化された内容だけではない。たとえば、「どの洋服を買うか」「夜ご飯はどこで食べるか」「どこに旅行に行くか」「10年後に何をしたいか」など、非日常、あるいは将来に関する未決定のことを決めていくときも、全く同じように無数の選択肢の組み合わせが生じる。
で、僕は愚かにも、「この先の人生どうしたらいいのだろう」という合理的選択が出来ようもない課題について、一つ一つ考えを巡らせているうちに、無意識でも歯止めがきかなくなり、計算量爆発の渦の中に飲み込まれ、その身体症状化として高熱に至ったのではないか。そんな仮説を立ててみる。するとそれだけで、元気が出てくるから、単細胞というか、不思議なものである。
では、計算量爆発の事態にどう対処したらいいか。それも、安冨先生は、名著『生きる技法』(青灯社)の中で、以下のように構造化してくださっている。
【命題6】   自由とは、選択の自由のことではない
【命題6-2】  成功とは、可能な選択肢の中から、最善の選択をすることではない
【命題6-4】  無数の選択肢の中から、正しい選択をすることなど、原理的に不可能である
【命題6-7】  不可避の選択に直面しているなら、どれを選ぶかは問題ではなく、どのように選ぶかだけが問題である
【命題6-8】  自分の内なる声に耳を澄まして、その声に従う
【命題6-10】 自由とは、思い通りの方向に成長することである
合理的選択や最適な選択という「ワナ」にはまるな、そんなものはない、という喝破である。その上で、「どうすればいいのか?」と一つ一つの選択肢を合理的に吟味して追い込まれるくらいなら、「自分の内なる声に耳を澄まして、その声に従う」、という自分の感覚を信じた方が、よほどましである、とも指摘している。論理や「正しさ」に呪縛されるより、感覚に素直に選ぶ方が、何を選んでも、結果的にうまくいく可能性が高い、ということでもある。そして、「選択の自由」や「合理的選択」概念の虜になる限り、思い通りの方向に成長」することはできない。それって、「不自由」だよね、という結論である。
そう、この間の計算量爆発による高熱とは、自らの将来を、自分で不自由なものにしようとしていることに対する、身体を張った抗議活動だったのだ。
その当たり前のことに気づくと、なんだか靄が晴れたように、自分の中でのしんどさがスッと消えていった。もちろん、まだ風邪の後遺症は残って、多少ゼイゼイ言っているので、用心しなければならない。でも、「人生はコントロール可能である」という不遜で傲慢な立ち位置、その根拠なき立ち位置がもたらす漠とした不安、その不安を振り切ろうと「合理的選択」に走る事による計算量爆発という暴発、という自らの悪循環を、風邪や高熱は知らせてくれた。いやはや、きちんと高熱や身体反応の内在的論理を伺う必要がある、と気づかされたこの1週間であった。とほほ。

続 わかりやすく書くことの難しさ

以前、国の会議の委員をしていた時、知的障害の当事者にわかりやすい資料を、と求められていたことをブログに書いたことがある。

今回、その委員会でご一緒したNさんが、僕の本を読んでみたい、とおっしゃった。
じぇじぇじぇ!
僕の本は、「すごく面白くて読みやすかった」と言う人と、「途中でさっぱり訳がわからなくなった」という人に分かれるのだ。つまり、万人受けに読みやすい文章ではない、ということである。こまった。
もちろんNさんには、会議の時にチョコなどを頂いてお世話になっているので、本を進呈したい。でも、そのままお送りすると、「さっぱりわからない」とダメだしされそうだ。なので、以前の意見書と同じように、拙著をわかりやすくダイジェストにまとめたお手紙を添えてみた。以下、その本文の一部をご紹介する。伝わるといいのだけれど・・・。え、難しいって? ううん・・・。
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<この本は何を言おうとしているのか(目的)>
この本を書き終えて、一番伝えたいこと。それは「法律や制度は変えることができる。でも、本当に何かを変えたい、と思ったら、まずは自分が変わらなければならない」ということです。
<なぜ書こうとしたのか(理由)>
国の障がい者制度改革推進会議は、本当にかなしい結果におわりました。僕たちがまとめた「骨格提言」を、厚生労働省はほとんど無視したのですよね。あの会議では、厚生労働省の役人は、いねむりをしたり、きちんと話を聞いてくれなかったり、ということがありました。そして、会議の外では「こんな会議はまとまるはずがない」と悪口を言っているのも聞きました。また、会議が終わったあと、「あんなまとめが法律になるはずはない」「夢のようなお話であり、現実的ではない」という悪口も、たくさん聞きました。
僕は、そういう悪口や、うまくいかなかった現実が、すごく悲しかったのです。その理由は、自分が心を込めて作ったものが否定されたから、だけではありません。多くの人が助け合いながら作ったものを、中身をきちんと読んで考えることなく、「どうせ無理だよ」「できっこないよ」「今の世の中では、しかたないよ」と最初から決めつけて、否定していたからでした。全く言葉も中身も相手に伝わっていなかったことが、最大のショックだったのです。
僕は「どうせ」「しかたない」という言葉が嫌いです。その理由は、「どうせ」「しかたない」と口にする人は、自分自身のことを見下して、自分自身の「あきらめ」を他人に押しつけているような気がするからです。そして、国の法律や政策を本当に変えたい、と思うのなら、まずはみんなが口にする「どうせ」「しかたない」という「あきらめ」の言葉を、どうしたら減らすことができるのか、を考えなければならないと思いました。
そこで、この本の中では、僕自身が「あきらめ」ていたダイエットや花粉症の話からはじめました。僕は他人に「変われ」と言いながら、自分自身のダイエットは「どうせ無理だ」と「あきらめ」ていたんです。でも、その「あきらめ」が、自分自身の「思い込み」であることに、気づかされました。そして、ダイエットができて、体重が軽くなると、その「思い込み」もなくなった分、心が「自由」になったのです。その話を書きながら、どうしたら「どうせ」「しかたない」という「あきらめ」から「自由」になり、心が楽になるのか、も考えました。心を不自由にする「枠組み」をどう「外す」ことができるか。その「枠」を「外す」と、どんな新しい「旅」がはじまるのか。それを「枠組み外しの旅」の中では考えました。
<どんな内容が書かれているのか(あらすじ)>
5点ほどにまとめてみました。
【①自分の「思い込み」が、世の中が変わらない最大の理由】
「どうせ無理だよ」「社会のことは、変えられないよ」「しかたないよ」
こういった言葉は、「本当のこと(事実)」ではなく、自分の「思い込み」です。でも、自分の「思い込み」は、「外せないめがね」のように、自分自身にくっついています。そして、いつもその「めがね」を通してみることが「あたり前」になっていたら、いつのまにか、「思い込み」を「本当のこと」と間違えて信じてしまいます。
僕たちの社会で「どうせ」「しかたない」と思っていることの中に、このような「思い込み」を「本当のこと」と間違えて信じてしまっていることが沢山あります。「政治家が悪い」「役人はだめだ」「マスコミは一方的だ」など、「○○が悪い」という悪口を、多くの人は言います。でも、その悪口を言うひとは、「○○が悪い、と言う僕は悪くない」と思っているのです。そして、この「僕は悪くない」というのを、みんな「本当のこと」だと「思い込み」をしているのです。
その「思い込み」こそが、世の中が変わらない一番の理由だと僕は考えました。
【②僕とあなたが「学びあう」話し合いの中から、学びの「うずまき」ができる】
では、どうしたら「思い込み」という「めがね」を外すことができるのでしょうか。それは、違う意見を持つ人と「話し合い(対話)」をする中からしか、始まりません。
ただ、「話し合い」とは、自分の意見を相手に押しつけることではありません。たとえば学校では、先生が生徒に一方的に知識や意見を押しつける、生徒はだまってそれを受け止める、というやり方がされている時もあります。これは、「話し合い」ではありません。なぜなら、先生の考えの押しつけ、だからです。福祉でも、支援者が障害者に同じように押しつけている場合もありますよね。これも、「話し合い」ではありません。
では、「話し合い(対話)」とは何でしょうか。それは、お互いが「学び合う」なかから生まれるものだと僕は考えます。僕はあなたに、僕の知っていること、考えていることを伝える。あなたは僕に、あなたの感じていること、考えていることを伝える。その「やりとり」をする中で、お互いが自分の知らない、感じていない、考えていないことを、相手から学ぶ。そのような関わりが、先生と生徒、支援者と障害者のあいだに生まれたら、お互いがもっと楽しく「学びあい」成長できると思うのです。
そして、お互いが「学び合う」関わりの中で、学びの「うずまき」ができます。うずまきとは、いろいろなものを吸い込みながら、大きくなっていきますよね。一人で学ぶのではなく、僕とあなたが一緒に「学び合う」なかで、学びの「うずまき」が少しずつ大きくなっていきます。
【③学びの「うずまき」が、「どうせ」「しかなたい」を超える力を持つ】
学びの「うずまき」が大きくなると、それはやがて僕やあなたが持っている「思い込み」を吹き飛ばしてくれます。「どうせ」「しかたない」と「あきらめ」ていたことは、僕の小さな「思い込み」に過ぎない。でも、その「思い込み」を「本当のこと」だと間違えて信じていることを、「学びあい」の「うずまき」は気づかせてくれます。
ただ、人間は弱い生き物です。自分自身が「まちがっていた」と気づかされることは、楽しいことではありません。だから、「話し合い」が嫌いで、自分の意見を押しつける「いばりんぼう」の人は、「思い込み」を「本当のことだ」と言い張ろうとします。でも、もし僕やあなたが「話し合い」を大切にして、あいての意見から「学ぼう」とするならば、このような「いばりんぼう」こそ、バカバカしいと気づけます。その「気づき」が増えると、やがて学びの「うずまき」が大きくなり、その中で、「どうせ」「しかたない」と「あきらめる」こともバカバカしい、と気づけるのです。
【④一人一人の「思い込み」という「枠」を「外す」と、「自由」な世界が見える】
僕は、学びの「うずまき」が「気づかせてくれること」を、「枠組み外し」と名前をつけました。その意味は、自分自身の「思い込み」というのは、自分が作りあげた「勝手な枠組み」であるし、その「枠組み」は「外す」ことが可能だ、ということです。
たとえば、福島で原発が爆発して、多くの人が福島に住めません。そんな中でも、「原発がなかったら日本はダメになる」という「思い込み」を「本当のこと」だと言っている人は沢山います。でも、それは「本当のこと」なのでしょうか? 少しでも減らす・なくす努力をまじめにした後に言うのなら、「本当のこと」かもしれません。でも、「原発は今すぐ動かすべきだ」と言う人の大半は、少しでも減らす・なくす努力をしようとしているようには、僕には思えません。つまり、「どうせ」原発がないとダメだ、原発があるのも「しかたない」という「思い込み」を「本当のこと」と信じて、その「枠組み」から「自由」になれない人たちだ、と僕は思うのです。
もしあなたや僕が、意見の違う相手と「学びあい」をしながら、「気づき」を増やし、学びの「うずまき」を作ることができたら、「どうせ」「しかたない」という「思い込み」を外すことができるかもしれません。そして、その「思い込み」を外してみたら、いろいろなできそうなことが見えてきます。「どうせ」「しかたない」とその先を考えなかったことについて、「自由」に考えることができると、もっと別のやり方を思いつくこともできるのです。そうやって「思い込み」を外す・減らすと、少しずつ、生きるのが楽しくなり、「自由」が増えるのです。
【⑤「思い込み」を外して、「学びあう」中で、一人一人の「個性化」が進む。そして、自分が変わることによって、社会も変わり始める】
実は、この本を書いていて気づいたのですが、「社会人」と呼ばれる人の多くが、いろいろな「思い込み」に苦しめられています。「どうせ」「むりだ」とため息をつき、「あきらめ」ているのです。「あきらめ」の毎日って、ずいぶんつまらないですよね。楽しくないですよね。
本当に「楽しもう」とするなら、周りの人がどう言っている、とか気にすることなく、自分が学びたいことを、相手からきちんと学ぶことが大切です。その「話し合い」が「学びあい」になるなかで、自分が何を本当はしたいのか、ということが見えてきます。その「本当にしたいこと」を追求するのが、少し難しい言葉ですが「個性化」といいます。
人はもともと「その人らしさ(個性)」をもっています。でも、大人になるなかで、「その人らしさ」よりも、社会の「あたり前」を大切にするようになります。すると、他の人について行くことはできても、自分一人で進んでいくことが苦手になります。「学びあい」を通じて、自分自身の「思い込み」に気づくことにより、少しずつ「どうせ」「しかたない」という「あきらめ」から自由になれます。その中で、「その人らしさ」をもう一度、取り戻すことができます。それが「個性化」なのです。
そして、「その人らしさ」を取り戻すことは、実は社会を変えることにもつながっています。
一番さいしょに、「本当に何かを変えたい、と思ったら、まずは自分が変わらなければならない」と書きました。それは「自分が変われば、社会も変わるかもしれない」ということでもあるのかもしれません。
そんなこと、前から知っているよ!という声が聞こえてきそうです。いや、もしかしたら、「難しくて、何言いたいのかわからない」と言われるかもしれません。
僕は、自分の頭で考えて、文章にしてみて、やっとこの内容がわかりました。ただ、まだまだ簡単に言うことが、上手ではありません。本の中では、もっと難しくしか、書けませんでした。すいません。
長い文章を最後まで読むのは、大変だったと思います。読んでくださって、ありがとうございました。

1年ぶりの単著執筆プロセス

1ヶ月近くも、ブログに書く時間がとれなかった。

4月の後半は、講義やら学内委員会仕事やら、でドタバタ過ぎ去り、連休はうちの大学は幸運にも全部休みにしたので(近年15回授業必須の呪縛の影響でGW期間中も講義をしている大学も多い)、二冊目の単著となる予定の「権利擁護本」の序論を必死になって書いていた。
新たなテーマでまとまった何かを書くときは、深く自分の中に潜り込み、あるテーマに関して、これまで知っていること・考えてきたことを掘り下げて考え抜く中で、思いもよらなかった何か、に辿り着く。去年の連休も同じサイクルだったので、ちょうど1年前、人生初の単著となる原稿の初稿を書き終えた頃、ブログでこんなふうに書いていた。
『書いている自分自身にとって、「新鮮み」や「発見」のない原稿を書きたくない。でも、僕が持ち合わせている知識や元ネタには限界がある。それをないから、と新しい本を読むことに必死になったら、クイズ王的なトリビアとしての「新鮮な発見」はあるかもしれないが、内容的には面白くない。むしろ、「新たな発見」とは、これまで見えている景色を、どう新しく解釈できるか、ではないか。それは、新たな情報を探し続けるネットサーフィン的なものではなく、村上春樹流に言えば、「井戸を掘る」ように、所与の前提とされた世界観の奥底に潜む、誰もが知らない集合的無意識のような闇に潜り込み、その中から、自分でしかすくい取れない視点や考え方を掘り当てて、この世の光に照らし直すような営みでは無いか。そして、その営みこそ、内田樹さんは「前言撤回的」と言ったのではないか。』
これは、一冊の本を書き終えてみて、深く実感することである。
僕自身、「研究者」という肩書きに必死になって適応しようとしていた頃は、「クイズ王的なトリビア」に拘っていたのかもしれない。あるいは、「先行研究のレビュー」という「お作法」に雁字搦めになる、とか。実は、いままで権利擁護について書きためてきた論文集を出してもらえることになり、その序章を書こうと4月の後半から机の前に座っても、1週間ほど、固まっていた。その最大の理由が、この「お作法」や「トリビア」への無意識的こだわり、であった。まだまだ権利擁護について、Advocacyについて、知らないことは多いし、読むべき未読文献も少なくとも集めたものだけでも山ほどある。それを全部網羅して体系的に論述しないと何か言えないのではないか、と思い込んでいた。
ただ、ある時点で、「待てよ、読者はだれだ?」と問い直す自分がいた。
この本は、博士論文を取得するために書いているのではない。また、研究者向け、というより、ケアマネージャーや社会福祉士、PSWや行政職員など、権利擁護に日々関わる現場職員にこそ、読んでもらいたい、と思っている。であれば、そのような体系的な権利擁護やアドボカシーの理論的・概念的整理にエネルギーを注ぐ必要があるのか、を問い直した。確かに文献レビューをすることも、それはそれとして「新鮮さ」や「発見」があることは、僕も博論や査読論文を書く中で、多少なりとも経験している。だが、単著は、そのような厳密な科学的手続きの世界の枠組みに拘束されず、もう少し自由に、議論を展開できるはずだ。そして、権利擁護実践について伝えたいのは、現場を変えるための「武器となる知識」である。
また、前期のブログでも触れた、1年前に仲間に言われた次のフレーズも引っかかっていた。
『これまでの竹端論文を全て読んできたので、コアなファンの眼では「竹端論文ダイジェスト+新事例」という印象で、新鮮な発見が少なかったからかもしれません。もちろん、一般の読者にとっては、要旨明瞭で、竹端論文の美味しいとこ取りの論文だと思いました。』
実は上記の指摘は、とある原稿を書いた際に受けたコメントだったのだが、この時点で、「権利擁護」について、「縮小再生産になるくらいなら、原稿を書くのをやめよう!」、と決意した。そこで、これまで書きためてきた「権利擁護」についての原稿は一端横に置き、ここ数年続けてきた「魂の脱植民地化」研究を自分自身の実存にアクセスさせる中で、『枠組み外しの旅』という名の一冊に仕上がった。
で、結果的にこれまでの内容を捨てて、自らの「個性化」を先に探求してよかった、と、この連休、つくづく感じている。今年の連休に2万5千字ほど書き上げた、新たな単著用の「序章」では、「反-対話」から「対話」モードへの相互変容や、それを通じた「個性化」のプロセス、それを通じた「学びの渦」の形成などの『枠組み外しの旅』のコア概念を、権利擁護やアドボカシーの考察に注ぎ込むことが出来た。1年前に自分の中では「掘りきった井戸」は、これまで書きためて来たけれど、十分に掘り切れていなかった「別の井戸」を貫通させるために、非常に役立ったのだ。
「所与の前提とされた世界観の奥底に潜む、誰もが知らない集合的無意識のような闇に潜り込み、その中から、自分でしかすくい取れない視点や考え方を掘り当てて、この世の光に照らし直すような営み」までが出来たかどうか、は読者のご判断に任せるしかない。でも、自分の中では、近年地域包括ケア領域で盛んに「困難事例」と言われる「ゴミ屋敷」問題を主題として、その「ゴミ屋敷の主」がどのような内在的論理で世界を眺めているのか、をナラティブモードの知で再解釈する事から、「生きる苦悩に寄り添う支援」としての権利擁護課題を照らし出すことができた。その原稿を書く中で、「縮小再生産」ではなく、「前言撤回」的に、これまで考えてきたことを、別の新たな確度から光を入れて考え直すことができた。前回はユングの「個性化」論だったが、今回は木村敏氏の現象的人間学や臨床哲学を援用し、特に氏の初期作品から、大きな影響を受けながら、文章を書き進めた。
「枠組み外し」というのは現象学的還元だが、その現象学的還元の先にある人間理解、「病気」や「異常」な人という差別的見方ではなく「生きる苦悩」を抱えた人、という人間理解が、権利擁護の根本にある。今回の原稿を書く中で、深くそれを感じている。権利擁護は成年後見とイコールではない。成年後見は、権利擁護実践の大事な方法論の一つではあるが、その方法論が自己目的化している現実に、僕は違和感を持っている。なぜなら、あくまでも社会的弱者と言われる人の内在的論理や「生きる苦悩の最大化」に寄り添い、そこからエンパワメント支援を高めていくことこそ、権利擁護やアドボカシーの最大の醍醐味だからだ。その目的が薄れたところで、方法論が自己目的化することに、非常に大きな危惧を感じている。
・・・といったことも、新たに井戸を掘り直す中で、するすると言語化できた。
この連休で、何とか序論を書き終えた。あとは、掲載予定の原稿を、リライトする作業。これも時間がかかるだろうが、きちんと書き込み、訂正していかないと、リーダーフレンドリーではない。というわけで、まだしばらく原稿書きに没頭する日々だが、とにかく必死だった去年とは違い、このプロセスを「至福の時間」と思えるようになってきたのが、去年に比べての少しだけの進歩かも知れない。