「代償」としての「男らしさ」や「学歴」

前回のブログで書ききれなかったことを書き留める。受刑者の境遇と、「魂の植民地化」は実はつながっているのではないか、という話である。

まずは、それを示唆してくれた、当該箇所を引用してみる。
「受刑者は、例外なく、不遇な環境の中で育っています。親からの虐待、両親の離婚、いじめの経験、貧困など、例を挙げればキリがありません。受刑者は、親(あるいは養育者)から『大切にされた経験』がほとんどありません。そういう意味では、彼ら確かに加害者ではありますが、『被害者』の側面も有しているのです。被害者だからと言って、人を殺したり覚醒剤に手を染めたりすることはけっして許されることではありません。しかし支援する立場になれば、加害者である受刑者の、心のなかにうっ積している『被害者性』に目を向けないといけません。このことが分かれば、最初から受刑者に被害者のことを考えさせる方法は、彼らの心のなかにある否定的感情に蓋をしてさらに抑圧を強めることになるのは明らかです。したがって、まずは『加害者の視点』から始めればいいのです。そうすることによって、『被害者の視点』にスムーズに移行できます。受刑者が『被害者の視点』を取り入れられる条件は、『加害者の視点』から始めることと言えます。」(岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』新潮新書、p119)
誤解のないように前提を言っておく。犯罪を容認する、というのではない。定めれたプロセスに基づいて刑が確定した受刑者は、罪を償うべきである。ただ、厳罰化や反省・謝罪の強要は、出所者の再犯を防ぐ方法論としては不適切ではないか、ということである。これは、アメリカの刑務所における「治療共同体」のアミティのことを取り上げたブログで、以前書いたこともある。ただ、今回付け加えるならば、反省や謝罪、あるいは厳罰化という「被害者の視点」を重視した政策が再犯抑止力として不十分な背後には、加害者が背負わされた「魂の植民地化」そのものと向き合う契機のなさがあるのではないか、という視点である。
こう書くと、「犯罪者を甘やかしているのか?」という問いが必ず起こりそうである。しかし、甘やかしている云々、という話は、処罰感情や道徳的判断など、極めて主観的・感情的色合いの濃い考え方である。本当に再犯率を減らしたい、凶悪な犯罪を減らしたい、と思うなら、感情的・道徳的な発想を超えて、犯罪の発生メカニズムそのものを眺め、それを抑止する戦略を立てる必要がある。そして、先に引用した岡本氏は、その発生メカニズムの根幹に、「加害者である受刑者の、心のなかにうっ積している『被害者性』」や「彼らの心のなかにある否定的感情」がある、と指摘する。この部分に向き合うことなく、単に厳罰や反省・謝罪を強要しても、加害者の行動変容には結びつかない、と指摘しているのだ。
「心のなかにある否定的感情に蓋をしてさらに抑圧を強めること」、これは、魂の植民地化そのものである。そのことを考えるために、拙著でも引用した深尾先生の定義を振り返っておこう。
「植民地は、ある一定の集団が、別の集団に対して、一方的に支配権、決定権を持っている状態を指し、それらが集団的にも個人的なレベルでも行使される。植民地的状況(ここでは、広義に、国家的植民地のみならず、個人間の支配―被支配関係も含む)のもとでは、被支配側は、しばしばいわれなき劣等感を押し付けられる。(略)このようにして、自分自身の属性が、否定的なまなざしで他者から眺められ、そのような処遇を受け続けることによって、魂は傷つけられ、その発露をゆがめられる。」(深尾葉子「魂の脱植民地化とは何か─呪縛・憑依・蓋」『東洋文化』八九号、二〇〇九、二一頁)
「自分自身の属性が、否定的なまなざしで他者から眺められ、そのような処遇を受け続けることによって、魂は傷つけられ、その発露をゆがめられる」。これは、児童虐待や家庭崩壊、貧困、いじめなどの「被害者」にしばしば生じる事態である。暖かい愛情で守られるはずの子供時代に、「いわれなき劣等感を押し付けられる」ことによって、魂の発露がゆがめられ、他者の支配的価値観に隷属させられる、という。その結果として、岡本さんは、大半の男性の受刑者に、愛情の「代償」がみられる、という。
「幼少期から寂しさやストレスといったものを抱えながら、それを受け止めてもらえない『心の傷』を心の奥底に秘めたまま生き続けています。幼少期から抱き続けてきた寂しさやストレスを克服するために、彼らは『男らしくあらねばならない』『負けてはいけない』といった価値観を持つことで、必要以上に自分を強く見せようとします。自分を強く見せることによって、他者に『認められること』で自分自身の愛情欲求の埋め合わせをするのです。他者から『男らしくて恰好いい』と思われることは、満たされていない彼らの愛情を求める欲求の代償となっているのです。しかし、それはあくまでも『代償』にすぎません。本当に望んでいる愛情が得られないため、彼らはますます『男らしさ』を追い求める生き方を自らに強いて他者から評価されようとします。彼らにとって、弱音を吐いたり誰かに負けたりすることは、自分が他者から認められなくなる(=愛されなくなる)ことを意味するので、絶対に弱音を吐かず、いかなる手段を用いても相手に勝とうとします。その結果として起きる最悪の行為が、犯罪なのです。」(岡本、前掲、p123)
この「男らしさ」という「代償」行為が悪循環回路にはまり、「弱音」を吐かずに勝ち続ける究極の形態が「犯罪」という形につながる。確かにその通りなのだが、ここで疑問に感じることがある。得られない愛情を埋め合わせる「代償」行為で、悪循環回路にはまりこみ、「弱音」を吐けずにその負の回路を強化しているのは、はたして犯罪者だけだろうか、という疑問である。「弱音」を吐かずに勝ち続ける「代償」に当てはまるのは、「男らしさ」だけだろうか。実は、先の岡本さんの文章のうち、「男らしさ」を「学歴」に変えても、まったくもって説得力あるストーリーとなる。
「本当に望んでいる愛情が得られないため、彼らはますます『学歴』を追い求める生き方を自らに強いて他者から評価されようとします。彼らにとって、弱音を吐いたり誰かに負けたりすることは、自分が他者から認められなくなる(
=愛されなくなる)ことを意味するので、絶対に弱音を吐かず、いかなる手段を用いても相手に勝とうとします。」
「学歴」を追求しないと、勉強のことで「弱音を吐いたり誰かに負けたりする」と、他者から認められなくなる。学歴エリートはこの恐怖を常に抱いていると、「魂の脱植民地化研究」のもう一人の主導者である安冨先生も、次のように語っている。
「戦時中に『お国のために死ぬ』という『役』を果たすのが当然だと思っていた子どもたちと同様、自分のことを自由意思を持った人間ではなく、『学歴』を軸に形成される『立場』の詰め物に過ぎないという考えに支配されます。完全に『立場の奴隷』になってしまうのです。こうなると、大学合格という『役』を果たさなければ自分自身の『立場』がありません。『役立たず』になってしまうからです。」(安冨歩『「学歴エリート」は暴走する』講談社+α新書、p130)
「立場」に固執する、というのは、「学歴」であれ「男らしさ」であれ、本来は愛情の「代償」にしかすぎない。だが、その「代償」にすがることでしか、自らのアイデンティティを形成できなくなると、その「立場」の放棄は、「役立たず」に繋がる。すると、どんな手段を使ってでも、その「代償」=「立場」を死守する、という意味で、「立場の奴隷」になるのである。これは、一見すると正反対に見える、犯罪者と学歴エリートに共通する課題である。どちらも、自らの魂が、「立場」や「代償」に、「植民地化」されている(=奴隷状態になっている)のだ。
そして、そこからの「脱植民地化」の為に必要なことを、安冨先生は一言で言い切っている。
「あなた自身を『あなたの立場』から取り戻すことこそが、変革なのです。」(安冨、同上、p176)
「心のなかにうっ積している『被害者性』」や「彼らの心のなかにある否定的感情」、これらに「蓋」をして、その代わりに「男らしさ」や「学歴」という「代償」を与えることで、悪循環回路が暴走していくのであった。であれば、「代償」を正統化せず、「代償」の背後に隠れた、愛情の欠落や「被害者性」「否定的感情」そのものと向き合う必要がある。これは、そう簡単なことではないし、自らの「立場」をグラグラと根幹から揺さぶる、危険なことでもある。でも、自らが何の「奴隷」になっているのか、魂がどう「植民地化」されているか、に気づき、そこから、その「植民地化」という「枠組み」を外さない限り、「代償」からは自由になれない。「あなた自身を『あなたの立場』から取り戻すこと」とは、「男らしさ」や「学歴エリート」という、一見すると居心地の良い「代償」と決別して、「健全な魂の発露」を導くために、自分自身が「変革」することである。
最後に、余計な一言を。私たち自身が「魂の植民地化」にあるならば、他者、ましてや受刑者の「魂の脱植民地化」に恐怖を覚える可能性はないか。犯罪を減らす、ということは、受刑者の真の変容を支援することなくして、あり得ない。だが、受刑者の真の変容、とは、単なる厳罰化ではなく、「代償」へのアディクションを脱する為の、「魂の脱植民地化」支援が必要不可欠である。そして、その「魂の脱植民地化」に支援が必要なのは、単に受刑者だけでなく、彼らを取り締まる・裁く側である「学歴エリート」にも共通してはいないか。そして、「学歴エリート」に「魂の脱植民地化」を導く支援がない中で、受刑者にのみそのような支援を行う事への嫉妬や羨望が、「甘えている」「厳罰化を」という主張の裏側に、隠されていないか。「被害者性」や「否定的感情」に向き合うべきは、受刑者だけなのか? そのような疑問と妄想が、頭の中を駆け巡っている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。