内奥への旅

発作的に山登りを始めた。せっかく山が多い山梨県に住んでいるのだから、少しでも登ってみたい、と。

数年前から、大学の同僚がハイキング部を主催していて、日程が合えば大菩薩峠や網笠山のハイクに連なっていた。だが、ちょうど二冊目の単著原稿の整理をし始めた連休の頃、ふと「一人で登ってみよう」と思い立ち、5月から茅が岳、金峰山、瑞牆山、東天狗岳(これはハイキング部での登山)、甲斐駒ヶ岳、赤岳、と破竹の勢いで登っている。自分では「一月一山作戦」と名付けていたが、この夏は海外調査も旅行も帰省もせずに、二冊目の単著にずっと取り組んでいたので、8月だけで三山も登ってしまった。
で、お話は先週木曜日の赤岳登山の時の話である。
合気道を4年間続けてきたお陰で、体力はかなりついてきたようである。登山のガイドブックで書かれている標準時間より、だいたいにおいて早く登れる。ハイキング部の隊長によれば、歩き方がしっかりしている、とお褒めの言葉さえ頂く。それが、合気道で重心を下げる訓練をしているからなのか、小学生から高校生まで続けていたボーイスカウト活動の記憶がよみがえってきたからなのか、はわからない。でも、甲斐駒ヶ岳にしても赤岳にしても、体力的には余裕を持って登れた。それが、次の山登りを楽しみに待つ理由なのかも知れない。とはいえ、赤岳登山は、不思議なつながりをもたらしてくれた。
事はまだ登り初めて20分くらいしか経っていない時期に起こった。
以前から、八ヶ岳は登山者にかなり知られた山である。僕は美濃戸から南沢を通って行者小屋へと進む、最も定番のなだらかな登り道ルートを辿ったが、この道はかなりわかりやすい目印が各所に付いている。かつ、難所には鎖があったり、川を渡る箇所には工事現場の足組を使った仮設の橋まで架かっている。登山客の往来も激しい。普通なら、迷いようのない登りである。
なのに、迷ってしまった。
後から思えば、何の変哲もない広場の終盤でのこと、である。広場ゆえ、真っ直ぐな一本道のように行く先が固定されていない。その広がりをルンルン歩きながら、ふと道が狭まるところで、二本に分かれていた(ように思えた)。時刻は朝7時、日の光は直接はさしこまない場所で、かつまだ森の暗がりが微かに残る時間帯、である。左には山側に登る道が、右には川へと折れる道がある。そういう時は、木に付けられたテープや、木や石に書かれた矢印を頼りに、登山道を探す。そして、その木は、右に行け、と書いている(ように見えた)。何だか少し訝しい気持ちになりながらも、歩を進めてみると、川にぶつかる。橋もなにも架かっていない。渡れなくはなさそうだが、割と滑りそうだ。でも、向かい側には、また道らしきものが続いている。
なんか怪しいな。
そう思ったら、引き返すべきが原則。なのに、歩き始めで急いていた足取りゆえに?、へんに焦ってしまって、気づいたら川を渡っていた。でも、渡り終えてみて、やはり違うような気がする。変だ、戻ろう。そう思って、余計に焦りながら、つるつる滑る石の上に足をのせていたら、バランスを崩して・・・。その後は、ご想像どうり、川にはまった。両側の靴と、両手をついたから上半身がばっしゃーん、と、べちゃべちゃになる。夏とは言え、寒い川の水にかかり、ずくずくである。やってしまった。
で、分岐点でとにかく荷物を降ろし、上着を着替え、タオルで拭いていたら、先ほど抜いたはずの人びとも、後からきた人も、誰ひとり!!!間違えようもなく、すいすい登っていく。誰も間違えない場所で、もののけか何かに吸い寄せられるように、川に落ちるために、引き寄せられていったのだ。悔しい、とか、恥ずかしい、とかよりも、あまりにも阿呆らしいその間違いに、何だか不思議な思いをしだした。
その後、替えの靴下を持ってこなかったので、靴の中はびちゃびちゃのまま、登り進める。体力は落ちていないが、気力はごっつう下がっており、かつ足が冷えているので、足取りが重い。その中で、何とか気力を回復しながら、頭の中ではあるフレーズがこだましていた。
「あ、これって、ある種の『内奥への旅』なのかもしれない」と。
『内奥への旅』。それは、「戦場のメリークリスマス」の原作者で、イギリスの元軍人、ローレンス・ヴァン・デル・ポストのアフリカ探検記である。臨床心理学者の秋山さと子さんのエッセイに出てきて気になって、とうの昔に絶版になっていたので、密林!で30年前の古本を手に入れて、家の書斎に放ったらかしていた。アフリカの奥地を探検する紀行文で、ユング心理学とのつながりがある、という紹介くらいしか知らない。だが、なだらかな登り道から行者小屋を経て、急峻な階段→岩肌のよじ登りをしながら、赤岳の頂上を目指す過程でも、このタイトルが頭から離れない。ユング心理学では、布置とかコンステレーションという「ご縁」が重なったことを大切にする風土があるので、そのご縁を大切にして、山を下りてから、くだんの古本を仕事の合間にちびりちびりと読み出した。
アフリカの未踏の山を探索する探検紀行文としてもなかなか面白いこの著作。あるいは、植民地時代のアフリカ人とヨーロッパ人の対比を知る歴史的価値もあるのかもしれない。が、僕が最も目を引かれたのは、次のフレーズだった。
「われわれ自身の内部の亀裂こそ、われわれの生のパターンの中にも亀裂を生み出すのだ-それこそが真ん中に恐るべき切り傷を、この暗く深いムランジェの峡谷を刻みつけ、その峡谷に厄災が走り、悪魔が跳梁するのだ、私の本能はそう答える。外の世界に起こる事故や厄災は、内なる自己と厄災とを喰って太るのである。われわれの外面的な生のデザインは、その微少な部分から、最新式の爆弾の原子に至るまで、われわれの最も内奥にあるひそかな目的を反映し、追認するものなのである。」(『内奥への旅』p197)
「外の世界に起こる事故や厄災は、内なる自己と厄災とを喰って太る」とは、外部世界の出来事と、内部世界の変容の共時性(シンクロニシティ)やある種の共犯・増幅関係の妙味を伝えている。確かに、何か第六感で「変だ」「オカシイ」と思ったとき、そのか細いシグナルを信じて慎重に行動するか、「いや、大丈夫」と理性で第六感に蓋をして無理をするか、は大きな分岐点だ。で、その理性で第六感に蓋をして無理をするとき、「その微少な部分から」「生のパターンの中にも亀裂を生み出す」結果、大きな「厄災」へとつながる。誰も間違えない分岐点で間違えて川にはまった僕は、確かに「魔が差した」のであるが、それは外部的な「悪魔の跳梁」だけでなく、僕「自身の内部の亀裂」の外在化、とも言える。
ゆえに、その後の心のか細いモールス信号は、このヴァン・デル・ポストの小説のタイトルを灯し続け、僕はそのお陰であまり無茶をせず、体力的には消耗しきっていなかったが、横岳や硫黄岳への踏破はお預けにして、早い時間に山を下りることが出来た。今から思えば、そのシグナルを聞いていなかったら、厄災は川にはまるどころの生やさしいものではなかったのかもしれない。
ひとりでの山歩きのどこが楽しいの?
と妻に聞かれることもある。確かに仲間と登っていたら、おしゃべりに花が咲き、あっという間に頂上に来ていることもある。何より、経験豊かな隊長に身を委ねると、自分自身で道を探す苦労はせず、このように川にはまる危険性もかなり減り、随分と気が楽である。だが、それでもひとりで山に向き合うとき、月並みな言い方だが、山を登りながら、「内奥への旅」がリアルに実感できているのかもしれない。「外の世界」で急峻かつ険しい道に格闘しながら、心の中でも、一歩、また一歩と、普段は向き合う事のない、井戸の深みに降りていっているのかもしれない。だからこそ、「亀裂」にも気づきやすいし、また気づいたらハマりやすいのである。しかし、そのようなリアルな生そのものと向き合うこともまた、山登りの楽しみの一つかもしれない。
「われわれの精神の内部にはっきり認められる亀裂に、各人の幇助しているところをしかと見つめ、生のあらゆる部位においてその裂け目を埋めるべく努力することが、かつてないほどに肝要だと思われるのである。」(p197)
私は、どのような外部のトラブルや厄災、それにつながる「亀裂」に「幇助」しているのか。私の生や精神の「亀裂」や「裂け目」とはどこにあるのか。何を矛盾したまま放置しているのか。どこから目を背けているのか。そして、どう「埋める努力」が出来そうか。峻険な山を登るとき、いつも「こんな高い山なんて登れるのだろうか?」と挫けそうになる。でも、千里の道も一歩から。歩みを一歩ずつ進める中で、確実に頂上に近づく。生の亀裂や裂け目の一つ一つと向き合い、逃げずに埋める努力をするのは、ある種、一歩一歩の地道な足取りに近い。だが、その歩を着実に進めながら、内なるモールス信号の微弱な電流を逃さず、その第六感を着実にキャッチして、慎重に、着実に、歩を進められるのか? この本を読み終えた後、僕は微弱な電流に耳を傾け、己の内側の「亀裂」を辿ろうとし始めている。
僕自身の「内奥への旅」は、まだまだ歩み始めたばかりである。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。