本当の文武両道とは?

やっと入り口に立てた。何の話か、って? 合気道である。入門して丸4年、ついに初段の審査に合格し、黒帯を付け、袴をつけて稽古をすることが許されることになった。すなおに、めちゃ嬉しい♪

合気道に入る事になったのは、その著作から大きな影響を受けた内田樹先生が、合気道の先生でもあった、というのが大きい。あと、県庁の職員で以前からずっとお世話になっているTさんも有段者で、「兄弟子」に誘われて、山梨の合気会の道場に導かれた、というのも大きい。だが、拙著『枠組み外しの旅』の中でも書いたが、僕自身の「煮詰まり感」が、新たなブレイクスルーを求めていた、というのが最も実感にちかいところ。入門当初のブログを振り返ってみると、その時のわくわく感を思い出す。
で、日々の稽古が自分の中の「当たり前」になるなかで、導き手のお一人、内田先生の新作『修行論』を読んでいると、すごく腑に落ちるフレーズが続く。中でも、僕自身の経験と一番重なった部分が次の箇所。少し長いが、引用する。
「内弟子時代を数年続けると、稽古していないはずの当の芸が驚くほど上達する。師匠からきちんと体系的に習っているはずの通いの弟子と、段違いの腕になる。
理由はある意味簡単で、生活を共にしているうちに、師匠と『呼吸が合ってくる』からである。師匠の機嫌のよしあしや、体調や、空腹の度合いや、便意までわかってくる。わからないと内弟子が務まらない。そうやって共感度を高めているうちに、表情筋の使い方、発声法、着付け、歩き方から、ついには食べ物の好みや、ものの考え方まで師匠に同期してくる。そしてある日、驚くほどに豊かな芸の土壌が自分の中に既に形成されていることに、弟子は気づくのである。
修行というのは、そういう意味では非合理なものである。達成目標と、現在していることの間の意味の連関が、開示されないからである。『こんなことを何のためにするんですか? これをやるとどういうふうに芸が上達するんですか?』という問いに回答が与えられないというのが、修行のルールである。(略) 修行とは、長期にわたる『意味のわからないルーティーン』の反復のことである。」(内田樹『修行論』光文社新書、p189-191)
僕も半ば「内弟子」をしていた経験があるので、この指摘はすごくよくわかる。
僕は、大学院生になると同時に、ジャーナリストで4年間だけ大学教員をしていた大熊一夫さんの「最初の弟子」となった。院生はごくわずかであり、その後ずっと師匠との関係は続いているので、師匠には「最初で最後の弟子」とも言われている。住み込み、ではないけれど、多くても2,3人の院生仲間と、でも普段は割と師匠と二人でいるときが多く、しばしば師匠の取材にも同行させて頂き、しょっちゅう師匠に食事をご馳走になっていたので、半分「内弟子」状態であった。ワインや美食に目覚めたのは、間違いなく師匠にご馳走頂いたお陰である。
師匠にくっついて旅をし、師匠に作って頂いたご飯を頂き(何せ料理人を目指そうとされた程の腕前なので、弟子の出る幕ではなかった!)、師匠の話を聞き続ける中で、確かに「共感度」は高まっていく。服の趣味やしゃべり方が似てくるのだ。僕は、師匠の弟子になる以前も、中学や高校時代の塾の恩師に「しゃべり方」がそっくりだ、と言われたことがしばしばあった。単に猿真似をしているようで、指摘されて当時は恥ずかしかったが、今から思えば、しゃべり方を似せることは、師の考え方をトレースすることと、どこかで繋がっているのだと思う。
で、その結果、「驚くほどに豊かな芸の土壌が自分の中に既に形成されている」状態に育ったかどうか、は、アヤシイ。だが、今でも師匠に頂いた眼差しは、明らかに僕の中で血肉化している。師匠と「同期」させて頂いた何かが、僕の「呼吸」そのものを、根源的な変容に結びつけたのだ。
そして、合気道にブレークスルーを求め、干からびたタオルが水を吸うかのように稽古を愉しみ始めたのが、大学院を卒業して6年後、教員になって4年後。つまり、ある程度、独り立ちをして、それが板についてくる中で、さらに一歩前に進む上での「壁」に直面していたときだった。そのときに求めていたのは、「合理的」な解決策ではなかった。合理的な学び、なら、ある程度独学で学ぶ力はついてきた。
後知恵的に考えてみると、その時にカラカラになって渇望していたのは、ある意味、非合理なものであった。「『意味のわからないルーティーン』の反復」であった。一応合理的な部分では、自分が独り立ちして立ち上げたシステムは、まあまあ機能している。当時、専任講師から准教授に昇格した頃だし、研究も脂が載り始めたし、地域実践を支援するチャンスも増えた。外面的には「絶好調」に見えた時代だが、「合理性」以外の部分での、自分の中での不全感が増えていた。ゆえに、当時、合気道ではなく、例えば音楽でも宗教でも、別の「非合理」な何かと出会えたら、そっちにのめり込んでいたのかも知れない。でも、僕にとって、再び一人の弟子として、見ず知らずの体系に飛び込んだのは、合気道だった。そして、それは僕自身の心身にとって、非常に豊穣な経験をもたらしてくれた。
「長期にわたる『意味のわからないルーティーン』の反復」の魅力とは何か? それは、自分が元々持っていなかった度量衡、自分が抱くはずのなかった世界観を、知らず知らずのうちに身につけることである。大学院生になって10年くらい、同じ対象を見つめていると、ある程度、対象世界の全体像が見えて来るようになり、するとその世界に対する既視感が増えてくる。その中で、ある種の傲慢さや奢りのようなものも生まれてきやすい。僕は調子のりで増長しやすい性格なので、特にその部分への警戒は欠かせない。ちょうど合気道に入門した頃、研究を始めて10年目で、慣れと奢りが出てきた頃だった。自分なりの度量衡がそこそこ使え、その世界観で「ものがみえる」と「錯覚」し始めていた頃だったのかも知れない。院生時代、つまり内弟子時代なら、そんな愚かな僕を叱ってくれる師匠がいた。だが、師から独立したので、それを諫めてくれる人もいない。そんな中で、「このままでは何だかまずい」という内なるアラームが、合気道へと繋がる道だったのかもしれない。
そして、実際に稽古を始めてみると、「『意味のわからないルーティーン』の反復」そのものだった。社会科学的な話なら、少しは予見可能な部分も少なくない。でも、身体運用、しかも西洋の身体運用とも違う、独自の武道的な身体運用は、最初、わけのわからなさ、の爆発だった。目の前で、先生が模範を見せてくださる。でも、その技がどのような行為の連続なのか、どう繋がっているのか、何を言わんとしているのか、日本語というシニフィアンが理解できても、その意図や効能というシニフィエがさっぱりわからなかった。そして、わからないまま、色々稽古をするのだが、全然うまくいかない。手と足と身体がバラバラなまま。先生にも、細かく指導頂くが、さっぱり身についてこない。”にもかかわらず”、めちゃくちゃ楽しい。この、わけのわからなさと楽しさの同居、とは一体何なのか。ずっと謎だったか、あるとき、ふとわかった。わけがわからない「からこそ」楽しいのだ、と。
自分がこれまで全く身につけていなかった度量衡、世界観。その「わけがわからに世界」に、にもかかわらずどっぷりつかる中で、自分が暗黙の前提としている世界観そのものを問い直す契機になる。わかったつもり、になっていることも、本当にそうなのか?が、改めて問われる。そういう白紙状態(タブララサ)に、稽古の時間身を置かざるを得ないからこそ、「『意味のわからないルーティーン』の反復」の世界は、僕自身の普段の呼吸の仕方、世界観そのものを、その根本から揺さぶる体験となった。だからこそ、すごく楽しいのである。そして、「達成目標と、現在していることの間の意味の連関」が、先生に指摘されても、さっぱりわからなかった時期から、兎に角反復を続けてきた。で、1級に昇級した去年かたりから、少しずつ、その「意味の連関」が、自分の中で浮かび始めた。「世界観の体得」というか、「新たな度量衡」の出現というか。すると、先生の技の見える率が急激に高まり、ある一定時間内での挙動に関して、コマ割の割方が細やかになるように、連続技の中にある細かい身体技法が、見えるようになってきた。そして、それらが見えるようになると、自分自身もトレースできるようになりはじめた。
そして、初段に向けての審査の稽古にも打ち込む中で、ある種の「軸」が芽生えないと、級から段には昇段出来ない、ということがわかってきた。自分自身、一つ一つの技にどのように臨むのか、連続的な身体運用の中でぶれない軸をどう安定化させるか。これらの問いは、研究にもダイレクトに繋がる。一つ一つの論文・講演にどう臨むのか、連続的な研究や社会貢献の活動の中でぶれない軸をどう維持・発展させるのか。つまり、合気道も研究も、結局己の「学び続け、変わり続け、成長し続ける」プロセスの中でしか上達しないのである。そのことに気づけ、力まず、肩肘張らず、と言い続ける中で(まだ実践し切れていないが)、今回、初段を頂く事が出来た。
二度の弟子入りから見えた事。それは、結局のところ、修行は一生続く、ということである。師匠から離れても、「師匠だったらどういうだろう?」という眼差しで己の原稿を厳しく査定する事が出来るか、が問われている。先生から指摘されて一つ一つの指摘を、自分の中で反復し、技全体の向上につなげられるか、が問われている。二度の弟子入りからわかってきたのは、自分の中での安易な自己正当化につながる「合理化」に埋没しない、ということだ。未熟な自分の度量衡で判断せず、自分とは隔絶した世界観を持つ師匠の眼差しを仮想し、己の度量衡では「非合理」に見えるその世界観から、己が自家薬籠中にしている世界観の狭隘さを見つめ直し、捉え直していくということだ。
いつまでもチャレンジングな状態でいる、とは、「非合理な世界」「わけのわからない世界」の中で、自らの心身のパフォーマンスの向上を願って、今日も地道に反復練習を続けることである。それが、あるとき、大きなブレークスルーにつながる(はずだ)。なるほど、文武両道、とは、よく言ったものである。僕も、研究と合気道での両道を目指して、これからますます精進せねば。初段は、そのための「入り口」にしか過ぎないのである。

一人ササラ型

最近話題の二冊の本を読んだ。一冊が、佐々木俊尚氏の『レイヤー化する社会』(NHK新書)、もうひとつがリンダ・グラットンの『ワーク・シフト』(プレジデント社)である。ともに、これからの生き方・働き方の「未来予測」の本なのだが、二人の議論に共通する部分が面白かった。それが、表題の連続スペシャリストとレイヤー、という考え方である。

まず、佐々木俊尚さんのレイヤー概念から。
これまで、○○さんはA社の課長、など、単独のアイデンティティで表明されていた人間関係は、ある種、完結した個人として、それ以外の可能性が閉ざされていた。これは、終身雇用や国民国家など、一つの枠が完結する中で、その枠内における強固なアイデンティティだった。だが、それらの強固な枠が崩壊し、フラット化する世界の中では、会社や国という枠自体も流動化し、多層的な場の一つ一つの場面で、あなたや私がどう振る舞うか、が問われている。例えばタケバタヒロシなら、
日本人という国籍のレイヤー
大学教員いう職業のレイヤー
福祉と社会学の境界線上を研究領域とする専門のレイヤー
合気道はやっと有段者になれたという趣味のレイヤー
純米酒や山梨のワインにはまっているという酒の好みのレイヤー
など無数のレイヤーが重なって、タケバタヒロシという構成体ができあがっている。ならば、「レイヤーを重ねたプリズムの光の帯として自分を捉えること」が、今後の流動化する多層的世界で生き抜くコツだ、と佐々木さんは指摘している(と僕は受け止めた)。で、このレイヤーという概念を通してみると、グラットンの語る「連続スペシャリスト」概念がよく見える。
『ワーク・シフト』の中では、ある専門的な技能を習得した後で、それを土台に隣接分野の技能を磨いて「連続スペシャリスト」になる必要性が説かれている。これは、専門を一つのタコツボとして捉えず、一つ一つの専門性というレイヤーがササラのように束ねられて一つになるイメージである。そう考えたら、丸山真男の名著『日本の思想』(岩波新書)で出てくる「タコツボ型」と「ササラ型」は日本と西洋の学問のあり方の比較だったが、「連続スペシャリスト」とは、ある種の「一人ササラ型」なのかもしれない。
では、僕自身はどうなのだろうか?
以前、自分の専門性が曖昧であることに、アイデンティティの不安を感じていた時期がある。ジャーナリストの大熊一夫さんに弟子入りし、ボランティア人間科学講座という新設講座の大学院1期生で、障害者や高齢者福祉政策がフィールドだけれど、何となく福祉社会学と社会福祉学を行ったり来たりしている。かつ、今は何故か!?法学部政治行政学科に属している。この経歴だけでもまとまりに欠けているが、さらに言えば、障害者福祉の中でも、元々精神病院でのフィールドワークからスタートしたが、三障害の脱施設・脱精神病院研究もするし、地域支援を支える支援者の変容支援研究もすれば、国レベルの障害者福祉政策の展開にもコミットしてしまった。最近では、高齢者の地域包括ケアシステムの支援だとか、福祉のまちづくりにも顔を突っ込んでいる。初めて出した単著は、狭い意味での福祉の領域の「枠組み外し」までしようとしている。ある領域のオーソリティとは全く逆の、節操なく様々な領域に関わっている、本当にカメレオン的存在である。それが、以前はすごく自らのダメな部分だと感じていた。
だが、大学院を出て10年経った今、そういうカメレオン的存在は、多層的なレイヤーを重ねた「一人ササラ型」として機能し始めている、と感じている。福祉の世界は結構タコツボ的専門職が多いので、ある領域外でどのような議論が行われているのか、を知らない人が多い。例えば高齢のケアマネさんが、障害の相談支援専門員の議論を知らない、とか、障害者の地域自立支援協議会の関係者が高齢者の地域包括ケアシステムを知らない、とか。そういうところで、僕のようなカメレオン的な存在は、越境者というか、両者を通訳する存在として重宝されたりする。それが「連続スペシャリスト」といえるほどの専門性を持っているかどうかは僕にはわからないけれど、少なくとも様々なレイヤーを重ねて、様々な場で、色々な人と議論をしながら、場と関わる僕がいることに、アイデンティティの不安は抱かなくなっている自分がいる。どこで、どんな現場で、どんな風に踊っても、僕は僕じゃん、と。
それが、「一人ササラ型」という程、より普遍的な何かにアクセスする力を持っていないかもしれない。でも、もっと各レイヤーに磨きをかけ、活かせていない潜在能力を顕在化させながら、今日も楽しく踊り続けたい。そう考えている。

「見えない身体」との「つながり」

単著用の原稿に一区切りついたので、久しぶりに自宅書斎の書棚を整理する。原稿を書いている時は、あれこれ本を引っ張りだしたり、研究室からごっそり本を持ち帰って並べたりしているので、書棚も窒息寸前のエントロピー増大状態だった。そこで、用済みの本たちと研究室へと戻した後には、だいぶ本棚も息を吹き返したようだ。風通しがよい本棚をぼんやり眺めていて、何となく手に取ったのが、恐ろしく迫力のある一冊で、気がつけば一気に読み終えていた。

「『僕』は、現実的にかかわっている物事に対しては自分なりにベストを尽くすし、かなり有能かつ器用にこなしていくことができる。しかしその現実が何か自分の大事なものとつながっている実感がない。つまり、『見える身体』の現実での横軸は、何とかつながることができているけれど、自分の中の縦軸が途切れてしまっているのである。この自分自身の縦軸とのつながりが途切れるということは、『向こう側』の見えない身体(羊男)と自分自身とのつながりが切れているということである。それは、自分自身の魂と切れている状態と言ってもいいだろう。そのつながりが切れていると、現実の横軸でどれほどの経験をしても、それぞれの経験はそのときだけの単発な出来事にしかなりえず、ひとつの大きな流れを持った意味のある体験として感じられなくなってしまうのである。」(岩宮恵子『思春期を巡る冒険-心理療法と村上春樹の世界』日本評論社、p173)
副題にもあるように、岩宮さんは心理療法家で、思春期を巡る心理的危機を、村上春樹文学を用いて分析した一冊である。僕は古本でハードカバーを買ったが、ある書評で取り上げられたあと、文庫版が再び出ている。僕は村上春樹も心理療法もどちらにも興味があるが、それゆえに、本当に面白いのかどうか、となんとなく疑っていた。村上文学への肩入れと、それに基づく偏った愛や憎しみが透ける文芸批評だったらどうしよう、と危惧していたのだ。だが、それは全くの杞憂であった。2つの世界観に精通し、なおかつご自身の臨床を重ねあわせながら、岩宮さん自身の独自の世界観を「物語」る文章世界に、ぐいぐい引き込まれていった。
以前ブログに書いたこともあるけれど、村上文学は、日常の世界からある日すっと象徴的暴力の渦巻く「神話の世界」へと主人公が引きずり込まれていく話である。これは、「多崎つくる」でも同類型である。日常世界という「見える身体」での現実において、主人公の「僕」は、「自分なりにベストを尽くすし、かなり有能かつ器用にこなしていくことができる」存在である。アイロンかけや食事作りなど、プラクティカルなことにはかなりマメな人物である。でも、冒険に飛び出す前の主人公は、どこかで「空虚」を抱えている。それが、「自分の中の縦軸が途切れてしまっている」のである。その縦軸とは何か。それを『見えない身体』との「つながり」である、と岩宮さんは語る。これは一体どういうことだろうか?
「見えない身体領域は、霊性の次元に関わっている」(鎌田東二)や「現実化されてない潜在的な統合可能性をふくむ<遍統合体ともいうべき身体>」(市川浩)といった身体論を援用しつつ、彼女は両者を「普通の状態では認識することができない錯綜隊としての身体を『見えない身体』、それ以外の身体を『見える身体』」(p98)と定義する。
こう書くと難しそうだが、村上文学で言えば、『羊を巡る冒険』の「羊男」の世界も、『海辺のカフカ』のナカタさんの世界も、「見えない身体」領域である。主人公の「僕」は、いくらプラクティカルな力を持っていても、「『向こう側』の見えない身体(羊男)と自分自身とのつながりが切れている」。それを岩宮さんは「自分自身の魂と切れている状態」と指摘する。なるほど、だからこそ、プラクティカルにうまく日常をこなしても、どこかで「僕」はその「空虚さ」を埋められないわけだ。
ただ、「見えない身体」=「自分自身の魂」との「つながり」が「切れている状態」の人は、世の中を見回せば一杯いる。近年研究をご一緒させていただく深尾先生は、著書の中でそれを『魂の植民地化』と述べていた。あるいはそれは安冨先生の言葉から引用するなら「立場主義」への呪縛なのかもしれない。岩宮さんも同じようなことを指摘している。
「表面さえごまかせたら裏で何をしてもバレなければいい・・・という発想で、銀行や警察、省庁などという、決してそのようなことをしてはならない機関がどのようなことを行っていたのかは、さまざまな報道で明らかだろう。そこには間違いなく、その機関にいる人たちの価値観が反映されているものだ(もちろん、その流れに逆らって苦しんだ人たちも間違いなくいると思う)。もう一歩踏み込むと、その場限りの表面的な流れが整うことだけを重視する浅薄な物語に日本中が支配されてしまっていると言えるのではないだろうか。」(p56)
「見えない身体」=「自分自身の魂」との「つながり」が「切れている状態」というのは、「その場限りの表面的な流れが整うことだけを重視する浅薄な物語」を産み出しやすい。それは、プラクティカルに取り繕うことだけを重視し、表面の背後にある本質(=「見えない身体」)の面での大切さを捨てて、自分の「立場」にのみ拘泥し、その「立場」というものに「魂」が「植民地化」されてしまうからだ。僕はそれを、自らの「枠組み」へのとらわれ、という形で拙著で表現した。
では、どうすればそういう「浅薄な物語」と決別することが出来るのだろうか? それを、岩宮さんは「異界」とのアクセスという形で表現する。
「人が本当に自分の核と結びつこうとするときにたましいの中から生み出される物語には、日常の常識的な世界とは違う異界の視点が不可欠である。そうした異界の視点のひとつとして、村上春樹の小説の中では、思春期の視点が重要な役割を果たしているように感じられる。これは勝手な推測だが、村上春樹が小説を書くために自分の心の井戸を降りて、その中で見つかったメッセージをこの世に通じる形で成立させようとしたとき、思春期のイメージがその物語の成立を助けるものとして動き始めたのではないだろうか。もしくはそのメッセージそのものが、思春期と深くかかわりをもつものなのかもしれない。」(p38)
「見えない身体」とは「魂」との「つながり」がある、「潜在的な統合可能性をふくむ」身体である。この「見えない身体」と「見える身体」を統合するための「物語」には、「日常の常識的な世界とは違う異界の視点が不可欠である」。
冒頭に引用した部分に振り返って考えてみるならば、「見えない身体」という「魂」の次元との「つながりが切れていると、現実の横軸でどれほどの経験をしても、それぞれの経験はそのときだけの単発な出来事にしかなりえず、ひとつの大きな流れを持った意味のある体験として感じられなくなってしまうのである」。「見える身体」の世界での「横軸」の知識を網羅的につなげても、それは「単発な出来事」の集積にしかならない。「ひとつの大きな流れを持った意味のある体験」として「見えない身体」(=自分自身の魂)と「見える身体」(「横軸」の知識)をつなげることが出来てこそ、初めて自分独自の「生きられた物語」として描き出すことが可能なのである。この指摘は、僕も単著を書いてみて、すごくわかった。確かに、僕自身の物語を描き出すためにも、僕も「異界」に降りていった。
「僕自身が『身体を蝕み、自己の崩壊』の危機にあって気づき始めたこと、それはこの『自分自身の自己になること』への希求であった。何かがおかしい、と、合気道をはじめ、ダイエットによって身体が軽くなることで、思考のリミッターが外れ、自分自身に『蓋』をしているペルソナや心的肥大の存在に真正面から向き合うようになった。これは、まさに心的危機そのものでもあった。だが、ペルソナの心的肥大、つまり『社会の期待する自己を首尾よく演じ』ることが社会に役立つ唯一で最善の道である、と誤認していた僕自身にとって、この危機のお陰で、次のことを深く納得出来る状態に変容する事が可能になった。『個性化とは、まさに人間の集合的な使命を、よりよく、より完全に満たすことになるのである。(ユング 一九九五、九四頁)』」(竹端寛『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』青灯社、p187)
東日本大震災後、「被災地に直接行って何らかの役に立つことをしなければならない」という「ペルソナの心的肥大」=「見える身体」の強迫観念が増大していた。だがその一方、震災の1年前から「枠組み外し」の実践に取り組み始め、自らの「見えない身体」とのつながり=「自分自身の自己になること」を希求していた僕は、「ペルソナの肥大」(=「見える身体」)との折り合いをつけることができず、どうしても被災地に行けなかった。その中で、震災直後は「存在論的な裂け目」という「異界」にいたのだと、今振り返ってみると、気づく。そして、僕自身も「自分の核と結びつこうと」「自分の心の井戸を降りて」行きならが、『枠組み外しの旅』を書き続けていた。そういう意味では、村上春樹と同じように、僕自身も「自己治癒」的にこの本の執筆に取り組んでいたし、どこまでそこで見つけた「メッセージ」が読者のみなさんに届いているかはわからないが、僕自身としては、この本は「ひとつの大きな流れを持った意味のある体験」としてまとめることができた。そして、それは僕自身にとっての「個性化」であり、「ペルソナの心的肥大」ではなく、その「個性化」を果たさない限り、「社会に役立つ」=「人間の集合的な使命を、よりよく、より完全に満たすこと」なんて無理ではないか、と気づくことができた。
岩宮さんの「物語」を通じて、僕自身の「見えない身体」と「見える身体」、横軸と縦軸の「つながり」の回復が、拙著を書く中でなされていたようだ、ということを、後付的に知ることができた。ブログを書き始めていたときには、こんな結論になるとは思いもよらなかったけれど。