現実を変える認知論的転換

こないだシノドスに、精神病棟転換型施設の問題点に関する記事を掲載頂いた。おかげさまで沢山のかたに読んで頂いたようで、様々なフィードバックがある。その中で、知り合いの記者から、こんなことを言われた。

「タケバタさんの文章は、割と哲学っぽいからねぇ」
僕の文章が「哲学」的? 確かに、財源論や具体的な方法論といった政策論は、あの記事では書いていない。むしろ、「精神病棟に住んでいる人は、高齢者で身よりも行き場もない人々だから、病棟を建て替えた入所施設で暮らしてもらうしかない」という「よりまし」論の認知の歪みに関して、「それはオカシイのではないか?」と批判をしたつもりである。ずっと「病状」「受け皿のなさ」を理由に隔離収容を続けておいて、現実に病床を減らす段階になれば、「病院の経営の為に退院させられない」という「釈明」をしても、それで「しかたない」とされてしまう患者の立場になったら、こんな理屈はたまったものではない、という趣旨である。すると、別の医師はとあるML上で、僕のような意見を述べる人々を「在宅原理主義者」と命名された。「実際に退院支援をやった苦労を知らない人間による、無責任な発言は許せない」、と。
こういう批評を読んでいて、感じることがある。
これは、政策論ではなくて、現状認知に関する「ちがい」である、と。
まあ、こういうことを書くから「哲学的」だと言われる。現実を変える政策論ではなく、現状を解釈するだけのアームチェア学者ではないか、と。でも、僕も、国の政策を検討する委員会に入ってみてわかったのだが、本当に政策を変えたければ、政策形成に関わる人々の認知を変える必要がある。いくら現行法からどう変えたら良いのか、という実現可能な対案を示しても、人々が「どうせ」「しかたない」と思っている、その認知枠組みを変えない限り、たとえ首相の肝いりで始めた政策であっても、うまくいかない。(その顛末は、二年前にシノドスに書いた)
だからこそ、『枠組み外しの旅』や『「病気」から「生きる苦悩」へのパラダイムシフト』といった、認知枠組みの転換に関する文書を書き続けてきた。そして、昨日読んだ薄いブックレットの中で、僕よりも軽やかに、そのパラダイムシフトを論じている先達に出会った。
「”意味”とは、ヒトとヒトとの間で『与えられる』ものであり、なんら『実体』を表すものではない。したがって、多くの『問題行動』や『症状』も、それはなんら『実体』を持つものではなく、『これが問題行動だ』『これが症状だ』と、そのヒトビトの中で認識された時点で、『問題行動』となり、『症状』となる、ということになります。」(森俊夫著『”問題構想の意味”にこだわるより”解決志向”で行こう』ほんの森出版、p39)
軽妙な(=オヤジギャグ入りの)話口調で、1時間ちょっとで読めるブックレットだが、中身は、まさに支援現場における認知枠組みにパラダイムシフト(=質的転換)をもたらす本である。森さんは、臨床心理士として数多くの支援現場に携わる中で、「問題行動の意味」にこだわることは、その「問題」に集中し、その行動をする本人や、その「問題行動」で困っている家族が、その「問題」から離れられなくなる、と指摘する。そんな「生じてしまった問題」という過去から現在にとらわれるより、「どうしたいのか」「どう変わりたいのか」という「未来」に目を向け、変わるための方法論を支援者と本人・家族が一緒になって模索する方が、現実的に変わる、と指摘する。
本人は、「問題行動」という悪循環にとらわれてしまって、そこから抜け出す事が出来ない。そのとき、家族や支援者が、その「問題行動」の「意味」や「原因」を追求するのは無駄である、と森さんは指摘する。これは、「悪循環の高速度回転」の構造を指摘した安冨先生の文章を想起させる。
「社会の安定は規範のみによって維持されていると誤解している場合、社会が不安定化しているという事態の『原因』を、規範が緩んでいるということに求めるという誤認が生じる。するとその対策は規範を強化することに求められる。このような対策は逆効果になる可能性が高い。悪循環が生じているときに循環のどこかを加速すれば、回転速度が上昇してしまうからである。状況を放置したままで規範を強化すると、そこからの逸脱がより多く目につくことになり、人が罰せられる回数が増え、与えられる罰が多くなる。これは人々に法からの逸脱が増加しているというメッセージを与え、法の機能不全と秩序の崩壊を感じさせる。この感覚は人々の不信感や放埒を拡大し、秩序をさらに不安定化する。これに対してさらなる規範の強化で臨めば、悪循環は高速度で回転する。」(安冨歩『複雑さを生きる』岩波書店、p105)
この本の中で安冨先生は、A→Bという原因と結果の連鎖という「因果論」的思考の限界を指摘する。人間世界でおこる「複雑さ」を縮減して理解する為の、「思考の節約」としての「因果論」的思考。それで、近代科学が飛躍的に発展し、様々な機械製品を発明できたから、私たちはそれが人間界にも当てはまる、と「思い込んで」いる。だが、先の森氏が指摘しているように、人間の「問題行動」には、単一の「原因」はない。問題行動という「結果」は、複雑な要因が絡み合って構成されている。であれば、その「意味」を模索する営みは、たいてい「正解」にたどり着かない。それどころか、これが「原因」だ、と「思い込んだ」内容に関して、その「対策」を打つことは、安冨先生に寄れば、「悪循環が生じているときに循環のどこかを加速すれば、回転速度が上昇してしまう」とさえ言う。「問題行動」に関して、「原因」を追求する営みが、実はこの「回転速度の上昇」につながる、「悪循環の高速度回転」の無限ループにはまり込んでいる可能性はないだろうか。
だからこそ、森さんは、その循環から出よ、と言っている。「問題行動の意味」(=原因)探しではなく、「解決」に目を向けることの重要性を指摘している。しかも、本当に「問題行動」を止めたければ、「どうなればいいのか」という「解決」のゴール設定を「本人が設定する」(p63)ことの重要性を唱えている。だが、支援者と言われるヒトビトは、本人の「どうなればいいの?」と聞く代わりに、「問題は何ですか?」と聞き続けるという。「困りごと」に目を向けてくれるのは良いけれど、「困らないためにどうしたいか」を聞いてくれないので、結局のところ、悪循環の高速度回転を、支援者が後押しする事態になってしまうのだ。そして、では支援者はどうアプローチを変えればいいのか、についても、森さんは次のように指摘している。
「多くの場合、クライエントは、自分が解決の方法を知っているということを知らないのです。今の例でも、先生が『痛くないところはどこ?』と聞いて初めて、クライエントは、自分の身体の中に痛くないところがあるのだ、ということを知ったのです。そんなものなんです。クライエントは『問題』のことしか考えていない、『問題』しか見えていないものなんです。『解決』がそこにあっても、全然目に入っていないんです。だから治療者が『ここを見てごらん』と、『解決』の方向に視線の向きを変えてあげる。これこそが心理療法であるわけです。」(森、同上、p71)
これは、心理療法を福祉的支援と言い換えても、全く同じ事がいえる。支援が必要な状態に陥っている人の中には、「自分が解決の方法を知っているということを知らない」人も少なくない。その際、「知らない」ことの「原因」や「意味」を探索するより、「知っている」ことに気づく支援の方が、遙かに生産的である。その方向性を変える支援こそが、価値があるのだ。そして、「解決の方法」を「本人が設定する」からこそ、これまで「問題行動」という悪循環の無限ループに固着していた本人が、初めてその悪循環構造から脱する事が出来るのである。
そして、僕はこれは、精神科病院に長期間入院して、「学習性無力症」になった多くの社会的入院患者にも通じることだと感じる。彼ら彼女らは、自分たちの過去に生じた「問題行動」や「精神症状」の「原因」や「意味」にのみ向き合わされ、「では、どうしたいのか?」という未来に向けた検討を一緒にやってくれる支援者がほとんどいなかったのではないか? だから、「退行症状」や「無為自閉」と呼ばれるような状態に構造的に追い込まれたのではないか。それって、支援者の作り出した「施設病」ではないか。そして、そのことについて、「病状だから」「受け皿がないから」と本人の退院の求めを拒否し続け、「どうしたらいいのか」について、入院患者本人に聞いてこなかった(=本人が設定する機会を奪ってきた)結果としての、長期社会的入院ではないか。
で、やっとのこと、精神科病床の削減の議論が始まった、と思ったら、今度は、病院経営という「都合」ばかりが主題として論じられる。今まで入院してきたご本人の「どうしたいか」という「設定」こそ大切にしよう、と提案すると、「在宅原理主義者だ」と一蹴される。それって、この悪循環構造にのみ固執する「現実主義」にしか思えない。原因-結果の因果論的思考や経験主義に拘泥し、「これまで地域移行がうまくいかなかったのだから、病棟内施設ではないと問題は解決しない」という自らの認知の偏りや思い込みを、政策に当てはめる思考である。別に、それを一個人の中で「妄想」するには、表現の自由だから、干渉するつもりはない。だが、病棟転換について議論する検討会の委員がそんな「妄想」を抱いているのは、大きな問題である。なぜなら、それは今まで「どうなればいいの?」と尋ねらてこなかった長期社会的入院患者に、また本人に聞くことなく、パターナリスティックに政策を続けることに変わりないからである。もう、こういう本人不在の政策的議論は、いい加減、終わりにしなければならない。
だからこそ、認知論的転換が必要なのだ。本人に聞くことなく、「専門家」が知っているから本人はそれに従えば幸せだ、という専門家主権型の認知枠組みこそ、そろそろ終焉を迎えなければならない。「病院=専門家中心の世紀」は、少なくとも精神医療では、20世紀のうちにとっくに「終焉」を迎えている。このような前時代の方法論を温存させるのではなく、クライエントが「知っていること」をちゃんと尋ね、その実現に向けた支援をするように、認知枠組みをこそ、変えていく必要がある。これが、病院中心のパラダイムから、地域支援中心のパラダイムへのシフトの最大の課題だ。そして、医師が「取れるはずもない責任」まで一手に担い続ける(させられた)歴史からも脱却しなければならない。居住支援や、生活支援まで医師が心配せずとも、ソーシャルワーカーやヘルパー、訪問看護などが力量を上げ、医師ときちんとチームを組んで、「医師には取れない責任」を生活支援側が取れるように、役割と責任の再分担をこそ、考えなければならない。それが、安心して医師が「取れない責任」をとり続ける悪循環から離脱できる条件でもあるのだ。
・・・と、ここまで書いても、僕の意見は「原理主義」なのだろうか?

地域支援におけるストレングスモデルへ

ずいぶん久しぶりのブログの更新。ここ最近は、ツイッターで書くことはあっても、ブログにまで手を付ける暇がなかった。5月末から6月前半にかけて、二つの学会の口頭発表に向けたフルペーパー作りに、国際学会の共著のフルペーパーが元々のデフォルト作業に挙がっていた。それだけでなく、大学の学内仕事も急激に立て込み、その上で「精神病棟転換型施設」に関して、放っておけないのでシノドスに原稿を書かせて頂いた。空いている時間はずっとパソコンに向かって何らかの原稿を書き続けていて、割と満身創痍。へろへろ、である。

ただ、そうやってアウトプットをしているようだが、去年までとは違う仕事の仕方をしている。昨年までの二年間は、これまで10年くらい書きためていた内容を、二冊の本にまとめる作業であった。だが、今は新たなジャンルにチャレンジしているので、ある種、書きながら考え、インプットしているような日々でもある。すると、読み返す本でも、別の視点から眺めることができる。
「支援のパラダイムを病理的な観点からストレングスとリジリアンスへと変更することは、クライエントにつていの新たな考え方をもたらしてくれる。それは、クライエントに内在するストレングスや力を引き出す支援体制につながる。それは単に、既存の病理学的なパラダイムに『ストレングスを足して混ぜる』以上のことである。そのようなパラダイム転換は、クライエントの欠点ではなく、技能、適性、能力を評価する新しい創造的なかかわり方をもたらす。」(『ストレングス・モデル 第三版』ラップ&ゴスチャ著、金剛出版、p74)
このラップのストレングスモデルの第一版は、翻訳者が精神科医だったこともあり、非常に医学モデル的な翻訳で、その良さが分からず「積ん読」書だった。だが、大阪府大の三田さんに「翻訳が悪いから、英語で読んで! めちゃ、感動するから」と言われて第二版を英語で読んで、その鮮やかな当事者中心性に魅入られた記憶がある。その後、リカバリー概念をよく理解した福祉研究者たちによる第二版の翻訳も出て、この1月に書き改められた第三版の翻訳も出た。で、たまたまこの第三版を読んでいて、上記の箇所に、別の引っかかりを持ち始めた。これって、個別支援の話に限定されることはないな、と。
ここ数年、地域包括ケアシステムや地域福祉領域で、現場支援の仕事にコミットしている。その視点で、ストレングスモデルを捉え直すと、実は地域への関わりも、これまでは「病理的な観点」ではなかったか、という問いが生まれる。限界集落や、支援困難事例など、家族やコミュニティの「問題」ばかりに焦点化してこなかったか。その地域や家族の持つ「良さ・強み」や復元力(リジリアンス)を信じ、その快復を信じていただろうか、という問いである。家族や地域の持つ「技能、適性、能力」をポジティブに「評価」し、「新しい創造的なかかわり方」をしてきただろうか。専門家が決めた枠組みの中で、「問題家族・限界地域」と固着化し、その「病理」を専門家と家族や地域の相互関係の中で増幅させてこなかっただろうか。
そこから、最近読んだ複雑系の議論にも接続可能だ。
「反復によって、『局所的』な変化で最も小さいものが、無数のたび重なる行動を通じて、予想外の、予想不可能でカオス的な帰結をもたらし、そして時としてエージェントが、自らがもたらそうとしていたものとは正反対のものを生み出すことになる。」(『グローバルな複雑性』ジョン・アーリ著、法政大学出版会、p71)
地域支援においても、例えば介護予防事業などのような「反復」が、正の効果を生み出すか。人々の役割や誇りや生きる希望に着目することなく、ADLにのみ着目する介護予防事業の反復は、一定以上の効果はもたらさず、返って「予想外」の「もたらそうとしていたものとは正反対のものを生み出すことになる」可能性はないか。そして、ここからは暴論だが、実は介護予防のパラダイムも、介護予防対象者をある種の「病理モデル」で捉えているが故の限界、とは言えないだろうか。それを、リカバリーやリジリアンスの視点で捉え直す、パラダイムシフトが求められているのではないだろうか。
具体的に考えてみよう。介護予防の脳トレとか、介護予防体操だとか、現場でされている実践にケチをつけるつもりはない。だが、繰り返し述べるが、人は役割や誇りや生きる希望を持つことが、最大の「生き甲斐」につながる。人の「良さ・強み」や復元力(リジリアンス)の発揮は、これらの役割や誇り、生きる希望と密接にリンクしている。そして、そのストレングスやリジリアンスに着目した支援を展開するか、病理モデルで捉えるか、で、何を「反復」するかも変わってくるのだ。

地域支援においても、問題を予防する、という病理モデルで関わるか、その地域の強みや良さ、復元力を信じ・伸ばすストレングス視点で関わるか、は、全く別の「反復」を生み出すはずだ。「何もない」「問題ばかりがある」と思ってその地域に関われば、支援者は「出来ないところ、だめな部分」を無意識に探そうとする。問題のない地域などないのだから、そのようなアプローチで探れば、実際に問題点はザクザク見える。そして、その問題にのみ「反復」的に関わる事が、結果的のその地域の「問題」のみをクローズアップし、問題に対応し予防しようとしているようで、問題の極大化につながりかねない。これは、例えばスラム地区を「問題地区」とのみ捉えて地域開発を行っても、スラム地区の改善にはつながらない、という海外の事例を思い出す。

一方、その地域は魅力的である、その魅力を探そう、という単純なアプローチは、そもそも関わる側が、「その地域には支援者の知らない何らかの潜在的な可能性があるはず」という前提で関わる。前者との「先入観」の違いによって、支援者と地域住民とのポジティブなコミュニケーションが増幅=反復する中で、その地域に関するネガティブな反復をポジティブに変え、「問題予防」モデルとは「正反対」の成果が浮かび上がってくる可能性があるのだ。これは、例えばチーム山梨の実践の中でも、「御用聞き」モデルという形で実践されはじめている。

こういうアイデアと、出会いながら、学会発表などでアウトプットしながら、新しい何かをつかもうと、インプットし続けているのかもしれない。