立場主義の呪縛を自覚化する

年度末から新年度にかけて、仕事がみっちり立て込んできた。その間、3月末に墓参を兼ねた旅に出かけたら、見事に沖縄で風邪を引いてしまう。でも、向こうで養生して、甲府に帰ってきたら治ってしまい、仕事仲間から「甲府での緊張感が抜けたのですね」「向こうで緩んで、帰って来たら仕事モードなのですね」と言われて、ハッとさせられる。反論したいが、全くその通り。

で、そのことの意識化、だけでなく、自分自身が今、強く意識化していることがある。それは、手前味噌ながら、拙著に書いておいたことだ。
「実は僕自身、大学講師の時は、「大学教員」というエクリチュールの「虜囚」性をそれほど意識していなかったし、それがマイナスの循環性である事にも気づいていなかった。しかし、「准教授」という肩書きに変化した後、しばしば自分の中で「山梨学院大学法学部政治行政学科准教授」という肩書きが鳴り響く。それは、「准教授」という肩書きが求めるエクリチュールや役割期待と、「タケバタヒロシ」という実態との乖離の部分もある。おそらく「准教授」役割(エクリチュール)を当たり前のものとして引き受けるか、あるいは逆に「タケバタヒロシ」という個性や本性を突き通せば、この乖離はなかったのだろう。だが、僕自身は准教授の肩書きと個性の間で揺れ動いていたので、この肩書きから召喚の声と一体化できずに、でもその声を聞き続けていた。」(竹端寛『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』青灯社、p42-43)
エクリチュールとは、「社会的に規定された言葉の使い方」という意味で、ロラン・バルトが提唱したものである、と僕は内田樹先生の本を通じて学んだ。このエクリチュールが大きな問題になるのは、単なる言葉の使い方を超えて、「生き方とセットになっている」という点である、と内田先生は指摘している(『街場の読書論』)。例えば「やんきい」でも「国会議員」でも「教師」でも、単にそれっぽい言葉の使い方をするだけでなく、表情や感情表現、服装やはたまた宇宙観までが影響される、というのだ。確かに、「やんきい」が政治を論じる姿はあまり見かけないし、本来バカではないはずの「国会議員」が反知性主義的な発言をする。政治を論じたい「やんきい」も、反知性主義を諫めたい「国会議員」も、それぞれのエクリチュールに拘束されて、その枠組みやパッケージに反する言動を自己抑制してしまう、というのだ。
そして、「教師」という自分の仕事でも、同じことが言える。引用部分で述べたかったのは、大学院生時代のメンタリティーを持っていたタケバタヒロシくんが、「准教授」という肩書きになった後、「山梨学院大学法学部政治行政学科准教授」というエクリチュールと、「タケバタヒロシ」の本性とが、乖離・分裂した状態のままで、非常に違和感を持ち続けた、ということだ。「僕自身は准教授の肩書きと個性の間で揺れ動いていたので、この肩書きから召喚の声と一体化できずに、でもその声を聞き続けていた」結果、僕は大きな「危機」に陥る。それが、『枠組み外しの旅』を書かせる原動力になった。
その「危機」の話にご興味がある方は拙著をご高覧頂くとして、今日書いておきたいのは、「その後」の話である。「准教授」というエクリチュールと「タケバタヒロシ」の分裂の危機を、『枠組み外しの旅』を書きながら、何とか乗り越えてきた。その後、あのしんどさは何だったのだろう、と思っていると、この本でもお世話になった安冨先生が、非常に明快に整理して下さった。それが「立場主義」である。
立場主義三原則
1,「役」を果たすためには、なんでもしなくてはならない。
2,「立場」を守るためなら、なにをしても良い。
3,人の「立場」を脅かしてはならない。
エクリチュールが生き方とパッケージになっている。これは、「立場」を守るためなら何をしても良いし、「役」を果たすためにはなんでもしなければならない、という「立場主義」そのもの、である。「准教授」という「立場」や、それに付随する「役」。それを守るために、そのイメージを汚さないために、様々な思いや感情を持つ「タケバタヒロシ」に蓋をして、「准教授」に適合的な部分だけを表出せよ。そういう社会的な同調圧力に対して、どこかで身体が納得しきれなくて、「肩書きから召喚の声と一体化できずに、でもその声を聞き続けていた」のであった。それが、「一次的存在論的安定」に亀裂をもたらす、深刻な危機に僕自身を追い込んだ。3年前の今頃、ある種、自分の中の何かが分裂する危機にいたのだ。
だが、その自らを追い込む呪縛の構造を自覚化し、その「枠組み」を外し、「箱の外に出る勇気」を持つことによって、僕は、何とか快復していった。今から思えば、この『枠組み外し』本は、「立場主義」という「箱の外に出る勇気」を持つために、ある種の自覚化を促し、結果論として自己治癒的に書いた本なのかもしれない。
そして、その「自覚化」が出来たからこそ、今、僕自身が直面している、より強固な「立場主義」の「呪縛」についても、そのものとして「自覚化」出来ている。
四月から、肩書きから「准」が外れてしまった。
そのことが何を意味するのか、よくわからない。だが、多分に「立場」や「役」の拘束力や呪縛が、以前の肩書きより遙かに強固であることは、想像に難くない。実は、この肩書き変更は、真剣に辞退しようと考えたのだが、結果的に立場主義三原則に抵触する可能性もあり、辞退しない選択をした経緯もある。既に、審査の段階で、立場主義の呪縛の枠内にいたのだ。
ただ、以前と違い、「箱の外に出る勇気」を持てている。自らの本性に対する違和感が「立場主義」である、という自覚化が出来ている。さらに言えば、その「立場主義」からの「枠組み外し」の方法論も、自ら一度くぐり抜け、整理してきたので自覚化出来ている。僕自身が人間らしく生き続ける為に必要なのは、この「自覚化」である、と強く感じている。自己呪縛を乗り越えるのは、自覚化である。その「武器」
を手に入れた分だけ、以前よりもずいぶん楽に暮らせそうだ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。