自由と不自由

内田樹さんの武道論を読み直していたら、実に納得するフレーズが目についた。

「自由であるというのは、ひとことで言えば、人生のさまざまな分岐点において決断を下すとき、誰の命令にも従わず、自分ひとりで判断し、決定の全責任を一人で負う、ということに尽くされる。他人の言葉に右往左往する人間、他人に決断の基準を訊ねる人間、それは自由とは何かを知らない人間である。そのような人は、ついにおのれの宿命について知ることがないだろう。」(『私の身体は頭がいい』内田樹著、新曜社、p26)
一見すると、「不自由」の方が楽に思える。他人の言葉を参照軸にして、決断の基準も他人にお伺いをたてる。自分で判断する「重み」がない分だけ、負荷が弱い、と。現に、そのような理由で、自分で判断せず、判断や責任を他者になすり付けている人も少なくない。その上、そういう人に限って、右往左往したり、他者の判断がまずかったりすると、愚痴を言ったり、他人をなじったりする。すなわちそれは、「不自由」であることの表現だったりする。肩の荷を卸しておいて、他者に責任をなすり付けておいて、うまくいかなったからと言って他者をなじる。これは、ある種の自作自演、自らが招来した不自由でもある。だが、この枠組み自体から「降りる」決断をするのは容易ではない。
自由になるためには、「誰の命令にも従わず、自分ひとりで判断し、決定の全責任を一人で負う」というシンプルな三要件につきる、と内田氏はいう。この三つは実にシンプルであり、一見すると、すぐにでも実現可能に見える。だが、選択肢を吟味していると、「Aの分岐点の次はBで、これをどちらにいくかでCやDという選択肢が出てきて、そのどちらかを選ぶと次に・・・」と無限の選択肢を想像せざるを得ない。そのうちに、この前書いたような「計算量爆発」の罠に陥り、どう考えていいのが、自らが雁字搦めになってしまう。そうなるくらいなら、身近な他人という参照枠に寄りかかる方が、知的負荷は楽である。これは、僕のオリジナルな知見ではない。作家の森博嗣氏のあのフレーズを思い出す。
「『決めつける』『思いこむ』というのは、情報の整理であり、思考や記憶の容量を節約する意味から言えば合理的な手段かもしれない。しかし逆にいえば、頭脳の処理能力が低いから、そういった単純化が必要となるのである。」(森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』集英社新書、p42-43)
他者の言葉に右往左往する、というのは、その他者の言葉を聞かねばならないと「思い込む」ことから生じる。決断の基準を他者に訊ねるのは、自分より他者の判断の方が良いと「決めつける」ことから生じる。ともに、思考の節約をもたらす、過度な単純化である。
中途半端に頭がいい人ほど、端的に言えば「よい子」経験の長い人ほど、「長いものにまかれる」為に、自らの行動の準拠枠を他者に求め、その準拠枠に雁字搦めになることが、「よい子」の象徴であると信じる。実はそれは、他者への隷属でしかない、にも関わらず。
ではどうすれば、不自由から脱出できるか。これも森さんが喝破している。
「支配だと気づくことで、その傘の下にいる自分を初めて客観的に捉えることができる。それが見えれば、自分にとっての自由をもっと積極的に考えることができ、自分の可能性は大きく拡がるだろう。」(森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』集英社新書、p42-43)
自らの準拠枠を他者に譲り渡すことは、「思考の節約」なだけでなく、他者支配である。このことに気づけると、楽をしているようでいて、本質的には右往左往しているだけ、振り回されているだけ、という実態に気づく事が出来る。自らが振り回されている、支配されている、という現実に、まずは気づく事。それが出来れば、「その傘の下にいる自分を初めて客観的に捉えることができる」と森さんも言う。
だが、プライドだけが高い人ほど、自らの隷属状態を認めたくない。へりくつをつけて、その隷属状態に自ら進んで入っている、あるいは他者の参照枠に準拠せざるを得ない状態を「しかたない」「それしかない」という言い訳でごまかす。しかし、その自己欺瞞こそ、自らを不自由にしている最大の根拠でもあるのだ。
社会的立場や、世間の動向、を言い訳にするのは、「思考の節約」だ。「自分にとっての自由をもっと積極的に考え」、その結果として、「誰の命令にも従わず、自分ひとりで判断し、決定の全責任を一人で負う」ことが出来れば、不自由な他者の論理から自由になれるのだから、実はもっと楽になる。だが、その「本当の楽しさ(=自由さ)」こそ、人は忌避しているのかもしれない。そんなことを感じることもある。
日々、自らが自由かどうか、支配されているかどうか、を意識すること。これは、被支配の現実を認める、プライドが許さない現実認識かもしれない。だが、その先にしか、本当の楽しさと自由はないのだ。

動的プロセスとしての支援

最近、現場の人びとと勉強会を始めた。テーマは、コミュニティーソーシャルワーク(CSW)について。木曜日の夕方、ネタ本として用意したあるテキストの次のフレーズで議論が大きく盛り上がった。

「人びとが自分自身で行動するのを援助する(help them do things themselves)」のか、それとも「彼らに何かしてあげるために我々がいる(do things for people)」のか?
そして、現場のある支援者がぼそっとつぶやいた。
「うちの町では、住民活動って、お膳立てして、用意してあげるもんだ、というのが常識になっている」
なるほど、住民たちの自発的行為を促し・支えるのか、住民活動の「お膳立て」をするのか。この部分が、地域福祉を展開していく際の鍵となる部分なのかな、という感触が見えてきた。
「地域福祉」が政策的に重要視されて久しい。地域包括ケアシステムとか、障害者地域自立支援協議会とか、地域を巻き込んだ、住民参加型の地域作りの必要性を、国は政策誘導的に展開している。介護保険もこのままいくと財政破綻になるから、と要支援・要介護1の人への支援を縮小する案を提案している、という報道もある。地域の中での住民助け合い活動によって、軽度の要介護者のサポートをしてほしい、そのためには、地域活動を支えるコミュニティーソーシャルワーカーも増やして、地域作りも展開してほしい。そんな思惑がじわじわと感じられる。
で、僕自身は一昨年から、山梨県の長寿社会課の地域包括ケアシステムに関する研究会に関わらせて頂き、この問題について学びながら考えてきた。現場の地域包括支援センターの職員さんたちと議論しながら、山梨での課題を探っていた。また、3年前からは南アルプス市で、そして昨年度からは昭和町で、アドバイザーとして自治体や包括、社協の担当者たちと議論を重ねながら、その街の地域包括ケアシステムのあり方について、模索を重ねてきた。
もともと僕は、大学院時代には高齢者政策も学んだけれど、その後一応障害者福祉政策が専門になったので、しばらく高齢者政策から遠ざかっていた。なので、これを気に、国の報告書など読み囓ったけれど、どうもあまりしっくりこない。現場の人も混乱しているようだ。ならば、研究会のメンバーと一緒に作ってしまえ、ということで、山梨県版のマニュアルを「チーム山梨」で作ってみた。
おかげさまでこの「手引き」は、かなり好評なようだ。自治体や包括が何を考えたらいいのか、を「考えるヒント」になる、という。同時期に国の基金事業で出された地域ケア会議運営マニュアルの作成メンバーだった方からも、山梨の報告書はわかりやすい、とお褒めの言葉を頂いた。
で、長い前振りになったが、山梨の「手引き」を作るときに大切にしたのも、先ほどのポイント。
この手引き作成を通じて大切にした問いは、「人びとが自分自身で行動するのを援助する」のか、それとも「彼らに何かしてあげるためにこの手引きがある」のか、である。言い換えれば、支援を必要としている人・自治体が自分たちの力で考え行動していくのを支援するのか、ずっと支援者に依存する状態を作り出すのか? 以前から書いているフレーズを使えば、現場で「成功する解決策」としての「成解」を導き出すための支援をするのか、一律の「正解」を現場に当てはめるのか?
実は、ミクロの個別支援であれ、マクロの自治体レベルのシステム作りであれ、その支援対象者・自治体の「自発性」を引き出すエンパワメント支援なのか、あるいは「出来ない人・自治体の代わりに”やってあげる”」型の支援なのか、が大きく問われているのだ。
その際、どうも日本の地域福祉の教科書を読みあさっていても、なかなか「人びとの力を引き出す」という部分が強く出てこない。そこで、どうせなら、とイギリスのコミュニティワークの定評ある教科書を読み始めた。初版は1982年で、第三版は翻訳も出ているので、現場の人びとにはそれを読んで頂き、僕は第四版を読んでみた。で、読み進めるほどに、日本の教科書との本質的な違いが見えてきた。それは、イギリスのコミュニティワークは、あくまでも住民活動を自発的に組織化する支援をする、というのが大前提になっているのである。だからこそ、ある時点での撤退(Withdrawal)というテーマも出てくる。この部分を読んだ現場の支援者の中には、「撤退なんて発想はないよね」というつぶやきも聞かれた。
なぜ、撤退はないのか? それは、結局、住民活動も「事業化」された、ルーティーンワークの一つになってしまっているから、である。愛育会や民生委員活動も、出来た当初は地域課題に取り組むダイナミズムをもった活動だった。が、現在、そのダイナミズムを保持し続ける愛育会や民生委員活動は、どれほどあるだろう? 自治会の機能低下も叫ばれるが、以前からあるそれらの「住民活動」が、ミッションを問い直し、定義し直し、活動を再編することが出来ているだろうか? そのようなミッションマネジメントの支援に、行政が取り組めているだろうか? 何となくの年中行事をこなすだけの、事業継続支援に終始していないだろうか? それって、まさに「お役所仕事」ではないだろうか?
地域福祉とは、システム化してしまえばルーティーンでまわせる、静的なもの、ではない。その地域の人口動態の変化、社会資源の推移、キーパーソンのやる気、あるいは首長や自治体の姿勢の変化にあわせて、どんどん動いていく動的プロセスである。なので、山梨の「手引き」にも、次のように定義づけしてみた。
「地域ケア会議とは、自分の住んでいる地域でよりよい支え合いの体制づくりを作ためのツールであり、単に会議を開催すれば良いのではなく、各地域の実情に基いて、地域づくりの展開のプロセスの中で、開催形式や方法論を柔軟に変えていことが求められる、動的プロセスである。」
「事
業」という形で官僚制システムの中に飲み込まれると、毎年継続するという意味では安定するが、ルーティーンワーク化されると、何のために、どういう目的で、なぜ行うのか、という根本的な問いが消えてしまう。しかし、地域の実情はどんどん動いていく。にもかかわらず、以前の実態に適応した方法論にこだわり続けると、支援アプローチと実態が大きく乖離してしまう。その際、形式や方法論を、実態に合わせて柔軟に変えていくことができるか。これは、「彼らに何かしてあげるために我々がいる」、つまり支援者側の都合で支援をするのか、「人びとが自分自身で行動するのを援助する」=人びとの自発性や潜在能力の最大化を支援する為に支援者が存在するのか、の分かれ道なのである。
そういう意味で、支援が固着化し、支援漬けになり、人びとの自主性をそがないためにも、人びとの自発性・誇り・役割意識を引き出す「動的プロセスとしての支援」は、個別援助でも、市民活動のサポートでも、どんな局面でも必要不可欠だ。そんなことを、現場の人びとの議論を聞きながら、ぼんやり考えていた。

相手の内在的論理に精通する

昨日、ブログでつぶやいたことが、結構リツイートされているようだ。そのつぶやきは・・・
「本当に何かを変えたいのなら、自己主張する前に、まず相手の内在的論理にじっくり耳を傾ける必要がある。相手の論理構築の方法論をしっかり理解し、敬意を抱いた上で、こちらの論理との共通点を探る。本当に対話の出来る「大人」なら、声高・雄弁に語る前に、謙虚に聞く耳を持っている。」
このつぶやきが出てきた発端は、SYNODOSの『したたかな韓国』著者・浅羽祐樹氏へのインタビュー記事だった。その中で、大変興味深い発言があった。
「まずは、ゲームの構図がどうなっているか、そのルールはなにで、ジャッジは誰なのか、といった「大きな絵」を理解することが大切ですね。本書の副題は「朴槿恵時代の戦略を探る」ですが、もちろん、朴槿恵の戦略をそのまま受けいれるという意味ではけっしてなくて、相手やゲームの性格におうじた日本の戦略を探り、外交にのぞむためです。読者の方々には、ぜひとも優秀なクライアントになって、自分に不利なものも含めてそれぞれのシナリオごとに筋道を考え結論を導く<悪魔の代弁人>を立てて、さまざまな問題にアプローチしていってほしいと思っています。」
この浅羽さんの発言を読みながら、彼のこの骨法は国際関係だけでなく、何らかのコンフリクトに陥っている論点に対して使える、極めて普遍的な考え方だと感じていた。少しその点について掘り下げてみたい。
浅羽さんの発言の興味深い点は、日本と韓国の外交関係の論点を考える際、日本側の立場に立つだけでなく、韓国側に立つ重要性を<悪魔の代弁人>というスタンスで整理しているところである。自分とは意見の違う相手(=悪魔)がどのような根拠を持って自らの「正しさ」を主張しようとしているのか。自らが相手の主張の「代弁人」なら、どのように相手の内在的論理をくみ取り、相手側の正当性・正統性を主張するか。それをきちんと考えておかないと、相手の戦略に結果的に飲み込まれていく、という風に僕は受け止めた。
で、僕自身も含めて案外陥りがちな罠とは、「自分の正しさ」にこだわる・居着くと、「相手の正しさ」が見えなくなることである。
意見が異なる論点について、「僕は悪くない」「相手が問題だ」と、You are wrong! I am right!という善悪の二項対立図式にはまり込んでしまうと、この「思い込み」から安易に離れられない。
「何を言うのだ! 正しいことを正しいと述べて、何が問題なのだ」
そういう反論が聞こえてきそうだ。
ただ、何のために「正しさ」を述べるのか、という目的に応じて、適切な手段は分かれる。
①「私は正しい」と自己表現をする目的
②「私の正しさ」を相手も(部分的には)認めた上で、相手と一定の合意形成をする目的
①の場合は、自己表現をする事が目的なのだから、ひたすら「○○はオカシイ・間違いだ」「そう指摘する私は正しい」と主張していればよい。ただし、これはあくまでも自己表現であって、対話ではない。
もし、あなたが何か今の現状を本気で変えたい、と思うなら、①のアプローチは、方法論としては不適切である。なぜなら、①はあくまでも「自己表現」が最終目的である。価値前提が異なる・争点となる問題について、自己表現や説得では、物事は動かない。なぜなら、相手も「自己表現」モードであれば、異なる自己表現のどちらがすばらしいか、という審美主義的価値論争になり、簡単に言えば「好み」の問題になるので、永遠に決着はつかないからだ。
本気で何かを変えたければ、②のように、自分と相手の違いを見定め、お互いが納得できる価値前提にまで立ち返り、そこから共有できる部分を増やすしかない。①は自己表現だから、不勉強でも、思いつきでも、いつでもどこでも簡単にできる。でも、暗礁に乗り上げた問題とは、そもそも乗り上げるまでの様々な誤解や相違、価値前提の違いが積み重なった上での「結果論」なのである。異なる意見が構築されるプロセスにおける、相手の「正しさ」の内在的論理を徹底的に分析し、理解した上で、自らの内在的論理と共有できる部分、ズレが生じた部分はどこか、を見定める必要がある。そして、共通する価値前提の部分に基づき、相違する争点に関して、相手の内在的論理も添う形で、こちらの主張も盛り込んだ「代替案」を示し、それに対する理解や納得、一定の評価を得る。その中からしか、共有化できる論点は生まれない。そして、論点が共有化されないと、相手と私の間で、一定の合意形成は出来ない。
ものすごく、当たり前のことを書いているつもりである。でも、感情的な問題では、どうもこの当たり前の前提が無視されがちだ。
自分の意見が相手に伝わらないとき、つい次のような愚痴を言ってしまわないだろうか。
「理不尽だ」「許せない」「なんでこんな事もわからないんだ」「わからずや」「こいつは頭が悪い」
しかし、自分が言っていることが正しくて、相手の言っていることは頭が悪い、と最初から決めつけている論理は、だいたいにおいて、自己満足ではあっても、その知性は疑われる。僕はそういうときには、いつも内田先生の次の箴言を思い浮かべる。
「私たちは知性を計量するとき、その人の『真剣さ』や『情報量』や『現場経験』などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。」(『ためらいの倫理学』内田樹著、角川文庫)
ここで大切なのは、自分がどれだけその問題について熱心か(=真剣さ)、どれだけネットや本などを読みあさったか(=情報量)、どれだけその現場に足を運んだか(=現場経験)を、知性の計量において、勘定には入れない、という点である。「その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか」というのは、簡単に言えば、「どれだけ自分の愚かさを勘定にいれているか」という事である。裏を返せば、「どれだけ自分の論理のおかしさを検証しているか、どれだけ相手の正しさの可能性を検討しているか」が、「知性の判断基準」である、と指摘しているのだ。
相手に「わからずや!」と暴言を吐くとき、論理よりも「私は正しい」という自己表現が先立つ。そして、残念ながら自己表現は、好みの問題でもあるので、特に大きく意見の異なる相手の「好み」と合う可能性は低く、相互理解や変容は導き出せない。
その時に大切なのは、「自分の正しさ」を捨てること、ではない。ただ、一度はその「自分の正しさ」から「自由」になる必要はある。一度自分の「好み」を横に置いておいて、相手がなぜ自分とは異なる考え方を「正しい」と「好む」ようになったのか、その好みの理由を徹底的に相手の立場にたって考えることである。その際、既に書かれている相手への悪口を判断材料にしたって、絶対にその内在的論理は理解できない。大切なのは、相手が正しいと考える根拠となる一次資料を丹念に読み解き、相手がどういう考え方の根拠で「その正しさ」を獲得するにいたったのか、相手の頭の論理構造をトレースすることだ。そして、厳しいことを言うと、その相手の内在的論理を分析する時間と手間を惜しむ人ほど、②のアプローチをとらず、①の自己表現に終始しているような気がする。それは、本当に「知性的」と言えるのだろうか。
・・・と書く僕も、決してこれがきちんと出来ている訳ではない。手痛い失敗がある。
昨年まで務めた国の障がい者制度改革の委員会では、厚生労働省の内在的論理に迫りきれなかったのが、その後の「失敗」に結びついた一因である、と感じている(事の顛末はシノドスにも書かせていただいた)。もちろん、この委員会では、これまで意見がまとまらなかった多様な障害関係者の意見をまとめた骨格提言を作り上げる事が出来た。だが、肝心の厚労省とは、残念ながら全面対決姿勢になってしまったので、歩み寄れなかった。その結果、骨格提言内容は見事に葬り去られた。
この際、「厚労省が悪い」というのは、①の自己表現になってしまう。確かに、厚労省の前例踏襲主義に対して「そりゃないよ!」と思うことは多々あった。だが、②を目指すなら、厚労省がなぜ障害程度区分にあれほどまでに拘るのか、なぜ国庫負担基準は絶対死守するのか、なぜ入所施設や精神科病院をあれほどまでに庇うのか、という内在的論理を、厚労省の<代理人>として分析する知性が、少なくとも僕には足りなかった。障害者福祉の国際的動向や、社会モデルの考え方、当事者主体などの理論を基に、「自分たちの考える正しさ」を全面に押し出してしまった。
自己表現なら、それでいいのかもしれない。とはいえ、別に厚労省におもねる必要もない。だが、本当に厚労省を変えようとするなら、厚労省が「正しい」と考えることの内在的論理を徹底的に分析し、その論理の「正しさ」の価値前提を理解した上で、双方の価値前提の共通点と相違点をきちんと踏まえ、その共有化した前提ポイントから相手を揺さぶるオルタナティブを提起すべきだった。だが、自分たちの「正しさ」の骨格提言をまとめるのに精一杯で、その「対話」の論理を徹底的に煮詰めきるには至らなかった。もちろん、向こうも最初から「対話」する気がなかった、という悲しい事情もあるが・・・。
言うは易く行うは難し
だが、この<悪魔の弁護人>の論理は、本当に社会を変えたければ、絶対に身につける必要がある。原発問題や憲法改正、米軍基地問題など、大きく意見が分かれる問題についても、自己表現ではなく、相手と納得できる共有点を探し、そこから相手の価値前提を動かしていく<悪魔の弁護人>のスタンスが必要とされている。
だからこそ、声高に叫ぶ前に、まず謙虚に、相手に敬意を持って、相手の論理をじっくり聞く必要があるのだ。なかなか自分がカッとなってしまうと、それが出来にくいのだけれど・・・。